All Chapters of 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める: Chapter 931 - Chapter 940

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第931話

鈴はにべもなく追い返され、ドアに耳をぴったりと押し当てて中の様子を窺った。だが、部屋は防音が徹底されているうえ、紗枝たちがバルコニーで話しているらしく、物音一つ聞こえてはこなかった。「本当に、厚顔無恥にもほどがあるわ。男女が二人きり、一つ屋根の下で......」鈴が小声で毒づいた、その時だった。いつの間にか背後に忍び寄っていた逸之の存在に気づかぬまま、紗枝への悪態を続けていると、不意に足元に何かがかかるのを感じた。慌てて見下ろせば、逸之が液体の入った何かを手にし、それが自らの足にかけられている。鼻を突く、不快な匂い。「いっちゃん、あなた、何をしているの?」逸之は無邪気な笑みを浮かべて答えた。「鈴おばちゃん、これね、お手伝いさんにもらったの。お花にあげる栄養なんだって。そうすると、お花が早く大きくなって、もっと綺麗になるんだよ。鈴おばちゃんの足、なかなか治らないみたいだから、栄養をあげたんだ」その言葉に、鈴の顔色がさっと変わった。悲鳴に近い声を上げると、階下の浴室へと慌ただしく駆け下りていく。その狼狽ぶりを満足げに見送り、逸之は小さく手を打つと、ふわりとあくびを一つこぼした。「ほんと、嫌な女」その頃、部屋の中では、バルコニーに立つ紗枝と雷七は、外の騒ぎに気づく様子もなかった。雷七が紗枝に報告する。「調べましたところ、葵は当時、桃洲を離れてはいなかったようです。彼女は風征に助けを求め、その後、密かに関係を続けていたとのこと。風征は彼女のために家まで買い与えていた、と」紗枝は耳を疑った。「風征って......確か、葵の親友である悦子の婚約者ではなかったかしら?」雷七が頷いた。「左様です。河野悦子はいまだこの事実を知りません。もし知れば、風征との婚姻はまずあり得ないでしょう」友情や肉親の情さえも、こうも容易く踏みにじる人間がいるとは。紗枝は降りしきる雨を眺めながら、静かに思った。「二人が共にいる証拠の写真は、十分に揃っているのよね?」「はい」「そのデータを、私にも送ってもらえるかしら」紗枝はそう、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。彼女の中では、葵に下すべき裁きが、すでに定まっていた。大学時代、紗枝と葵、そして悦子は同窓だった。紗枝は、悦子の傲岸不遜な性格をよく知っている。
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第932話

ほどなくして十数名が参加に名乗りを上げ、紗枝が確認すると、その中に悦子の名前も見つかった。自分が参加する集まりには、悦子も必ず顔を出すだろうと、紗枝はとうに心得ていた。翌日は連休の最終日。幹事が手配したレストランで、夜八時に集まる約束が交わされた。その知らせを目にした悦子は、逸る気持ちを抑えきれず、すぐさま葵へ電話をかけた。「葵、大学のグループチャット、見た?」葵がそれを見逃すはずもなく、ずっとスマートフォンを握りしめて紗枝からの連絡を待ちわびていた。先日の件で、自分に何らかの累が及ぶのではないかと恐れていたのだ。しかし、いくら待っても紗枝から連絡はなく、目に飛び込んできたのは「紗枝が同窓会に参加する」という知らせだけだった。「見たけど、それがどうかしたの?」葵は平然を装って答えた。「一緒に行こうよ。今の紗枝がどんな顔してるか、見てみたくない?」悦子とて、紗枝が有名な作曲家であることは知っていた。会わない間に、彼女はまるで別人のようになってしまった、悦子はそう感じていた。その誘いに、葵は一瞬ためらった。「やめておくわ。あの人のせいで今こんなふうに干されてるのに、同窓会なんかに行ったら恥をかかされるだけよ」その言葉を聞いて、悦子は本心から葵のために憤った。「葵、心配しないで来てよ。あいつが作曲家だろうが何だろうが、私には関係ない。あんな泥棒猫、みんなから軽蔑されて当然なんだから」葵と啓司の仲を壊したのは紗枝だ。悦子は初めからそう信じ込んでいた。「でも......」「でももへったくれもないわ。もうあなたの分も参加登録しちゃったんだから」悦子は葵の返事も待たず、グループチャットにメッセージを投稿した。【我らが大スター、葵も予定通り参加しまーす。誰かさんはしゃしゃり出ないでね】悦子の投稿を見て、葵は心の中で算段を立てた。いっそこのまま悦子に紗枝の反感を買わせ、自分は仲裁役を演じるのが得策かもしれない、と。紗枝は昔から情に脆い。自分が少しでも味方する素振りを見せれば、数日前のことなど水に流してくれるに違いない。そう心に決めると、葵は悦子にメッセージを送った。【もう、あなたには敵わないなあ。分かったわ。でも先に言っておくけど、もう誰とも争いたくないの。正しいとか間違ってるとか、もう水に流
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第933話

