All Chapters of 離婚後、私は世界一の富豪の孫娘になった: Chapter 151 - Chapter 160

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第151話 彼のアプローチ

「お母さんのために仕返ししてよ、翔平!……ねえ、翔平?聞いてるの?」由香里が言い終わる前に、受話器からはツー、ツーという無機質な音が響きはじめた。「……!」怒りで息もつけず、彼女は手にしていたスマートフォンを思いきり床に叩きつけた。「三井鈴……うちの翔平をたぶらかして……!」顔を真っ赤にして激昂する由香里。その様子に、周囲の人々がざわつき始めた。あちこちから冷たい視線が飛んできて、由香里はいたたまれず、今すぐこの場から消えてしまいたかった。「安田夫人……」そのとき、ヒールの音を鳴らしながら近づいてくる一人の女性が現れた。林みつきだった。穏やかな笑みを浮かべて挨拶する。見覚えのないその顔に、由香里は訝しげに目を細めた。「あなた、誰?」「安田夫人、私が誰かなんてどうでもいいんです。大事なのは――私、三井鈴さんの知り合いなんですよ」その名前を聞いた瞬間、由香里の目が鋭くなり、冷笑を浮かべた。「へえ、じゃああの狐女とグルってわけ?」だが、林はあくまで柔らかい口調で言った。「誤解しないでください。ただ、ちょっとお茶でもしながら……三井鈴さんのことについて、お話できればと思いまして。お時間、いただけませんか?」由香里は、相手の言葉の裏に何か意図があることを感じ取った。だが、三井鈴に一泡吹かせてやれるなら、それも悪くない。「……いいわよ。で、どこに行けばいいの?」林は店の名前を告げ、そのまま彼女を伴って去っていった。*スパを出た三井鈴は、心も身体もすっかり軽くなっていた。気分は爽快――これほど晴れやかな気持ちは久しぶりだった。かつては翔平の顔色をうかがい、いつも我慢ばかりしていた自分。理不尽に押さえつけられても、言い返すことすらできなかった。けれど今の彼女は違う。ようやく、本来の自分を取り戻せたのだ。会社に戻った鈴は、そのままデスクに向かい、いつも通り黙々と仕事をこなしていく。気づけば退勤時間をとうに過ぎていたが、ようやく最後の一枚の資料に目を通し終えた。「土田、この資料、各部署に配って。明日の朝会で使うから」そう指示してから時計に視線を落とす。「今日、他に残ってる仕事ある?」社長がこのところずっと遅くまで残っているのを見ていた土田は、彼女の目元にくっきり浮かん
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第152話 三井鈴、あなたは狂っているのか

「へえ、で?今度は何を言ってたって?」その気のない返しに、翔平は無性に苛立った。彼の記憶の中の鈴は、もっと従順で、どこか頼りなげだった。こんなふうに、正面から言い返してくるような女じゃなかった――それとも、今の彼女こそが本当の三井鈴なのか?「……鈴、君が今、帝都で業績拡大に苦労してるって聞いてる。必要なら、安田グループで全面的にバックアップするつもりだ」その一言一句に、彼なりの「好意」は込められていた。だが――「結構よ」その返事は、あまりにもあっさりしていた。まるで、無関係な他人に対するような口調だった。「他に用がないなら、どいてもらえる?道、ふさいでるわ」怒気が胸の奥からせり上がるのを、翔平は抑えきれなかった。「……そこまでして、俺の助けを拒みたいのか。たとえボロ負けするとしても?」今日の翔平は、どこか様子がおかしい――そう鈴は思った。「負ける?私の辞書に、その言葉は載ってないわ。それに、私たちはもう離婚したの。今の安田グループと帝都はライバル関係。あなたの親切は……残念だけど、向ける相手を間違えてるわね」「はっ、変わらないな、鈴。ほんと、昔から頑固だ」もう話す気も失せた鈴は、黙ってアクセルを踏み込んだ。その瞬間、翔平の胸に不安が走る。フロントガラス越しに見えたのは、冷えきった三井鈴の表情――そこには情けも、迷いも、一切なかった。あるのはただ、鋭く、容赦のない決意だけ。「鈴、何する気だ――!?」「邪魔、どいて!」翔平は動かなかった。が、彼女は一切のためらいも見せなかった。――ガンッ!鈍く重い衝突音が鳴り響き、車体が大きく揺れる。完璧だったランボルギーニのフロントが、大きくえぐれた。「鈴、おまえ……頭、おかしくなったのか!?」信じられないという目で、翔平は怒鳴る。だがその瞬間、鈴の目がまっすぐ彼を射抜いた。その瞳は、冷たく光り、どこまでも冷酷だった。「安易に女の車の前をふさがないことね。……次は、命の保証はしないわよ」薄く笑みを浮かべながら、ハンドルを切ると、鈴はそのままアクセルを踏み込んで走り去った。まるで、挑発そのもの。翔平は怒りでこめかみに血管を浮かせながら、ハンドルを叩いた。追いかけようとするも、エンジンがかからない。「……三井鈴、
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第153話 彼女は私たちの憧れ

