جميع فصول : الفصل -الفصل 1090

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第1081話

多くの人の目には、彼女は野心のない人間に映るかもしれない。彼女自身もかつてはそう思っていた。人は挑戦し続けなければ成功できないのだと。しかし近年、彼女は本当に疲れを感じていた。おそらく、これまでの道のりが険しく、あまりにも疲れたのだろう。だから、少し立ち止まって休みたいと思うようになったのだ。それに何より、この数年、彼女は仕事でも十分に頑張ってきた。浩史のもとでいくつものプロジェクトをこなし、ボーナスも沢山もらったので、それなりに貯金もできた。帰郷したあと、たとえ理想の仕事が見つからなくても、小さな店を開けばいい――そう思うと、案外いい生活かもしれないと感じた。由奈は自分の私事を語らず、浩史もそれ以上は聞かなかった。代わりに別の話題を振った。「地元に帰るつもりか?」「はい、まずは実家に」浩史は口を開きかけたが、そのとき澪音がコーヒーを持って入ってきた。「コーヒーができました」そのため、浩史は言いかけた言葉を飲み込んだ。コーヒーは机の端に置かれたまま、二人の報告が終わるまで、彼は一口も手をつけなかった。報告が終わり、由奈が澪音を連れてオフィスを出ようとしたとき、澪音が小声で尋ねた。「私の淹れたコーヒー、社長のお口に合わなかったのかな?一口も飲まれてなかったみたいで......」少し気まずかった。由奈も浩史が自分で淹れさせておいて全く口をつけなかったことに驚いた。いったい何を考えているのだろう。でも、由奈は彼女を気遣って言った。「たぶん、淹れたばかりで熱すぎたのよ。冷めてから飲むつもりなんじゃない?」「そうなんですか......私、てっきり味が悪かったのかと」「もし味が悪いなら、一口飲んでからじゃないと分からないでしょ?一口も飲んでないんだから、気にすることないわ」「そうですね」澪音は安心したように微笑んだ。その笑顔を見て、由奈は内心で小さくため息をついた。澪音はとても繊細そうだ。もし彼女が社長の厳しい指導を受けたら、果たして耐えられるだろうか。そう思いながら由奈は言った。「今日はもう何もしなくていいわ。私が渡したマニュアルを読んでおいて。そこに、やっていいことと、やってはいけないこと、全部書いてあるから」「はい」きっと、あの厳しい条件を見たら、この仕事を続けたいとは
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第1082話

「良くなってきたね。これからは一日二回も薬を塗らなくていいかも。朝だけで十分だと思う」「うん。おかげで、傷の治りが早い」弥生は残りの薬品を薬箱にしまいながら言った。「薬がいいのよ」「君の手際もいいよ」弥生は唇を引き結び、ふと窓の外に目をやった。「この雨、いつまで降るんだろうね」瑛介も視線を外に向けた。「さあ......でも、この様子だと、しばらく止みそうにないな」昨日、彼女は「明日帰る」と言っていた。だが今朝起きてみれば、この大雨に足止めを食らっていた。互いに何を考えているのか、わかっていながらも、口に出そうとはしなかった。少しして、弥生が先に口を開いた。「とりあえず、朝ごはんに行こう?」「うん」二人は黙ったまま、並んで階下へ降りた。朝食を終えても、雨は止む気配を見せなかった。ホテル暮らしの二人に心配はないが、外出はできない。食後、部屋に戻った弥生は、ソファに腰を下ろしてスマホをいじっていた。今朝、瑛介の部下が以前彼女が使っていたスマホを届けてくれたのだ。手に取った瞬間、弥生は懐かしさに胸が詰まった。特に確認するまでもなく、充電して指が自然に動く。指先が記憶のままにパスコードを打ち込んでいた。その様子を見つめながら、瑛介は静かに唇を引き結んだ。やはり、体が覚えていることは多いな。ロックが解除され、弥生は何度か画面を操作した。やがて「やっと戻ってきた」というような安堵の笑みが、自然と唇に浮かんだ。「このスマホ、どうやって見つけたの?」「友作が今朝、送ってくれたんだ」「朝?」弥生は驚いた。「豪雨の中で?」「うん。わざわざ届けてくれた。今もまだ戻ってないらしい」その言葉を聞いて、弥生の胸に小さな罪悪感が芽生えた。あんな大雨の中危険じゃない。彼はそんな彼女の表情を見て、静かに言った。「心配するな。もし危ないと思うなら、雨が弱まってから帰らせればいい。今は外、かなり冠水してる。動いても無理だ」弥生はようやく少しほっとして、「......うん」と小さく答えた。だが、雨は昼になっても止まなかった。道路には膝まで水が溜まっていく。テレビでは緊急速報が流れ、各地の被害を報じている。「不要不急の外出を控えてください」と、繰り返し流れてい
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第1083話

