All Chapters of 冷酷社長の逆襲:財閥の前妻は高嶺の花: Chapter 1181 - Chapter 1190

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第1181話

「……え?万霆、桜子は?姿が見えないじゃないか」達也はまだ諦めきれず、首を伸ばして廊下を覗いた。万霆は席に着くなり、淡々と言い切る。「見ても無駄だ。桜子は怪我してる。人前に出して座らせるわけにはいかない。しばらく家で静養させてる。今夜は来ない」「万霆、お前らしくないぞ!この前、桜子を連れてくるって約束しただろう!なんで反故にするんだ。だいたい俺たちが客って柄か?これからは家族になる仲なんだぞ!」達也はぶつぶつ言いながらも、心の中では引っかかっていた。競馬大会の前夜、彼はすでに万霆と内々に会っていた。そのときは話も弾み、万霆は隆一をえらく気に入り、「桜子を白石家の嫁にする」とまで大見得を切っていた。達也はその勢いで、健一の縁談まで頭に入れていた。喜びに喜びを重ねるために、万霆と愛子の間に生まれた娘・綾子を、健一に――そう考えたのだ。もともと綾子の生い立ちでは、健一の相手として釣り合わないと思っていた。だが今の健一は片脚を失い、贅沢を言える立場ではない。これまで見向きもしなかった綾子も、今では悪くないと思えるようになっていた。だからこそ今夜、わざわざ健一まで連れて来て、綾子と引き合わせようとしている。――それなのに。万霆は桜子を連れてこない。しかも、前よりどこかよそよそしい。隆一も興ざめしたように、暗い顔のまま黙って酒をあおった。一方、事情など知りようもない綾子は、清楚な白いレースのワンピースに身を包み、雪のように柔らかな肌が照明を受けてきらりと光っていた。ダンス専攻の彼女の、細身の体つきはすっと伸び、立ち居振る舞いも驚くほど美しい。露わになったすねは白くまっすぐで、まるで磨き上げられた彫刻みたいだった。普段は桜子の存在感が圧倒的で、綾子はどうしても霞みがちだ。だがこうして見れば、この姉妹は違う方向の美しさをそれぞれ持っているのだと分かる。健一は長く病院にいて、看護師以外の女性をほとんど見ていなかった。そんな彼が、蓮の花みたいに凛と座る綾子を目にした途端、視線が吸い寄せられた。隆一は、その健一の下心を一瞬で見抜き、口の端をつり上げて冷ややかに笑う。ご馳走と酒が並んでも、万霆はほとんど箸をつけない。食欲がないのがはっきり分かった。綾子は健一の隣に座らされた。健一は料理を取り
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第1182話

万霆は黙ったまま達也の怒りを受け止めながら、あの九死に一生の銃撃戦を思い出していた。あの時は、心の底から達也に感謝した。まだ若くて、勢いがあって、気も合って――達也は本当に命を張って、自分を庇った。あれが親友じゃなくて、それは一体何だと思うのか。さらに、あの時の縁で南星幇のボスの娘・鈴子に助けられた。それが今につながり、この縁談にまで連なっている。「……そうだ、達也。お前が俺にしてくれたことは、一生忘れない」万霆の声は少しかすれていた。一言ずつ、噛みしめるように落ちていく。「俺には……お前が全部忘れたようにしか見えん!」達也は机を叩きそうな勢いで身を乗り出した。「忘れてなきゃ、約束を反故にして、俺をおもちゃみたいに振り回したりしないだろうが!」怒りのままに、達也はテーブルの上の高そうなクリスタルグラスを掴み、床に叩きつけた。乾いた破裂音が個室に響き、破片が散る。綾子と愛子は思わず息を呑んだ。いつも万霆にヘラヘラしている達也が、ここまで本気で怒る姿など見たことがない。それだけこの縁談を、命綱みたいに握りしめている。三十年以上の親友と絶交してでも、つなぎ止めたい話――そう伝わってきた。「お父さん!体に障ります、落ち着いて!」白石家の若様ふたりが同時に立ち上がる。ただ、健一は足が不自由で、隆一に半歩遅れた。隆一はすでに達也の横に回り、荒く上下する背中を手でさすって宥める。「お父さん、どうか落ち着いてください。お父さんと万霆さんは、数十年も続く親友で、命を預け合った仲じゃないですか」隆一は言葉を選びながら、深く頭を下げた。「……僕の結婚のことで、喧嘩別れだけはやめてください。そんなことになったら、僕は一生――いや末代まで悔やみます」「隆一、お前がそんな顔をするな。これはお前のせいじゃない」達也は大きく息を吐き、太ももをバンと叩いた。「ダメなのは俺だ。これだけ年を重ねても、宮沢グループを押しのけて盛京の頂点には届かない。万霆が宮沢と強く組みたくなるのも……分からんでもない」「お父さん、違います。悪いのは僕です」隆一は苦笑し、目にだけ痛みを滲ませた。「僕が……桜子の心を掴みきれなかった、結局、僕と桜子には縁がなかったんです」ふっと息をつき、淡々と言う。「万霆さんの言う通り、気持ち
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第1183話

