ログイン人間界の海岸に沈んでいく夕陽は美しかった。セレーネはシーニンフの花束と神酒の瓶を抱え、波音が響く岬に立つ簡素な墓標へと静かに足を向けた。真っ白な石にはクレッサの名が刻まれ、その上方には生前の印章として、いつも光の方を向く一輪のヒマワリが美しく彫り込まれていた。「クレッサ、また会いに来たわ」セレーネは穏やかに語りかけ、花束を供えた。彼女は毎月、欠かさず墓参りを続けていた。あれから、もう4年の歳月が流れている。彼女は隣の草地に腰を下ろし、酒瓶を開けた。ふたつの小さな杯に注ぐ。ひとつは愛しいクレッサの墓前に、もうひとつは自分の手元に。「今日は話すことがたくさんあるの」セレーネは夕陽を見つめた。その声はかつてないほど穏やかだった。「あの日、あなたを裏切った人たちのことよ。みんな、自分の犯した罪にふさわしい報いをきっちり受けたわ」心地よい潮風が彼女の髪を揺らしていった。まるで、クレッサが隣で穏やかな微笑みを浮かべ、耳を傾けてくれているかのように。「あなたのお母様、ヘカテは、ステュクス川に身を投げて命を絶ったわ」セレーネの声はどこまでも静かだった。「あなたの魂を探しに行きたかったのよ。でも冥界の神に、あなたはもう二度と会いたくないと遺言を残したことを突きつけられてしまってね。それを聞いて、正気を失ってしまったの。お父様のマシューは魔力を剥奪されて、不毛の島へ永久に追放されたわ。毎日あなたの名前を泣きながら呼び続けているそうよ。けれど……あなたが答えることは、もう決してないでしょうね」セレーネは酒を静かに一口だけ味わった。「あなたの夫だったゼイルと息子のフィロンは、完全に心が壊れて離れ離れになったわ。フィロンはね、死にゆくあなたの目の前でメローラを『母様』と呼んだことを自分で許せずにいる。そして、あの女に黄金の林檎を渡したゼイルのことも骨の髄まで憎んでいるわ。フィロンは今、自ら望んで冥界との境を守っているの。愚かな父親の顔を見るくらいなら、闇の魔物たちと戦い続ける方がましだと思っているのね。そしてゼイルは毎晩一人、あの邸宅で孤独に過ごしているわ。稀少な月長石であなたの像を彫り上げて、毎日その前で懺悔を繰り返しているの。でも、彼があなたの優しかった声を聞くことはもう永遠にない」ここで、淡々と語るセレーネの声
数年後。ゼイルは海神の邸宅の奥に設けた神殿に立ち、クレッサの像を見つめていた。彼女の死後、彼が最も稀少な月長石を用いて自ら彫り上げた等身大の像だった。像のクレッサは、かつて自分に向けてくれていたのと同じように、ただ穏やかに微笑んでいた。「クレッサ……」ゼイルは手を伸ばした。その冷たい石の頬に触れたかった。だが、指先は像のわずか手前で震え、力なく引っ込められた。彼女を失った喪失の痛みは、深海の水圧のように彼の心臓を押し潰した。まともに呼吸をすることさえ困難だった。来る日も来る日も、彼女の死が彼を苛み続けていた。「父様」背後から氷のように冷たい声が響いた。ゼイルが振り返ると、そこには16歳になったフィロンがいた。かつて幸せそうだった子供の瞳には、今や父に対する憎しみと嫌悪しかなかった。「ここで何をしているんです」フィロンの声は鋭い氷の刃のようだった。「まだ、悲劇の夫を演じ続けているんですか?自分が殺した妻のために?」「フィロン……」ゼイルは苦しげに言葉を詰まらせた。「お前が俺を憎んでいるのは分かる、だが……」「憎んでいる?」フィロンは自嘲するように口元を歪めた。「ええ、心の底から憎んでいる。そして、自分自身のことはもっと憎んでいる!」――彼は決して忘れられなかった。死にゆく実の母の目の前で、嬉しそうにメローラを「母様」と呼んでしまったあの日を。その骨の髄まで染みついた罪悪感は、いつしか父への、そして自分自身への激しい憎悪へと変わっていた。「僕は、あの人の目の前で他の女を母と呼んで笑ったんだ!」フィロンの声が悔恨に震えた。「そしてあなたは!あの人の命を救うために唯一必要だった黄金の林檎を、あんな女の薄っぺらい傷のためにくれてやった!」「もうやめろ!」ゼイルは息子を止めようと神威を放った。だが、フィロンは怯まなかった。体内に流れる半神の血が、父の威圧に抗う力を与えていた。「あなたに、やめろと言う資格があるんですか!」フィロンが怒りに任せて吼えた。「あの人を殺したのは、あなたじゃないか!」彼は三叉槍を掴み、床に叩きつけて砕き折った。「二度と、あなたの顔なんて見たくない!」彼は一度も振り返ることなく、神殿を飛び出していった。ゼイルは砕けた三
