All Chapters of 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める: Chapter 911 - Chapter 920

922 Chapters

第911話

紗枝はまだ、啓司が何度も自分をかばってくれた場面の余韻に浸っていた。だが、彼の突然の問いかけに、思わず彼の腕を軽くひねった。「バカみたいなこと聞かないで」けれど、その言葉が終わらぬうちに、スマートフォンの着信音が、二人の甘い空気を断ち切った。「誰だ?」啓司が反射的に尋ねると、紗枝は画面をちらりと見て小さく答えた。「辰夫」その名を聞いた瞬間、啓司の表情が少年のように曇った。「スピーカーで出ろ。何を話すのか、聞かせてもらおうか」昨夜の「芝居」――自分をかばいながら辰夫にすがるように泣いた紗枝の姿が、今も彼の胸に棘のように刺さっていた。紗枝はしぶしぶ、スピーカーモードで通話を取った。「もしもし、辰夫?」「雷七から昨夜のことを聞いた。大丈夫か?」「うん、もう平気。心配かけてごめんね」「そうか。昨日言ったことは、今も変わらない。望めばすぐに迎えに行かせる。俺のところなら、誰にもお前を傷つけさせない」その言葉に、啓司の目が鋭く細められた。紗枝が口を挟もうとしたが、それより早く啓司が声を発した。「池田さん、俺の妻のことはご心配なく」辰夫は、啓司が傍にいるとは思っていなかったらしく、一瞬だけ沈黙した。だが、すぐに言葉を返した。「啓司さんが本当に彼女を守れるなら、俺は口出ししない。だが、守れないなら、早々に彼女を返してもらいたい」その声音は冷たく、明確だった。「妹と、俺の子供を......これ以上、傷つけさせるつもりはない」啓司の拳がベッドの上で静かに握り締められた。だが、反論はしなかった。できなかった。紗枝が傷ついたのは事実だった。紗枝が慌てて声をかけた。「辰夫、本当に大丈夫。啓司も元気になってきたし......そのうち、エイリーに会いに行くね」そう言って、通話を切った。電話の向こうで、辰夫は真っ暗になった画面を見つめたまま、唇を強く噛んだ。そして、感情のやり場を失った拳で、そばの壁を叩いた。桃洲にもっと早く来ていれば。この結婚を、止めていれば――後悔ばかりが胸を満たしていた。病室では、啓司の頭の中に、辰夫の言葉が繰り返し響いていた。「妹と子供を、傷つけさせない」狙われたのは自分だった。だが、実際に傷を負ったのは紗枝だった。視力を失った自分に、彼女が時間を
Read more

第912話

拓司の目尻に、鋭く冷たい光が走った。だが、彼は何も言わず、数口だけ食事をとると静かに立ち上がった。「母さん、もう出る。先に会社行く」綾子が驚いたように顔を上げた。「今日は休みでしょ?」「家にいても、足を引っ張るだけだ」淡々とした声。それは母親を責めるでもなく、ただ事実を述べたにすぎなかった。拓司は昭子に目を向けた。「今日は親戚の集まりだろ。母さんの手伝いをして。特に理由がなければ、外に出るな」最後の一言には、明らかに釘を刺す色があった。ネットで騒がれている「紗枝の盗作疑惑」、仕掛けたのは昭子自身だった。だが、嘘はすでに暴かれ、火種はまだくすぶっている。昭子は唇を噛み、小さくうなずいた。「わかったわ」拓司はそれ以上言わずに家を出ると、車に乗り込んだ。運転席でスマホを開くと、いくつかの不在着信が並んでいた。すべて風征からだった。彼は無表情のまま折り返した。数秒後、電話がつながる。受話口から飛び出してきたのは、震える声だった。「拓司様......!陽翔兄さんが......啓司さんの部下に、連れて行かれました!」拓司の眉は動かなかった。「自業自得だ」その一言は冷たく、無関心ですらあった。彼は誰よりも、啓司の怒りの本質を知っていた。誰かが本気で手を出せるような相手ではない。風征は取り乱した様子で、なおも懇願した。「お願いです......陽翔兄さんまでいなくなったら、俺......もう誰も......!」彼自身は今、身を隠すように暮らしていた。武田家に戻る勇気などない。そして、陽翔がいなくなれば、自分を守る盾すら消えてしまう。拓司は、窓の外を流れる風景を眺めながら、冷たく言った。「僕は聖人じゃない。それに、啓司とは距離感を弁えてる。僕が口を出したところで、彼が手を緩めると思うか?」言葉に感情はなかった。むしろ突き放しそのものだった。風征はついに、最後の切り札を出した。「今回は俺、ただ陽翔兄さんの指示に従っただけなんです!本当に啓司さんを傷つけるつもりなんてなくて......紗枝さんと鈴さんを誘拐したのも、全部、陽翔兄さんが......!」その瞬間、拓司の表情が初めてわずかに動いた。「紗枝を、誘拐した?」「は、はい......陽翔兄さんが言ってま
Read more