万霆は鷹のように鋭い目で綾子を見つめ、次に達也へ視線を移した。「綾子は俺と愛子の末娘だ。可愛くて仕方がない。だからこそ、ずっとふさわしい相手を探してきた」淡々と語りながら、その言葉は逃げ道を塞いでいく。「本当は、お前の白石家に嫁がせるのも悪くないと思っていた。だが当時、お前が気に入っていたのは桜子だったからな。綾子には別の道を考えるしかなかった」万霆は一拍置き、結論へ滑り込む。「今は桜子と宮沢社長が一緒になっている。なら、一度腰を据えて――お前の息子と、うちの末娘の縁談を話し合ってもいいだろう」綾子の頭上に、雷が落ちたようだった。華奢な体が震え、透き通った瞳がきゅっと縮む。血の気が一気に引いて、顔色が青白くなる。「お父さん……わ、わたし……」その腕を、突然――愛子がぎゅっと掴んだ。指が皮膚に食い込むほど強く。綾子は母を見上げる。母は小さく首を横に振った。――言うな、という合図だった。悔しさと恐怖を飲み込んで、綾子はうつむくしかなかった。涙が睫毛の先に溜まり、今にも零れそうになる。……万霆が綾子の縁談を持ち出したことで、崩れかけていた両家の関係は、ひとまず繋ぎ止められた。だが隆一の胸の中は、煮え立っていた。「少し失礼します」隆一は席を立ち、人気のない暗いバルコニーへ出た。怒りを纏ったまま、行ったり来たりする。荒い息。充血した目。握りしめた拳で、手すりを一度、また一度と殴りつける。手の甲が赤く腫れていく。それでも、胸の火は消えない。どうする……どうすればいい。達也が望んでいるのは、KSとの縁談で手を組み、盛京を制すること。桜子が無理でも、綾子で妥協できる――普通ならそうだ。だが今の健一は足が不自由だ。万霆が娘を、あんな男にやるはずがない。つまりこの重荷は結局、自分――隆一にのしかかる。……ふざけるな。桜子以外の女を妻にする?そんなの、あり得るわけがない。「ははは……隆一。よくもまあ、あれこれ手を尽くしたもんだな」背後から、ねっとりした声が聞こえた。杖をつきながら健一が近づいてくる。口元には耳まで裂けそうな笑みが浮かんでいる。「結局、自分で仕掛けた罠に自分がハマってんじゃねえか。必死に媚びて、最後に全部失う。ざまあみろ」隆一は何も返さない。健一は勝ち誇るように続
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第1184話