メローラの叫びに応えたのは、身を切るような冷たい風だけだった。ゼイルは一瞬足を止めたものの、決して振り返ることはなかった。大祭司夫妻は互いに支え合いながら、暗い夜道をよろめきながら去っていく。誰もが分かっていた。メローラの言葉は間違っていない。クレッサを殺したのは、決して彼女一人ではなかったのだ。メローラは階段の上にへたり込み、凍えるような寒さに身を縮めていた。魔力を失った体を、冷たい風が容赦なく打ちつける。乱れた髪の隙間から覗く瞳は虚ろで、かつての無垢な少女の面影は、もうどこにも残っていなかった。セレーネは神殿の影に立ち、その一部始終を冷ややかに見つめていた。月光が彼女の顔を照らし、そこに浮かぶ冷ややかな無関心を映し出していた。けれど、手の中で消えかけた巻物に目を落とした瞬間、その瞳が赤く染まった。羊皮紙は金色の光の粒子となり、風の中へと消えていく。まるで、あの日クレッサが星屑となって散ったときのように。セレーネは胸の痛みに耐えるように、拳を強く握りしめた。爪が掌に深く食い込む。彼女は思い出していた。5年前、初めてクレッサと出会ったあの日を。あの心優しい少女は彼女の手を温かく握り、未来への希望にきらきらと輝いていた。「セレーネ、私、ゼイルと結婚するの!」彼女は星のように微笑んだ。「きっと幸せになれるわ!」あのとき、セレーネはこの結婚に強く反対した。ポセイドンの息子は傲慢で自惚れた男であり、クレッサの純粋な真心を受け取る資格などない。けれどクレッサは彼をあまりにも深く愛し、彼のために自分のすべてを捧げてしまった。「……いつか、こんな悲惨な日が来ると分かっていたわ」セレーネは心の中で苦く笑った。「警告したのに、あなたは聞いてくれなかった」彼女は星空を見上げた。月光に照らされたその表情には、重い痛みが刻まれている。「クレッサ、見ている?」彼女は心の中で語りかけた。「メローラは、すべてを失ったわ。もう、愛される後継者なんかじゃない。魔力もない、ただの下級のセイレーンよ。ゼイルとあなたの両親も報いを受けた。これから死ぬまで罪悪感と後悔に溺れて過ごすことになる。誰一人、自分を許すことなどできないでしょうね」夜風が優しく彼女の頬を撫でていった。まるで、クレッサが静
マシューは杖を床に叩きつけた。悲嘆に暮れて、天井に向かって咆哮をあげた。「私は、自分の家に毒蛇を招き入れた!私が、我が子を殺したんだ!」老祭司の声が悲鳴のように割れた。「クレッサ!私のクレッサ!最期に、顔を見ることさえできなかった……!」彼は膝から崩れ落ち、自らの胸を叩きながら嗚咽した。ゼイルは、セレーネの手にある巻物をただ呆然と見つめていた。「クレッサは……その神威を、誰に託したんだ?」その声は、枯れ草のように乾いていた。「人間界の、貧しい信徒たちへ」セレーネが冷たく答えた。「本当に必要としている人々のために、自分の力を役立てたいと願っていたのよ」ゼイルの胸が、切り裂かれるように痛んだ。最後の遺言の中でさえ、クレッサは人間界の信徒たちのために完璧な計画を立てていた。いつもの優しい彼女のままに。けれど、そこには夫である彼や息子フィロンへの言葉は、一言も記されていなかった。死の間際まで、彼女は二人を許さなかったのだ。「違う、違う、これは偽物よ!」メローラは全身が凍りつく感覚に襲われ、床に膝をついてマシューの足にしがみついた。「お父様!この人の言うことを聞かないで!お姉様が私を陥れたのよ!知ってるでしょう、お姉様がずっと私に嫉妬していたこと!この幻術も、全部お姉様が仕組んだのよ!」ヘカテは、平然と嘘を並べるメローラの顔を見つめた。あの日の記憶がよみがえる。黒い血を吐くクレッサ。それを嫌悪も露わに突き放した自分。すべては、目の前のこの女の嘘のせいで。「この化け物!」ヘカテは狂気の咆哮を上げ、メローラに掴みかかってその首を絞め上げた。「私のクレッサを、返しなさい!あの子は、私に助けを求めていたのに!私は、それを突き放したのよ!全部、あんたの嘘のせいで!」メローラの顔が青紫色に変わり、彼女は苦しげにもがいた。マシューは狂乱する妻を腕ずくで引き離した。だが、倒れ込むメローラを見つめる老祭司の目は死人のように冷たかった。ゼイルがゆっくりと立ち上がった。海神の力を帯びた威圧が、山のようにメローラにのしかかった。「メローラ」その声は、タルタロスの深淵から響く裁きのように低く轟いた。「お前は黄金の林檎を奪った。お前が、クレッサを殺したんだ」「違う!」メローラは喉をかき