空港の到着出口。鈴木悠生は、首が伸びるほど待ちわびていた。それから三十分。ようやく、見慣れた車がゆっくりとこちらへ入ってくるのが見えた。「おっ、来た来た……!」彼は嬉しそうに手を振り、車が目の前にぴたりと停まると、誇らしげに胸を張って言った。「うぅぅ、鈴さま……やっと迎えに来てくれた~!」鈴は、彼の服装が移動続きのせいかやや乱れているのに、本人がまったく疲れを見せていないのを見て、微笑んだ。「お疲れさま。よく頑張ってくれたわね」「全然平気。鈴さまのために働けるなんて、俺にとっちゃ最高の幸せだよ!」そう言いながら、悠生は車に乗り込んで、嬉しそうにシートに腰を下ろす。鈴が車を発進させながら聞く。「家まで送る?」「いやいや、まずはメシ行こう!鈴さまと晩ご飯食べられるなんて、これ以上のご褒美ないでしょ?」鈴は思わず眉をひそめた。「何が食べたいの?」「俺、好き嫌いないから。腹が満たされればそれで十分っす!」「……」そのやりとりの最中、悠生はバッグから小さなギフトボックスを取り出して、鈴の前に差し出した。「はい、鈴さまにプレゼント。お土産~」「え?なにこれ?」「開けてみれば分かるけど、帰ってから開けてね。サプライズってことで」「そんなに怪しいものなの?」「ふふん、それは開けてからのお楽しみ」その後、鈴は中華料理店を選び、車を地下の駐車場に停めた。店へ向かう途中、悠生は道すがら、フランス滞在中の面白エピソードを立て続けに話していた。まるで話すために生きてるみたいに。鈴は、つい口元が緩む。「意外ね。仕事の合間に、そんなに充実した日々を送ってたなんて」「いやいや違うって!ちょっとだけ、友達とリフレッシュしただけ!」「はいはい、わかってるわよ」だが、鈴の返しにほんのり疑いの色を感じたのか、悠生は慌てて弁解した。「鈴さま、マジで信じて。俺さ、君と出会ってからは、他の女の子なんて目に入らなくなったんだ。俺の一途さは、太陽と月にだって誓えるよ」その真剣な言いぶりに、鈴は少し戸惑いながらも笑った。「……もう、わかったから」店員に案内されて、ふたりは窓際の席へ。ちょうどそのとき――店の反対側で食事を終えた安田遥が、友人たちと出口へ向かっていた。ふと目を向けた
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第154話 手が勝手に動いちゃった