第913話

「昔のやり方なら......あいつを二度と桃洲に戻れなくする。それが決まりだった」啓司の言葉は淡々としていた。だが、その裏にあるものを紗枝は敏感に察知する。彼は、彼女を怯えさせまいと、あえて柔らかく言葉を包んだ。紗枝もそれを感じ取ったのか、ただ静かにうなずいた。「うん、わかった」そのとき、ドアの向こうからノック音が響いた。「啓司様、鈴さんが......お見舞いにいらしています」ボディーガードの声には、微かに困惑の色があった。啓司の眉がわずかに寄った。鈴。昔から相性の悪い従妹だ。見舞いに来る理由は、どうせ下心と詮索だろう。啓司が口を開くよりも早く、鈴が杖をついてずかずかと病室に突入してきた。「啓司さん、大丈夫なの!?」目を潤ませ、駆け寄る鈴。だが、その視線の先は紗枝だった。鋭く、突き刺すように。「よくも、こんなところに平然と座っていられるわね!」ボディーガードが止めようとしたが、親戚関係を気にして手を引っ込めた。紗枝はため息をひとつつき、淡々と言った。「入れてあげて」ドアが開き、鈴が足を引きずりながらベッドへ近づく。杖も持ったまま、紗枝に詰め寄った。「他人の子供を妊娠しておいて、どうして夫婦なんて顔していられるの!?早く啓司さんと離婚しなさい!」その言葉に、啓司はまぶた一つ動かさなかった。むしろ、心底どうでもよさそうに、目を閉じたままだ。紗枝は穏やかな笑みで啓司の腕を取った。「本人が気にしていないのに、あなたが何を騒いでるの?他人の家庭に口出すって、ずいぶん暇なのね」啓司は内心、吹き出しそうだった。気にしていない、だと?もし本当に他人の子だったら、今ごろこの病院を丸ごと燃やしていただろう。鈴は怒りで唇を震わせながら言葉を探していた。だが、紗枝は構わず、追い打ちをかけるように続けた。「どうしたの?羨ましいの?鈴さんも年頃でしょう?いい男、紹介してあげようか。従兄ばかり見てないで、啓司にはもう私って妻がいるのよ?」鈴の顔が見る見る赤くなった。「わ、私は......啓司さんのことをただの兄だと思ってるだけよ!」「へえ?」紗枝はゆったりとした口調で、あからさまに信じていない態度を見せた。鈴は追い詰められ、病室の足元に移動し、啓司のズボンの裾をつかんだ。「
Read more