啓司は諦めきれず、もう一度その華奢な身体を抱きしめようと腕を伸ばした。しかし紗枝は、するりと身をかわすと、「触らないで」と、か細い声で囁くだけだった。その一言が、啓司の胸を万力で締め上げるような息苦しさで満たした。つい先頃まで、己の怪我を我がことのように涙し、案じてくれていたというのに。無事だとわかった途端、こうも手のひらを返したように冷淡になれるものか。「ならば、おまえから俺に触れろ」啓司は紗枝の手を取り、無理やり自身の胸へと押し当てた。睡魔に抗えぬ紗枝は、されるがままになっていたが、やがてぼんやりとした仕草でその手を引き抜いた。それでも啓司は食い下がり、再び彼女の手を捕らえようとする。妊娠中の不安定な心持ちもあってか、紗枝の感情はついに限界を迎えた。険しく眉根を寄せると、鋭い声で言い放つ。「いつまでそうしているの?しつこいわ!」そう吐き捨てると、紗枝は布団を抱え込むようにして部屋の隅へと転がり、すぐに寝息を立て始めた。取り残された啓司は、ただ呆然と立ち尽くすほかなかった。この世で、自分に対して臆面もなく怒声を浴びせ、時には手まで上げようとする女は、後にも先にも紗枝だけだろう。その夜、啓司はついに一睡もすることができなかった。翌朝、後部座席に乗り込んだ啓司の表情は昏く、車内の空気までもが鉛のように重く沈んでいた。部下の牧野は、上司の纏う氷のような気配を敏感に察し、意識して距離を取りながら業務報告を始めた。社長をここまで不機嫌にさせる原因は、十中八九、奥様であろうと牧野は見当をつけた。「社長。例の会社買収の件ですが、後始末は滞りなく完了いたしました。奥様にご報告なさいますか?」稲葉の会社を市場最低価格で買収したと知れば、紗枝は喜ぶに違いない、と啓司は思った。だが、昨夜の紗枝の拒絶を思い返し、薄い唇を固く結んだまま「まだだ」と短く制した。「それより、以前調べさせていた雷七だが、何か新しい情報は掴めたか?」エイリーという男の顔は知らぬが、雷七の顔は鮮明に記憶している。単なるボディガードにしては、あまりにも底の知れない風格を漂わせた男だった。「雷七については、すでにお調べ打ち切っております。あまりに謎が多く、素性はほとんど掴めずじまいでして」そこで牧野は、ふと思い出したように付け加えた。
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第934話

