鈴はにべもなく追い返され、ドアに耳をぴったりと押し当てて中の様子を窺った。だが、部屋は防音が徹底されているうえ、紗枝たちがバルコニーで話しているらしく、物音一つ聞こえてはこなかった。「本当に、厚顔無恥にもほどがあるわ。男女が二人きり、一つ屋根の下で......」鈴が小声で毒づいた、その時だった。いつの間にか背後に忍び寄っていた逸之の存在に気づかぬまま、紗枝への悪態を続けていると、不意に足元に何かがかかるのを感じた。慌てて見下ろせば、逸之が液体の入った何かを手にし、それが自らの足にかけられている。鼻を突く、不快な匂い。「いっちゃん、あなた、何をしているの?」逸之は無邪気な笑みを浮かべて答えた。「鈴おばちゃん、これね、お手伝いさんにもらったの。お花にあげる栄養なんだって。そうすると、お花が早く大きくなって、もっと綺麗になるんだよ。鈴おばちゃんの足、なかなか治らないみたいだから、栄養をあげたんだ」その言葉に、鈴の顔色がさっと変わった。悲鳴に近い声を上げると、階下の浴室へと慌ただしく駆け下りていく。その狼狽ぶりを満足げに見送り、逸之は小さく手を打つと、ふわりとあくびを一つこぼした。「ほんと、嫌な女」その頃、部屋の中では、バルコニーに立つ紗枝と雷七は、外の騒ぎに気づく様子もなかった。雷七が紗枝に報告する。「調べましたところ、葵は当時、桃洲を離れてはいなかったようです。彼女は風征に助けを求め、その後、密かに関係を続けていたとのこと。風征は彼女のために家まで買い与えていた、と」紗枝は耳を疑った。「風征って......確か、葵の親友である悦子の婚約者ではなかったかしら?」雷七が頷いた。「左様です。河野悦子はいまだこの事実を知りません。もし知れば、風征との婚姻はまずあり得ないでしょう」友情や肉親の情さえも、こうも容易く踏みにじる人間がいるとは。紗枝は降りしきる雨を眺めながら、静かに思った。「二人が共にいる証拠の写真は、十分に揃っているのよね?」「はい」「そのデータを、私にも送ってもらえるかしら」紗枝はそう、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。彼女の中では、葵に下すべき裁きが、すでに定まっていた。大学時代、紗枝と葵、そして悦子は同窓だった。紗枝は、悦子の傲岸不遜な性格をよく知っている。
Read more