そう思うと、弥生は思わず瑛介を睨みつけた。「全部あなたのせいよ」「え?」「昨日、帰ろうって言ったのに。あの時帰ってたら、こんな雨に閉じ込められることもなかったのに」瑛介はしばらく黙って彼女を見つめた。「......もしかしたら、運かもな」「え?」「君たちがもう一度出会うための縁ってやつかな」その一言に、弥生は息をのんで沈黙した。長い沈黙のあと、小さな声で尋ねた。「どうしてそんなに、私が彼に会うことにこだわるの?」嫉妬しているんじゃない?だから、なぜ会わせようとするの?弥生には理解できなかった。「会ってこそ、心が解けるだろ」弥生はようやく彼の意図を悟った。会わないままだと、彼女はきっとずっとそのことを引きずってしまう。だからこそ、実際に会わせて、相手が無事であることを自分の目で確かめさせる。そうすれば、心の整理がつく。だが、弘次の考えはまったく逆だった。彼は会いたくないのではない。会わないことで、彼女に自分を忘れさせないようにしているのだ。瑛介にはまだ、彼の目的が分からなかった。彼女を傍に置けないなら、せめて一生、記憶に残る存在になろうと。その事実を思うたびに、瑛介の胸には鋭い棘が刺さったままだった。瑛介の思いを理解した弥生は、もう反論しなかった。「でも......彼、私に会いたくないって言ってたわ」「もう一度試してみよう。それでも駄目なら、また別の機会にすればいい」「......うん」今はそれしかできない。ふと弥生が思い出したように言った。「そう、電話してみて。お母さんのところ、雨降ってないか確認して」「わかった」瑛介はすぐに電話をかけた。瑛介は彼女がこの豪雨で母と子のことを心配しているのをすぐに察したのだ。幸い、向こうは晴れだという。弥生はようやくほっと息をついた。もしあちらまで雨が降っていたら、移動が危険で心配でたまらなかっただろう。家族の無事を確認して安心した弥生はホッとした。外の雨は次第に弱まり、激しい雨音はしとしとと静かなものへと変わっていた。ソファに横になろうかと思ったが、うっかり寝てしまえば、瑛介がまた自分を抱えてベッドまで運ぶに違いない。もし彼の傷は無理をして、また開いてしまっては大変だ。
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第1084話

