Semua Bab あの高嶺の花が帰ったとき、私が妊娠した : Bab 1071 - Bab 1080

1113 Bab

第1071話

まさか、二人のあいだに、何かあったのだろうか?弥生はそう思ったが、口には出さなかった。きっと訊いたところで、瑛介は何も話してくれない。そのときを待つしかない。二人は近くのホテルに部屋を取った。瑛介は弥生が退屈しないよう、「少し買い物でも行こうか。何か欲しいものがあれば買ってあげる」と提案した。だが弥生は即座に首を横に振った。「怪我がやっと治りかけたところでしょ。どうしてそんなに無理ばっかりするの?」その口調はやや呆れ気味で、頬がぷくりと膨らんでいる。瑛介は真面目に聞こうとしていたが、その表情があまりに可愛くて、思わずいたずら心が芽生えた。大きな手を伸ばして、弥生の頬をつまんだ。「......え?」話の途中で頬をつままれ、弥生はきょとんと目を瞬かせた。「ちょっと、なにするの?」反射的に瑛介の腕を押しながら抗議した。「離してよ。今、真面目に話してるんだから」瑛介は指先で軽くもう一度頬をつまみ、「僕も真面目に聞いてるけど?」と、涼しい顔で言った。明らかに真面目に聞いてる態度じゃない。「ただ、君があまりに真剣だからさ。少し力を抜かせたかっただけ」そう言って、もう一度軽くつまみ、それからようやく手を離した。「分かった。じゃあ君の言うとおりにしよう。外には出ないで、ホテルで大人しく静養する」「......それでいいのよ」弥生は頬をさすりながら、小声でぶつぶつとつぶやいた。二人でホテルに籠っていると、時間がゆっくりと流れていった。退屈を感じた弥生は、やがてバルコニーに出て外を眺めることにした。バルコニーは広く、下には大きな屋外プールがある。冬の日差しを受けて水面がきらきらと光り、まるで午後の秋水のように穏やかだった。季節が冬なので、泳ぐ人はいない。だからこそ、その広いプールは今や景色になっていた。弥生は手すりに寄りかかり、静かに水面を眺めた。胸の奥のざわつきが、少しずつ沈んでいく。そのとき、背後でスマホの着信音が鳴った。すぐ近くだ。振り返ると、いつの間にか瑛介がバルコニーの扉にもたれて立っていた。ポケットの中で鳴る音に、瑛介は携帯を取り出した。画面を見た瞬間、わずかに眉を動かしたが、何も言わず、弥生の目の前でそのまま電話に出た。「...
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第1072話

「いいけど、その前に一つだけ伝えておきたいことがある」「え?何のこと?」と由奈は不思議そうに尋ねた。瑛介は弥生を一瞥し、低い声で言った。「......彼女、今は君のことを覚えていないかもしれない」「......え?」電話の向こうが一瞬、静まり返った。数秒後、由奈の怒気を含んだ声が爆発した。「ちょっと待って、どういう意味?まさか、記憶喪失になったって言うの!?」「......ああ」由奈は思わず叫び声をあげそうになった。彼女は帰国してから弥生と連絡を取れていなかった。安全だと思い込んでいたし、自分の仕事も忙しく、気づけば時間だけが過ぎていた。ようやく落ち着いて連絡を取ろうと電話をかけたら、弥生の携帯はずっと繋がらない。やむを得ず、海外にいたころに交換していた瑛介の番号にかけた。怖かったが、親友として放っておけなかった。勇気を振り絞ってかけた電話で、聞かされたのは「弥生が記憶を失った」という信じがたい話だった。この間、いったい何があったの?どうしてそんなことに?由奈は胸の中で疑問が渦巻くのを押し殺し、「......分かった。今はいいわ。彼女に代わって。話したいの」とだけ言った。瑛介はすぐそばにいた弥生へ目を向けた。会話の内容は、彼女にもすでに聞こえていた。最初は仕事の電話だと思って気にも留めていなかったが、途中から自分のことが話題になっているのに気づいた。瑛介は携帯を差し出しながら言った。「君の友達だ......話してみたら、少しは思い出せるかもしれない」弥生は何も言わず、静かに携帯を受け取った。「......もしもし?」「弥生!!」スピーカーから弾けるような声が響いた。「やっと声が聞けた!今、元気なの?本当に大丈夫?」弥生は、知らないはずのその声に、不思議な懐かしさと温かさを感じた。そして、相手の言葉に込められた心配と焦りが胸を打ち、喉の奥が熱くなった。「わたし......」かすれた声を出すと、涙が込み上げてきた。「泣かないで、弥生。大丈夫、私がいるから。今は覚えてないかもしれないけど、私のこと、どこかで懐かしいって思うでしょ?」その問いに、弥生は無意識のうちに小さくうなずいた。けれど、すぐに相手には見えないことに気づき、声で答
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第1073話