今日の葵は、あまり着飾ることもなく地味な装いであった。長い髪は肩まで垂れ、その顔色はどこか青ざめている。紗枝の姿を認めると、会釈がわりに小さく微笑んだ。数日前の高圧的な態度は、見る影もなかった。紗枝は席に着くと、グラスの水を一口含んだ。「さあさあ、みんな座って。せっかく同じクラスの仲間が集まったんだから、立ったままじゃなんだし」幹事の声に促され、皆はぞろぞろと席に着いていく。そのうちの一人が紗枝の隣に腰を下ろし、たまらないといった様子で尋ねてきた。「紗枝ちゃん、この間ニュースで言ってたけど、有名な作曲家だっていう話、本当なの?」その好奇に満ちた眼差しが、じっと紗枝に注がれる。紗枝は静かに頷いた。「ええ、本当よ」その肯定の言葉に、周りの者たちも一斉に紗枝へと視線を注ぐ。その眼差しには、驚嘆、羨望、嫉妬といった、様々な感情が入り混じっているのが見て取れた。「紗枝ちゃん、すごすぎるよ」「軽い難聴だったわよね。先生も、音楽を学ぶのは私たちよりずっと大変だって言ってたのに」「そうだよ、紗枝ちゃんが作曲家になるなんて、誰も思わなかったよな」口々に賞賛の言葉が飛び交う。その空気に耐えかねたように、悦子が思わず口を挟んだ。「たかが数曲書いただけじゃない。何がすごいのよ。完全に耳が聞こえないわけでもないくせに」悦子の声が響くと、周りはぴたりと口をつぐみ、厄介事には関わりたくないという空気がその場を支配した。そんな中、悦子の隣にいた葵が彼女の手を引き、紗枝に言った。「紗枝ちゃん、気にしないで。悦子は少しお酒が入っているから、きっと酔っているのよ」「あおーい」悦子は甘えるように語尾を伸ばして葵の名を呼ぶ。「何言ってるのよ。お酒なんて飲んでないし、酔ってるわけないでしょ」葵の手を振りほどくと、悦子はすっくと立ち上がった。「紗枝、あんたが葵から彼氏を奪ったことなんて、みんな知ってるんだから。あんたがいなければ葵が落ちぶれることなんてなかった。泥棒猫のくせに、有名になったからって、いい子ぶってんじゃないわよ」人前でここまであからさまに紗枝の顔に泥を塗り、罵倒するとは、その場にいた誰もが思ってもみなかった。その言葉を聞いた紗枝は、嘲るように唇の片端を吊り上げた。「悦子、あなたって本当に葵の親友なの
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第935話

「もちろん、怒ってなどいないわ」紗枝が微笑んでそう返すと、葵の張り詰めていた心は、瞬く間に解きほぐされていった。「私たち、きっとうまくやっていけると思うの」そう言って紗枝の腕に絡みつこうとする葵を、紗枝はすげなく振り払った。「怒っているわけではないの。あなたごときに、腹を立てる価値もない。ただ、これだけは言っておくわ。私を殺そうとしたからには、あなたもただでは済まないということよ」葵は返す言葉もなく、ただ呆然と立ち尽くすばかりであった。紗枝が化粧室から戻ると、葵はがらりと態度を変えていた。「紗枝、私に仕返しをするのは構わないわ。でも、啓司や辰夫の力は借りずに、正々堂々とやってみたらどう?」男の助けさえなければ、紗枝など自分に敵うはずがない。葵はそう高を括っていたのだ。だが、それは葵の完全な思い違いだった。そもそも紗枝は、陽翔に拉致された後、葵が姿を現したことなど、啓司におくびにも出していなかったのである。紗枝は嘲るような笑みを浮かべた。「ええ、もちろんそのつもりよ」葵が紗枝の本当の恐ろしさをその身で味わうことになるのは、もはや時間の問題だったからだ。紗枝が助けを借りないと明言したことで、葵はすっかり安心しきっていた。もはや恐れるものなど何もないとばかりに、紗枝の前を胸を張って歩いていく。パーティー会場に戻ると、皆はすでに食事を終え、カラオケが始まろうとしているところだった。「みんな、五年ぶりの再会を記念して、学生時代の写真やビデオを鑑賞する約束だったのを覚えているかい?」幹事の呼びかけに、一同から「いいね、ぜひ観よう!」と歓声が上がった。幹事は早速ビデオを再生し始めた。スクリーンに映し出されたのは懐かしい学生時代の映像で、会場の誰もが感慨深げな表情を浮かべていた。過ぎ去った月日の速さに、誰もが思いを馳せていた。いつしか、ビデオの内容は別のものへと変わっていた。最初は男女二人の後ろ姿。そして、キスを交わす横顔のショットへと切り替わる。その写真は驚くほど鮮明で、写っているのは紛れもなく葵と風征であった。会場にいる者で風征を知らぬ者はいなかった。札付きの遊び人であると同時に、何を隠そう、悦子の婚約者だったからだ。悦子はただ呆然と、スクリーンに映し出される光景を見つめるばかりだった。
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第936話

