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All Chapters of 桜華、戦場に舞う: Chapter 1561 - Chapter 1570

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第1561話

皇后の全身の筋肉が強張り、脂汗が滲む。首に巻きつこうとする白絹を見つめながら、恐怖に駆られて言葉を紡ぎ続けた。「いえ、遅くありません。陛下は大皇子をお慈しみですから、あの子が母を失うのをお許しにはなりません。私が直々に看病を……誰にも母親としての権利を奪う資格はありません。それに上原さくらが伝えてくれました。大皇子が私を深く愛していると。あの子自身の言葉だったそうです。今は重傷を負い、寂しい山荘で一人きり……私がそばにいなければ」白絹が首筋に触れた瞬間、皇后が金切り声を上げた。「陛下、陛下はそれほど残酷なお方なのですか?私がいったい何をしたというのです?德妃は大皇子を害したのに処刑されず、なぜ私が死ななければならないのですか?私はただ我儘だっただけ、人を害したことなどありません」吉田内侍が手を止めた。本来なら口にすべきではない言葉だったが、重傷を負った大皇子のことを思うと胸が痛み、身分を忘れて口を開いた。「皇后様が人を害していないと?福妃の御子のことは置くとしても、大皇子があのような有様になったのも、皇后様と無関係ではありますまい」皇后が目を見開き、首に巻かれた白絹を必死に掴んだ。「でたらめを……」吉田内侍が続ける。「でたらめかどうか、皇后様が一番よくご存知でしょう。お認めになりたくないだけで。なぜ德妃があのような危険な賭けに出たと思われます?皇后様と定子妃が手を組んで福妃の御子を害したからです。弱みを握られたのですよ。德妃はそれを世間に知らしめることができた。おまけに皇后様は桂蘭殿で大騒ぎを起こした——德妃の思うつぼではありませんか。身代わりを見つけた德妃が、手を下さないはずがない」皇后が息を呑み、顔面蒼白になった。「私の振る舞いが不適切だったとしても、悪事を働いたのは結局あの女です」吉田内侍が淡々と答える。「だからこそ、陛下は德妃に安らかな死をお与えにならない」「しかし私に死罪はありません」皇后は依然として顔を赤らめ、声を荒げて反論した。「福妃の御子を害したのが過ちだとしても、私は皇后、陛下の正妻です。大皇子を育て上げた功もある。陛下がこのような仕打ちを……」白絹が力強く首に巻きつき、言葉が途切れた。吉田内侍はもう何も語るつもりはなかった。これ以上言葉を重ねても、彼女が悔い改めることはあるまい。これは天皇の御意志だった
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第1562話

德妃もついに力尽きた。二皇子が廃人同然となり、寺へ送られることを知らされた時から、彼女の命の灯火は風前の灯だった。骨の髄まで染み付いた激痛が昼夜を問わず彼女を苛み続け、ある寒い夜、静かに息を引き取ったのだった。太后が一度だけ手を下し、この一連の騒動に関わった宮人たちを始末した。どのような方法で「始末」されたのか、さくらたちが知ることはなかった。後宮から皇后と高位の妃二人が一度に姿を消し、太后の体調も思わしくない中、敬妃が暫定的に後宮の采配を任されることとなった。天皇に新たな后を迎える意思はなかった。後宮が簡素になれば、余計な騒動も起こるまいと考えてのことだ。ところが敬妃の器量では荷が重すぎた。三日と空けずに問題が勃発し、妃嬪たちの俸禄や衣食住から宮人たちの月給まで、後宮は連日騒然としていた。敬妃は温厚で慎ましい賢女という評判を得ようと、宮中の出費を抑えることに躍起になっていた。月給を削り、春の衣装も一着きりと決めて、確かに相当な節約にはなった。しかし元々後宮の暮らしぶりは質素なものだった。これまで少しでも華やかに装いたい時は、実家からの仕送りで賄っていたのに、さらなる倹約を強いられては、誰もが不満を抱くのは当然だった。天皇も時折は後宮に足を向けねばならないが、行く先々で耳にするのは愚痴ばかり。ついには苛立ちを覚えるようになっていた。やがて皇太妃たちの生活費まで大幅に削られたため、この件は太后の知るところとなった。万策尽きた太后は、天皇を食事に招いて相談を持ちかけた。今や敬妃が後宮で絶大な権力を握っている以上、彼女を差し置いて人を登用するわけにもいかない。選抜試験では大袈裟すぎる……それならばいっそ、新しい皇后を迎えてはどうだろう。才覚があり賢明な女性を選べば、皇太子の世話も任せられるというものだ。天皇が「自分にどれほどの時が残されているか分からない」と口にした途端、太后の鋭い視線が飛んだ。「そのような弱気でいるから、本当に短命で終わってしまうのです。ご自分を信じなさい。丹治先生を信じなさい」結局、天皇は新たな皇后を迎えることに同意した。ただし、神薬山荘からの知らせを待ってからだと条件をつけた。その報告が届き次第、この重大事を進めるというのだ。待つということは、これほどまでに苦痛を伴うものなのか……焦燥にも似
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第1563話