食事会は、どこか重く、湿った空気を残したままお開きになった。「白石家との縁談が決まった」そう告げられてから、綾子は終始、針のむしろだった。血の気が抜け、体温が奪われたみたいに、頭のてっぺんから爪先まで冷えていく。帰りの車は母と同乗。万霆とは一言も交わせなかった。「お母さん……どうして?」綾子は目に涙を溜め、今にも泣き崩れそうな声で尋ねる。「知ってるでしょう?私が好きなのは翔太お兄ちゃんだって……私、あの人にしか嫁がないって、前から言ってたのに。どうして……どうして白石家との縁談なんて……」愛子の胸に、苦いものが広がる。それでも声は冷静に保った。「あなたに一番ふさわしいと思ったからよ」綾子が息を呑む。「翔太本人は悪くない。人柄だって申し分ないわ。でもね――林田家そのものを、私たちはどうしても認められない」愛子は窓の外を見つめたまま言う。「林田夫婦は、私たち母娘を好いていない。あなたが無理に嫁げば、祝福のない結婚になる。そんな生活、毎日が苦しいだけよ」綾子は小さく首を振る。「お姉ちゃんが……宮沢家に嫁いだ三年間、どんな日々だったか、想像つくでしょう。結局、離婚するしかなかった」愛子の声が少し硬くなる。「それに、林田家の長男――裕太は、今は高城家の敵側に立っている。恩義を無視して秦の弁護を引き受けた。あなたも知ってるでしょう」言葉の端に、どうしても憎しみが滲む。「弁護士として仕事を選べないのは分かる。でも秦は、何度も桜子に手を上げた……それだけじゃない」愛子は過去の中傷や侮辱を思い出し、胸の奥が鈍く痛んだ。「裕太のやり方。それを見て見ぬふりする林田夫婦。そういう家に、あなたを嫁がせたくないの」「でも……翔太お兄ちゃんは違うよ!」綾子は胸を押さえた。息が苦しい。「翔太お兄ちゃんは……大学を出てからずっと、お兄ちゃんやお姉ちゃんを支えてくれてる。うちのために、どれだけ働いてくれてるか……お父さんは見えてないの?」声が震える。「こんな理由で、翔太お兄ちゃんの努力を全部なかったことにするなんて……あの人、どれだけ傷つくか……!」綾子が最初に思い浮かべたのは、自分の将来ではなく、翔太の無念だった。「それに、お姉ちゃんが言ってた。あの時の離婚は、宮沢家に言われたからじゃない。宮
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第1185話

「……高城会長」足を止めた万霆は、そこでようやく気づいた。いつからか、門の近くに翔太が立っていたことに。どれくらい前からだ……?「翔太。もうこんな時間なのに、まだ帰ってなかったのか」大物らしく、万霆は薄く笑って訊ねる。「会長、僕は……」翔太は言いかけて、喉の奥がひりつくのを感じて口を噤んだ。「分かってる。綾子を待ってるんだろ」図星だった。翔太は言い訳もできず、気まずさを抱えたまましばらく黙る。やがて、腹の底に沈めていた罪悪感ごと吐き出すように言った。「会長……兄の件では、本当に申し訳ありませんでした。でも信じてください。林田家がどういう選択をしようと、僕はずっと会長と、桜子様の味方です。それだけは、絶対に変わりません」万霆は口元だけを少し持ち上げ、静かに返した。「それはお前の家の問題だ。わざわざ俺に説明しに来なくていい」そして、まるで道を空けるように言う。「綾子に言いたいことが山ほどあるんだろ。……ゆっくり話せ。邪魔はしない」その一言で、翔太の胸の奥に、理由の分からない冷たいものがすっと広がった。はっとした時には、万霆の背中はもう遠ざかっていた。………………しばらくして――どうにか身なりと表情を整えた綾子が、真っ青な顔のまま門をくぐってきた。魂が抜けたみたいに、目の焦点が合っていない。「綾子!」翔太は反射で駆け出し、腕を大きく広げて彼女を抱きしめた。壊れものを抱くみたいに――いや、逆だ。離したら終わるとでも言うように、ぎゅっと強く。「翔太お兄ちゃん……ちょ、ちょっと力抜いて。息、できない……」綾子はわざと軽く、甘えるみたいに言った。でも翔太は聞こえないふりをした。目の縁が赤い。震える腕に、さらに力がこもる。熱い唇が彼女の肩口に触れ、そこに赤い痕が残った。「……ごめん。僕の家のせいで、君を板挟みにして」綾子は大きく息を吸い込み、こっそり涙を滲ませた。「違うよ……変なこと考えないで」二人はしばらく、そのまま離れられなかった。ようやく名残惜しそうに身をほどき、綾子が小さな声で切り出す。「翔太お兄ちゃん……しばらくね、これからの仕事のこと、ちゃんと計画立てようと思ってるの。きっと忙しくなる」低く柔らかな声。瞳の奥には、決意の影が揺れていた。「この四年間
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第1186話