普段は遊び歩いてばかりで、ろくに仕事もせずに過ごしているお嬢様たち。そんな彼女たちに、家族はこぞってこう言っていた――「三井鈴を見習いなさい」と。自然と、三井鈴は彼女たちの「憧れ」になっていた。「もう我慢できないっ!憧れの人と写真撮らなきゃ!SNSのネタにしたら、ぜったいバズるよ!」「私もサイン欲しい~。額に入れてリビングに飾るの!」「ねぇ遥、一緒に行こうよ!」遥はぽかんとしたまま、混乱していた。――ちょっと待って、この子たち、なんで三井鈴をそんなに崇めてるの?「え、ちょっと……あんたたち……」言いかけたが、言葉が喉で止まった。もう誰も聞いていない。彼女たちはキャッキャとはしゃぎながら、すでに鈴の方へと走っていった。「三井さんっ、一緒に写真撮ってもいいですか?」突然駆け寄ってきた数人の令嬢たちに、鈴は一瞬きょとんとしたが、すぐに礼儀正しく答えた。「申し訳ありません、お写真はご遠慮いただいています」明らかに落胆の色を浮かべる彼女たち。「三井さん、大ファンなんです。サインだけでも……!」鈴は困惑を隠せない。「ごめんなさい、私、芸能人じゃないので……そういうのはちょっと……」「でも、三井さんは私たちの憧れなんです!」「お願いです!たったひと言でいいから!」「……」鈴は苦笑いするしかなかった。どうして自分が憧れなんてことになってるのか――まったく心当たりがない。と、そのとき。カツカツとハイヒールの音を響かせながら、遥が彼女の目の前に現れた。怒りを隠す気もない、不機嫌そのものの顔つきで、言い放つ。「なに、三井鈴。調子に乗ってんじゃないの?」口調も態度も、完全に喧嘩腰だった。お嬢様たちは思わず驚きの声を漏らした。「えっ、遥ちゃん、三井さんのこと知ってるの?」遥は鼻で笑いながら、間髪入れずに言った。「知ってるどころか、昔はうちの義姉だったのよ?まぁ、今はもう兄とは離婚して、うちの家からも追い出されたけどね」そう言ってから、これ見よがしに鈴を見て、にやりと笑った。――これでみんな目が覚めるはず。あんな女、憧れにしてるなんて、笑っちゃうよね?「いい?ちゃんと目を開けて見なさいよ。誰でも彼でも憧れにしていいわけじゃないんだから」だがそのとき、向かいの
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第155話 金はいらない、あの女を潰して

遥が手を振り上げて反撃しようとしたその瞬間、悠生が無言で彼女の腕を掴んだ。「触ってみろよ。こっちが黙ってると思うな」遥は必死に腕を振りほどこうとするが、まるで歯が立たない。「三井鈴……あんた、こいつに手を放すように言いなさいよ!」鈴はぴくりとも動かず、冷たい目で彼女の騒ぎを見下ろしていた。その様子を見ていたお嬢様たちは、顔を見合わせ、目と目で語り合う。――その視線には、遥への露骨な嫌悪が滲んでいた。もともと、無理やり彼女のほうから距離を詰めてきたこともあって、内心ではいい気がしていなかった。今こうして本性を見せられ、完全に「もう無理」と見限ったようだった。「遥ちゃん……私の憧れにそんなことするなんて……もう、私の前に現れないでほしいわ」「私の憧れをバカにするとか、何様のつもり?自分の立ち位置、ちゃんとわかってる?」「前から評判悪いって聞いてたけど、ただの噂かと思ってたのよ。……ほんと、そのまんまだったわね」「……」口々に言いたい放題で、誰も遥の味方をしなかった。遥は顔を真っ赤にして叫んだ。「なによ!あんたたち、私の贈り物は喜んで受け取ってたくせに、今さら手のひら返す気!?」すると、一人のお嬢様が鼻で笑った。「は?あの程度の物?とっくに家のメイドにあげたわよ」「そうそう。ちょっとした小物くらいで、私たちが動かされるとでも?」「ていうか、いくらかかったのか教えてよ。後で返すから。もうあんたと関わりたくないの」まるで修羅場の観客のように、鈴はその光景を静かに眺めていた。内心では、思わず笑ってしまいそうなほど気分がいい。まさか、あの安田遥が「友達」にこうしてハブられる日が来るとは――なかなか見ごたえある展開だった。「鈴さま、そろそろ場所変えない?なんか……空気が悪すぎる」悠生は遥の腕をパッと放し、ポケットからウェットティッシュを取り出して指先を拭う。その目には、まるでゴミでも触ったようなあからさまな嫌悪感が滲んでいた。「そうね、ここにいたら食欲が失せそうだし」鈴がそう言って席を立とうとしたその時――「サイン、もらってもいいですかっ!」「一緒に写真、お願いできますか!?」何人ものお嬢様たちが、ぱっと鈴の前に立ちはだかる。遥はその光景を、唇を噛みながら見つ
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第156話 鈴に手を出すな