さくらはその薬を見た瞬間、血の気が引いた。「陛下がまた、あなたを疑い始めたの?」玄武は首を振る。「今は違う。むしろ何事も信頼してくださっている。多くの上奏文も宰相と私を通してから、陛下の御前に届けられるようになった」「じゃあ、なぜ……?」さくらには理解できなかった。「理由は三つある」玄武はその薬を大切にしまい、彼女の手を握った。「まず一つ目……陛下が今、私への信頼と権限の委譲を示しておられるのは、数々の出来事を経て、病状も安定しているからこそ疑念が晴れたためだ。だが、もし病状が悪化すれば……私の権力が大きくなりすぎた上、子まで授かっていては、必ず脅威と見なされるだろう」さくらは頷いた。その理屈は分かる。「数年待ってからでもいいじゃない。以前あなたが飲んでた薬は五年間効いたんでしょう?もう五年経ったから、また同じ薬を飲んで五年延ばすことはできないの?」玄武の手に力がこもる。「これが五年用の薬だ。ただし……一度目は五年の効果があるが、二度目を飲めば一生子ができなくなる」彼の声が重くなった。「青雀の話では、私が飲まないなら、お前が避妊の薬を服用するしかない。だがあの薬は体を痛めつける上、完全ではない」さくらは彼の肩に身を寄せた。「二つ目と三つ目の理由も聞かせて」玄武は言葉を選ぶように口を開く。「二つ目は……妊娠と出産の苦しみをお前に味わわせたくないということだ。典薬寮の統計によれば、産婦の二割から三割が難産に見舞われる。無事に生まれても、後遺症で一生苦しむ女性も多い」さくらは彼と指を絡めた。胸の奥が熱くなる。「女は辛いものね……」玄武はしばらく黙り込んでから、三つ目を語った。「良い父親になれる自信がない。それに……弱みを握られるのが怖い。子どもができれば、あらゆる場面で足枷になるだろう。そして何より、子育てがお前の足を引っ張って、官職に就けなくなることが一番怖い」彼女の額に唇を寄せ、深い眼差しで見つめる。「もちろん……お前が子どもを望むなら、私は必ず良い父親になってみせる。お前と子どものために、この世のあらゆる困難から守り抜こう」実のところ、さくらも子どもを産むかどうかについては何度も考えていた。妊娠から出産までの苦しみが一番の不安というわけではない。自分自身が家族を失う辛さを味わい、そして夫婦揃って重要な職にある身だ。
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第1564話

