All Chapters of 目黒様に囚われた新婚妻: Chapter 601 - Chapter 610

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第0601話

「千璃ちゃん、千璃ちゃん!」ぼんやりとした意識の中で、瑠璃は誰かが焦った声で自分の名前を呼ぶのを聞いた。なんとか目を開けようとしたが、どうしても開けることができなかった。昏睡状態に陥ったあと、瑠璃は長く続く夢を見ていた。一面の銀世界。冷たい湖に落ちた彼女は泳ぐことができず、必死にもがいて岸へと上がろうとしていた。その岸辺には隼人が立っていた。彼は気高く、どこか余裕を感じさせる笑みを魅力的な顔に浮かべていた。彼女は叫んだ。「隼人、助けて!」しかし男は微動だにせず、冷ややかな目で彼女を見下ろした。瑠璃の目にあった希望は少しずつ消えていき、全身が凍えるような冷たさに包まれていった。絶望の中で、彼女は蛍の姿を見た。隼人は蛍を腕に抱き、二人は目の前で甘く愛を見せつけていた。その瞬間、瑠璃の心も体も湖の底へと沈んでいった。そしてその時、隼人の氷のような声が彼女の耳に届いた。「瑠璃、よく聞け。愛なんて言うまでもなく、俺はお前のことを一度も好きになったことがない。ほんの少しも、ない」「ほんの少しも……ない……」彼の低くて落ち着いた声が悪夢のように瑠璃の耳にまとわりついた。突然、瑠璃は目を見開いた。彼女は上体を起こし、目を閉じて深く呼吸しながら、今のが夢だったことに気づいた。だが、その夢はあまりにも現実的で、胸がうずくように痛んだ。あれが、事故の後に失われた記憶なの?瑠璃は黙ってそう思った。「カチャッ」突然ドアの開く音がして、瑠璃はそちらを振り向いた。視線の先には、隼人のすらりとした姿があった。彼女が目覚めたのを見て、彼の整った眉間の険しさが少し和らいだ。「千璃ちゃん、目が覚めたんだな」隼人は柔らかな笑みを浮かべながらベッドのそばに来て、そっと瑠璃の手を握った。「千璃ちゃん、手が冷たいな。どこか具合が悪いのか?」瑠璃は無言のまま隼人を見つめ続け、その瞳には次第に憎しみの炎が宿っていった。彼女は突然手を引き、冷たい視線を彼に投げた。「隼人、もうその芝居はやめて。あなたが何を企んでるか、私がわからないとでも思ってるの?」隼人は空っぽになった手をそのままに、冷ややかな瑠璃の横顔を黙って見つめた。瑠璃は布団をめくってベッドから立ち上がり、警戒と憎しみに満ちた瞳で彼をにらみつけた。「あなたの
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第0602話

窓を開けた瞬間、ひんやりとした海風が顔に吹きつけ、瑠璃の長い髪をふわりと揺らした。目の前には果てしなく広がる青い海。黄金色の陽射しが海面に降り注ぎ、風に揺られて水面には細かな波紋が広がっていた。岸辺のヤシの木も風に合わせてしなやかに揺れている。美しい風景だった。だが、ここは一体どこなのだろう?瑠璃は懸命に思い出そうとした。この場所に以前来たことがあるのかと考えたが、どうしても思い出せなかった。しばらくして、隼人が戻ってきた。彼は湯気を立てる海鮮ラーメンと一杯のぬるま湯を手にしていて、その整った顔には相変わらず淡い笑みが浮かんでいた。阳台の前で動かずに立ち尽くす瑠璃の姿を見て、彼は唇を軽く開いた。「千璃ちゃん、少しは食べなよ」瑠璃はまるで聞こえなかったかのように無反応だった。しばらくしてからようやく振り返り、鋭い眼差しを彼に向けた。「隼人、いったい何がしたいの?私をここに閉じ込めて、苦しめて殺す気なの?」かつての隼人は知らなかった。愛する人から向けられる憎しみに満ちた目が、これほど胸を貫くものだとは。「傷つけるつもりはない。ただ一緒にいたいだけだ。お前が俺のそばからいなくなるのが嫌なんだ」彼は穏やかに微笑みながら、柔らかな口調で気持ちを伝えた。「まずは何か食べな。丸一日眠ってたんだろ?お腹も空いてるはずだ。俺のことを憎むなら、せめて腹ごしらえしてから憎んでくれ」彼はラーメンと水の入ったコップを窓際のテーブルにそっと置いた。瑠璃はじっとそのラーメンと水を見つめ、次の瞬間、手を振り上げてそれらをまとめてテーブルから払い落とした。食器が砕ける音とともに、隼人の胸の中でも何かが粉々に砕けた気がした。「私はあなたの作ったものなんか食べない。隼人、あなたの顔も見たくない。愛してるって?笑わせないで。私はあなたなんか、ほんの少しの好意さえ持ってない!」隼人の胸に鋭い痛みが走った。この言葉、どこかで聞いた覚えがある。そう考えて記憶をたどると、かつて瑠璃に無理やり離婚届に署名させたとき、自分が彼女に投げつけた言葉と酷似していた。今、それがそっくりそのまま自分に返ってきたのだ。何倍にもなって。「出て行って!顔も見たくない!」瑠璃は憎しみをあらわにして叫んだ。「もう、あなたを死ぬほど愛していた瑠璃じゃない。
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第0603話

