All Chapters of 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める: Chapter 941 - Chapter 950

952 Chapters

第941話

麗奈たちが声のする方へ振り向くと、そこには秘書を従えた夢美が立っていた。その眼差しには、露骨な不快の色が宿っている。秘書の麗奈と、共にいた三人の女性社員の顔は、瞬く間に血の気を失った。夢美といえば、この本社では理不尽で容赦がなく、しかも極度の女嫌いとして知らぬ者はいない。彼女の秘書は全員男性。かつて配下にいた女性たちは、理由を付けられ、次々と追い出されてきたのだ。「夢美さん、それは何かの聞き間違いかと。私たちは、あなたのことなど話しておりません」社長室付き秘書である麗奈は、さすがに反応が早い。即座にそう弁解した。「話題にしていたのは、前社長の奥様のことです。今になって社長室の一介の秘書になるなんて、という話を」麗奈は、上層部の人間関係や嗜好を事前に調べ尽くしていた。そうでなければ、このポストは務まらない。彼女は、夢美が紗枝を好ましく思っていないことを心得ていた。実際、調べずとも推測は容易だった。どちらも黒木家の嫁であり、将来はグループの後継者候補。必然的に、互いは競争相手となる。夢美はこの四人を咎めるつもりでいた。だが麗奈の説明を聞き、ふと眉をわずかに上げる。「うちの義妹、耳が不自由だから、秘書の仕事は骨が折れるでしょうね。あなたたちも、これからは言葉を選びなさい」「はい」麗奈と三人は、揃ってこくりと頷いた。夢美は秘書と共にエレベーターに乗り、上階へ消えていった。その姿が見えなくなった途端、四人は大きく息を吐く。「まさか、あの鬼ババアにあっさり見逃されるなんて......絶対、その場でクビにされると思ったわ」「これも麗奈さんの素早いフォローのおかげよ」「でも、さっきの『耳が悪い』って何?紗枝さんの耳に、何かあったの?」麗奈はあっさりと言った。「補聴器が必要なの。ほとんど聞こえないらしいわ」「なるほど......だから、さっき私たちが話してる時、そのまま通り過ぎたのね」一方その頃、紗枝は既に自室のオフィスで、数日分の仕事に目を通していた。ふと、先ほど階下で噂をしていた女性のひとりが、ドアの前を通りかかるのが見え、思わず目で追う。社長室付きの秘書だと気づいたのは、その時だった。出社してまだ数日。見覚えがない顔があるのも無理はない。紗枝は、次に会ったとき迷わぬよう、
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第942話

鈴は一瞬、呆気に取られた。自分が「仕事に支障があるから休暇を取る」などと口にした覚えはない。「お義姉さん、そんなこと言ってません。私、ちゃんと仕事できます」紗枝は椅子に腰掛けたまま、ゆっくりと顔を上げた。「鈴さん、会社では『紗枝さん』と呼んでください。今は勤務時間です。公私混同は避けましょう」静かに、しかし一切の甘さを排した声音だった。「あなたは今、私のアシスタントです。アシスタントの役割は何でしょう?そう、私の仕事を支えることです。コップ一杯のぬるま湯すら満足に用意できないのに、どうして他の業務を任せられると思いますか?」紗枝の口調はあくまで理知的で、感情に流されてはいなかった。最初こそ周囲の秘書たちは、その冷淡さに眉をひそめたが、この言葉を聞けば、確かに鈴がその任を果たすべきだと誰もが頷かざるを得なかった。鈴の瞳に、不満げな色が滲む。「もう、お湯は入れて差し上げましたけど?」「私が頼んだのはぬるま湯です。これは何ですか?」紗枝は淡々と問い返す。「冷ませばぬるま湯になりますよ。それに、冷たい水と混ぜると身体に悪いですから」鈴は言い訳を口にしたが、その声音には棘があった。普通なら、ここで怒鳴るか、即刻解雇を告げる場面だ。だが紗枝は、ふと周囲の秘書たちを見回し、何かを思いついたように立ち上がった。「お義姉さん、どこへ行くんですか?」鈴が怪訝そうに声を掛ける。「少し用事があるの」紗枝は短く答えた。「どんな用事です?私もご一緒します」その反応は、付き添いというより監視に近い。「社長に相談に行きますが......それでも来ますか?」拓司の名を聞いた瞬間、鈴の背筋がわずかに強張り、手が引っ込んだ。「お仕事なら、邪魔しません」紗枝は心の中で確信した。鈴は本当に拓司を恐れているのだ。多くの人にとって、拓司は啓司よりも親しみやすく、穏やかな人物であるはずなのに。なぜ鈴のような人間が、彼をこれほどまでに恐れるのか。疑問はよぎったが、今は重要なことではなかった。紗枝は社長室へ向かい、ノックをした。「どうぞ」聞き慣れた拓司の声が返った。室内に入ると、まず以前の会議資料を整理して手渡し、それから切り出した。「社長、相談したいことがあります」社長?唐突な呼び方に
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第943話