その言葉を口にした瞬間、葵ははっと後悔の念に襲われた。これまであまりにも多くの敵を作りすぎた。これ以上、悦子まで敵に回すわけにはいかない。再び悦子が手を振り上げたとき、葵は即座にその手首を掴み、低く制した。「悦子、やめて......みんなが見てるわ」その一瞬、悦子は紗枝がずっと抱えてきた感情を初めて理解した。けれど、後悔など一片もない。「葵、これから私たちは友達じゃない。あなたは――私の敵よ」やはり、人は自分に降りかかって初めて痛みを知るのだ。周囲の視線は冷たく、誰ひとりとして仲裁に入ろうとはしなかった。先ほど悦子が紗枝に浴びせた言葉を、皆が耳にしていたからだ。結婚していても愛されていない方が「泥棒猫」だなんて。そんな倫理観の欠片もない人間が浮気されても、同情などするはずがない。葵は必死に宥めようと声をかける。「悦子、この話は......帰ってからにしない?」「消えろ!」悦子の瞳は血走り、真紅に染まっていた。「今すぐ桃洲から出て行け!さもないと、この世からきれいさっぱり消し飛ばしてやる!」その声音は、冗談などではなかった。家では望むものすべてが手に入るお嬢様。そんな彼女が裏切りを許すはずもない。葵は、悦子が本気だと悟った。慌てて周囲を見渡すと、その視線の先に紗枝の姿があった。「......全部、あなたの仕業でしょう?」トイレ前で紗枝が呟いた言葉を思い出し、葵は確信した。だって幹事と自分には何の因縁もないのだから。紗枝は涼やかな笑みを浮かべ、静かに返す。「私の仕業って?あなたが風征さんと不倫したのも、私のせいだって言うの?」その言葉に、場の空気は一層冷えた。悦子も愚かではない。「葵......私、人を見る目がなかった。あなたが前の彼氏――横山と交際したのも、強要されて仕方なかったって、可哀想だって信じてたのに。啓司は紗枝のことなんて好きじゃない、紗枝に別れさせられたんだって......私は馬鹿みたいに信じ込んでた」悦子の言葉に続けて、紗枝が切り込む。「葵、あなたって本当に厚かましいわね。私がいつ、あなたに別れを強要したの?結婚できないと悟って、金を受け取って去ったのは自分でしょう」紗枝の冷ややかな声に呼応するように、周囲から非難の囁きが次々と上がる。「や
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第937話

紗枝もそちらに視線を向けた。どこかで見た覚えのある車だったが、特に気に留めることもなく、足を引こうとした。その瞬間、重厚なドアが音を立てて開き、牧野が姿を現した。「奥様」低く響く声とともに、牧野は紗枝に向かって大股で歩み寄ってくる。その場にいた者の多くは、啓司の秘書として名高い彼の顔を知っていた。周囲の視線が一斉に集まる中、紗枝はわずかに驚きの色を浮かべて問いかけた。「牧野さん、どうしてここに?」「社長がお見えです」牧野が車へと視線を向けた。次の瞬間、スモークガラスの窓が静かに下がり、啓司の端正な横顔が現れた。「奥様をお迎えし、ともにご帰宅なさるとのことです」その言葉に、一同の視線が自然と車内へと吸い寄せられる。啓司は失明し、今やただの役立たずになったのではなかったのか。なのに、その様子はどう見ても健常そのものであり、しかも彼が乗る車は市場に出回らぬ世界限定モデルではないか。紗枝は、まさか啓司が自ら迎えに来てくれるとは思ってもみなかった。ふっと笑みを浮かべ、短く頷く。「ええ」そう答えると、紗枝は周囲に軽く会釈をし、別れの挨拶を済ませた。その背中を、悦子と葵は複雑な思いで見送る。人混みの奥から、誰かが小さく呟いた。「啓司さんって、紗枝さんのこと嫌いなんじゃなかった?好きなのは葵さんで、二人こそ真実の愛だって......紗枝さんは邪魔者だって聞いてたけど」それは、まさに葵と悦子が吹聴していた言葉だった。悦子はその瞬間、全身から血の気が引くような後悔に襲われた。どうして、あんな戯言を信じてしまったのか。そういえば、これまで葵がどこへ行こうとも、啓司が迎えに来たことなど一度もなかったではないか。さらに別の誰かが続けた。「これからは、人のいい加減な噂なんて信じないことね。さもないと、私たちまで罰が当たるわ」「そうよ、そうよ......さ、もう帰りましょう」「はあ......これじゃ、次の同窓会はないかもしれないわね」「常識外れな人が来る会なんて、私は二度と参加しないわ」そう言い交わしながら人々は次々と立ち去り、気がつけば、葵と悦子だけがその場に取り残されていた。葵はなおも状況を取り戻そうと、悦子の手を掴み必死に訴える。「悦子、お願い、聞いて。全部紗枝の企みなのよ
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第938話

