億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める のすべてのチャプター: チャプター 1061 - チャプター 1070

拓司の手に、ゆっくりと力がこもっていく。いまここで啓司が息を引き取れば、和彦や牧野が密かに手を下し、不適切な処置をしたせいで命を落としたと、いくらでも嘘をでっち上げることができる。「兄さん、僕を恨むなよ。恨むなら、何でもかんでも僕と張り合おうとした自分を恨め」拓司は啓司の口と鼻を覆い、怨嗟を滲ませた声で吐き出した。「紗枝に最初に出会ったのは僕だった。ようやく、あんたにないものを手に入れたと思ったのに……結局、あんたは紗枝まで奪っていった。奪っただけならまだしも、僕を解放しようともしなかった！毎日、二人が一緒にいるのを見て、紗枝があんたの子を宿していると知ったときの、僕の苦しみが分かるか？」その目元が、わずかに赤く染まる。「これでせいせいする。あんたがこの世から消えれば、義姉さんのことは僕が責任をもって面倒を見てやる」拓司は「義姉さん」という言葉をわざと強調した。それは、意識のない啓司への侮辱のようでありながら、同時に彼自身の優越を確かめるための挑発でもあった。しかし、そのとき。窒息の苦しさに反応するように、啓司の瞼がかすかに震え、ゆっくりと手が持ち上がる。次の瞬間、拓司の手首をがっしりと掴んだ。拓司の顔色が変わった。覚悟を決め、さらに力を込めようとするが、もとより力の弱い彼に、目を覚ました啓司を押さえ込めるはずもない。「誰か来い！」拓司は車外に向かって怒鳴った。車が急停車し、数人の屈強な男たちがドアを開けて乗り込んできた。「拓司様」拓司が命じようとしたその瞬間、啓司がぱっちりと目を開け、車内を見渡した。その確かな眼差しを見て、拓司は冷笑した。「兄さん、ずっと狸寝入りしてたのか？」啓司は答えず、ただ静かに彼を見つめた。「芝居だろうが何だろうが、今日、お前には死んでもらう」拓司がそう言い放つと、啓司は怪訝そうに首をかしげた。「あなたは……誰？おうちに帰りたい」拓司は思わず凍りついた。「なんだと？」「おうちに帰して。お腹すいた……すごくすいた」啓司は身を起こし、車内を手探りしながら呟いた。「何か食べるもの探さなきゃ。お腹ペコペコだよ」その姿を前に、拓司は全身に衝撃を受けたように動けなくなった。「啓司様……気が触れられたのでは？」と部下の一人が小声でつぶやく。もう一人が続

「わかりました、すぐ行きます」紗枝はそう答えた。彼女が万崎のあとに続いて二階へ向かうと、背後で夢美が小声で毒を吐いた。「恥知らずな女。拓司が啓司の弟だってこと、とっくに忘れてるんじゃないの」すかさず鈴が寄り添い、同調するように言った。「夢美さん、あんな女に腹を立てるだけ無駄ですよ。あの人、もう恥も外聞も捨ててるんですから」鈴の言葉に気をよくした夢美は、彼女に微笑みかけた。「安心して。近いうちにおじい様の前であなたのことをよく言っておくわ。啓司も離婚したばかりだし、そばには家を守る女性が必要よ」鈴の瞳に感謝の色が浮かぶ。「ありがとうございます、夢美さん！」このときの彼女は、心から喜んでいた。だがその喜びが、やがて取り返しのつかない後悔へと変わることを、まだ知らなかった。最上階、社長室。紗枝はノックして許可を得ると、静かにドアを開けた。拓司はパソコンの画面に向かっていたが、物音に気づくと顔を上げ、彼女に視線を向けた。簡素な服に、化粧気のない顔。整った顔立ちは変わらないが、右頬の傷跡が痛々しく浮かんでいる。「座って」拓司の低い声に、紗枝は一歩進み出てソファに腰を下ろした。「社長、私をお呼びとのことですが、何かご用でしょうか」拓司はパソコンの電源を落とし、ゆっくりと口を開いた。「話す前に、心の準備をしておいてほしい」紗枝は彼の真剣な表情を見つめ、静かに頷いた。「はい」「啓司が……最近手術を受けたんだが、残念ながら……手術は失敗した」拓司の言葉が一語ずつ胸に突き刺さる。「……え？」頭の中で何かが弾け、紗枝の全身が硬直した。思考が真っ白になり、次の言葉が出てこない。「じゃあ、彼は今……」言葉を終える前に、身体の力が抜け、座っていられなくなりそうだった。拓司は彼女の様子を見つめ、喉を詰まらせながら続けた。「状況はかなり悪い」「彼は今どこにいるんですか」紗枝は拳を握りしめ、爪が手のひらに深く食い込んだ。やはり、啓司が理由もなく離婚を切り出すはずがなかった。でも、どうして何も言ってくれなかったの。「静かな屋敷に一時的に移して、療養させている。もし今夜時間があるなら、一緒に様子を見に行かないか」「今からでも行けますか」紗枝の声には焦りが滲んでいた。