第914話

静かな病室。啓司がそっと手を差し出すと、紗枝は迷いもなくその掌に自分の手を重ねた。「頭......まだ痛むの?」「いや、もう平気だ」啓司は低く、どこか甘えるような声で言う。「でも......抱っこしてもらわないと、だめかもしれない」その一言に、紗枝はふっと笑って、ベッドに腰を下ろした。そっと、彼の上半身を優しく抱きしめた。「傷に触れたらすぐ言ってね。遠慮しないで」「バカじゃないんだから」啓司は照れ隠しのように言ったが、口元は確かに緩んでいた。久しぶりの、平穏。互いのぬくもりの中に、言葉にできない安らぎがあった。どれだけの時が過ぎたのか、二人はもう忘れていた。そのとき、病室の入り口から小さな声が響いた。「パパ、もう大人なのに、まだママに抱っこしてもらってるの?」はっとして振り返ると、雷七が逸之の手を引いて立っていた。小さな体で憤慨したように、逸之が言う。「ママずるい!休みなのに僕は学校に行かされて、ママたちは病院でこっそりいちゃいちゃしてたなんて!」紗枝は慌てて啓司の腕から離れた。「あのね......それはちょっと違うのよ、逸ちゃん......」黒曜石のような澄んだ目で見上げる息子に、うまい言い訳が出てこない。逸之はわざと鼻をすすり上げた。「僕なんて......どうせいらない子なんだ、うう......」紗枝はすぐに彼の前にしゃがみ込み、強く抱きしめた。「そんなこと言わないの。逸ちゃんはママの宝物よ。ごめんね。ママが悪かった」啓司は横で眉をひそめた。ぬくもりが突然奪われたような喪失感に、内心毒づく。このタイミングで入ってくるなんて......このガキ、わざとじゃないだろうな。満足げにニコッと笑った逸之が、得意げに言った。「これからママ、僕をだましちゃダメだからね!」「はい、はい。わかった」紗枝は思わず笑いながら応じた。それから逸之はベッドのそばに回り込み、つま先立ちで啓司を見上げた。「パパ、具合よくなった?」「おかげさまで、だいぶな」「じゃあ......僕、ふーってしてあげる。ママが前に僕にやってくれて、すっごく痛くなくなったの」その言葉に、啓司は目を細めた。胸の奥に、じんわりとした温かさが広がる。「ありがとう。でも、もう大丈夫だよ。パパは
Read more

第915話

ただの伝言役だったのか。紗枝はそれを聞いて淡々と告げた。「それなら、自分で啓司に伝えて」鈴は唇を噛み、壁にすがりながら一歩ずつ病室に入っていった。数分後、さらに青ざめた顔で出てくると、そのまま黙って去っていった。病室の中では、逸之が退屈そうに足をぶらぶらさせていた。「逸ちゃん、帰りましょ。パパの邪魔しないようにね?」「はーい」逸之はもともと、パパが無事かどうか確かめるために来ただけだった。目的は果たしたし、病室に残っても退屈なだけ。正直、家に帰って配信でもしたいと思っていた。母子が帰ろうとしたとき、啓司が口を開いた。「今夜、俺も帰る」傷はすでに縫合されており、激しい運動さえ避ければ問題ない。「でも、まだ完治してないのに......」紗枝は心配そうに振り返った。「澤村が、危険な状態は脱したって言ってた。心配いらない」啓司は一呼吸置いて続けた。「夜、本家に戻る。拓司に話がある」牧野の調査によれば、拓司は最近、陽翔と頻繁に接触しているという。今回の事件に拓司が関与している可能性を、直接確かめる必要があった。それに、黒木家の集まりには取引先の関係者も多数出席する。紗枝と子供たちを守るには、今のうちに資本を蓄えておかなくてはならない。「じゃあ、私たちも一緒に行く」啓司が本家に戻ると聞き、紗枝は自らそう申し出た。「無理しなくていい。行きたくないなら......」啓司は、彼女が黒木家に戻ることを最も恐れているのを知っていた。しかし、紗枝は静かに首を振った。「昔は嫌だったけど、今は違う。行きたいの」あの頃は、冷たい視線に耐えるしかなかった。でも今は、そばにいてくれる人がいる。それだけで、世界は変わる。「......わかった」二人のやり取りを見ていた逸之が、にやりと笑った。「ママ、お兄ちゃんも呼んだら?」ママがバカパパに完全に落ちたとこ、見せてあげたい。「後で聞いてみるわね」紗枝は笑って答えた。母子は啓司に別れを告げ、車に乗り込んだ。車中、紗枝は唯に電話をかけた。「唯、景ちゃんは今どこ?」電話の向こうで、唯はちょうど仮眠から目を覚ましたところだった。「景ちゃん?澤村じいちゃんが連れてっちゃった。友達に自慢したいんだって」紗枝は思わず吹
Read more