鈴は、万崎がただのアシスタントでありながら、まるで下僕を呼びつけるように自分の名前を呼び捨てにしたことに、内心で眉をひそめた。だが、きちんとしたスーツに身を包んだ万崎は、相変わらず一分の隙もない真剣な表情で言い放つ。「何か不満でも?ここに『鈴』という人間が、ほかにいるとでも思っているのですか」その一言に、鈴の表情は瞬時に冷ややかな色を帯びた。立ち上がり、万崎の目前に進み出る。「何の用?」もともと鈴は、この万崎という女性に取り入ろうと考えていた。しかし彼女は、他の社員のように甘い反応を見せることはなく、何を言ってもまるで暖簾に腕押し。今となっては、鈴も媚びを売る気すら失せていた。「今後、あなたには秘書部門全体のアシスタントとして、各種の雑務を担当してもらいます。自分に与えられた分担は、責任を持ってきちんとこなしてください」万崎は事務的に告げると、周囲の四人の秘書へと視線を移した。「皆さんも、必要があれば遠慮なく鈴に頼んでください。宅配便の発送や出前の受け取りなど、日常的な雑用も含めて、です」四人の秘書は顔を見合わせ、驚きに目を丸くする。「え......私たちにもアシスタントが付くってこと?」その驚きは、鈴の胸にも鋭く突き刺さった。「冗談じゃないわ。私はお義姉さんのお世話をしに来たのよ。この人たちの小間使いをするためじゃない」「会社から給料を受け取っている以上、会社の指示には従う義務があります。それがお嫌なら......辞めても構いません」万崎の声音は、冷ややかで揺るぎがない。鈴は納得がいかず、紗枝のもとへ足を向けた。「お義姉さん、彼女に言ってくださいよ。私一人で秘書五人のお世話なんて、そんなことになったら......お義姉さんのお世話がちゃんとできなくなっちゃいます」紗枝はゆるやかに目を細め、微笑を浮かべた。「大丈夫よ。ただ妊娠しているだけで、体が不自由なわけじゃないんだから。自分のことくらい、自分でできるわ」その笑みに、鈴はぐっと言葉を飲み込む。万崎に指示を出したのが紗枝であることは、考えるまでもなかった。ここに留まるためには、従うしかない。しかし、他の四人の秘書は紗枝のように甘くはなかった。お茶を淹れるよう言いつけられたかと思えば、すぐ別の秘書が書類のコピーを命じる。さらに細々
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第944話