だが、これから穏やかに生活したいなら、会社のことを放っておくわけにはいかない。ちょうど傷もだいぶ癒え、弥生も眠っている。瑛介はこの機を逃さず、仕事に取りかかった。部屋の中は静まり返り、ノートパソコンの稼働音しか聞こえなかった。弥生が目を覚ましたとき、雨はすっかり上がっていた。道路の交通も少しずつ回復し、警備員や清掃員が動き始めていたが、場所によってはまだ水が引いていなかった。瑛介と話したあと、弥生は無理に帰る気を失っていた。ひなのと「五日以内に戻る」と約束したが、今日はもう二日目だ。瑛介が「会ってこそ心が解ける」と言うなら、この数日のうちに一度は会う必要があるだろう。彼女はベッドにもたれ、スマホを手に取った。画面には多くのチャット履歴が並んでいる。その中で最も頻繁にやりとりしているのは親友の由奈だ。弥生は由奈とのトーク画面を開き、そのまま自分のタイムラインの過去の投稿写真を見返していった。ひなのと陽平、そして自分の三人で写っている写真を見つけると、自然と目元がやわらいだ。生きていてよかった。こんなにも愛おしい二人の子どもに出会えたことは、本当に幸せだ。死の淵をかすめた経験があるせいか、弥生は以前よりも子どもたちへの愛着が強くなっていた。投稿は多くない。ほとんどが、子どもたちと出かけたときの写真ばかり。しかし、ある非公開投稿に気づいたとき、弥生の指が止まった。それは、自分だけが見られるように設定していたものだった。そこには、「二度と愚かな真似をしないで。同じ過ちを繰り返さないで」と書かれていた。その短い言葉に、弥生の心がかすかに震えた。どういう意味?「愚かな真似をしない」って、何を指しているの?投稿日を確認すると、それはほんの数か月前のことだった。弥生の胸に不安は広がった。さらに過去の投稿を遡るうちに、彼女は愕然とした。どの写真にも瑛介は一度も写っていない。弘次の写真がないのは当然だ。彼との関係はまともなものではなかった。彼女の性格からして、それをSNSに載せるはずがない。だが、瑛介は違う。ひなのと陽平の父親であり、共に過ごしてきたはずの人だ。なのになぜ、一枚もないのか?それに、あの自分だけに見える投稿に書かれていた言葉......ま
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第1085話

思案に沈んでいたそのとき、部屋のドアノブが静かに回された。次の瞬間、瑛介がそっと入ってきた。目が合った瞬間、瑛介はわずかに驚いたように動きを止めた。彼女がもう起きているとは思わなかったのだ。しかもベッドに寄りかかってスマホを見ている。ドアを閉めたあと、瑛介はベッドの端に腰を下ろした。「起きたのか。一声かけてくれればいいのに」弥生の顔色が少し冴えないのに気づき、瑛介の表情がわずかに曇った。「何を見てた?」「......別に、なんでもないわ」弥生は咄嗟にそう言って、スマホを枕元に置いた。そしてすぐに話題を変えるように聞いた。「ずいぶん寝ちゃったみたいね。この間、ちゃんと大人しくしてた?」「......僕を子ども扱いしてるのかい?」瑛介は苦笑しながら、そっと彼女の鼻先をつまんだ。「それに、君がここにいるから、僕がどこにもいかないよ」温かな感触に、弥生の心臓が一瞬止まったように跳ねた。目の前の彼の穏やかな顔を見つめながら、思わず訊きそうになった「私たち、昔、何があったの?」その言葉は唇の裏で溶けていった。今はまだ、記憶の全てを取り戻していない。中途半端な情報だけで問いただしても、真実にはたどり着けないだろう。そして断片的な記憶の上で、自分にとって正しい選択を下せるとも思えなかった。......やめよう。すべてを思い出してからでいい。そう心に決めた弥生は、この件が片付いたら由奈に会いに行き、記憶を取り戻す手がかりを探してもらおうと思った。彼女が何か言いかけては飲み込み、黙り込む様子を見て、瑛介は少し迷ったが、結局何も聞かずにそっと見守った。彼女が話したいときが来たら、そのときに話してくれる。「お腹、空いてない?ルームサービス頼もうか」確かに腹は減った。「......うん」最近、弥生の体調は少しずつ良くなっており、食欲も戻ってきていた。「じゃあ、行こう」弥生が手をついて起き上がろうとしたとき、瑛介がスマホを取ってあげようと手を伸ばした。その瞬間、彼女はまるで反射的に、ぱっとそれを取り戻した。その動きはあまりに早く、まるで奪われることを本能的に恐れたようだった。二人とも、しばらく動きを止めた。「......ごめんなさい。別に、そんなつもり
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第1086話

