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All Chapters of 桜華、戦場に舞う: Chapter 1571 - Chapter 1580

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第1571話

道中の疲労は清和天皇の体を容赦なく蝕んでいた。馬車の揺れ一つ一つが、病に侵された肺を激しく痛めつける。「陛下、少しお休みになられては……」丹治先生が心配そうに声をかけても、天皇は首を横に振るばかりだった。針を打ち、薬湯を煎じても、所詮は一時しのぎに過ぎない。この強行軍が続く限り、病状の悪化は避けられるものではなかった。それでも清和天皇は歯を食いしばり、決して弱音を吐こうとはしない。大皇子のためなら、この命尽きるとも構わぬと、心に誓っていたのである。南の明州は、まさに薬草の楽園と呼ぶべき土地だった。四季を通じて温暖な気候に恵まれ、病者の療養には理想的な環境が整っている。冬とは名ばかりで、肌に触れる風は秋のそれほど優しく、寒さなど微塵も感じない。地元の人々は「神薬山荘」という名を知らずとも、「薬王堂」なら誰もが頷く。明州最大の薬舗として、その名は広く知れ渡っていた。実のところ、神薬山荘は各地に点在しているのだが、この明州のものこそが最も貴重な薬草を産出する、まさに宝庫中の宝庫なのである。なだらかに連なる山々の懐には、数え切れぬほどの秘宝が眠っている。山荘への道のりは決して険しくはない。曲がりくねった小径を辿れば、両脇から溢れんばかりの花々が迎えてくれる。「これは……なんと美しい」清和天皇の瞳に、生涯で初めて目にする光景が映し出された。椿の艶やかな紅、薔薇の気品ある白、躑躅の可憐な桃色、紫陽花の清楚な青紫——名も知らぬ花々が織りなす絢爛たる絵巻に、思わず息を呑む。道の向こうには黄金に輝く銀杏の葉が舞い散り、まるで天女の羽衣のようだった。「翼くんも……こんな美しい場所でなら」胸の奥で重くのしかかっていた憂いが、ふと軽やかになるのを感じた。愛する息子が一生をこの地で過ごすのだとしても、これほど美しい花の海に包まれているなら、きっと心安らかに過ごせるに違いない。道を進むにつれて、高くそびえる銀杏並木の奥に、山荘がひっそりと姿を現した。白壁に青い瓦屋根の立派な造り。山あいにどっしりと腰を据え、見上げれば雲霧が山頂を包み込んでいる。砕けた金色の光が輿の下の道筋を縁取り、あの雲霧と織りなす調和は、まさに絶妙としか言いようがない。この上ない美しさだった。山風がそよそよと頬を撫でていく。ひんやりとした冷気に、天皇は着物の襟をきゅっと
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第1572話

西に日が傾くと、山中の気温がぐっと下がってきた。清和天皇は輿で運ばれてきたというのに、今度は大皇子を背負って山荘へと戻っていく。大皇子は父の痩せ細った背中にすがりつき、涙が止め処なく流れ落ちた。夢にも思わなかった光景だった。背負ってもらうなど考えもしなかった。頭を撫でてもらうことすら、彼には贅沢すぎる望みだったのに。それにしても、父上はなんてお痩せになったのだろう。背中にお肉がまるでついていない。さくらたちはまだ山門の外で待っていた。安倍貴守でさえ中に入ることは許されず、先ほど輿を運び入れたのも腹心の死士たちばかり。他の者が大皇子の姿を目にするわけにはいかない。一行は天皇がこの神薬山荘に治療のために来られたのだと思い込んでいた。清和天皇は息子を背負いながら自分の居住区へ向かった。この山荘は中に入ってみると別天地だった。外から見れば単なる一つの荘園に過ぎないが、足を踏み入れると独立した館がいくつも並んでいる。館と館の間には色とりどりの花が植えられ、馥郁とした香りが鼻腔をくすぐった。大皇子の住まいは平安閣と名付けられていた。小さな広間に正室一間、脇の間一間、さらに側室がついている。室内の調度品は大半が竹製で、実に風雅な造りだった。広間には観音開きの窓が二つあり、今はそのうち一つが開け放たれて外の庭園を望んでいる。窓の下に椅子が一脚置かれており、ここに腰を下ろせば外の景色を眺められるようになっていた。清和天皇は思いついたことを次々と尋ねていく。息子がここで過ごした日々を隅々まで知りたくて仕方がない。ただ、怪我の治療中のことだけは、聞くのが怖くて口にできずにいた。大皇子は皇祖母のこと、潤のこと、二皇子三皇子のこと、姉君たちのことを尋ねた。吉備蘭子のことまで——思い浮かぶ人はみな聞いた。ただ一人、斉藤皇后のことだけは口にしない。清和天皇は隠し立てするつもりはなかった。今日こうして会えたのだから、すべてを話しておこう。後になって他人の口から聞くよりは、ずっといい。「母上のことは……聞かないのか?」大皇子は薄い毛布をぐっと引き上げ、うつむいたまま長い間黙っていた。やがて辛そうに口を開く。「母上は……もういらっしゃらないのでしょう。首を吊って死ぬ夢を見たのです。何度も」清和天皇が息を呑んだ。「何度も……そんな夢を?」
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第1573話