啓司の今の状況を案じ、胸の奥が締めつけられるような思いでいる紗枝に、拓司は立ち止まり、「だめだ」と短く言った。「まず、兄さんの状態は極めて不安定で、君や二人の子どもを傷つけかねない。次に、ここには整った医療環境があり、兄さんの回復にはこの場所が最も適している。そして三つ目に、君たちはすでに離婚している。兄さんが君のところへ行けば、黒木家の人間は決して納得しないだろう」その言葉を聞き、紗枝は自分の願いが軽率だったことを悟った。啓司の背後には、莫大な力を持つ黒木家が控えている。治療を受けるなら、ここに残るほうが賢明だと頭では理解していた。「……わかったわ。じゃあ、彼のことをお願いね」「面倒なんて思ってないさ」拓司は柔らかく答えた。「実の兄だ。僕が誰よりも心配している」本来、拓司は紗枝を家まで送るつもりでいたが、彼女は会社の近くで降ろしてほしいと言った。迎えの運転手が来る手はずになっていたからだ。自分との間に、どうしても距離を置こうとする紗枝の態度に、拓司の胸の奥ではやるせない思いが渦を巻いたが、口にすることはできなかった。紗枝が車に乗り込むのを見届けたあと、拓司は車をUターンさせ、再び啓司の住む屋敷へと向かった。到着すると使用人を呼び、「今日の兄さんの様子は？」と尋ねた。「啓司様は日中ずっとお休みになっていて、午後三時ごろにようやくお目覚めになりました。目を覚まされてからは物を壊し始め、つい先ほどようやく落ち着かれて、またお休みになられました」拓司は黙ってその報告を聞き、奥の部屋へと足を進めた。啓司は案の定、深く眠っていた。入浴もしていないのか、体は泥で汚れ、かつてビジネス界で辣腕を振るった男の面影はどこにもなかった。「もう下がっていい」「はい」使用人は小さく頭を下げ、静かにドアを閉めて出ていった。拓司は手を伸ばし、兄の腕にそっと触れた。「兄さん」その呼びかけにも啓司は目を覚まさず、眠りの深みに沈んでいる。「兄さん」もう一度、今度は少し強く揺さぶる。啓司ははっと目を開け、咄嗟に拓司の手を振り払うと、「出てけ……出てけ！こっちに来るな！」と叫び、部屋の隅にうずくまった。拓司はその様子を見ながら、静かにスマートフォンを取り出して録画を始めた。「兄さん、怖がらないで。僕だよ、弟の拓司だ