白く鋭い果物ナイフが胸元に押し当てられていた。隼人は長く濃い睫毛を伏せて刃先を一瞥し、口元に魅惑的な微笑みを浮かべながらゆっくりと目を上げた。目の前の瑠璃の潤んだような美しい瞳には、凛とした決意と並外れた迫力が宿っていた。彼女は本気だった。脅しているわけではない。だが、隼人もまた本気だった。「千璃ちゃん」彼は柔らかく彼女の名前を呼び、後退することなく一歩踏み出した。鋭い刃先は彼の白いシャツの布をわずかに押し込んだ。瑠璃は一瞬戸惑った。まさか隼人が自ら刃に近づいてくるとは思っていなかった。しかし、彼はそんな彼女を見つめながら、なおも穏やかに笑っていた。「千璃ちゃん、お前は今、過去のことを忘れているけど、それでいい。俺は全部、覚えてるから」彼はそう言って微笑み、深く目を細めて彼女を見つめた。「あの年、大雪の中で、俺はお前の祖父の墓を暴き、遺骨を使ってお前に屈服を迫った。お前は血を流しながらも、歯を食いしばってこう言ったんだ——『隼人、今日私を殺さないなら、いつか私が必ずあなたを殺す』って」夕陽が窓の外に優しく差し込んでいたが、隼人の心の中には白く冷たい雪がしんしんと降っているようだった。瑠璃は隼人の言葉を聞いても、自分がそんなことを言った記憶はなかった。だが、その時の自分がどれほど隼人を憎んでいたかは、感覚として痛いほど理解できた。彼女はナイフを握る手にさらに力を込め、その瞳には激しい憎しみが燃え上がっていた。隼人はその目の奥にある怒りを捉えると、ゆっくりと手を上げ、瑠璃のナイフを握る手をそっと包み込んだ。そして怠惰なようでいて、どこか優しく語りかけた。「千璃ちゃん、俺はどうすればお前に許してもらえる?それとも、何をしてもお前は俺を許さないのか?」「そうよ、その通り!隼人、私は絶対に許さない、何をしようと!」瑠璃がその言葉を発した瞬間、隼人の瞳にあったかすかな希望は、漆黒の絶望に飲み込まれた。「隼人、たとえ今のあなたの言葉が全部本当でも、たとえ本当に私を愛していたとしても、それはもう遅すぎるの。いい?私はあなたなんか愛してない、私が愛してるのは瞬なの!私と瞬の間には娘もいるのよ。彼こそが本当に私を大切にしてくれる男、私に幸せをくれる人なの!」「違う、お前は彼を愛してない」隼人はきっぱりと否定
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第0604話