第916話

電話が切れると同時に、澤村は心のどこかで安堵したような気がした。「で、これからどうする?」車内の沈黙を破ったのは彼だった。唯はうんざりした表情で答える。「近くのショッピングモールでいいでしょ。食事もできるし、座れるし。おじいちゃんには『映画観た』って報告しとけばいいわ」澤村はあまり乗り気ではなかったが、唯の機嫌を考えてうなずいた。モールは休日らしく、混雑していた。人波に押され、唯は何度かバランスを崩して澤村の胸元にぶつかった。澤村はため息をついて、無言で彼女の肩に手を回し、庇うように進んだ。「こんなところ、何が楽しいんだか」彼がぼやくと、唯も言葉に詰まり、黙ったまま周囲を見渡した。ふと、遠くに空席の目立つ和食店が目に入った。「あそこ、先にご飯にしない?」唯はそう言ってそちらへ向かおうとし、足元を見ずに前方の人とぶつかりそうになった。「前を見て歩けないのか?妻が妊娠中なんだ」低く鋭い声――どこか聞き覚えのある声だった。唯が顔を上げると、そこには花城がいた。柔らかい雰囲気の妊婦を気遣うように支え、その女性の腹部はすでにふくらみ始めていた。一瞬、時が止まったようだった。分かれてまだそれほど時間も経っていないのに、花城が今や父親になろうとしている――唯の胸の奥がずきんと痛んだ。花城も唯に気づき、わずかに顔をこわばらせたが、すぐに平静を装った。「君か......相変わらずそそっかしいな」唯は唇を引き結び、視線をそらして一歩下がった。「すみません。わざとじゃありません」そんな唯が頭を下げたのを見て、澤村の中で何かが弾けた。ぐっと彼女を引き寄せ、その肩を抱きながら、花城を真っすぐ睨みつけた。「こっちだって妊婦だ。唯も、俺の子を妊娠してる」一瞬、花城の目に動揺が走った。瞳孔がきゅっと縮み、口元がわずかに歪む。明らかに、予想外だった。だが澤村はさらに畳みかけるように言った。「もし俺の息子に何かあったら、あんたにその責任が取れるのか?」花城が何かを言い返そうとしたそのとき、妻がそっと彼の袖を引いた。「実言さん......もういいよ。私も赤ちゃんもお腹すいちゃった」その言葉に、花城は何も言えなくなり、妻の背を軽く押しながらその場を離れた。唯は、遠ざかる二人の
Read more

第917話

「どこへ行くつもりだ?」背後から手首を掴まれ、唯が振り向くと、澤村が立っていた。無理やり彼のもとへ引き戻された。「警備員が人を追い出してたから、てっきり私たちも......」唯は戸惑いながら言ったが、澤村は肩をすくめ、何でもないことのように答えた。「退去するのは他の連中だけだ。俺たちは含まれてない」言葉の意味を一瞬理解できずにいた唯だったが、すぐに察した。澤村は、さっきの電話一本でショッピングモールの責任者を動かしたのだ。──「関係者以外、全員退去」。全館の貸し切り。それも、わずか数分で。唯は思わず目を細め、小さくつぶやいた。「無駄遣いもここまでくると芸術ね......そんなにお金があるなら、私に少しくれてもいいのに」「今、何か言ったか?」澤村が顔を近づけて耳を傾けると、唯はすぐに笑顔でごまかした。「ううん、なんでもない!じゃあ今日は......タダで食べ放題、買い放題ってことよね?」「もちろんだ」彼が即答すると、唯の目がきらきらと輝いた。「やった!じゃあね、全部の店に伝えて!看板メニューをぜーんぶ出してもらって!味見したいの!」「全部、食べられるのか?」「食べきれなくてもいいの、味見しないと損じゃん!」会計は澤村が持つ。それが分かっているからこその奔放さだった。十分後、館内アナウンスと共に、一階・六階・七階の店舗に「本日全品無料」の札が掲げられた。服もバッグもアクセサリーも、取り放題。すべて澤村の口座から、一括決済。唯はデザートショップの椅子に腰を落ち着け、スマホを取り出して電話をかけた。「紗枝、今すぐ来て!モールを貸し切りにしちゃった!食べ放題、買い放題、遊び放題、全部タダよ!」その頃、時間を持て余していた紗枝は即座に雷七と逸之を連れて車に乗り込み、現場へと向かった。久しぶりに顔を合わせた唯と紗枝は、姉妹のようにおしゃべりを始め、止まらなくなった。その横で、澤村は退屈しのぎに逸之にちょっかいを出しはじめる。「お前、ホントによく似てるな。双子ってやつは不思議だ」そう言いながら、つまむように彼の頬に手を伸ばすが、逸之はさっと身をかわし、冷たい目で言い放った。「ご飯をおごってくれたからって、気安く触れると思わないで」ママは昔、この人にひど
Read more