清和天皇は神薬山荘に仮の宿を定めることになった。ここにはどんな薬でも揃っているが、彼の病はすでに薬石効なしの域に達していた。しかし、ここに留まっていると心が軽やかだった。まるで本当に重荷を下ろしたかのようで、市井の普通の父親のように、毎日息子に付き添っていられる。さくらは中に入って見舞うことが許され、大皇子とも暫く言葉を交わした。大皇子はしきりに潤のことを尋ね、新しいお友達ができたかどうかを気にかけていた。さくらは彼が嫉妬するのではと思い、こう答えた。「あの子はあなた以外にお友達なんていませんよ。ずっとあなたのことを想っています」大皇子は長い間黙り込み、申し訳なさそうな表情を浮かべた。「僕は自分のお友達ができました。春吉が僕のお友達なんです。潤にも自分のお友達ができればいいのに……僕もずっと彼のことを想っているけれど、この先一生会えないでしょうね」そう言い終えると、瞳の奥に深い寂しさが宿った。さくらが頭を撫でながら微笑んだ。「これから先はまだまだ長いのよ。どうして会えないって決めつけるの?」「だって大人が許さないもの。大人はいつもいろんなことを考えて、いろんなことを怖がっているから」「いずれあなた方も大人になります。その時は、自分たちで決めればいいのよ」さくらが言った。彼がぽつりと呟く。「そうですね……でも時間はとても長くて、だんだん潤は僕のことを忘れてしまうでしょう。春吉だってここを出て行ってしまう。僕だけが一生ここから出られないのです」落馬事故から今まで、彼の人生は天地がひっくり返るほど変わった。あまりに突然の出来事ばかりで、今でも完全には受け入れられずにいる。ただ、山荘の人たちを心配させないよう振る舞うことは覚えた。さくらは彼を見つめた。以前はみんな、この子がもう少ししっかりしてくれればと願っていた。けれど今こうして本当にしっかりしてしまうと、却って胸が痛む。「心に刻んだ人のことは、生涯忘れることはありません。潤にしても春吉にしても、この先ずっとあなたの大切なお友達でいてくださるはずです」さくらは子供をなだめる方法など知らなかったが、確信を込めて言葉にすれば説得力を持つということは分かっていた。大皇子が彼女に向かって微笑む。「叔母上のお言葉、信じています」神薬山荘で五日を過ごし、清和天皇はどんなに
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第1574話

