拓司はその言葉を聞くと、しばらく沈黙した。紗枝の瞳には、切実な懇願の色が宿っていた。「お願い、啓司に会わせて」啓司が今のような状態になってからというもの、紗枝はどうしても落ち着かなかった。彼女はすでに覚悟を決めていた。もし拓司が承諾しなければ、綾子に頼みに行こうと。あの人は子供の祖母なのだから、「父親に会いたい」と願えば、きっと許してくれるはずだ、と。「……わかった。でも、身の安全には気をつけて」拓司は少しの間を置いてから折れた。「うん」紗枝は安堵の色を浮かべて頷いた。拓司はさらに念を押した。「仕事が終わったら一緒に行こう。兄さんは今、とても不安定なんだ。屋敷の使用人たちは、ほとんど全員が殴られている」「わかったわ。じゃあお願いね。先に仕事に戻るから」紗枝は礼を言い、踵を返した。「ああ」彼女の背が遠ざかるのを見送ると、拓司はすぐに屋敷の使用人へ電話をかけ、啓司の様子を尋ねた。使用人によれば、啓司は相変わらず気性が荒く、些細なことで人に手を上げるという。鈴は殴られただけでなく、汚水まで浴びせられたらしい。それを聞いた拓司は、声を低くして問い詰めた。「医者には診せたのか」「啓司様は先ほどお休みになられました。今、お医者様が診察をされています」「わかった。何かあったらすぐに知らせてくれ」「かしこまりました」電話を切ると、拓司は深く息を吐いた。夜になり仕事を終えると、彼は紗枝を連れて屋敷へと向かった。到着前、屋敷の執事から電話が入り、綾子もすでに来ていると告げられた。「……どうして早く言わないんだ」拓司の声には苛立ちがにじんだ。「綾子様が突然お越しになるとは、我々も存じ上げず……止めることも叶いませんでした」執事は一拍置いてから、言葉を続けた。「ですが、啓司様には鎮静剤を投与いたしましたので、一、二時間は目を覚まされないかと」これまで拓司は、万が一に備えて、執事に厳しく言い含めていた。自分の許可なく啓司に会いに来る者があれば、決して軽々しく通すな、と。彼にはどうしても信じられなかった。兄が本当に正気を失ってしまったなどということは。むしろ、狂気を装いながら、密かに助けを求めているのではないか――そう考えていたのだ。「今後は気をつけろ」短
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