春雨は油のように貴重という。四月の雨とて、決して遅いものではない。清和天皇は御書院の廊下に立ち、雨夜に揺れる風灯を眺めていた。目に映るものすべてが幻のようでもあり、夢のようでもあり、真実のようでもあり、偽りのようでもあった。玄武の姿は既に雨の中に消えている。もう見えない。胸の奥で苦いものが込み上げる。あの薬を躊躇なく飲み干した玄武の姿が蘇る。一片の迷いもない、毅然とした表情……安堵すると同時に、胸が締めつけられた。皇弟をここまで追い詰めたのは自分だ。あの夫婦はまだこんなにも若い。側室を置かずとも、三人や五人の子に恵まれることもできただろうに。だが、あの薬を飲んだ以上、北冥親王家の血筋はここで途絶える。養子を迎えることはできても、実の子ではない。どうして遺憾に思わずにいられようか。兄として、無念で仕方がない。心が痛む。しかし皇帝として……ようやく本当の安心を得ることができた。相反する感情に心が引き裂かれそうになる。深い溜息とともに、ひとりつぶやいた。「世の中に完璧な解決法などあるものか……何を選んでも、心安らかではいられぬ」声は小さく、雨音にかき消された。すぐ後ろに控える吉田内侍の耳にも届かないほどに。春が去り冬が訪れ、師走の初旬、どの家も年越しの粥の準備に追われる頃、天皇は新たな皇后を迎え入れた。継后は今中氏、名を春和という。兄は刑部大輔・今中具藤である。今中家は名門とは言い難い。先祖は商いに携わり、春和の祖父が学問を愛したことで、ようやく一族から官人を輩出するに至った。基盤は決して磐石ではなく、具藤が刑部大輔に就いてから、ようやく家運が上向いてきたのだ。今なお今中家の傍系は商売を営んでいるが、清和天皇の調査では官商癒着の形跡は見当たらなかった。このような家柄こそ、天皇の求める条件に適っていた。皇后・今中春和は既に十九歳になるが、縁談がまとまらずにいた。家事に追われていたためだ。母が病弱で家政を任せられず、兄嫁は数年前に難産で他界し、具藤は再婚していない。屋敷の大小を問わずあらゆる采配が、春和の肩にのしかかっていた。若い身で家を切り盛りし、内外の仕事を見事に整えてきた手腕を、太后は高く評価していた。後宮を任せても安心だというのが太后の判断だった。この年の大晦日の宮中晩餐会は、春和皇后の采配で執り
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第1565話

二月二日、春の兆しを告げる日。丹治先生が神薬山荘から戻ってきた。長い道のりで埃にまみれながらも、入京するや否や参内を急いだ。着替える暇さえ惜しんで。清和天皇が御書院で政務を執り行っている最中、丹治先生の面会を求める声が届くと、即座に大臣たちを下がらせた。玄武だけを残し、老医師を謁見の間へと通す。都を離れて一年と一月……丹治先生の容貌は見る影もなく老け込んでいた。こめかみの髪はすっかり白くなり、背中も丸くなっている。清和天皇は立ち上がって礼を取ろうとする老人を支えた。一年間の長い待ちに、ようやく答えが告げられる時が来た。だが、いざその瞬間を迎えると恐ろしくなる。「ご安心を」丹治先生の第一声が、天皇と玄武の胸に重くのしかかっていた不安を和らげた。席に着いてもらってから、丹治先生は深い溜息をついた。「以前お送りした書状では『容態安定、生命に別状なし』と申し上げましたが……文を送った直後に内臓からの大出血が再発し、病状の悪化が急激でした。もはや助からぬものと覚悟していたのです。一時は意識も失われ、臨終の床に就かれたほどでしたが……まさかあの状態から持ち直されるとは」老人の声が震える。「この一年、本当に次から次へと峠を越えてこられました。見事というほかございません」清和天皇は話を聞きながら、目頭が熱くなるのを感じていた。胸が締めつけられるような思いでありながら、何一つしてやれない己の無力さが恨めしい。「今では随分良くなりました。歩くことはできませんが、誰かが車椅子を押せばあちこち移動できますし、部屋に閉じこもりきりということもありません」丹治先生の表情が和らぐ。「不思議なことに……これまで学問を嫌がっていた皇子が、医学には並々ならぬ関心を示されるのです。薬草の歌を暗唱し、草根木皮を見分け、今では薬を嗅いだだけで何が調合されているか当ててしまいます。私が山荘を発つ時には、脈診の修練をされていました」清和天皇は驚きを隠せない。「そのような才能があったとは……」丹治先生は微笑んで言った。「優れた医師や薬師になることを求める必要はございません。ご興味がおありなら、それで日々を過ごしていただければ」天皇の胸に複雑な感情が去来する。会いたくて仕方がないが、山は高く道は遠い。こちらは行けず、向こうは帰れない。もし興味があることで時を過ごし、そ
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第1566話