宮中に戻ると、清和天皇はもはや寝台から起き上がることもままならなくなった。丹治先生が太后の前で重々しく口を開く。もってあと数日でございましょう——陛下がお会いになりたい方がおられるなら、急ぎお呼びするのがよろしいかと。真っ先に召されたのは、言うまでもなく太后であった。「あの子は……朕に会うなり矢継ぎ早に尋ねてきました。まず皇祖母様はお元気か、と。母上、あなたがあの子を可愛がられたのは無駄ではありませんでした」皇太后が重い溜息をつく。「可哀想に……一生を山の中に身を潜めて過ごすなんて。あの子の足は、本当にもう望みがないのですか?」「恐らく……」清和天皇の唇は干からび、血の気が全くない。「しかし朕が別れを告げた時、彼はこう申しました。『父上、僕が医術を身につけましたら、きっとお治しいたします。必ずお治ししてみせます』と」太后の胸が締めつけられる。「なんと良い子に……」清和天皇が天蓋を見つめながらぽつりと呟く。「ええ……本当に良い子です」太后との面会を終えると、清和天皇は玄武と皇太子を呼び寄せた。体調がまだ許していた頃、皇太子を朝廷に同伴し、御書院で上奏文に目を通させ、重臣たちとの議事にも立ち会わせた。幼い息子に過酷な成長を強いていることは重々承知していたが、他に術はなかった。生母は身分の低い女官で早くに世を去り、外戚も力なく頼りにならない。定子妃が実の子のように慈しんでくれたが、皇太子を庇うために命を落とし、今は木幡家だけが残されているものの、その木幡家とて心許ない有様だった。病床で清和天皇は太子を玄武に厳かに託した。今度は誓いの言葉を求めはしない。ただ、まっすぐに見つめながら言葉を紡いだ。「皇太子をお前に託す。しっかりと導いてやってくれ。もし言うことを聞かぬようなら、叔父として遠慮なく罰し、叱りつけるがよい。お前たちの間に君臣の隔てはない——ただ叔父と甥の情があるのみだ」玄武は溢れそうになる涙を必死に堪え、声を震わせながら答えた。「兄上、ご安心ください。この玄武、必ずやお託しを全うしてみせます」「星くんよ……」清和天皇の視線がゆっくりと移る。幼い顔立ちからすっかり稚気が消え失せ、瞳には涙が溢れんばかりに湛えられていた——この子もまた、別れの辛さを知る年頃になったのだ。「はい、父上」皇太子は床に膝をつき、嗚咽を
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第1575話

十一月十三日のこと——突然天皇の意識がはっきりとし、腹が空いたと言い出した。肉入り粥と蘇が食べたいと、具体的に注文まで付けて。吉田内侍が慌てて膳を用意させ、いつものように春和皇后が寝台の傍らで食べさせようとすると、清和天皇は起き上がって食べると言い張った。吉田内侍が慎重に支えて起こし、背中に厚い座布団を当てがう。骨と皮だけに痩せ細った体は座らせても滑り落ちそうで、吉田内侍は床に膝をつき、両手で天皇の腰をしっかりと支えていなければならなかった。肉粥一椀を残すことなく平らげ、続けて蘇を一切れ口にした。だが蘇を食べている途中で吐き気を催し、二切れ目に手を伸ばすのを諦めた。丹治先生から密かに知らせを受けた太后の顔が、見る間に青ざめていく。涙が一瞬のうちに頬を伝い落ちた。心の準備はできていたつもりだった。それでも現実を突きつけられると、胸の奥を鋭い刃物で抉られたような痛みが全身を襲う。震えが止まらない。しばらくして、ようやく気を取り直すと、太后は震え声で指示を出した——摂政王と皇太子をお呼びしなさい。後宮の姫君方もすぐに。清和天皇は自分の容態など何も分かっていないかのように、寝台の周りに大勢が集まったことをいぶかしげに見回した。「これはまた、随分と賑やかだな」それでも優しい微笑みを浮かべ、一人一人に温かい言葉をかけていく。ひと通り挨拶を交わすと、きょろきょろと辺りを見回して吉田内侍に尋ねた。「おや、翼くんと柳くんの姿が見えぬが?」その瞬間、何人かの妃嬪たちがもう堪えきれずに嗚咽を漏らした。吉田内侍は必死に笑顔を作ろうとしたが、目は真っ赤に充血していた。「少々お待ちください。すぐにお呼びいたします」「急ぐことはない。左大臣に叱られては困るだろう。まずはしっかりと学問に励んでもらおう」清和天皇は手を上げようとして、その力さえないことに気づいた。「少し疲れた。横になって休ませよ。少し眠ったら御書院に行こう」吉田内侍が慌てて支えて寝かしつけると、どこからか忍び泣きの声が聞こえてきた。清和天皇は再び頭を持ち上げようとする。「誰か泣いているようだが……何か困ったことでもあるのか?」春和皇后が振り返ると、その眼光の鋭さに泣き声はぴたりと止んだ。清和天皇はゆっくりと瞼を閉じた。深い疲労と闇が四方八方から押し寄せてくるのを感じながら。
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第1576話