二人は前後して車を降りた。まだ玄関にも辿り着かぬうちに、鈴が遠くから駆け寄ってくる。「啓司さん、どうしてこんな遅くまで?」彼女は啓司の姿を認めた瞬間、ぱっと笑顔を咲かせたが、そのすぐ後ろから紗枝が姿を現すや否や、表情は微かに翳った。「紗枝さんもご一緒だったんですね。同窓会に行かれていたんじゃありませんか?」鈴は何気ない口調で尋ねながら、啓司に紗枝の外出先を知らせる。紗枝は、なぜ鈴が自分の同窓会のことを知っているのか、不思議でならなかった。話したのは逸之だけ。だが彼は明らかに鈴を好んでいない。わざわざ伝えるはずもない。あの時、側にいたのは家政婦だった。最近、その家政婦は鈴と親しくしている。前回鈴が交通事故に遭った際にも、彼女は鈴の肩を持っていた。紗枝は彼女と共に過ごす中で、悪意のない、ただの善良な女性だと感じていた。だからこそ、鈴に利用されるのは見たくなかった。むしろ、鈴の本性をあぶり出す機会を窺っていた。「ええ、同窓会の帰りに、啓司さんがわざわざ迎えに来てくださって、一緒に帰ってきたの」わざと軽やかにそう告げ、鈴の心を波立たせる。案の定、鈴の表情がかすかに強張った。「啓司さんは、本当にお優しいんですね。私もいつか、そんなふうに妻を大事にしてくれる、優秀な男性と巡り会いたいです」紗枝は一歩前へ出る。「それは難しいわね。だって、啓司さんは世界に一人だけだもの」二人の視線が、鋭く空中でぶつかる。そのやり取りを聞きながら、啓司はふと、紗枝が自分を意識しているのだと感じ取り、気持ちが少し軽くなった。「鈴、もし恋人が欲しいなら、紹介してやってもいいぞ」何気なく口を挟むと、鈴は唇を噛みしめた。「いいえ、結構です」本当は言いたかった。好きなのはあなただから。他の誰かなど、入り込む余地はないと。夜。鈴はベッドの上で幾度も寝返りを打ち、眠れぬまま天井を見つめていた。なぜ啓司は紗枝と結婚したのか。どうして自分をもっと見てくれないのか。その問いが胸の中で渦を巻く。そんな時、夢美から電話が鳴った。「お義姉さん」鈴はすぐに応答した。「最近どう?」夢美の声が受話器越しに届いた。「ああ、啓司さんと紗枝さんの仲が、日に日に良くなっているんです。紗枝さんのどこがいいのか、私にはわからない。どうし
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第939話