弥生が部屋を出る前、確かに書斎の灯りは消えていた。それなのに今は、やわらかな光がドアの隙間から漏れている。つまり瑛介は、彼女が眠っているあいだにこの部屋を使ったのだ。彼女が問いかけると、瑛介の足が一瞬止まった。「......ああ、少しだけ使った」すでに見つかってしまった以上、否定しても余計に疑われるだけだ。「そう?」その言葉に、弥生は警戒するように目を細めた。「もしかして私が寝てから起きるまでの時間、まるまる使っていたんじゃないの?」図星だった。「まさか仕事してたんじゃないでしょうね?」やがて彼は小さく息を吐き、観念したように言った。「少しはしたけど、本当に座ってパソコン作業をしただけだし、静養といっていいだろう」そう言ってから、少し間を置いて慌てて付け加えた。「別に、大きな動きはしていないよ」弥生は何も言わず、唇をきゅっと結んだ。次の瞬間、彼の前に歩み、いきなり衣の裾をつかんで、ぴらりと持ち上げた。「ちょっと......弥生?」予想外の行動に、瑛介は一瞬固まった。だが、彼女が何をしようとしているのか悟ると、抵抗せずそのまま立ち尽くした。弥生は真剣な表情で彼の腹部を見つめていた。包帯は白く清潔なまま。血の滲みもない。それを確認すると、ようやくほっと息をついた。そんな彼女を見て、瑛介はつい笑い声を漏らした。「そんなに心配してくれてるのか?」しかし、弥生は笑わなかった。むしろ不機嫌そうに彼を睨んだ。「怪我してるのに、たかが数日ぐらい我慢できないの?」瑛介は苦笑して肩をすくめた。「ほんの少しだけだよ。座ってただけだし」「仕事してる時点で、休んでるとは言えないの」「はいはい、わかったよ」反論しても無駄だと悟り、彼はすぐに降参した。「悪かった。もうしない」その素直すぎる謝り方に、弥生も怒りきれず、思わずため息をついた。「いつも謝るのは早いけど、また同じこと繰り返す」瑛介は彼女の腰を抱き寄せて、いたずらっぽく笑った。「今度こそ本当に繰り返さない。約束する」「嘘ばっかり」どうせ次に見つかったら、またごめんで済ませるのだろう。「まぁ、そういうことにして......さ、そろそろご飯にしよう。ルームサービス、もう届いてる頃だ」
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第1087話

今の二人の関係は、ただ付き合うか別れるかという単純なものではなかった。その間には、子どもたちと双方の両親複雑に絡み合った現実がある。「どうした?」瑛介の声が、弥生の思考を現実へ引き戻した。顔を上げると、心配そうに彼がこちらを見ていた。「ちゃんと食べた?」実際のところ、弥生はほとんど口にしていなかった。どうにも食欲がわかず、少し食べただけで胸いっぱいになってしまった。「うん、もう十分」そう言って笑みを作るが、瑛介の視線にはまだ不安が残っていた。「もう少しだけ食べてみないか?」彼の気遣いに、弥生はためらいながらも箸を取り、もう二口ほど口に運んだ。「......これでいいわ」それ以上は食べられず、箸を置いた彼女を見て、瑛介もそれ以上勧めることなく箸を下ろした。「今日はどうだ?気分でも悪い?」「そういうわけじゃない。ただ......」弥生は言葉を濁し、彼を見つめたまま黙り込んだ。あの自分だけ見える投稿のことを、話すべきか。結局言葉は喉の奥で止まった。記憶を失っている今の自分には、断片的な情報しか持っていない。話しても、彼から聞く答えをどう受け止めていいのか、分からない。それなら、思い出すまでは何も言わないほうがいい。「......どうした?」沈黙に耐えきれなくなった瑛介が、優しく問いかけた。弥生は一瞬ためらい、やがて小さく息を吐いて言った。「ごめん。今は話したくないの」その正直な言葉に、瑛介は少し驚いたように目を瞬いた。なんでもないとごまかすと思っていたからだ。だが、彼女がそう言うのなら、これ以上追い詰めてはいけない。「......わかった。無理に話さなくていい。でも、もし何か引っかかってるなら、いつでも僕に話してほしい。ひとりで抱え込むのは、良くないから」その穏やかな声に、弥生の肩の力が抜けた。「うん、わかった」彼の理解と尊重が、彼女の胸を少しだけ軽くした。翌朝。一晩経つと、昨日の冠水はすっかり引いていた。雲の隙間から日光が差し込み、街は明るさを取り戻していた。交通も完全に復旧した。午前十時近く、弥生と瑛介はようやく出発の準備を整えた。荷物はすでにトランクに積まれている。昨夜のうちに、弥生ははっきりと伝えていた「今日が
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第1088話