その着物を見て玄武が首をかしげる。「それは私のだろう?私が太ったとでも言いたいのか?太ってなんかいないぞ」「あら、あなたのでしたっけ?少し丈が長すぎるわね。今度お直ししてもらいましょ」玄武は困惑した表情を浮かべた。「ゆったりしたのが着たいなら、新しく誂えればいいだろう。なぜ私の古着を直すんだ?着心地だって悪いだろうに」「梅月山に一年帰るのよ」さくらの顔に花のような笑みが咲いた。一年の別れなど一日の別れのように軽やかで、深刻さの欠片もない。「あなたの着物を着ていれば、いつもそばにいるような気がするでしょう?」「一年だと?」玄武の声が裏返った。「なぜそんなに長く?」「師匠が恋しがってるのよ。私も師匠に会いたいし」さくらは腰に手を当て、口元を押さえて笑うお珠に着物を手渡した。「でも、すぐに発つわけじゃないの。潤の太政大臣家継承が済んでからよ」「それにしても、なぜそんなに長期間?」玄武は妻の妙な立ち姿を不審に思いながらも、追及の手を緩めない。さくらはゆっくりと腰を下ろし、のんびりとした調子で説明を始めた。「梅月山で一年過ごして、子供を一人拾って帰ってくるの。世間には私たちの実子だと言えばいいでしょ」「そんな面倒なことしなくても、皇族から養子を迎えればいいじゃないか」玄武は首をひねった。「それに、拾った子を実子だと偽るなんて、どうなんだ?」さくらは呆れたような視線を夫に向けた。これだけはっきり言ってるのに、まだ気づかないの?本当に鈍い男ね。お珠がくすくすと笑い声を上げる。「親王様、お嬢様はご懐妊なさったのです。だから梅月山で安産のお祈りと出産のためにお帰りになるということですよ」「えっ!」玄武の驚きの声が屋根を吹き飛ばしそうなほど響いた。あのわずかな可能性を、ついに掴んだというのか?慌てふためきながら膝をつき、そっと掌をさくらの腹部に当てる。この中に、自分たちの子供が?信じられない。「本当か?」震え声で確認する。「嬉しいか?生みたいと思うか?」さくらは夫を見下ろし、唇に微笑みを浮かべた。「嬉しいわよ、生みたいわよ。あなたはどう?喜んでくれる?」「当然嬉しに決まってる」玄武の瞳が輝き、顔いっぱいに笑みが広がった。「前にも言ったろう?生まれなくても嬉しいが、生まれればもっと嬉しいと」「そんなこと言ったかし
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第1577話

神薬山荘の山ツツジが、山全体を覆い尽くすように咲き誇っている。紅紫に染まった絢爛たる光景——初めてこの地を訪れる者なら、きっとこの美しさに心を奪われ、永住を願うことだろう。だが一人、例外がいた。麓で馬を下りると手綱を木に結び、あとは黙々と山道を登り始める。視線は足元の道筋にのみ注がれ、道端から差し伸びる鮮やかな山ツツジの枝も、ただ手で払いのけるだけ。足取りは速く、時おり軽身功まで使って駆け上がる。神薬山荘は高くはないが奥深くに隠され、無数の分かれ道が迷路のように入り組んでいる——しかし彼は出立前に地図を千度も見返し、山荘への道筋を心に刻み込んでいた。弱冠で爵位を継いだ時、叔母からたくさんの贈り物を受け取った。中でも最大の贈り物がこの地図であり、そして彼の血を沸騰させる知らせだった。修澈は、まだ生きている、と。その夜は一睡もできなかった。過ぎし日の記憶が次々と蘇り、まるで前世の出来事のように感じられた。爵位継承後は宮中への謝恩、先祖への参拝、祝賀に訪れた人々への挨拶と、叔母の言葉通り人脈の安定に努めなければならない。丸々半月を要してから、ようやく神薬山荘への出発となった。この半月の間、地図はすっかり暗記し、心はとうに山荘へと飛んでいた。そして今、本当にここまで来て——翼があれば飛んで行きたいほどだった。ところが山門が見えた瞬間、足が止まってしまう。強烈な悲しみが心を覆い、呆然と立ち尽くしていた。叔母から聞かされていた話では——修澈の両脚は動かず、命こそ取り留めたものの薬漬けの日々が続く。一生涯、病人として椅子か寝台で過ごすしかないのだと。けれど記憶の中の修澈には二つの顔があった。わがままで手に負えない一面もあれば、太皇太后様と太上天皇様をがっかりさせまいと、武芸も学問も人一倍励む勤勉な少年でもあった。特に武芸の稽古では、叔父の指導が面白かったせいもあり、いつも生き生きと跳び回っていた。記憶の中で躍動していた少年が、歩くこともままならぬ病人になってしまったなど——受け入れ難い現実だった。「せっかく来てくれたのに、どうして入らないんだ?」穏やかな声音に、かすかな興奮が隠されている。はっと我に返ると、青い着物をまとった痩せた少年が黒い門柱にもたれかかっていた。苦しそうな様子で眉をひそめ、「安清、こっちに
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第1578話