「隼人、死にたいなら勝手に死ねばいい。でも私の手を汚さないで!」瑠璃は彼を怒りの目で睨みつけながら叫んだ。だが、なぜかその心臓は異様に早く、高鳴っていた。憎んでやまない敵が死のうとしている。それならば喜ぶべき場面のはずなのに——今の彼女の胸には、言いようのない不安と苦しさが広がっていた。白いシャツに広がっていく血の赤。その様子を目の当たりにして、瑠璃の目頭が熱くなり、心がざわついた。「出て行って、隼人、今すぐ消えて!目の前で死なれても、私は絶対に許さない!」彼女は力の限り彼を突き飛ばそうとした。だが隼人はまるで山のように動かなかった。「隼人、どいてよ!じゃあ……あなたがどかないなら、私が出ていく!」そう言い捨て、瑠璃は部屋のドアへ向かって駆け出した。だがその瞬間、彼女の背後から隼人が強く抱きしめてきた。「千璃ちゃん、行かないで……」「放してっ!」「いやだ。お前は行ってしまう。俺の世界から、消えてしまう……」隼人の囁きは、まるで夢の中のように静かだった。彼の温かい吐息が瑠璃の耳の後ろをかすめていった。瑠璃は本気で思った——隼人はもう、どこか壊れてしまっている。彼の腕に込められた力は強く、簡単には解けなかった。だが薄い布越しに伝わってくる湿った感触——それは、隼人の血だった。その事実に気づいた瞬間、彼女の心に言いようのない恐怖と焦りが駆け上がってきた。「隼人、放してよ。私は行かないから」「いや、お前は行く。行ってしまえば、もう戻ってこない……」彼の声には、どこか子供のような頑なさが混じっていた。瑠璃は深く息を吸い込んで、できるだけ落ち着いた声で言った。「行かないって言ってるでしょ。放して、隼人。もし本当に私を愛してるなら、こんなことで私を苦しめないで」その一言に、隼人は何かに気づいたように、ハッとした。そしてすぐに瑠璃を放した。……また間違えたのだろうか?完全に、取り返しのつかないほどに。かつての瑠璃は、彼を愛し、尊敬していた。静かで控えめで、決して無理を言うことはなかった。彼の機嫌を損ねるようなこともしなかった。なのに、彼は——。「カチャッ」突然聞こえたドアの開く音に、隼人ははっと我に返った。顔を上げると、瑠璃の姿が部屋の外に消えていた。彼は脱力したように椅子へと腰
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第0605話

瑠璃は不満そうに眉をひそめ、冷たく言い放った。「離して、じゃないと今すぐ出ていくから」隼人は慌てて言うとおりにし、握っていた手をすぐに離した。瑠璃はそれ以上彼に何も言わず、自分で救急箱から消毒用のアルコールと包帯の材料を取り出し、そのまま彼に近づいて、手早く隼人のシャツのボタンを外していった。彼の引き締まった胸元が一気に露わになった。ほかの男たちのように日焼けした色ではなく、隼人の肌は白くて清潔感があり、それゆえに血の赤が一層鮮やかに目に刺さった。傷は深くはなかったが、浅くもなかった。瑠璃はアルコールを染み込ませた綿で血を丁寧に拭き取り、清潔な布を押し当ててから、医療用テープでしっかりと貼りつけた。隼人はその間、何も言わずじっと瑠璃の一挙手一投足を見つめていた。彼女はとても近くにいた。その静かで美しい顔立ちが、まるで絵のように彼の瞳に深く焼き付いていった。彼女の眉、目、唇、鼻……すべてが小さく整っていて、完璧だった。隼人の目はどんどん優しくなり、ついには無意識に顔を少し傾け、彼女の髪から漂うほのかな香りを深く吸い込んでいた。こんなにも美しい女を、自分はかつてどれだけ傷つけ、踏みにじってきたのか。彼は突然、自分が心底卑劣で恥知らずな存在だと感じた。こんな自分が、彼女の許しを願うなんて——何様のつもりだったのか。「千璃ちゃん……」「傷口を化膿させたくないなら、自分でちゃんと気をつけなさい」瑠璃は冷たく彼の言葉を遮り、救急箱を片付けて立ち上がった。彼女が背を向けたのを見て、隼人はもう無理に引き止めなかった。これ以上、間違いを重ねたくなかった。今度こそ、彼女は本当にこの場所から出ていこうとするのだと思った。だが瑠璃は、まだその場を離れなかった。「今はもう遅いから、明日の朝が来たら出ていく。もしまた私を閉じ込めようとするなら、私はもっとあなたを憎むだけ」そう言い残して、彼女は階下へと降りていった。隼人はぼんやりとその場に座ったまま、胸元の包帯を見下ろしながら、そっと手で触れた。そして微かに笑った。千璃ちゃん。やっぱり、お前の心の中にはまだ俺がいるんだ。瑠璃はキッチンに行って、簡単に食事を作り、空腹をしのいだ。その後、外を少し歩いてみると、この別荘がどうやら孤島にあることに気づいた。
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第0606話