午後、鈴はさらに忙しさを増していた。一方で紗枝は、ようやく邪魔されることなく仕事に専念でき、安心して啓司グループの従業員管理規程に目を通す時間を得ていた。だが、その静けさは長くは続かなかった。ほどなくして、夢美が社長室に姿を現したのだ。秘書の麗奈がすぐさま立ち上がり、作り笑いを浮かべて迎える。「夢美さん、社長にご用でしょうか?」媚びを含んだ声音だったが、夢美は麗奈を一瞥すらせず、室内をざっと見回し、紗枝の作業スペースに視線を止めると、ためらいもなく真っすぐ歩み寄ってきた。そしてノックもせず、オフィスのドアを開け放つ。書類に集中していた紗枝が気づいたときには、夢美はもう目の前に立っていた。「ふん、綾子も随分冷たいことをするわね。自分の長男の嫁を、こんな秘書の席に押し込むなんて」あからさまな嘲笑。だが紗枝は微塵も動じず、「何かご用でしょうか?」とだけ返した。幼稚園での一件以来、夢美の中で紗枝への憎悪は増す一方だった。父母会会長の座自体は大した権威ではない。だが、それは夢美の体面、ひいては息子・明一の園内での立場に直結する問題だった。いまや明一は、園で孤立状態にある。それも、すべて紗枝のせいだと夢美は信じて疑わない。「別に大した用じゃないわ。ただ、あなたがここでどんな仕事をしているのか見に来ただけ」そう言いながら、夢美は紗枝のデスクに両手をつき、乱暴にファイルを手に取ってはパラパラとめくる。そして数ページ眺めただけで、無造作にゴミ箱へ放り投げた。「何よこれ、こんなもの学ぶ価値あるの?」鼻で笑うその声音には、露骨な軽蔑が滲んでいた。紗枝は、彼女が揉め事を持ち込むつもりだと悟る。表情を崩さぬまま、「他にご用がなければ、仕事に戻ります」と静かに告げた。だが夢美は食い下がる。「あなた、社長室の秘書なんでしょう?私にも仕事を頼める立場なのよ。社長だけに仕えるんじゃないわ。上層部の私だって、必要があれば使えるはず」「どのようなご用でしょうか?」紗枝の声音は氷のように冷ややかだった。この落ち着き払った態度が、夢美には何より癇に障る。「以前、松田グループの松田社長と我が社は協力の意向で合意していたの。でも、まだ契約書にサインしていないのよ。その契約書を持って行って、署名をもらってきてちょうだい
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第945話

紗枝は呼びかけられ、顔を上げて「はい」と短く応じた。椅子を押しのけ、拓司のオフィスへ向かう。軽くノックして扉を開けると、彼は書類から視線を上げた。「夢美が来たと聞いたが......何か嫌がらせはされなかったか?」紗枝は隠すことなく、夢美から契約書のサインを取ってくるよう命じられたことを伝えた。拓司の眉がわずかに寄る。夢美の意図を察したのだろう。「その契約書はここに置いていきなさい。他の者に任せる」だが紗枝は、今朝耳にした社員たちの噂を思い出していた。この仕事を拓司が別の秘書に振れば、自分は「逃げた」と陰口を叩かれ、職場で立場を失うだろう。「大丈夫です。必ず契約書にサインをもらってまいります」「松田社長は手強い相手だ。契約が取れないどころか、難癖をつけられる可能性もある」拓司は念を押すように言った。「既に調べました。ご心配なく、きっと成し遂げます」紗枝の声音に迷いはなかった。これ以上は止められないと判断したのか、拓司は小さく頷く。紗枝が部屋を去った後、彼は少しの間、黙考した。やがて「万崎、紗枝を密かに見守る者をつけろ。何かあっては困る」と指示を出す。「承知しました」万崎は即座に動き、一人のボディーガードを呼び寄せて密かに後を追わせた。その頃、紗枝はすでに荷物をまとめ、会社を出る準備を整えていた。廊下で鈴に呼び止められる。「あの......紗枝さん、どこへ?」「仕事よ。一緒に行く?」一瞬迷った鈴だったが、過去に何度も紗枝の「巻き添え」を食ったことを思い出し、警戒して首を振った。「いいえ......」紗枝はそれ以上言葉を重ねず、会社を出てタクシーに乗り込む。だが行き先は松田グループではなく、まず夏目家の旧宅だった。彼女の胸中には、確固たる準備がなければ安易に事を進めるべきではないという思いがあった。調査の結果、松田社長が骨董品や宝石に目がないことを知ったのだ。彰彦も骨董収集を趣味としており、旧宅にはまだ競売にかけられていない品がいくつか残っている。その中から、彰彦が紗枝に贈った価値ある瑪瑙のブレスレットを手に取った。それを鞄に収め、再びタクシーを拾って松田グループへ向かう。やがてビルの前に到着。タクシーを降りて足早にエントランスへ向かうが、入り口で警備員に制止され、社員証を提示した
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第946話