十月の秋風が頬を撫でて行く季節、楽章と紫乃の祝言がついに執り行われることとなった。実のところ、去年の中秋の名月を仰いだあの夜、紫乃は楽章からの求婚を受け入れていた。共に歩んできた日々を振り返れば、この人になら心の全てを預けても良いのではないか——そんな想いが胸に宿ったのだ。承諾の言葉を口にしたあの瞬間、彼女の心に偽りはなかった。その時の素直な気持ちに従ったまでのこと。丸一年もの間、婚儀が延び延びになったのは、決して婚資や嫁入り道具の準備に手間取ったからではない。紫乃の嫁入り支度といえば、彼女が産声を上げたその年から沢村家では着々と準備を進めており、年を追うごとに品々を買い揃え、今では都にも邸宅や荘園まで用意されている始末だった。婚資にしても、梅月山では早くから万端整えてある。祝言がここまで遅れに遅れたのは、ひとえに沢村家、赤炎宗、万華宗、そして当の紫乃本人まで含めて、皆の思惑がてんでばらばらだったからに他ならない。紫乃が望んだのは、何とも単純明快なことだった。摂政王邸から嫁いで、楽章に自分の屋敷へと迎えてもらう。それで十分ではないか。わざわざ遠路はるばる関西まで戻る必要もあるまい。ところが沢村家の当主は違った。「沢村の家名は伊達ではない。わしの娘の祝言ともなれば、それ相応の盛大さが求められよう。大々的にやるなら関西でなければ話にならん。一般向けの宴席を張って、十日十晩は賑やかに祝うつもりだ」一方、紫乃の師匠の考えはまた別だった。「紫乃は赤炎宗の門弟、楽章は万華宗の弟子。ならばそう複雑に考える必要もあるまい。赤炎宗から嫁がせて万華宗に迎えてもらい、武芸界の仲間たちを招いて祝宴を開けばよい」こうすれば、赤炎宗の名声も自ずと高まるというものだった。しかし万華宗の皆無幹心となれば、また違った考えを持っていた。楽章は親房家の血筋、その根っこは元来この都にある。祝言を都で挙げて何の差し障りがあろうか。本音を言えば、万華宗で盛大な婚儀を取り仕切るなど、幹心には荷が重すぎた。金なら出そう。だが労力は遠慮したい——そんなところが本心だった。人付き合いを好まぬ菅原陽雲もまた、独自の理屈を持ち出してきた。「かつて我が愛弟子のさくらが嫁いだ折も、わざわざ梅月山に戻って宴を張ったりはしなかった。前例を作るのは危険だ。一度でも認めれば、こ
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第1567話

今日はゆっくり紫乃と語り合えると思っていたが、嫁入り当日の慌ただしさをすっかり忘れていた。専門の化粧師が訪れ、髪を結い、薄化粧を施す。これだけで一時間が過ぎてしまった。もともと美しい紫乃が、熟練の手にかかってさらに艶やかに仕上がった。まさに花よりも美しい花嫁の誕生である。昼餉を軽く済ませると、次々と見送りの客が門前に現れ始めた。本来なら三姫子は男方の義姉として、女方の屋敷を訪れる立場ではないのだが、三姫子はどうしても来ると譲らなかった。「私は男方でもあり女方でもあるでしょう。何の問題もないわ」めでたい日なのだから、細かいことは気にせず、皆で楽しめばそれでよいではないか——そんな理屈だった。婚衣の袖を通した瞬間、紫乃の胸に名状しがたい動揺が走った。本当に……嫁ぐのか、私が。嫁げば家を切り盛りし、子を産み、今のような気ままな日々とはお別れだ。昔あれほど結婚したがっていたお珠の方が、結局は独り身を貫いているというのに。振り返った紫乃の視線が宝珠を捉える。「なぜあなたは嫁がないの」面食らうお珠が慌てたように手を振った。「だから言ったでしょう!良い人がいないの、縁がないのよ」「まるで私が自分の言葉を破るみたいじゃない」紫乃が小さく呟く。沢村紫乃は嘘をつかない女だ。一度口にしたことは必ず守り通す——それが誇りだった。その空気を読み取ったさくらが、茶化すように口を挟んだ。「そうよ、あなたは約束を守る人。五郎師兄に嫁ぐって決めたんだから、今さら逃げられないわ」髪飾りをきちんと直し、婚礼衣装の袖を整えながら、紫乃の口元に笑みが戻った。「逃げる?そんなはずがないでしょう。嫁ぐと決めた以上、必ず嫁ぐまでよ」この人生、どうせなら思い切り生きてやる。戦場の修羅場をくぐり抜けてきたのに、結婚ごときで怯むものか。それに自分は意志の弱い女ではない。もし楽章の扱いが気に入らなければ、離縁して一人で生きればいいだけの話だ。一瞬の迷いは、強靭な精神力にあっという間に払い拭われた。今日という日は喜ぶべき日。余計なことを考えて何になる?さくらが慰めの言葉をかけようと思った時には、もう紫乃は顎を上げて自信満々の表情を取り戻している。飲み込みかけた言葉を、さくらは静かに胸の奥に仕舞い込んだ。迎えの一行が摂政王邸の門前に着くと、棒太郎
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第1568話