由奈がたくさん話してくれたが、弥生の頭の中には何の映像も浮かばなかった。必死に思い出そうとしても、記憶の糸はどこにもつながらない。それでも、電話の向こうの由奈の声には期待と温かさがあふれていて、弥生はかえって申し訳なく感じ、どう答えていいか分からなくなった。沈黙が少し続いたのち、由奈が気づいたように小さく笑った。「......そっか。やっぱり思い出せないんだね。無理に思い出そうとしなくていいよ。私、もうすぐ仕事辞めるから。帰ったらいっぱい話そう。前のこと、ゆっくり話してあげる。きっと少しずつ思い出せるよ」「辞めた?」弥生は思わず聞き返した。「うん。今の会社、もう限界。仕事がハードすぎて。だから退職届出したの。許可が下りたらすぐ帰る。そしたら一緒に買い物して、映画も観に行こうね。あ、そうだ、ひなのと陽平、元気にしてる?」その名前を聞いた瞬間、弥生の瞳がやわらかくなった。「ええ。今はおばあちゃんのところに預けてあるの。二人とも元気よ」「おばあちゃんのところ?」由奈は思わず言葉を飲み込んだ。まさか、瑛介のお母さんのこと?彼女、あんなに子どもを取られるのを怖がっていたのに......だが、すぐに思い直した。今の弥生は記憶を失っている。過去のことを軽々しく口にすれば、混乱させるだけだ。彼女にとって過去の弥生はもう他人に等しい。それを無理に思い出させるのは、酷なことかもしれない。由奈は言葉を飲み込み、声の調子を変えた。「うん、分かった。とにかく元気なら安心した。じゃあ、私が戻ったらまた連絡するね」「うん」弥生は口元をほころばせた。「いつ頃戻ってくるの?」「まだはっきりしないけど、上司が承認してくれたら早いと思う。ただ、仕事の引き継ぎがあるから、少し時間かかるかも」「引き継ぎがあるなら、すぐには難しそうね」「そうだけど、できるだけ早く帰るよ。うちの可愛い子をあまり待たせたくないから!」そう言って笑う由奈の声は明るく、二人はそのあともしばらく取りとめのない話を続けた。恋バナ、服の話、そして瑛介とのこと。由奈は興味津々でいろいろと聞き出そうとしながら、「ねえ、本当にスピーカーモードじゃないよね?私の話、彼に聞かれたらマズいからね!」と、念を押した。弥
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第1074話