紗枝は、その知らせを受けるや否や、軽く途方に暮れた。松田社長にさえ会えれば契約書にサインをもらえる自信はあった。だが、肝心の面会すら叶わないとなれば、夢美が自分をこの場に送り出した理由も合点がいく。受付の女性が諭すように言った。「もうお帰りになった方がいいですよ。うちの社長は、ただの社員には会いませんから。黒木グループの方なら、そのくらいご存じのはずなのに......どうしてあなたをよこしたんでしょうね」「例外があると思われたのかもしれません」紗枝は静かに答えた。女性は、先ほど心付けを受け取った手前、少し声を落として続けた。「いいですか。うちの松田社長は、あの黒木夢美さんが来たときでさえ、数えるほどしか会ってくれなかったんですよ。それに――」女性は口元を歪めた。「せっかくの機会に、黒木さんはうちの社長からこっぴどく恥をかかされたそうです」その話に、紗枝は思わず口元を緩めた。夢美でさえ冷遇されていたとは。「教えてくださって、ありがとうございます」「あなたが正直そうだから教えたのよ。もう帰った方が身のため」「それはできません。今帰って契約を取れなければ、きっとクビにされます」紗枝は、いかにも哀れげに言った。女性は少し同情の色を浮かべる。「じゃあ、どうするんです?上層部に知り合いはいないの?その人に頼んでみるとか」その一言が、紗枝の脳裏にひらめきを落とした。礼を言い、社長・松田春美(まつだ はるみ)の人脈を調べる。ほどなく、見覚えのある名前が目に飛び込んできた。本村錦子。幼稚園に通う成彦くんの母親だ。もっとも、成彦は錦子の夫と別の女性との間に生まれた子である。かつて紗枝は、間接的にその愛人を桃洲から追い出す手助けをしたことがあった。それが縁で錦子と親しくなり、連絡先も交換していたのだ。錦子が松田社長と繋がっているかもしれない。そう考えた紗枝は、ためらわずメッセージを送った。【錦子さん、松田グループの社長をご存じですか】間を置かず、返事が届く。【ええ、知り合いよ。友達なの。どうしたの?】友達――その一言に、紗枝は目を細めた。まさか、そこまで近しい関係だったとは。これで状況は一変する。紗枝は簡潔に事情を説明した。【紗枝さん、焦らないで。すぐに春美さんをそっちへ行かせるから。あの人、
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第947話

受付の危惧はまったくの杞憂だった。紗枝には、わざわざ彼女と事を構えるつもりなど、はなからない。上階の社長室に通されると、松田は紗枝が契約のために来たと知り、細かな事情を聞くこともなく、ためらいなく契約書にサインを入れた。その後、どうして錦子と知り合ったのかと興味を示し、二人は思いがけず会話が弾み、しばし和やかな時間が流れた。帰り際、紗枝は持参していたブレスレットを松田へ差し出した。「紗枝さん、そんなに気を遣わなくていいのよ。これから何かあったら、いつでも訪ねてきて。錦子とは親友だし、あなたも今日から私の友達よ」松田は遠慮なくそれを受け取り、満面の笑みでそう告げた。二人の会話は思った以上に長引き、紗枝が松田グループを後にしたときには、時計の針はすでに午後六時を回っていた。この時刻、黒木グループではほとんどの社員が退社している。その頃、黒木グループ。夢美は、鈴から「紗枝がまだ戻っていない」と聞くや、口元をゆがめて笑みを浮かべた。「契約が取れなくて、恥ずかしくて帰ってこれないんじゃない?」自分でさえ松田には苦い思いを味わわされたのだ。紗枝のような新人に、うまくいくはずがない。「きっとそうね。あの人なんて、曲をいくつか書ける以外に能があるの?」鈴も便乗して嘲った。そして少し間を置き、「夢美さん、私をあなたの部署に異動させてもらえないかしら?今は何人もの秘書の下で使われて、もう大変なの」と甘えた声を出した。だが夢美は、すぐには首を縦には振らなかった。鈴の配置は万崎が決めたもので、その万崎は拓司のアシスタント――つまり拓司の意向が反映されている。今はまだ、拓司と無駄に衝突するわけにはいかない。「今こそ辛抱強く社長秘書室にいるべきよ。でないと、どうやって紗枝を監視するの?」鈴はその言葉に渋々うなずいた。「わかったわ。ただ、大勢にこき使われるのが嫌なだけなの」夢美は鈴の肩を軽く叩き、低く囁く。「今の我慢は、将来のためよ。あなたが啓司の奥さんになれば、何だって思い通りになるわ」「うん」鈴は小さく頷いた。「さあ、早く戻りなさい。紗枝が戻ってきて、あなたが席にいないとまずいでしょう」鈴は名残惜しげに席を立ち、去っていった。残された夢美はデスクに腰を下ろした。胸の内には、妙な高揚感が満ちていた。
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第948話