三度の拝礼が終わるのを待って、ようやく込み上げる感情を抑え込んだ沢村家当主は言った。「立ちなさい……この薄情者め」紫乃がゆっくりと立ち上がる。瞳に涙が滲んでいたが、顔を上向けて無理やりそれを押し戻した。この瞬間、彼女は深く後悔していた。なぜあんなに我を通したのだろう。家族も親族も遠く離れた場所にいるというのに、手軽さを求めて都での祝言にこだわったりして。「お父様……今日の祝言が済みましたら、一緒に故郷へ戻らせてください。実家でもう一度宴を開いて、それが終わったら師門でも……そうさせていただけませんか?」沢村家の当主は無論嬉しかったが、娘があちこち奔走する苦労を思うと心が痛んだ。「関西には友人もいないし、故郷での祝言は望まないと言っていたではないか」「私にはさほど友人はおりませんが、お父様には大勢いらっしゃるでしょう?沢村家にも。娘が自分のことばかり考えて、お父様の面目を潰すようなことをしてはいけませんもの」当主は娘を見つめながら、嬉しさと寂しさが入り混じった心境で静かに言った。「これほど分別のついた娘が……今日からは他家の嫁になってしまうのか」紫乃が歩み寄って父の腕に手を回し、笑いかける。「お父様、お忘れですか?私は嫁ぐといっても自分の屋敷に住むのです。婿殿を迎え入れたようなものではありませんか」当主が苦笑いを浮かべる。「お前たち二人が仲良く暮らしてくれれば、それに越したことはない。婿養子がどうこうは関係ない。彼がこれほどまでにお前に歩み寄ってくれるということは、本当に大切にしてくれる証拠だろう」「彼が私を大切にしてくれなければ、嫁いだりしませんもの」紫乃がくすくすと笑った。音無楽章について、沢村家の当主も事前に身元を調べていた。若い頃は多少浮いた噂もあったが、詳しく調べてみると特に問題となる行いはない。堅実な人柄で、万華宗という名門の出身。その万華宗で一目置かれる存在になるのは、並大抵のことではない。娘婿として申し分ない——そう判断していた。「さあ、吉刻が近づいております。婿殿をお呼びして挨拶を済ませれば、花嫁輿にお乗りください」呼び入れられた楽章は、いずれ関西まで出向いて正式な挨拶をするつもりでいたが、まさか今日その機会が訪れるとは思わず、内心穏やかではなかった。緊張しながらも、彼は丁寧に深々と頭を下げ、紫
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第1569話