ゼイルは屋敷の酒蔵に閉じこもり、浴びるように酒を飲み続けた。丸三日が過ぎた。冷たい石床には空き瓶が散乱し、無精髭を生やした顔には虚ろな瞳だけが残っていた。クレッサは、死んだ。自分の妻。自分の伴侶。彼女は星屑となって消えた。そして自分は、彼女を殺した者の一人だった。そのときふと、冷ややかな魔力を帯びた伝言が宙に浮かび上がった。「ゼイル。明日の正午、復讐の女神ネメシスの神殿へ。クレッサの遺言の開示を行います」そこに響いたセレーネの声は氷のように冷たく、温もりのかけらもなかった。ゼイルは震えながら立ち上がり、よろめきつつ酒蔵を出た。翌日の正午、ネメシスの神殿の前に四人の姿があった。ゼイルは幽霊のように青白い顔をしていた。大祭司夫妻は互いに寄り添い、その目には絶望が滲んでいる。メローラだけが、落ち着かない様子で両手を揉み合わせている。心臓が早鐘を打っていた。神殿の扉がゆっくりと開き、暗い影の中からセレーネが姿を現した。黒い衣をまとい、冷淡な表情で彼らを睨みつける。「お入りなさい」その声には何の感情も宿っていなかった。四人は中へと歩み入った。黒い蝋燭が神殿を照らし、息が詰まるような重い空気が満ちていた。「皆さんを呼んだのは、クレッサの遺言を開示するためです」セレーネは祭壇の前に立ち、羊皮紙の巻物を手にしていた。「まず、事実を述べます。クレッサはタルタロスの死呪により命を落としました。その魂はすでに砕け散り、生まれ変わることはありません」ゼイルの身体がぐらついた。大祭司夫妻は苦痛に目を閉じる。セレーネは冷ややかな手つきで遺言を開き、淡々と読み上げた。「クレッサは明確に記しています。彼女が署名した3通の資産譲渡の巻物には、魔力による取り戻しの術式が仕込まれていました。彼女の死をもって、すべての譲渡は無効となります!」「なんですって!」メローラが飛び上がった。顔が蒼白になる。「そんなはずない!お姉様は同意したのよ!」「同意した?」セレーネが嘲笑った。「彼女が本当に望んで同意したと思っているの?」メローラは狼狽した。「お姉様は……理解してくれていたわ。私のために、良かれと思って……」「あなたのために?」セレーネが一歩、前に出た。その瞳に危険な光がよぎる。
ゼイルの膝から力が抜けた。彼は大理石の階段に崩れ落ちた。「命の糸が、断ち切られた……?」彼は虚ろな声で呟いた。「そんなはずない。クレッサが死ぬなんて……」手の中で真っ二つに断ち切られた金の糸が、かすかに星の光を放っていた。その一つ一つの光が、まるで自分の罪を責め立てる呪いのように感じられる。「どうして……どうやって死んだの?」ヘカテが震える声で尋ねた。「魔物に殺されたの?」運命の女神アトロポスは静かに首を横に振った。「タルタロスの死呪がもたらした、最期の発作です。その炎が彼女の魂を喰らい尽くし、残されたのは星屑だけ」その声には何の感情も宿っていなかった。「規定により、三日後、代理人がご家族に連絡し、葬儀を執り行います」ドクン。ヘカテの頭の中が、真っ白になった。タルタロスの死呪がもたらした、最期の発作。彼女は思い出していた。あの広間で見たクレッサの姿を。黒い灰を吐き、立っていることすらやっとだった娘の姿を。それなのに自分は、露骨な嫌悪を浮かべ、鼻を覆ったのだ。クレッサを「不吉な子」と蔑み、同情を引くための芝居だと決めつけてしまっていた。「違う、違う、違うわ……!」ヘカテは激しく首を振った。「私の娘。私のクレッサ……!」彼女は思い出していた。クレッサの最後の問いを。「もし、いつか私の魂が完全に砕け散って……私がただの星屑になって、二度とこの世界に戻ってこなくなったら……あなたたちは、後悔しますか?」あれは悪趣味な冗談などではなかったのだ。母に助けを求める、娘の必死な訴えだった。それなのに自分は、メローラを呪うなと叱りつけ、馬鹿なことを言うなと切り捨ててしまった。「私が殺したのよ!私が、自分の娘を殺したの!」ヘカテは狂ったように自分の顔を叩きながら絶叫した。「死ぬべきなのは私よ!私こそ死ぬべきだわ!」マシューもまた、耐えきれずに崩れ落ちた。冷たい床に膝をつき、虚ろな目で前方を見つめる。彼は思い出していた。神殿を手放したあの日、クレッサが黒い血を吐いていたことを。あれこそが、彼女の魂を喰らう死呪の兆候だったのだ。なのに自分たちは、あれを芝居だと思っていた。単なる嫉妬だと決めつけていた。「クレッサ……私たちのクレッサ……」彼は声を詰まらせた。ゼイルは