弘次はその言葉を聞いて、冷笑した。「届ける?そもそも、彼女がまだホテルにいると思うのか?本気で返すつもりだったなら、どうして昨日のうちに渡さなかったんだ?」友作はその皮肉を受け流し、淡々と答えた。「霧島さんは近くのホテルに滞在されていますので、行ってみてもいいかなと思いました」弘次は何も答えなかった。部下がスマホを届けに出ていったが、時間が過ぎても連絡は来ない。弘次がもう駄目かと思い始めたころ、ようやく報告が入った。「無事にお渡ししました。ただ、まだ雨がひどくて一時的にホテルで待機しているそうです」弘次は口を閉ざし、無言のまま考え込んでいた。友作が続けた。「話によると、雨が強すぎて霧島さんたちはしばらく動けないようです」その言葉を聞いた弘次の口元が、わずかに歪んだ。「......それがどうした?そんな些細なことまで報告する必要があるのか?」そう言い放つと、彼は無表情のまま部屋へ戻っていった。友作はその背中を見送りながら、ふとため息をついた。たしかに彼の言葉は冷たかった。だが、心なしかその背中は少し軽くなって見えた。雨が降り続く中、友作は弘次の胸の中に渦巻く感情を痛いほど感じ取っていた。翌朝。十時を過ぎても、弥生は現れなかった。弘次の顔には焦燥が浮かんでいたが、彼は一言も愚痴をこぼさなかった。スマホもすでに返した。友作にできるのはただ傍で静かに待つことだ。長い沈黙のあと、弘次が立ち上がり、部屋に戻ろうとしたその瞬間、「黒田さん」友作の声が彼の背にかかった。弘次は眉をひそめ、振り返った。その瞳には明らかな苛立ちが宿っていた。「何だ」「......霧島さんをお待ちなんですか?」「......違う」「誰がそんなことを言った?」それでも友作は怯まず、静かに問いを重ねた。「もし霧島さんが来られたら......お会いになりますか?」弘次は眉間に深い皺を寄せた。「なぜそんなことを聞く?」「彼女が来たときに、私が通すべきかどうかを判断するためです」しばしの沈黙のあと、弘次は低く言った。「......彼女は来ない」「もし来たら?会われますか?」そのとき、外から車のクラクションの音が響いた。弘次の肩がわずかに揺れた。薄い唇が固く結
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第1089話