鈴はすぐに歩み寄り、少し媚びた笑みを浮かべて口を開いた。「お義姉さん......いえ、紗枝さん。契約は、どうなりましたか?」その声音の奥に潜む本心を、紗枝は一瞬で見抜いた。彼女たちが知りたいのは契約の行方ではない。ただ、自分が失敗して恥をかく様を見たいだけ。紗枝は静かに鞄からサイン済みの契約書を取り出し、短く告げた。「取れました」その場の空気が一瞬止まった。視線が交錯し、誰もが信じられないという表情を浮かべる。なぜ紗枝が、あの最も厄介とされる松田社長から契約を取り付けられたのか。社内で松田社長は、嫌悪の対象として名高い人物だ。拓司が松田社長と商談する際でさえ、誰も同行したがらない。なぜなら、行けば必ず屈辱を味わわされるからだ。「ありえない......」一人の秘書が信じられない様子で近寄り、紗枝の手から契約書を受け取って中身を確かめる。案の定、そこには松田グループの社印と松田社長の直筆署名が整然と並び、何の不備もなかった。他の秘書たちも身を乗り出して覗き込み、皆一様に驚きの色を隠せない。中でも鈴は、ひときわ納得がいかない顔をしていた。夢美さんは言っていたはず。あの松田社長は気難しく、紗枝との契約など絶対にあり得ないと。それなのに、なぜ......?胸の奥にざわめきが広がる。一方、紗枝は淡々と契約書を仕舞い、口を開いた。「夢美さんは、まだ社内にいらっしゃいますか?今から直接お渡ししてもよろしいでしょうか」「部長なら、まだお部屋にいらっしゃいますよ」一人の秘書が答えた。「ありがとうございます」軽く会釈し、夢美のオフィスの場所を尋ねた紗枝は、その足で向かった。――同じ頃、夢美は優雅に音楽を流しながらオフィスでくつろぎ、獲物を待つ捕食者のような心持ちでいた。紗枝が戻ったら、存分に恥をかかせてやる。そう決めていたのだ。やがてノックの音。「夢美さん」「入りなさい」視線だけを向け、夢美は言った。契約は失敗したはず――そう信じ込んでいた彼女は、余裕の笑みで告げる。「どうしてこんな時間になったの?契約が取れなくても構わないわ。会社にとっては少しの損失で済むし、何よりあなたは黒木家のお嫁さん。クビになる心配なんてないのだから」だが、紗枝には無駄話に付き合う暇はなかった。今日はもう遅
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第949話