黒木お爺さんはその話を聞き、少なからず驚いた。「あいつは誰を気に入ったんだ？」「聞くまでもありません。もちろん鈴です」と夢美は即座に答えた。「お爺様はご存じないでしょうけど、啓司さんが紗枝さんと離婚した際、わざわざ鈴を連れて行ったんですよ」黒木お爺さんにとって、啓司と鈴がそんな関係にあったとは思いもよらなかった。今の斎藤家はかつての面影もなく、家はすでに没落している。その上、鈴の両親は早くに亡くなっており、後ろ盾となる実家もない。家柄だけを考えれば、啓司とは少々釣り合わない。「鈴はお爺様が小さい頃から見守ってこられた子ですし、綺麗で、性格も優しく、物分かりが良くて、それに孝行娘です」夢美はさらに説得を重ねた。「啓司さんは今、目が見えません。鈴がそばで面倒を見てくれれば、お爺様ももっと安心できるでしょう」夢美には計算があった。鈴には権力も後ろ盾もなく、扱いやすい存在だ。もし彼女が啓司に嫁げば、自分と昂司はもはや啓司を警戒する必要がなくなり、拓司夫婦との対決に集中できる。夢美の言葉に、黒木お爺さんも少し心が動いた。目の見えない上に正気を失っている今の啓司には、そばで世話をしてくれる女性が必要だ。しかも心から彼を想ってくれる女性が。鈴は素性も明らかで、啓司をないがしろにはしないだろう。「お前の言うことにも一理あるな」黒木お爺さんは指で椅子の肘掛けを軽く叩きながら言った。「だが一つ、先に鈴にしっかり言い聞かせておかなければならないことがある」「何でしょう？」「うちの啓司は今、体の具合が良くない。鈴が心を込めて啓司の面倒を見る気があるかどうか、確かめなければならん」「そんなの聞くまでもありません。鈴は絶対にそうします」夢美は確信に満ちた口調で答えた。夢美の断言に、黒木お爺さんは安心した様子で頷く。「よかろう。明日、鈴をここへ呼びなさい。まずは一か月、啓司の面倒を見させる。その後は、俺が取り計らって、彼女と啓司を結婚させよう」「はい」夢美は笑顔で頷き、喜びに胸を躍らせながらその場を去った。先ほどまで気になっていた「一体何があったのか」という疑問すら忘れ、部屋を出るやいなや、この吉報を鈴に伝えた。鈴は喜びを隠せず、今すぐにでも啓司の世話をしに行きたいほどだった。その頃、夏目家の旧宅。紗枝は

「お前のその言葉を聞けて、俺も安心したよ」黒木お爺さんは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、さらに付け加えた。「後で啓司に会っても、決して怖がってはいけない。しっかりと面倒を見てやるんだぞ」鈴は力強く頷いた。「はい、お爺様、お任せください！」車は屋敷へと向かい走った。屋敷では拓司がすでに待ち構えていた。途中で何か不測の事態が起こるのではないかと、彼の心は落ち着かなかった。あの鈴という娘が、今の啓司の面倒を本当に引き受けるとは、彼には到底思えなかったのである。車が到着すると、鈴は黒木お爺さんに支えられながら降りた。「拓司、鈴を連れてきたぞ。さあ、一緒に啓司の様子を見に行こう」「はい」拓司は応え、先頭に立って案内した。鈴は心の中で少し疑問に思った。啓司はなぜこんな人里離れた場所に引っ越したのだろうか。しかし、それを口に出して尋ねることはできず、ただ黒木お爺さんの後ろについて家の中に入った。その時、啓司はまだ目を覚ましておらず、寝室で横になっていた。部屋の外では、大勢の使用人たちが昨日彼が壊した物の破片を片付け、散らかったテーブルや椅子を整えるのに忙しくしていた。「兄さんは目を覚ましましたか」拓司はそばにいた使用人に尋ねた。使用人は首を横に振り、「朝方に一度目を覚まされましたが、今はまたお休みになっています」と答えた。拓司は階段を上り、寝室のドアを開けた。部屋はすでにきれいに片付けられていた。啓司は大きなベッドに横たわり、布団をかけている。だが、ぼさぼさの髪、汚れのついた上半身は、昨日風呂にさえ入っていないことを物語っていた。今の啓司は意識がはっきりしないだけでなく、暴力的な傾向もあり、使用人たちは恐れおののいて、そばに寄ることさえできなかった。鈴は拓司の後ろから啓司をちらりと見たが、特に変わった様子はなく、尋ねた。「啓司さん、お疲れなのかしら」昨日の啓司が暴れていたこと、そして手術を終えたばかりであることを考えれば、今眠り続けているのも無理はない。拓司もそう思い、「そうだろうな」と答えた。「拓司さんとお爺様はもうお帰りください。ここは私一人で十分ですから」今の鈴は、一刻も早く啓司のそばに付き添いたいという焦りで胸がいっぱいだった。「そうか。では、啓司のことは頼んだぞ」黒木お爺さんが言った。「お