彼が自分と弥生を助けてくれたあの一件以来、浩史に対する印象はすっかり変わっていた。帰国してからは、礼儀としてスマホの登録名も「社長」に変えた。しばらくして電話が鳴り、由奈は画面の名前を見て一瞬だけ姿勢を正した。少し間を置いてから、明るい声で出た。「社長?」彼女の弾むような声に、電話の向こうは短く沈黙した。数秒後、低い声が返ってきた。「......なんでそんなに機嫌がいいんだ?」「え?」と由奈は思わず間抜けな声を出した。「仕事を辞めるのがそんなに嬉しいのか?」普段なら、「そりゃあもう、嬉しいに決まってるでしょ!辞職祝いに花火でもあげたいくらい!」と軽口のひとつでも叩いていただろう。でも、彼はあの時、自分を助けてくれた人だ。さすがに、いつもの調子で噛みつく気にはなれなかった。由奈は一瞬ためらい、言葉を和らげた。「違います。ちょっと親友と電話してたんです。そのせいで、少しテンション上がっちゃって」「......弥生か?」「うん、そうです」由奈は頷いた。それを聞いた途端、電話の向こうが静まり返った。重たい沈黙が落ちた。少し気まずくなって、由奈は恐る恐る口を開いた。「社長、何かご用件ですか?」「......君の退職届を見た」「え?ああ、はい。会社辞めようと思って。うちの会社、辞めるときって事前に報告しないといけないじゃないですか。でも、まだ提出して数時間しか経ってないのに、もう見たんですか?」「人事部から報告を受けた」実際には、人事から上がったその瞬間、彼の端末に直送されていた。「なるほど。じゃあ、もうご存じなんですね。それなら、早めに承認してもらえませんか?」由奈は冗談めかして言ったが、返ってきたのは沈黙だった。「......社長?」反応がない。不審に思ってスマホを耳から離して確認すると、通話はまだ繋がっている。壊れたのかと思った矢先、低く落ち着いた声が再び響いた。「本当に辞めるつもりなのか?もう決めたのか?」その声音には感情の起伏がなく、ただ冷ややかだった。けれど、なぜか由奈の胸の奥が少しざわついた。「もちろんですよ。迷ってたら提出なんてしません。ねえ社長、今お時間あるなら、その場でサインしてくれません?承認印がもらえれば、引き継ぎの準備
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第1075話

「じゃあ、理由はなんだ?待遇に不満か?給料を上げても駄目なら、昇進でもいい」由奈は言葉を失った。「それとも、何か望みがあるのか?言ってみろ」その声音は冷静で、抑揚もない。電話越しにもわかる。彼の言葉の端々に、かすかな焦りが滲んでいた。焦り?まさか、自分の退職で?そんな馬鹿なことはあるかと由奈はすぐに頭を振った。社長が人材に困るわけがない。自分のポジションだって、替えの利く仕事だ。勤勉で我慢強いことくらいしか取り柄のない自分など、彼が本気で惜しむ理由なんてないはずだ。そう、彼が惜しむのは人じゃなくて労働力だ。使いやすい駒が減る、ただそれだけ。そう自分に言い聞かせ、由奈は小さく息を整えて言った。「違います」受話器の向こうが一瞬静まり返った。「会社の待遇はとても良いです。これまで働いた中で、一番条件の良い職場でした」本音だった。確かに、彼女はよく文句を言っていたが、給与はいつも満額以上に支払われ、経費の申請も即日承認。四半期ごとのボーナスも年末賞与も充実していて、福利厚生だって申し分なかった。唯一の不満といえば、有給休暇をまともに消化できないことくらい。「じゃあ、待遇に問題がないなら、なぜ辞める?」裴照恒の声が静かに続いた。まさか、もっと好条件の会社から誘われたのか?そう言いたげな間があった。由奈はその沈黙の意味を読み取れず、ただ「心配してくれてる」と都合よく解釈した。「会社のせいじゃありません。私自身の問題なんです」「......君自身の問題?」その言葉を反射的に繰り返したあと、彼ははっとして口をつぐんだ。個人的な事情を掘り下げるのは、さすがに踏み込みすぎだ。「......すまない。詮索するつもりはなかった。ただ、もし会社として助けられることがあるなら」「分かっています。社長がそういう方じゃないのは。でも......これは、会社ではどうにもならない個人的な理由です」その穏やかな言葉に、電話の向こうが再び静まり返った。浩史は、無言のまま電話を握りしめていた。デスクの上には退職願が置いてある。提出者の欄には由奈の名前があり、書類の端に貼られた証明写真が目に留まった。白いブラウスを着た彼女が、少しあどけない笑顔を浮かべている。何年
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第1076話