「ありがとう」隼人のその一言に、瑠璃はわずかに足を止めたが、振り返ることなくそのまま歩き去った。隼人は彼女の去っていく後ろ姿を優しく見つめながら、満ち足りた表情でラーメンを食べ始めた。実は、彼女が一日中何も食べなかったその日、自分もまた一滴の水も口にせず、何も食べていなかった。だからこそ、今こうして彼女が作ってくれたラーメンを食べられることが、何よりの幸せだった。……一方、瑠璃が幼稚園の前で隼人に連れ去られてから、夏美と賢は焦りと不安に駆られていた。彼らは何度も隼人にも瑠璃にも連絡を試みたが、まったく繋がらず、隼人が瑠璃をどこへ連れて行ったのかも、全く手がかりがなかった。君秋はおとなしくソファに座り、潤んだガラスのような瞳で尋ねた。「おじいちゃん、おばあちゃん、パパがママと一緒にぼくを遊園地に連れて行くって言ってたのに、なんでまだ来ないの?」夏美はすぐに優しい笑顔で答えた。「君ちゃん、いい子にしててね。パパとママはちょっと用事があって、あと数日で帰ってくるの。もう遅いから、おばあちゃんと一緒に寝ようか?」君秋は素直にうなずいた。「おばあちゃん、『ねんねんころりよ』歌える?ママ、いつもこの歌を歌ってくれるんだ。ママの声、すっごくきれいなの」夏美の胸が締めつけられ、目頭も熱くなった。彼女は君秋の小さな手を引いて階段を上がった。「おばあちゃんも歌えるけど、ママほど上手じゃないかもね」「でも、おばあちゃんもママと同じくらいぼくのこと大好きだから、きっとおばあちゃんの歌も素敵だよ」君秋は幼い声でそう言いながらも、目はどこまでも真剣だった。夏美は目尻ににじむ涙を拭いながら、小さくつぶやいた。「おばあちゃんなんて、ママには敵わないわ……あんなにたくさん間違いを犯してきたんだもの」その言葉は君秋に聞かれないよう、そっと声にした。一方、階下では、賢が何度も監視映像を見返し、深くため息をつきながらソファに座る瞬に語りかけた。「目黒さん、隼人が千璃を連れて行ったとすれば、彼女に危害を加えることはないと思うよ」「加えますよ」瞬は落ち着いた口調で断言した。「隼人が一番愛していたのは蛍。彼女が死んだ今、千璃ちゃんを連れ去った目的は一つだけ——蛍のための復讐です」「そんなはずんない!彼はずっと後悔して
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第0607話