初雪が舞い散るあの日、清和天皇に突然の思いつきが降りてきた。長い間朝議を欠席していた彼が、久しぶりに玉座に腰を据え、微行の旅に出ると宣言したのだ。大和国の美しき山河をこの目で見てみたい、と。朝政は既に摂政王に委ねてある。これからも変わらず彼に任せる——そう言い置いて。清和天皇の姿は痛々しいほど憔悴していた。頬はこけ、骨ばった輪郭が目立つ。大臣たちがこぞって諫言したが、決意は揺るがない。さくらと安倍貴守に護衛を命じ、丹治先生と金森御典医を随行させ、宣言の翌日には出立してしまった。この微行が思いつきでないことは明らかだった。玄武やさくらとは事前に相談済みで、丹治先生は反対していたものの、天皇の意志は固く、結局は同行を余儀なくされた次第である。美しき国土を再び目に焼き付けたい——それも確かに天皇の願いだったが、真の目的地は神薬山荘にあった。息子に最後の別れを告げたかったのだ。丹治先生は玄武とさくらに密かに告白していた。「陛下がもし神薬山荘まで辿り着けたとしても、無事に都へ戻れる見込みは薄い。最悪の場合……山荘に着く前に……」言葉を濁したその先に、誰もが恐れる結末が待っていた。玄武夫妻も、行かぬに越したことはないと考えていた。微行とはいえ、天皇の外出となれば必ず人目を引く。先の叛乱の残党がまだ潜んでいないとも限らない——これがひとつ。もうひとつは、大皇子の将来の安泰を考えてのことだった。大皇子がまだ生きているという事実は、外部には一切漏れていない。しかし神薬山荘への行幸が知れ渡れば、憶測を招きかねない。かつて丹治先生が一年もの長きにわたって山荘に籠もっていたことは、周知の事実だ。勘の鋭い者が筋道立てて考えれば、何かしらの手がかりを掴まれる恐れもある。とはいえ、理屈は理屈として、父親が息子との最後の対面を願うのを止められるはずもない。制止するどころか、出発前夜、さくらは玄武に提案すらしていた。「潤くんがいつも大皇子のことを気にかけてる。一緒に連れて行ったらどうかしら」だが玄武は首を振った。少なくとも今は時期尚早だ、と。潤は毎日皇太子と過ごしており、まだ即位も親政も経験していない皇太子との会話は、いつも大皇兄の話題で持ちきりだ。もし潤が真実を知れば、いつか弾みで口を滑らせかねない。それは将来への禍根を残すことになる。皇
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第1570話

清和天皇が都を離れる以前から、玄武は既に摂政王として監国の任に就いていた。輝かしい戦功を誇る彼に対し、朝廷の文武百官はこれまで異を唱える者もなく、むしろ敬意を抱く者が多かったのだが……天皇の病身での微行を機に、摂政王を警戒する噂が朝廷に流れ始めていた。その警戒心とは、皇太子がまだ幼いことを良いことに、摂政王が主君を軽んじ、やがては帝位を簒奪するのではないかという疑念だった。こうした猜疑と流言は、根も葉もない話でも人から人へと伝わるうちに真実のような重みを持つものだ。かつて玄武に敬意を払っていた者たちも、今では素っ気ない態度を取るようになり、彼の政令に対しても表面上は従うふりをしながら、陰では手を抜いている始末だった。清家本宗は、一部の大臣たちのこうした態度に内心焦りを覚えていた。まずは刑部卿の木幡を訪ねることにした。木幡は皇太子の外祖父であり、故定子妃の父でもある。摂政王に対する中傷が飛び交う今、木幡こそが先頭に立って弁護し、他の者たちの手本となるべきではないか。ところが、木幡次門自身がこの流言に最も深く影響を受けている一人だった。娘を失ってから、彼は長い間悲しみに沈んでいた。皇太子は定子妃の実子ではないが、彼女が命をかけて守ろうとした子だ。摂政王の人柄を疑っているわけではない——しかし権力が人の心に及ぼす魔力は信用できない。先の反逆王たちを思い返してみよ。家も命もかなぐり捨てて、何年もかけて一度の栄光を狙ったではないか。今、摂政王にはこれほどまたとない機会が転がり込んでいる。心が動かないはずがあろうか。そう考えながらも、清家には首を振って見せるだけだった。「根拠のない噂話です。摂政王もきっと気になさらないでしょうし、あなたも心配されることはありません」清家が重い口調で返す。「噂というものは猛獣のようなもの。摂政王の威信を傷つけ、ひいては政治に支障をきたします。摂政王は陛下が直々に監国と皇太子補佐に任命された方。その威信が地に落ちれば、皇太子が将来どうやって足場を固めるというのです?外祖父でいらっしゃるあなたが、少しも心を砕かれないでよろしいのですか?」しばしの沈黙の後、木幡が口を開いた。「必ずしも悪いことばかりではありますまい。声望があまりに高くなれば、かえって人心が離れる恐れもありますから」この言葉を聞いた清家の顔
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