「本当に辞めるつもりか?」「はい、もう決めました」由奈の声は、受話器の向こうで驚くほど澄んでいた。その響きには迷いがなかった。浩史は、しばらく何も言わずに座ったまま、机の上の辞職願に視線を落とした。どうやら彼女の決意は本物らしい。「分かった。退職届は、できるだけ早く処理しておく」「ありがとうございます」電話を切る音は、いつもより静かだった。だが、彼は受話器を耳から離したまま、まだ通話を切らなかった。おそらく彼女は、自分から電話を切るのをためらっている。「社長?......では、こちらから切りますね?」唇を引き結んだ彼は、一言だけ搾り出した。「......ああ」その短い返事を聞いて、向こうで安堵したように息が漏れた。「それじゃあ、失礼します。社長、ちゃんとサインしてくださいね!」明るい声とともに、通話が途切れた。浩史は、しばらくそのまま動かなかった。やがて無言のままスマホを置き、机の上の一本の黒いペンを手に取った。キャップを外した瞬間、手の中で金属の冷たさが微かに震えた。その感触に、心の奥がわずかに揺れた。ちょうどその時、ドアを叩く音が響いた。「どうぞ」入ってきたのは秘書だった。視線が机の上の書類をとらえ、思わず眉を上げた。「社長、もう辞職願を受け取られたんですね」「......ああ」秘書は、つい数分前に人事部で噂を耳にしたばかりだった。由奈が退職するらしい。慌てて報告に来たのだが、すでに社長の手元には届いていた。しかも、今まさに彼の手の中のペンが、その書類の上で動こうとしている。秘書は一歩前へ出て、ためらいがちに言った。「......私が彼女を呼びに行きましょうか」「必要ない」冷たくも鋭い声が遮った。その声に足を止めると、彼は静かにペンを動かした。署名欄に、自らの名を記した。その様子を見て、秘書は呆然と立ち尽くした。「社長......本当に、何も聞かずに承認されるんですか?」答えはなかった。ただ静かにペンを置き、サイン済みの辞職願を差し出した。「人事部へ回しておけ」「......承知しました」書類を受け取った秘書の視線が、思わず彼の手元へ向かった。そこにあるのは、光沢を失った一本の黒い万年筆。
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第1077話

この万年筆は実のところ、特別な意味を持つものではなかった。由奈が贈り物を贈ったからといって、待遇が変わったわけでもない。それに、秘書は由奈が浩史に買ったペンとまったく同じ値段のペンを持っていた。それぞれデザインが違っていただけだ。秘書の方のペンは、もうとっくに壊れていた。彼にとって由奈からの贈り物はごく普通のことだった。特別な意味があるわけでもない。秘書の方はあっさりと新しいペンに買い替えた。だが、ある日ふと気づいた。社長はまだあのペンを使っている。その瞬間、彼は何の気なしに口を開いた。「社長、その万年筆まだ使っておられるんですか?私のはもう壊れちゃって、捨てちゃいましたよ。それにしても、あの時の彼女もケチですよね。あれだけ大きなボーナスもらったのに、もっといいブランドのを選べば良かったのに。ほら、もう縁のところ、すり減って色も剥げてますよ。社長、新しいの買いましょう?」冗談半分で言った言葉だった。でも、言い終えた瞬間、空気が一変した。ひやりとした。まるで冷房が一気に吹きつけたような、肌を刺す冷たさ。おそるおそる顔を上げると、浩史の鋭い視線が真正面から突き刺さった。「......今、暇なのか?」「......いえ」その一言で全身が凍りついた。咄嗟に口を閉ざし、それ以降、彼は余計なことを一切言わなくなった。だが、それから時が経っても、浩史はあの古びた万年筆をずっと使い続けていた。出張にも必ず持っていく。書類のサインも、いつもその一本で。ある日、彼がふいに言った。「このペン、壊れたようだ。修理できる人間を探せ」受け取った秘書は、黙って頷くしかなかった。だが、修理業者に依頼する途中で、ふと気づいてしまったのだ。この人にとって、このペンはただではない。心という湖に小石を投げ込まれたように、静かな波紋が広がっていった。その瞬間、彼はようやく理解した。あの日、自分が安物だと笑った時に見たあの冷たい目の意味。あれは、怒りではなかった。触れてはいけない痛みに、無神経に手を伸ばしてしまったからだ。それでも、彼にはひとつだけ納得できないことがあった。なぜ、社長が由奈を好きなったのか?これまで彼の周りには、数えきれないほどの美人がいた。その中
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第1078話