友作は、弥生をじっと見つめた。彼女の顔には驚きも怒りもなかった。まるでこの結末を最初から分かっていたかのように。その落ち着きに、友作の胸の奥に嫌な予感が走った。そして、その予感はすぐに現実となった。「彼が会いたくないなら......私も無理にしませんので」弥生はやわらかく微笑み、まっすぐ友作を見つめた。「どうか彼に伝えてね。身体を大事にするようにって」友作は言葉を失った。「それから、友作」弥生はふと思い出したように口を開いた。「......もし、今後何か力になれることがあれば、遠慮なく言ってね」予想もしなかった言葉に、友作は思わず瞬きをした。彼女が弘次の話を続けると思っていたのに、突然自分のことを話題にするとは。「霧島さん......とんでもないです」友作は苦笑しながら言葉を継いだ。「私は黒田さんの部下ですから、もし彼が倒れたら、私の居場所もなくなる。だから守ったのは、あなたのためというより自分のためなんですよ」それでも弥生は静かに微笑んだ。その目には、彼の言葉の裏にある誠実さをちゃんと理解している光が宿っていた。「......そういうことにしておくけど。でも、あなたが危険を冒してまで動いてくれたこと、私は忘れないわ。だからもし何かあったら、必ず私を頼ってね。約束してくれる?」友作はそれ以上何も言えず、最後に頭を下げた。「......わかりました。ありがとうございます、霧島さん」「それじゃあ」そう言って彼女が背を向けたとき、友作は思わず問いかけた。「霧島さん、これからはどこへ?」「ええ、私は帰るわ。今回は長く滞在するつもりじゃなかったし......二人の子どもが待ってるから」「正確に言えば、『私たち』だ」不意に背後から声がした。次の瞬間、瑛介が歩み寄ってきて、弥生の腰をぐっと抱き寄せた。弥生は驚いて目を瞬いたが、すぐにその様子に呆れ半分の笑みを浮かべた。「......うん」まるで子どものように嫉妬を見せる彼に、苦笑を隠せない。一方の友作は、完全に予想外の光景に言葉を失った。嫌な予感が的中した。その直後。階上から、ドンッと鈍い衝撃音が響いた。空気が一瞬で張り詰め、全員の視線が一斉に天井へと向かった。だが廊下を挟んでいて、何
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第1090話

弥生はようやく恐怖から我に返り、唇を結んで小さく息を吐いた。「......そう」短い言葉のあと、空気がぴたりと止まった。弥生が隣を見ると、瑛介が黙って立っていた。彼女の視線に気づくと、彼は軽く眉を上げただけで何も言わなかった。完全に、彼女の判断に従うつもりらしい。弥生は彼と数秒見つめ合い、やがて小さく声を出した。「......もう、帰ろうか」瑛介は口の端をわずかに上げ、彼女の腰に手を添えて軽くつねるようにした。「君がそう決めたなら、それでいい」「うん」弥生は頷き、今度は友作に視線を向けた。もう迷いはなかった。「......私たちはこれで失礼するわ」そう言って、弥生はちらりと上の階に目をやった。彼女の視線の先、壁の隅に小型のカメラがひっそりと設置されている。そのカメラの奥、モニターを見つめていた弘次は、弥生がふとこちらを見上げた瞬間、息を飲んだ。まるで、彼女の瞳がレンズ越しに自分を見つめているかのようだった。弘次の唇が、ぎゅっと結ばれた。垂れ下がった右手が、音を立てるように拳を握り締めた。会いたい。その衝動が、喉元まで込み上げた。だが、次の瞬間、理性がそれを押しとどめた。もし今会ってしまったら、彼女は区切りをつけ、心から自分を手放すだろう。そしてきっと、穏やかな生活へ戻っていく。もう二度と、自分を思い出すこともなく。そう思うと、弘次の胸の奥にひどく冷たい痛みが広がった。それなら、いっそこのままでいい。彼女の心に、消えない棘として残ればいい。ゆっくりと、握っていた拳がほどけた。弘次はかすかに目を閉じ、無理やり笑みを作った。......これでいい。忘れられないままでいてくれ。弥生の瞳には、何の揺れもなかった。そのまま数秒だけ上を見上げ、やがて静かに目線を下ろした。「......行きましょう」「うん」瑛介は頷き、彼女の手を引いて歩き出した。二人は振り返ることなく、静かに去っていく。足音が遠ざかり、姿が完全に消えた。友作はその場にしばらく立ち尽くし、背後の階段から何の気配もないのを確認してから、ゆっくりと上がっていった。階段の途中で、彼はさりげなく壁際のカメラに目をやった。やはり、全て見ていたか。ドアを開け
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