電話の向こうで相手の声が急に弾んだ。「へぇ、それは楽しみですね。差し支えなければ、どの女優さんか教えてもらえます?」遥は得意げに口を開いた。「三井鈴。帝盛グループの三井鈴よ。あの女がどれだけ男遊びしてるか、その証拠を掴んだの」だが、その名前を聞いた瞬間――空気が変わった。相手の声色は一気に冷め、興味を失ったのがありありと伝わってきた。この浜城では、すでに根回しが済んでいたのだ。三井鈴のプライベートに軽々しく踏み込めるメディアなど、今は一つとして存在しない。「へぇ……で、どんな証拠なんですか?」明らかに乗り気でない返事だったが、遥はまったく気づいていなかった。彼女は、ようやく三井鈴の本性を暴くチャンスを得たと信じて疑わなかった。「写真を送るわ。ちゃんと記事にしてよね」「……はいはい」返事はぞんざいだったが、彼女は満足げに写真データを送りつけた。「明日にはきっと面白い記事になるわね――」そう心の中でにんまり笑いながら。ところが、翌日になっても、翌週になっても、三井鈴に関する報道は一切出なかった。記者たちは、彼女からの電話さえ無視するようになった。「……ふん。まさか、あの女がここまでの権力を持ってるとはね」悔しさに唇を噛みながらも、遥は諦める気はなかった。「記者にダメなら、お兄ちゃんにあいつの本性を見せてやるんだから」怒りにまかせて安田グループへ向かい、兄・安田翔平のオフィスへと乱入した。「お兄ちゃん、見てよこれ!三井鈴ったら、うちを出たと思ったら、今度はあっちの男、こっちの男って――ほんと、どうしようもない女だと思わない?」その名を口にした瞬間、室内の空気が凍りついた。けれども、遥は気づかず、スマホを取り出して得意げに画面を見せつけた。翔平はちらりと視線を向けただけで、顔色が暗く沈んだ。鈴と悠生――彼のかつての親友――が、あそこまで親しげだとは思っていなかったのだ。数日前に鈴と険悪な別れ方をしたばかり。胸の奥に、冷たい棘のようなものが突き刺さる。「……最近、暇なのか?」思いがけない言葉に、遥は首をかしげた。「なに、どういうこと?」翔平は机を指でコツコツと叩きながら、低い声で言った。「……小遣いの額が多すぎたか。身の程もわからなくなったか?」「えっ…
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第157話 初めて会ったときから決めてた

「今日言ったこと、よく覚えておけ。自分で自滅するなら、誰も助けられないからな」遥は何度も「分かった」と繰り返し、ようやくオフィスを後にした。彼女が去った後も、翔平は険しい表情のまま窓の外を見つめていた。その間に蘭雅人が部屋に入ってきたことにも気づかなかった。「社長」「なんだ?」「最近、うちの株を大量に買い集めている動きがあります。かなり意図的で、どう見ても敵対的です」「何か掴めたのか」「相手はかなり慎重で、まだ尻尾を出していません。ただ、こちらもマークを強めてます。もう少し動きがあれば、何かしら証拠が掴めるはずです」「分かった。余計な騒ぎは起こすな」「はい」話を切り上げた後、翔平は少し間を置いて話題を変えた。「鈴がまだうちにいた頃、特に親しかった社員はいたか?」蘭は一瞬考えた後、首を横に振った。「彼女は人付き合いもそつなくて、誰とも穏やかに接していましたが、特別に仲の良い人というのは、あまり印象にありません」「……そうか。下がっていい」「失礼します」蘭には、翔平がなぜ急にそんなことを聞いたのか分からなかった。ただ、最近彼がやたらと鈴に関心を寄せていることだけは、はっきりと感じ取っていた。*同じ頃。帝都グループ本社の最上階にあるオフィスでは、鈴が海外財閥とのオンライン会議を終えたばかりだった。ノックの音とともにドアが開き、書類を抱えた鈴木悠生がにこにこしながら入ってきた。「鈴さま、こちらにサインをお願い」鈴はため息をついた。何度呼び方を改めるように言っても、悠生はまったく聞く耳を持たない。「ねえ、会社なんだから、その呼び方やめてくれない?」すると悠生は、ふざけたようにニヤニヤしながら言った。「呼び方を変えてほしいなら、週末に映画でも付き合ってくれたら考えてもいいけど?」鈴はため息をつきながら書類を受け取り、確認後にサインをした。「映画がダメなら、他のデートでもいいよ?」「あなた、暇なの?」鈴がじと目で睨むと、悠生は軽く肩をすくめて言った。「営業成績はトップだよ。だからちょっとくらい褒美くれても……ね?」「私は、最近離婚したばかりなの」「知ってる」「今は恋愛とか、そういう気持ちにはなれない」「待つよ」悠生の返事は、いつだって軽い
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第158話 完全に無視