彼が理解できなかったのはなぜ社長は、何も言わないのかということだった。あの地位と財力があれば、由奈を口説くなんて造作もないはずだ。なのに、彼は一言も想いを口にしない。まったく、金持ちの考えることは分からない。退職届の承認印を受け取った翌朝、由奈はまるで長年背負ってきた重荷をようやく下ろしたかのように、心が軽くなった。出社前に鏡を見て、ふと笑った。「今日だけは、ちゃんと化粧していこうかな」普段は寝不足でメイクどころではない。でも今日は、気分が晴れやかだった。久しぶりに髪を洗い、淡いベージュの口紅を差した。職場に着くと、すでに彼女の席には一人の若い女性が立っていた。「あ、由奈!化粧してるじゃん!」同僚にいきなりそんなことを言われ、由奈は思わず苦笑した。確かに、普段すっぴん眼鏡で出社していた自分が化粧をしているのだから、目立つのかもしれない。由奈は若い女性に声をかけた。「すみません、お仕事の引き継ぎでいらしたんですか?」「はいっ」緊張した面持ちで頷いたのは、人事部から派遣された社員の大内沙依(おおうち さより)だ。「大内沙依です。人事部から、今日から業務引き継ぎをお願いするようにと言われました。これから色々教えていただけたら嬉しいです!」「こちらこそよろしくお願いします」にこやかに答えて椅子に座ると、沙依はすぐにホットカップを差し出した。「これ、コーヒーを買ってきました!」「ありがとうございます」思いがけない気遣いに少し驚きながらも、由奈は微笑んで受け取った。彼女が自分の機嫌を取ろうとしているのは分かっていた。どうせすぐ自分の後任になる人だ。できるだけ円滑に仕事を引き継ぎたいのだろう。コーヒーを一口啜ると、沙依はほっと胸を撫で下ろした。どうやら怖い先輩ではなさそうだと安心したらしい。「これ、私が作った業務マニュアルなんですけど」由奈は引き出しから分厚いファイルを取り出し、手渡した。「これまでの経験をまとめてあるから、時間のある時に読んでおくといいと思います。きっと助けになると思いますよ」「ありがとうございます!」沙依は嬉しそうに受け取り、それから少し躊躇して尋ねた。「あの......尾崎さんって、普段は社長にコーヒーとか、お持ちしたりする
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第1079話