夜が更けても二人は語り尽くすことがない。蝋燭の炎が揺らめく中、長い時を隔てた再会に言葉が溢れ出る。朝廷の政については一切触れない。修澈にとって、世が平穏であると知れば十分だった。もう大皇子ではない身——背負うべきは己の命だけで、それ以外のことは遠い世界の出来事。朝政に口を挟むなど、あまりに危険すぎる。幼い頃は、なぜ自分が「死ななければならない」のか理解できずにいた。しかし大師匠の丹治先生がここに来られてから、少しずつ事情を解き明かしてくれた。師匠もまた、その利害関係を丹念に説いてくださった。三弟との間に情がないわけではない——だが情を盾に命を賭け、生涯の不安を抱えて生きることが、果たして誰のためになるだろうか。受け入れたのだ。どうせ生きるなら、昨日より今日を、今日より明日をと、少しでも良い日々を重ねていこう。そうでなければ、この世に生まれた甲斐がない。潤が彼の脚のことを尋ねる。「こちらに向かう前、叔母様から聞いたのだが……もう立つことはできないと。それなのに今日は歩いているじゃないか?」修澈が答える。「父上が崩御された年に、山荘へ何人かの方がいらして。診察の結果、この両脚は確かに重篤で、従来の治療を続けても治らないどころか痛みが増すばかり。特別な手法を用いなければ、立ち上がる望みはないと言われた」「どちらの名医だったのか?」潤が身を乗り出す。「それから治療を始めたのか?」修澈は首を振り、穏やかに微笑んだ。「北森から来た方でね。その言葉を残すと、その日のうちに立ち去ってしまった。治療もせずに。先月になってまた現れて、薬酒を飲ませてくれたんだ。まる一日眠り続けて、目が覚めると両脚が猛烈に痛んで——死ぬかと思うほどだった。数日もがき苦しんだ後、徐々に痛みが引いて……それで付き添いの者に支えられて立ち上がってみた。最初はふらついてばかりだったが、だんだん安定してきて、今ではこうして歩けるまでになった」「北森の名医か!」潤が目を見張る。「その方は今もここに?」「いや、僕が立てるようになると、すぐに帰ってしまった。師匠に言い残したのは、これから歩く練習を続けるように、どこまで回復するかは本人の努力次第だと。それで毎日練習を重ねて、ようやくここまで来たんだ」痩せた顔に誇らしげな表情を浮かべながら、修澈が続ける。「立てるようになっ
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第1579話