「鈴さん、前は本当にごめん。最初から政略結婚の相手が君だって知ってたら、絶対に断ったりしなかった。でも、今からでも遅くないだろ?君も俺も独り身なんだし、もし君さえ望んでくれるなら、俺はいつでも君の隣にいるつもりだ」そう言って、悠生は背を向け、オフィスを出ていこうとした。「悠生くん」三井鈴が呼び止める。「あなたには、もっとふさわしい人がいると思う。私なんかに時間を使う必要なんてないわ」だが彼は立ち止まり、穏やかに微笑んで言った。「俺の中では、君がいちばんだよ。……鈴さん、あんまり気に病まないで。君のことを好きになったのは、俺自身の選択だし、君がどうするかは君の自由。どんな結果でも、俺はちゃんと受け止めるつもりだから」そう言い残し、彼は静かにドアを開けて出て行った。その一言が、鈴の胸の奥に妙な余韻を残した。この数ヶ月、確かに彼と過ごす時間は悪くなかった。でも、自分の気持ちは……彼をただの友人としか思えなかった。それ以上でも、それ以下でもない。けれどあの人の頑固さは筋金入りで、一度決めたら引かない。ため息をひとつついて、彼のことは考えないように頭を振ると、鈴は目の前の仕事に集中しはじめた。ちょうど退勤の時刻が近づいたころ、スマホが鳴った。画面には「麗」の名前。「麗おばさん!」画面越しに声を聞いた瞬間、麗はすぐに鈴の疲れた様子に気がついた。「鈴ちゃん、最近すごく忙しいみたいね?」「まあ、ちょっとね。でも大丈夫」鈴が笑顔でそう言うと、麗はふっと息を吐いて苦笑した。鈴も仁と同じで、ひとたび仕事に没頭すると周りが見えなくなるタイプだと、よくわかっている。「今夜、うちでご飯食べていきなさい。あんたの好きな酢豚、作って待ってるわよ」「えっ、ほんと?やった!麗おばさんの酢豚、ずっと食べたかったの!」「ふふ、あんたったら。本当に、もう少し生活も楽しみなさいよ。仕事ばっかりしてないで」そして、少し間を置いてこう続けた。「仁を迎えに行かせたから、もうそろそろそっちに着いてる頃よ」「えっ……仁さんが?こっちに?」「ええ、たぶんもう着いてるわね」その言葉とほぼ同時に、鈴の視線はオフィスの外のガラス越しに立つ仁の姿をとらえた。気づけば自然と、顔がほころんでいた。「いた!じゃあ、麗おばさん、ま
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第159話 笑顔の裏にある棘