桜子には分かった。聞こえていたのに、わざと無視したのだ。そう思うと胸がざわつき、桜子は慌てて追いかけた。「綾子、どうしたの!」勢いよく綾子の腕を掴む。綾子はゆっくり振り返った。きれいな頬に、涙の跡がうっすら残っている。「……なんでもない」「なんでもないわけないでしょ。泣いてるじゃない。翔太と喧嘩したの?それとも……何かあった?」綾子はぽつりと、前置きもなく言った。「お姉ちゃん。お姉ちゃんと宮沢社長は……絶対に幸せになってね」そう言い残すと綾子は桜子の手を振り払い、廊下の奥へ駆け出した。桜子が何度名前を呼んでも、立ち止まらない。……これ、ただ事じゃない。桜子は直感でそう確信し、携帯を取り出して翔太に電話をかけた。「桜子様」電話口の翔太の声は沈んでいて、力がなかった。「あなた、綾子に何言ったの?あの子、泣いてたんだけど。まさか、いじめたんじゃないでしょうね?」「綾子が……泣いてた?」翔太の胸がきゅっと締め付けられる。それでも誠実に答えた。「僕達は喧嘩なんてしてません。でもさっき戻ってきた時……綾子は、明らかに落ち込んでました。理由を聞いたら、『しばらく会わないほうがいい』って、それだけ言って……他には何も」桜子の疑念は強まるばかりだった。綾子がどれほど翔太に依存しているか、桜子はよく知っている。今朝まであの子は、まるで死が分かつまで一緒にいるとでも言い出しそうな勢いだったのに。それが急に「会わない」?「今夜、綾子は一人で出かけてた?どこに行くって言ってた?」翔太は少し考えて、低い声で言った。「……たぶん、会長と愛子様と一緒です」その瞬間、桜子の瞳に濃い影が差し込んだ。………………書斎。万霆は斎藤秘書に付き添われ、脳梗塞の治療薬を飲み終えると、ソファに体を預けて目を閉じた。「斎藤……痰壺……吐きそうだ……っ」「すぐに。少しだけ耐えてください」斎藤は慌てて痰壺を持って戻り、片膝をついて支える。万霆は胸を押さえ、前屈みになって何度もえずく。苦しそうなのに、なかなか吐けない。「会長……この薬、効き目が強すぎます。少し減らしたほうが」斎藤の声が揺れた。「このままだと、病気が治る前に体のほうが先に参ってしまいます」「歳を取ればな、薬を飲もう
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第1187話

書斎では、まだ話が続いていた。万霆には息子も娘もいる。愛した女もいる。家柄も財も、誰もが羨むほどだ。だが腹の底の本音を少しだけ吐ける相手となると――昔から傍にいた斎藤しかいなかった。「斎藤、状況はそんなに甘くない」万霆は眉を寄せ、首を横に振る。「数年前、桜子が外を飛び回ってた間、財団は樹が回してきた。見れば分かるが、かなり無理してる。桜子が戻ってきてから、やつは真っ先に身を引いた。自分の限界が分かってるからだ。あれ以上を求めるのは酷だ」そこで万霆は一瞬、言葉を飲み込んだ。「……ましてや、樹や栩は――」斎藤も黙る。空気が重く沈む。万霆はゆっくり続けた。「だから結局、後継者には桜子が一番ふさわしい。俺は隼人のことが好きじゃない。だが桜子が本気で惚れてるなら、どうしようもない」溜息を混じりに言うが、そこには認めたくない評価が込められていた。「隼人は宮沢グループでの立場も楽じゃない。上に兄貴がいて、常に地位を脅かされてる。それでも桜子への気持ちは真っ直ぐだ。頭も切れるし決断も早い……若い頃の俺を見てるみたいでな」万霆は冷たく笑った。「最大限、譲歩して――宮沢でやっていけなくなって婿に入ったとしても、桜子とKSには虎に翼だ」斎藤は苦笑する。「会長、心配しすぎです。宮沢社長の性格なら、婿入りなんて――」「まあ、例え話だ」万霆は鼻で笑う。「うまくやるならそれでいい。うまくいかないなら、桜子と一緒に宮沢を丸ごと飲み込めばいい。むしろ、そのほうが手っ取り早い」「……」斎藤が言葉を失う。書斎の外で盗み聞きしていた桜子は、奥歯をきゅっと噛んだ。この人……本気でそこまで見てるわけ?どこまでやるのよ……万霆の声が続く。「だが、それは先の話だ。今、桜子と隼人を一緒にさせたいなら、まず周りの騒ぎを俺が鎮める必要がある」声の温度が下がる。「達也は命の恩人だ。それはいったん置くとしても――縁談が潰れれば白石家は敵になる」万霆はこめかみを押さえる。「競馬会の一件で本田家との確執は決定的になった。光景とは昔から反りが合わん。宮沢のじいさんが支えてはくれてるが、あの人も高齢だ。いつまで抑えが利く?」斎藤が苦い顔をする。「いずれ盛京に打って出るなら、宮沢と本田が一斉に噛みついてくる。そこに
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第1188話