社内では、紗枝がどうやってあの契約をまとめ上げたのか、その噂で持ちきりだった。ほどなくして、拓司が紗枝を自室へ呼び寄せ、その真相を尋ねた。紗枝は淡々と、しかし嘘偽りなく答える。「松田社長と親しい方と、偶然知り合いになりまして。その方のご厚意で、直接お会いする機会をいただけたんです」「なるほど......」拓司は窓の外に視線をやり、わずかに暮れかけた空を見上げると、「もう遅いな。そろそろ帰ろう、送っていくよ」と言った。「いえ、お気遣いなく」紗枝はすぐに辞退した。「今日は運転手が来ていなかっただろう?」拓司は探るように訊ねた。彼は既に部下を通じて、紗枝がタクシーで松田グループを訪れたことを把握していた。紗枝は少し申し訳なさそうに微笑んだ。「啓司が、これからは私を送り迎えしてくれるって仰ってくださったんです」拓司の表情が一瞬だけ固まり、すぐに平静へと戻る。「そうか。じゃあ、早く帰りなさい。兄さんをあまり待たせないように」「はい」軽く会釈をして紗枝はオフィスを後にした。彼女が去った直後、拓司は立ち上がる。ちょうどその時、昭子から電話がかかってきた。「拓司、もう退社した?私、会社の下にいるの」ガラス越しに、去っていく紗枝の背を見送りながら、拓司は短く応じる。「ああ、終わったところだ。すぐ降りる」「うん」昭子の声は、どこか弾んでいた。黒木グループ本社の前。ロールスロイスが静かに停まっており、その車内では啓司が紗枝の姿を待っていた。「今日はどうしてこんなに遅かったんだ?」助手席の牧野が答える。「ボディガードからの報告では、奥様は松田グループで契約を結ばれたそうです。そのため時間がかかったのかと」かつての誘拐事件以来、紗枝の外出には必ず遠巻きに護衛がついていた。啓司はそれ以上問わず、ただ静かに待ち続けた。やがて、ビルから紗枝が現れる。だが、その隣には鈴の姿があった。鈴は厚かましくも小走りで紗枝の横に並び、啓司の車を見つけるや否や、さらに歩を速めて追い越す。その軽快な足取りには、つい先日まで怪我をしていた痕跡など微塵もない。退社する社員たちの視線も、その様子を追っていた。紗枝は気に留めることなく、変わらぬ歩調で車へと向かう。「啓司さん!」鈴は目を輝かせ、声を弾ま
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第950話

鈴をいじめる?昭子がそう口にした瞬間、周囲にいた退社帰りの社員たちが、面白がるように足を止め、次々と野次馬として集まってきた。一台の高級車の前で、若い女性が涙をぽろぽろとこぼしながら切々と訴える。その光景は、誰の目にも意味深に映り、憶測を呼んだ。紗枝はさらに呆れたように、昭子へ冷ややかな視線を向ける。「昭子、私が彼女をいじめてるって?どこをどう見たらそう思えるのかしら。夫が迎えに来てくれたから帰ろうとしていただけよ。それなのに、この子が無理やり乗り込もうとするから、自分でタクシーで帰ってって言ったの。それがいじめ?」短い一言で、事の経緯はすべて明らかになった。しかし昭子は、周囲の視線と、鈴の駄々をこねる様子を逆手に取り、あえて鈴に加勢して紗枝に恥をかかせようとしていた。「でも、こんなに泣いてるじゃない。ついでに乗せてあげてもいいでしょう?」紗枝は今日、本当に疲れ切っていた。妊娠して以来、情緒は揺れやすく、加えて強い眠気にもしばしば襲われる。彼女は不快感を押し殺しながら、低く問い返した。「今の言葉、もう一度言ってくれる?」「だから、ついでに乗せてあげたらどうなのって言ったのよ」昭子は、わざと彼女を怒らせるように言い放った。「そんなに聖人君子ぶるなら、あなたが送ってあげればいいじゃない」紗枝は即座に切り返した。昭子は一瞬言葉を失う。「彼女はあなたたちのお客様でしょ。私には関係ないわ」「関係ないなら、どうしてそんなに口を出すの?そんなに心配なら、あなたがついでに送ってあげたら?」言い終えると、紗枝はこれ以上関わるのも馬鹿らしくなり、鈴を押し退けて車に乗り込んだ。「鈴、昭子はこんなにお優しいんだから、彼女に送ってもらいなさいな。きっと喜んでくれるわよ」軽やかな笑みを浮かべながらそう告げ、運転手に向き直る。「出して」車内の運転手も、牧野も、そして啓司までもが一瞬驚きに目を見張った。だが啓司は口元に笑みを浮かべ、少しも腹を立てる様子はなく、運転手に命じた。「奥様の言う通りに」「はい」エンジンが唸りを上げ、車は静かに発進した。瞬く間に遠ざかり、昭子と鈴の目の前には、排気ガスがもうもうと立ちこめるだけだった。今や、周囲の好奇の視線は昭子と鈴の二人に集中していた。鈴は潤んだ
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