鈴は少し眉を上げ、穏やかに手を差し出した。「こんにちは、三井鈴です」林も柔らかな笑みを浮かべて握手に応じた。「田中社長からよくお話を伺っています。お綺麗なだけでなく、とても気さくで素敵な方だと。今日お目にかかれて、その通りだと感じました」言葉の選び方も、話し方も実に巧みだった。鈴は一瞬きょとんとし、それから仁に視線を向ける。「へぇ……私のこと、そんなふうに思ってたんだ。仁さん?」少し茶化すような口調で言うと、仁は目を細めて言った。「事実だから」鈴の唇がふっと緩み、いたずらっぽく笑った。「よし、じゃあ帰ろう!もうお腹ペコペコ!」「うん」仁はそんな鈴を見て、どこか嬉しそうに頷いた。三人はそのまま一緒に階段を降りていき、林は先に車に乗り込んで運転席へ。「林、麓湖一号までお願い」「かしこまりました」車が静かに動き出し、窓の外を流れる街並みを眺めながら、鈴がぽつりと口を開いた。「この前の翼グループとの契約、もう決まりそう。たぶん明日か明後日には正式に締結になると思う」「いい案件だね。序盤は少し大変かもしれないけど、走り出せば安定する」「うん、でもここまで順調だったのは、全部仁さんのおかげだよ。ほんと、ありがとね」「そんなの……いちいちお礼なんていらないよ」鈴は照れくさそうに笑った。「はいはい、今度からは言わない」後部座席から聞こえる二人のやりとりを耳にしながら、林は黙ってハンドルを握っていた。その内心には、言葉にできないもやもやが渦巻いていた。まさか田中仁が、ここまで彼女のために動いていたなんて。「社長、この先の交差点に、奥様がよく好まれていた和菓子屋があります。少し立ち寄りましょうか?」その言葉に、仁はすぐ思い出した。母の麗が一度口にしていた店だ。「ああ、ちょっと買ってくるよ」車を駐車スペースに停めると、鈴がすぐに言った。「私も一緒に行く!」「いや、いいよ。すぐ戻るから、車で待ってて」押し切られて、鈴はしぶしぶ車内に残ることにした。仁が店に向かって歩き出すのを見届けると、林が静かに口を開いた。「奥様、このお菓子が本当にお好きで、よく私に買いに行かせたことがあります」その口調は、さりげなくも「奥様との距離の近さ」を伝えるような響きがあった。
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第160話 彼に釣り合わない

「彼に釣り合うのは、やっぱり同じくらい優れた人間じゃないとね」林のその言葉に、鈴はすぐに意図を察した。まさかこんな言葉を、秘書の口から聞くことになるとは。「林さん、ずいぶんとお仕事熱心なんですね。社長のプライベートにまで気を配るなんて。……でも、ちょっと踏み込みすぎじゃありません?」林は、その返しに一瞬言葉を失った。だが、ここまできたら遠慮する必要もないと思い直し、淡々と言った。「三井さんのことを悪く言うつもりはありません。ただ……私は社長の立場を案じているだけです。もし本当にお二人が関係を深めたら、世間の目がどうなるか……三井さんは気にしないかもしれませんけど、社長は? 本当に大丈夫なんでしょうか?」言い終わるや否や、仁が紙袋を手に戻ってきた。車のドアを開けた瞬間、車内に張り詰めた空気を察知し、すぐに鈴に視線を向けた。「……何かあった?」林の言葉が、思った以上に鈴の心に影を落としていた。家族に勧められていた関係、確かに少しずつ距離は近づいていた。けれど、自分の気持ちばかりを優先して、仁自身の気持ちをきちんと考えたことがあっただろうか。鈴は小さく首を振った。「ううん、大丈夫。林さんとちょっと世間話をしていただけ」林は、てっきり鈴が何か告げ口すると思っていたのに、意外なほど何も言わなかった。「社長、三井さんとはすごく話が合うみたいで……また機会があれば、ぜひご一緒したいです」その言葉に、仁は少し間を置いてから、鈴に目を向けた。「本当に?」鈴は作り笑いで誤魔化しながら、慌てて話をそらした。「いいから、早く帰らないと。麗おばさん、待ってるわよ」その一言で仁はそれ以上詮索せず、「麓湖一号まで」と林に告げた。車はやがて別荘の前に滑り込み、ぴたりと停車した。玄関先には、すでに麗が立って待っていた。鈴の姿を見つけるなり、満面の笑みで駆け寄ってくる。「鈴ちゃん、やっと来たのね!」「麗おばさんっ、私もすっごく会いたかった!」鈴はそのまま麗の胸に飛び込み、二人はしっかりと抱き合った。麗の鈴への溺愛ぶりは、まさに母娘そのもの。「この前ね、買い物中にあなたに似合いそうなアクセサリーを見つけちゃって。いくつか買っておいたのよ。あとで持って帰ってね」「ほんと?うれしい!ありがとう、麗
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