潤が今回の旅に出た表向きの理由は、天皇への「遊歴の旅に出ます」という報告だった。神薬山荘での滞在は思いのほか短く、わずか七日で山を下りると、足は自然と万華宗へ向いていた。当初は都に戻って紅羽を頼るつもりでいたが、ふと考え直した。それなら直接水無月清湖のもとを訪れ、変装の技を手ずから教わった方がよいのではないか。変装術そのものは難しいものではない。しかし、真に極めるとなれば——誰の目にも見破られぬほどに完璧な変装を施すとなれば、一月や二月で身につくものではなかった。初歩的な変装なら、元の顔立ちを活かした化粧の延長のようなもの。厚化粧や付け髭程度の小細工で事足りる。だが、そんな浅薄な術では、雨に降られただけで化けの皮が剥がれてしまう。突発的な事態に対応できない代物では、命に関わる場面で役に立たない。となれば、より高度な技法を学ぶ必要がある。上級の変装術では、精巧に作られた義顔を用いる。ただし、一般的な義顔には厚みがあり、長時間の着用は息苦しく、本来の肌を傷める恐れもあった。しかも、義顔の装着には特製の薬液が必要で、剥がす際には元の顔の皮膚まで一緒に引き裂いてしまうこともある。雲羽流派の密偵たちも変装に義顔を使うことはあったが、それは短時間の任務用でしかない。武芸に長けた彼らは身軽さが命——行動の瞬間だけ装着し、薬液など使わずとも済む。たとえ剥がれた痕跡があろうと、どうせ頭巾で顔を覆い隠すのだから問題にならなかった。日頃の潜入活動では、もっぱら化粧による変装術——つまり初歩的な手法で十分だったのである。潤の願いを聞き終えると、清湖はうなずいた。「長期着用で肌を傷めず、雨にも負けないものが欲しいなら——鮫綃人面ね」「鮫綃人面って?」潤は首をかしげた。鮫綃なら聞いたことがある。蝉の羽根より薄く、水を弾く高級絹織物だが。清湖の瞳が輝いた。「変装術の最高峰よ。通気性抜群で肌にぴったり張り付くから剥がれない。雨に濡れても平気だし、見た目も触り心地も本物の肌そのもの。ただしねえ——」少し面倒くさそうに眉を寄せる。「鮫人の涙で水を織って糸を作り、下地に仕上げて鮫綃を貼り付ける。口で言うのは簡単だけど、工程は百を超えるのよ。とんでもなく手間がかかる」潤は前のめりになった。「一度作ったら、どのくらいもちます?」「一生もの」清湖はあ
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第1580話

「室美、そのおしゃべりは止まらないの?」さくらは眉をひそめ、潤にべったりとくっついて話し続ける娘を見つめた。日に焼けて真っ赤になった頬、鶏の巣のようにぼさぼさの髪——外で遊び回ってきたのは一目瞭然だった。潤が遊歴から戻って屋敷に足を踏み入れた瞬間から、この子のおしゃべりは止まらない。潤の旅先での面白話をせがんで、まくし立てている。「お母様」室美は大きな瞳をさらに見開いた。もともと大きな目が、無垢な輝きでいっぱいになる。父母の美点だけを受け継いだ美しい顔立ちだった。「潤兄さんに会うのって、すごく久しぶりなんです。一日会わないだけで三年も経ったような気分……こんなに長い間お別れしてたんだから、お話ししたいことがたくさんあるのは当然じゃないですか」「一日会わないで三年だなんて、誰にそんなことを教わったの?」さくらの眉間の皺がさらに深くなった。室美は堂々と胸を張る。「楽章叔父さんがそう言ってました!この前梅月山から帰ってきたとき、紫乃叔母さんを抱きしめながらそう言ってたんです」紫乃は慌てて頭を下げ、さくらの殺気だった視線から逃れようとした。まさか室美があのとき木の上に隠れていたなんて……知っていれば、子供の前で抱き合ったり、あんな甘い台詞を言ったりしなかったのに。この子のオウム返しの才能は天下一品だし、三歳や五歳の子供って、どうしてあんなに大人の会話を聞きたがるのだろう。自分がこの年頃のときは、大人なんて避けて通りたかったのに。答え終わるや否や、室美はまた潤にまとわりついた。「潤兄さん、邪馬台の方には行った?呪術師は見た?お菊が言ってたみたいに、法螺貝を吹く山伏の後ろに死人がぞろぞろ続いてるの?足音立てて歩くの?それともぴょんぴょん跳ねるの?夜じゃないとダメなの?昼間は陽の光が当たると消えちゃうの?言葉を話すの?お供え物は食べるの?それから呪いの術が得意な美しい巫女がいるって聞いたけど、潤兄さんを気に入った人は……」「もう十分」さくらの一喝で辺りが静まり返った。威圧感が部屋を満たす。「お珠、瑞香、姫君をお連れして」お珠が微笑みながら近づいてくる。「姫君様、有田先生が子猫を二匹買ってこられたそうですよ。見に行きませんか?きっと可愛い名前をつけてもらいたがってるはず」子猫の話を聞いた途端、室美の目がきらりと光った。さっきまで潤に向かっ
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