由奈の率直な言葉に、沙依は思わず身をすくめた。「いえ......ただ、尾崎さんが普段どんなお仕事をしてるのか気になって......ちょっと聞いただけです。怒ってませんよね?」「怒る?なんで?」由奈は苦笑して首を振った。「ほら、この資料、処理お願いしますね」引き継ぎというのは、聞くだけじゃ意味がない。自分の手を動かして覚えてもらわなければ。できるだけ早く覚えてもらって、自分は一刻も早く会社を離れたい。退職が完了したら、すぐに帰国のチケットを取るつもりだった。もう何カ月もひなのと陽平を抱きしめていない。二人はもう母親の顔を忘れてしまっているんだろうか......気づけば、思考は遠く異国の空に飛んでいた。退職が承認されても、引き継ぎ期間中はしばらく残らなければならない。その日も、業務報告のために由奈は沙依を連れて浩史のオフィスへ向かった。緊張で固まる沙依は、由奈のジャケットの袖を小さくつまんだ。「大丈夫かな......社長室なんて初めてです」「平気ですよ」由奈は笑って言った。「社長ってね、ちょっと顔が怖くて、機嫌が悪そうに見えるだけ。それ以外は、意外と普通の人ですから」その言葉を言い終えるか終えないかのうちに、タイミング悪くオフィスの扉が勢いよく開いた。冷たい、けれどどこか耳慣れた声が響いた。「顔が怖いって?」由奈は一瞬で固まった。沙依の顔色は、見る見るうちに青ざめた。まさか、本人に聞かれるとは。由奈は心の中で頭を抱えた。まぁ、いまさら取り繕っても仕方ない。今までだって何度も陰であだ名を呼んでたし、彼はあのときも呆れただけで、怒りはしなかった。そう、浩史は見た目ほど怖い人間ではない。「何の用だ?」彼の視線が、由奈の後ろにいる沙依を一瞥し、すぐに戻った。「報告に来たんです。......あ、そう」由奈は慌てて後ろの沙依の腕を引き寄せた。「こちら、私の後任者です。大内沙依さん」いきなり名前を呼ばれ、前に押し出された沙依は顔を真っ赤にした。こんな至近距離で、雑誌の表紙みたいに整った顔を見たのは初めてだった。「社長......よろしくお願いします」彼は短く頷いた。「うん」そして再び由奈に視線を戻し、少し冷たい声で言った。「入れ」
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第1080話

だが、彼女の前で「ぼんやりしていた」なんて認めることなど、浩史にはできなかった。それに、今この部屋にはもう一人いる。彼は視線を少しだけ横にずらし、淡々と口を開いた。「あっ君の名前は?」突然名指しされ、沙依はびくりと肩を震わせた。「あっ、あの......大内沙依です!」「そうか」彼はわずかに頷き、まるで先ほどの沈黙などなかったかのように静かな声で続けた。「昨夜はあまり眠れなかった。少し疲れている。コーヒーを淹れてきてくれないか?」冷たくも自然な口調。命令とも、雑談とも取れない。ちょっと待って、私がさっき「そんな仕事じゃない」って言ったばっかりなんだけど!?由奈は目を丸くした。唖然としたまま、沙依と視線を交わした。新人は戸惑いながらも、由奈の小さな頷きを見て慌てて部屋を出ていった。扉が閉まると、室内には二人だけ。しんと静まり返った空気の中、由奈はじっと浩史を見つめた。「......社長、昨日あんまり眠れなかったんですか?」彼は答えず、逆に問い返してきた。「化粧したのか?」一瞬、思考が止まった。まさか、浩史にそんなことを聞かれるとは思わなかった。ていうか、そんなに珍しい?ほんの薄化粧なのに。みんなして私の顔ばっかり見て......普段そんなにひどい顔してるの?居心地の悪さに、由奈は無理やり口元を引きつらせた。「......化粧くらい、してもいいでしょ?」その棘を含んだ声音に、浩史は一瞬だけ唇を引き結んだ。だがすぐ、少し低い声で尋ねた。「会社を辞めるから、気分がいいのか?」「......え?」言葉の裏に、微かな棘。彼がまだ退職の件を引きずっているのだと気づいて、由奈は内心で頭を抱えた。いやいや、もうサインまでしたのに、今さら何?しかし、上司の前で「気分がいい」なんて言えるわけもない。由奈は瞬時に笑顔を作った。「そんなことないですよ。ただ、もうすぐ会社を離れるので......せめて最後は、いい印象を残したいと思って。本当はすごく名残惜しいんです。全然うれしくなんてないですよ」社会人の常識は本音を言わないことだ。そう思って笑顔を見せたのに、返ってきたのは予想外の言葉だった。「名残惜しいなら、残ればいい。事情があるなら、話してみろ
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