バンッ!という乾いた音とともに、桜子が怒りのままドアを押し開けて飛び込んできた。雪さえ霞むほどの白い顔が、怒気でうっすら赤く染まっている。両手はぎゅっと握りしめられ、肩が小刻みに震えていた。万霆も斎藤秘書も、思わず身体がビクッと跳ねる。空気が一気に張り詰め、胸の奥がひゅっと縮んだ。万霆は眉間に皺を寄せ、声を低く落とす。「……このガキ、礼儀ってものを知らんのか。手がついてるならノックくらい――」「物心ついた頃から閲堂園走り回ってるけど、このお嬢様がノックしたところ、見たことある?」桜子は鼻で笑い、万霆を真正面から射抜いた。「今さらマナー講釈ってことは、後ろめたいことでもあるんでしょ?ねえ、ビビってるの?」全身が震えるほどの怒りを纏いながら、桜子は畳みかける。「万さん。天皇にでもなったつもり?妻妾を何人も囲んでいるだけでも、十分不思議なのに、今度は娘まで政略結婚の駒にして、白石家に媚び売るわけ?」吐き捨てるように言って、桜子はさらに声を鋭くした。「あなたみたいな父親、そうそういない。私、てっきりただの女好きだと思ってたけど――違った。今日の話聞いて分かった。あなたは自分勝手で冷血で、平気で人の人生を踏みにじる人間。買いかぶってた私がバカだった!」万霆は、胸の奥を殴られたみたいに息が詰まる。だが今回は、いつものように甘やかす気配がない。声は氷みたいに硬かった。「……お前に何が分かる。これは当座の策だ」「当座の策?娘を売って、両想いの恋人引き裂いて、綾子の一生ぶち壊して?それが策?」桜子は冷たく笑った。これまで万霆がやらかしてきた無茶苦茶を全部ひっくるめても、今この瞬間ほど腹が立ったことはない。万霆はゆっくり言い返す。「お前はまだ若い。権力を握る側の苦しさが分かっていない。高城家は大所帯だ。KS財団の社員は何万人もいる。全員を満足させる?そんなの不可能だ」そして、少しだけ目を細めた。「俺が今の立場に就くまでに、どれだけ屈辱を飲み込んだと思う。どれだけ理不尽を噛み殺したと思う。犠牲を積み上げたから、今の地位がある」「へえ」桜子は片眉を上げる。「じゃあつまり、一人の将軍の功名の陰には無数の骨が転がってるってやつを、私にやれってこと?」大きな瞳は、血の涙でも滲みそうなくらい真っ赤だった。「今、あなたは綾子
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第1189話