第918話

紗枝たちは身支度を整えると、すぐに車で黒木家の本宅へと向かった。今夜の本宅は、あたりが暗くなり始めたにもかかわらず、まるで昼間のように明るかった。玄関前には高級車がずらりと並び、館内からは賑やかな人々の声が漏れてくる。黒木一族に静けさが訪れることなど、そうそうないのだ。鈴は額に包帯を巻いたまま、その中にいてもひときわ目立つ存在だった。黒木家の御当主──黒木お爺さんの隣で笑顔を絶やさずに談笑し、その周囲には自然と人の輪ができていた。一方、綾子と昭子は招待客の応対に追われ、館内を行ったり来たりしていた。青葉もまた、その姿を見せていた。彼女を見つけた夫人たちが、猫のように素早く寄ってきて取り囲んだ。「奥様、昭子さんがご懐妊とか......拓司様とのご結婚はいつですの?」「日取りが決まったらぜひご一報くださいね。前もってお祝いをご用意しておきたいわ」次々と浴びせられる催促に、綾子は作り笑顔で応じるしかなかった。「あの子たちが結婚したい時に、するつもりですよ」だが、周囲の視線はもう、昭子の方へと移っていた。昭子はにっこりと笑い、堂々とした口調で言う。「ウェディングドレスはすでにオーダーメイドで進めていますし、結婚式も近々行う予定です」その場にいた者たちは一斉に歓声を上げ、昭子に祝福の言葉を浴びせた。ちょうどその頃、玄関ホールに現れた拓司は、部下から昭子の発言を聞かされ、わずかに表情を曇らせた。これは、あからさまな「既成事実化」だ。傍らの万崎が、気を遣うように耳元で囁いた。「拓司様......昭子様は、あなた様のお子をお身籠りです。どうか、お子様のためにも──」「僕の私事に口を出すな」拓司の声は、氷のように冷たかった。あまりの剣幕に、万崎は思わず口を噤み、目を伏せた。「分かっているだろう。僕はあいつが嫌いなんだ」その言葉に、万崎はうなずきかけて、何も言えなくなった。拓司が昭子と婚約したのは政治的判断だった。それ以外に理由はなかった。愛情など、初めから一切なかったのだ。フロントホールは一層の賑わいを見せていたが、そこに新たな気配が加わると、場の空気ががらりと変わった。啓司が紗枝と逸之を伴って現れたのだ。彼らが一歩足を踏み入れた瞬間、誰もが無意識に振り返った。鈴もまた
Read more