啓司はその言葉を耳にし、思わず口をついた。「学びたいことがあるなら、俺が教えてやる」彼は、自分が拓司に劣っているなどとは微塵も思っていなかった。だが残念なことに、紗枝はその真意を汲み取らず、布団をきゅっと胸元まで引き寄せ、瞼を閉じたまま静かに呟いた。「わかったわ。もし分からないことがあったら、そのときはあなたに聞く」啓司はわずかに眉をひそめたが、紗枝を再び怒らせるのを恐れ、それ以上は言葉を重ねなかった。彼女が黒木グループで働きたいというのなら、そうさせればいい。そう自分に言い聞かせながらも、啓司の胸中には終始、拓司の存在が引っかかっていた。翌朝。仕事があるため、紗枝は目覚ましをセットしていたが、それよりも早く目を覚ましたのは啓司だった。階下に降りると、彼は既に待っていた。「まだ会社に行ってなかったの?」紗枝が不思議そうに尋ねる。「これからは、俺が送り迎えをする」夫婦であれば、夫が妻を送り迎えする。それは自然なことのはず。けれど啓司の胸中には、もう一つの狙いがあった。拓司に、自分と紗枝の関係がどれほど親密かを見せつけるためだ。「いいわ、結構よ」家には運転手もいる。わざわざ啓司に送らせるのは気が引ける。紗枝はそう考えた。だが啓司は、そんな遠慮を受け入れる気はさらさらない。「先に朝食を食べろ。食べ終わったら送っていく」その口調は、紗枝に断る余地を与えなかった。紗枝はその様子から、以前の誘拐事件の影響で、自分の身を案じているのだろうと察し、素直にうなずいた。「わかったわ。それじゃ朝食をいただいてくる」一方その頃、鈴は朝から入念に化粧を施し、華やかな装いで現れた。今日は啓司が自分と紗枝を会社まで送ってくれると知り、胸を躍らせていたのだ。紗枝が食事を終えるのを待ち、鈴は軽やかに声を掛ける。「お義姉さん、バッグをお持ちします」濃いめの化粧に、香水の匂いがわずかに漂ってくる。紗枝は鼻を近づけずともそれを感じ取った。「ええ」バッグを渡し、車へと向かう。乗り込む直前、啓司の眉間に皺が寄った。「誰だ、香水をつけているのは」鈴は褒められると信じて疑わず、即座に答えた。「啓司さん、私です。会社に行くんですもの、身だしなみはきちんとしないと。そうですよね、お義姉さん」そう言っ
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第940話

車内に静寂が落ちた。啓司はしばし考え込むように視線を前方へ向け、やがて低い声で言った。「香水が理由で降ろしたわけじゃない」紗枝はさらに眉を寄せ、首をかしげる。「じゃあ......どうして?」「俺が送り迎えしているのはお前であって、彼女じゃない」一呼吸置いて、啓司は続けた。「もしお前が香水をつけていたら......我慢するさ」せいぜい三十分程度の道のりだ。我慢できないはずがない。啓司は心中でそう結論づけていた。紗枝はその答えに思わず感心し、口元に微笑を浮かべる。「そういうことだったのね。安心して、あなたを我慢させたりはしないわ」そもそも彼女には香水をつける習慣などなかった。二人は道中、時折短い会話を交わしながら、ほどなく黒木グループの正面玄関へと到着した。紗枝が車を降りると、今日の啓司の愛車はマイバッハだった。昨日の限定版ロールスロイスほどの豪奢さはないものの、それでも一瞬で周囲の視線を集め、乗っていた人物を巡る囁きが広がっていく。次回からは、もっと地味な車にしてもらおうかしら。紗枝はそう心の中で呟いた。社屋へ向かう彼女の背に、多くの好奇の視線が注がれる。「新しく入った重役かしら?見たことないわ」「取引先の方じゃない?」「あんなに綺麗なんだから、きっとどこかの重役夫人か......あれよ、わかるでしょ?」その美貌は化粧なしでも際立ち、右頬の長い傷跡さえも存在感を放っていた。「綺麗なのは確かだけど......右の頬、見た?すごく長い傷跡があるわ」「言われるまで気づかなかった......本当だ、髪で隠れてたんだ」資料を取りに来た数人の女性社員が、ひそひそと声を潜めた。紗枝は補聴器越しにその声を拾ったが、ふと外してしまった。他人の口は塞げない。ならば、聞かない方が心は乱れない。その中には、最上階の社長室に仕える秘書の姿もあった。彼女はすぐに「シーッ」と小さく注意し、囁く。「あの方は社長の新しい秘書の一人よ」拓司には二人の社長補佐と五人の秘書がいて、それぞれ担当業務は異なる。紗枝はその中でも業務量の少ない一人だった。「前の社長の奥様って......あの方?」他の三人が興味津々の顔を向ける。社長室の人間ですら紗枝の素性を詳しく知る者はおらず、ただ「天下り」で来たと
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