今のところ、唯一の突破口は――高原の背後にいる元締め、片岡だ。片岡の口を割らせさえすれば、隆一の黒い素性なんて一瞬で白日の下に引きずり出せる。でも、そのことを万霆に話すわけにはいかなかった。余計なことを言えば言うほど勘づかれる。隼人と練っている計画も、全部台無しになる。だから桜子は、あえて踏み込まない。今は、飲み込むしかない。万霆は、疲れ切った顔で吐き捨てるように言った。「……なら、証拠を手に入れてから来い。それからもう一度、俺に決定を覆せと言え」額にじわりと冷や汗が滲んでいた。もうこれ以上、娘と口論を続ける気力が残っていないのだろう。無表情のまま踵を返し、ドアへ向かう。斎藤秘書は万霆の体調の異変に気づき、慌てて付き従った。桜子は去っていく父の背中に、声を震わせて叫ぶ。「万さん!あなたなんて――人情のかけらもない!自分さえ良けりゃいい、金の匂いしかしない冷血な資本家よ!」目は真っ赤で、憎しみが溢れていた。「大っ嫌い!あなたなんて、本当に大嫌い!!」その言葉は、鋭い刃で背中から胸を貫かれたみたいに、万霆の心臓に深く刺さった。心の真ん中がえぐり取られたように痛くて、身体がぐらりと揺れる。桜子がここまで声を張り上げて彼を罵り、「嫌いだ」と言ったのは――最愛の女性、桜子の母が亡くなった時以来だった。……分からない。幼い頃から今まで、彼は桜子にありとあらゆる最高のものを与えてきた。一族の誰であろうと、血を分けた者であろうと、娘のためなら犠牲にできる。彼女の前に道を敷き、揺るがない未来を築くためなら、どんな代償も払う覚悟だった。それなのに。返ってくるのは、憎しみだけ。万霆は背を向けたまま、冷えた声で言った。「お前は……隼人と一緒にいたいんだろう?」そして淡々と続ける。「お前が選んだ愛は、誰からも祝福されるとは限らない。面白く思わない連中は、必ずどこかで邪魔をする。だから俺はこうしている。ひとつは、お前の願いを叶えるため。もうひとつは、KSを揺るがせないため――おまけに綾子も、格上の縁談が手に入る」万霆の声は、合理だけでできた刃物みたいだった。「それの何が悪い?」桜子の肩が、がくりと落ちた。胸いっぱいに広がった失望が喉元まで込み上げて、息が詰まりそうになる。「俺はお前たちの父親であ
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第1190話

桜子は電話を切ることさえ忘れて、着替える暇も惜しんで走り出した。牢を破った小鳥みたいに、長い回廊を駆け抜け、閲堂園の門を飛び出す。夜は深く、辺りはしんと静まり返っている。灯りはひとつだけ。その下に、すらりとした男の影が立っていた。柔らかな光の輪郭に縁取られ、星のような瞳が期待で燃えている。今夜は大雨の予報だった。それでも隼人は気にも留めず、盛京の仕事を片づけると、そのまま車を飛ばしてここまで来た。彼女に会う――それだけのために。たった一日離れていただけ。なのに、恋しさが胸を焼く。「隼人!」門を押し開けた瞬間、桜子は涙を滲ませたまま駆け寄った。隼人の桃色がかった切れ長の目が、ふっと見開かれ、すぐに細くなる。薄い唇がきゅっと持ち上がり、息を呑むほど綺麗で甘い笑みが浮かんだ。彼は最初から両腕を広げて待っていた。迎えに出ようと踏み出す前に、桜子のほうが先に飛び込んでくる。隼人はその小さな身体を抱きとめ、胸の奥深くまで抱きしめた。「飛ばして飛ばして……やっと間に合った。遅くなって、お前が寝てたらどうしようって。会えなくなるんじゃないかって、本気でビビった」熱い息が桜子の耳元をくすぐる。右腕は細い腰を強く引き寄せ、左手は痩せた背中を何度も撫でた。声が少しかすれていて、甘い。「……まあ、会えないなら会えないで、ここで一晩待つだけだけど。明日の朝まで待つのは……さすがにキツいな」「隼人……」桜子は鼻をすんと鳴らし、目の縁を赤く染めた。クジラが海へ帰るみたいに。小鳥が森へ飛び込むみたいに。この世界のどこにも、彼の腕の中ほど安心できる場所はない気がした。「……ん?桜子、君……泣いてる?」隼人は驚いたように眉を上げ、指先で小さな顎をそっと持ち上げる。潤んだアーモンド形の瞳と視線が重なった瞬間、隼人の胸に鋭い痛みが走った。眉間に皺が寄る。「ほんとに泣いてる……?誰かに何かされた?」桜子は十本の指を彼の胸元に押し当て、シャツの前をくしゃりと掴んだ。――万霆の冷酷な言葉が蘇る。「綾子を白石家に嫁がせるのは、お前と隼人を結ばせるためでもある」それを思い出すたび、涙が溢れそうになる。胸の底に沈んだ怒りが澱みたいに溜まり、震える声で桜子は言った。「ねえ……私たち……一緒にいちゃ、いけないのかな……?」隼人
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