第919話

紗枝は逸之の小さな手を引き、来客の視線を避けるようにしてホールの隅に腰を下ろした。静かに、啓司の戻りを待とうと思っていた――だが。「まあ、お義姉さん。こんな隅っこにいらしたのね。いらっしゃらないのかと思ったわ」声音は柔らかくとも、明らかに嘲りを含んだ言葉だった。現れたのは昭子で、後ろには黒木家の従姉妹たちが数人付き従っている。まるで見せ物でも見るかのような目で、逸之に視線を向けた。席についた従姉妹の一人が、心配そうな顔を作って口を開いた。「お義姉さん、この子が啓司さんの息子さん?まあ可愛い顔ね。でも......重い病気なんですって?何の病気だったかしら?」紗枝の胸がずきりと痛んだ。だが、返事をする間もなく、別の従姉妹が言葉を重ねた。「お祖父様がおっしゃってたわ。白血病だって」「え?白血病って......治らない病気じゃないの?」「長く生きられないんでしょ......?」その場にいた者たちが、まるで面白半分に言葉を重ねた。そのどれもが、紗枝の心を突き刺すナイフのようだった。必死に唇を噛みしめ、拳を握る。けれど、どう反撃すればいいか分からない。そのとき、先に声を上げたのは、逸之だった。「ねえママ、このおばさんたち......学校に行ったことないの?」一瞬、空気が凍りついた。紗枝は息子の意図を察し、わざと不思議そうに首をかしげた。「どうしてそんなこと言うの?このおばさんたちは優秀なのよ。ケンブリッジ大学を出た人もいるんだから」従姉妹たちは顔を見合わせ、くすくすと笑い出した。「逸ちゃん、読み書きくらいできるわよ?ケンブリッジ大学なんだから」逸之は、ぴたりと笑うのを止めた。そして、じっと従姉妹たちを見ながら言った。「そっか。じゃあ......パパもママもいないの?」「えっ......?」一同はぽかんと口を開けた。「だって、うちの先生が言ってたよ。人をからかったり、病気をバカにしたり、そういうのはちゃんと躾してもらってない子がするんだって。マナーを知らないのは、教育を受けられなかった子なんだって」その言葉に、従姉妹たちの表情がさっと青ざめた。「......っ、なに言って......!」紗枝は、追い討ちをかけるように穏やかな声で言った。「逸ちゃん、そんな失礼なこと言
Read more

第920話

綾子は一瞬、我を忘れた。逸之の震える声が、心の奥を激しく揺さぶる。まさか、自分の可愛い孫に「早死にする」などという言葉を浴びせる者がいるとは、怒りが頭のてっぺんまで突き上げた。従姉妹たちは互いに顔を見合わせ、戸惑っていた。「早死に」などとは言っていない。ただ「白血病は治りにくい」と言っただけ――そのはずだった。しかし、逸之は完璧に「役」に入っていた。綾子の胸にすがりつきながら、大粒の涙をこぼし、息も絶え絶えに叫んだ。「おばあちゃん、僕......僕、もう長生きできないの?死にたくないよ......!」その迫真の演技に、紗枝でさえ一瞬心が揺れたほどだ。「この子......ちょっとした役者になれるかも」と、密かに感心しながら、目を伏せて笑いをこらえる。綾子は胸を押さえてしゃがみこみ、逸之の頬を包むようにして涙をぬぐった。「そんな馬鹿なこと言わないで!逸ちゃんはきっと百歳まで生きるわ!」すぐに立ち上がり、鋭く親戚たちを見渡した。その視線は、刃物のように冷たく研ぎ澄まされていた。「うちの孫に『死ぬ』なんて言葉を吹き込んだのは誰?出てきなさい!」昭子は顔面蒼白になり、他の従姉妹たちも気配を消そうと俯く。場の空気が凍りついていた。ようやく、一人の従姉妹が震える声で口を開いた。「お、おば様......私たち、そんなつもりで言ったわけじゃ......「早死」なんて言葉は使ってません......」「ならば聞くけれど、あの子がなぜ『死にたくない』なんて言葉を口にするの?どんな空気を作ったのか、自覚はあるの?」綾子の声は鋭く、天井を突き抜けるようだった。別の従姉妹が小さく答える。「白血病って、治りにくいってだけで......」紗枝がすかさず冷たい声で追い打ちをかけた。「『治りにくい』じゃなくて、『治らない』って、はっきり言ってましたよね?」逸之の泣き声が、再び響いた。「うぅ......おばあちゃん......僕......死にたくないぃ......!」その健気な声が、親たちの胸をえぐる。綾子は堪らず、皆を指差した。「四歳の子に何を言っているの!?いい年をした大人が寄ってたかって、何てことを!」一同は一斉に青ざめた。綾子がここまで激昂するのは、彼女たちにとっても未体験だった。
Read more
PREV
1
...
888990919293
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status