隼人は呆然とその光景を見つめ、静かに足を進めていった。朝焼けの鮮やかな赤い光が青く澄んだ海に反射し、その光は隼人の瞳に映るあの無垢で綺麗な顔も優しく照らしていた。そのとき、瑠璃は裸足のまま海辺の砂浜にしゃがみ込んでいた。彼女は何かを手に握っており、視線を下ろして穏やかに微笑んでいた。だが、足音が近づいてくるのに気づいたのか、瑠璃はふと後ろを振り返った。そして、隼人の姿が目に入った瞬間、彼女の顔に浮かんでいた自然で甘やかな笑みは一瞬で消えた。「千璃ちゃん……」隼人がそっと声をかけたが、瑠璃は返事をせず、立ち上がってそのまま前に歩き出した。隼人はただ黙ってその背中を追い、彼女が歩いた道をたどってついて行った。ほんの数歩先にいるはずなのに、手を伸ばしても触れられるのは彼女の影だけだった。「あと三十分ほどで船が岸に着く。そしたらお前は行ける」隼人の声が背後から聞こえ、瑠璃は淡々と答えた。「知ってるわ。もう海辺で確認した」隼人は、彼女を引き止めることができないと悟り、苦笑しながら自嘲気味に笑った。「瞬と一緒にF国へ行くんだろう?」「それは私のこと。あなたには関係ない」瑠璃はそう言って足を止め、振り返った。日差しの下、隼人は微笑を浮かべながら彼女を見つめていた。彼の視線は、異様に柔らかく優しかった。「隼人、本当に人を愛するってどういうことか分かってる?本気で誰かを愛してたら、あなたが私にしてきたことなんて絶対にできない。だから、あなたは私のことを愛してなんかいなかったのよ」彼女は彼の想いを、完全に否定した。隼人はその言葉を静かに噛みしめ、胸を突き刺すような虚無と痛みを受け入れながらも、微かに笑みを浮かべた。彼は何も言い返さなかった。弁解も、主張もしない。彼が彼女を愛していたことは、ただ彼自身が知っているだけだった。「ドッドッドッ……」遠くから、船のエンジン音が聞こえてきた。瑠璃はその音に顔を上げ、微笑を浮かべた。彼女は隼人のそばを何のためらいもなく通り過ぎた。「千璃ちゃん、もう一度だけ……君を抱きしめてもいいか?」隼人は小さく、切実に問いかけた。瑠璃は彼を横目に見て、冷たく答えた。「だめよ」彼女の声には一片の情もなく、その足取りは迷いなかった。海風が吹き、隼人
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第0608話

——お前のような素晴らしい人に、俺はふさわしくなかった。さようなら、千璃ちゃん。俺の最愛の人。隼人は呆然と瑠璃の背中を見つめたまま、静かにその場で背を向けた。涙は音もなく目元から流れ、吹きつける風に乾かされていった。彼は知っていた。最愛の人を失ったのは自業自得であり、誰のせいでもない。ただ、胸が痛かった。息をすることさえ辛くなるほどに。船はどんどん近づき、海風も次第に強くなっていった。風が瑠璃の長い髪を乱し、彼女は手を挙げて髪を整えようとした。そのとき、視界の端に隼人がいつの間にか背を向けて遠ざかっていく姿が映った。その孤独な背中を見つめた瞬間、瑠璃の心に何かが鋭く突き刺さった。言葉にできない痛みが、ひたひたと胸を覆い尽くしていった。その刹那、手のひらから何かが滑り落ちた。彼女は慌ててそれを拾おうとしたが、足元がもつれてバランスを崩してしまった。「きゃっ!」離れていた隼人の耳に、瑠璃の小さな悲鳴と「ザブンッ」という水音が届いた。彼の心臓が大きく跳ね上がった。振り返ったときには、瑠璃の姿はすでになく、岸辺の水面にはただ波紋だけが広がっていた。「千璃ちゃん!」隼人はその名を震える声で呼び、次の瞬間、飛び出すように海へと駆け出した。「千璃ちゃん——!」彼は名前を叫びながら、迷いなく海へ飛び込んだ。その様子を船の上から瞬が目撃していた。彼もまた瑠璃の安否を心配していたが、落水した地点まで距離があり、無謀に飛び込むわけにもいかなかった。瑠璃は海に落ちた瞬間、大量の海水を飲み込み、激しく咳き込んだ。彼女は泳げず、必死に手足を動かしたが、同じ場所を回っているようでまったく前に進まなかった。目を開けることもできず、次第に力が抜けていく。意識が遠のく中、彼女の脳裏には見覚えのある映像がよみがえった。あの凍てついた雪の世界、彼女は泳げないのに、凍った湖に迷いなく飛び込んだ。そのすぐ後、隼人も後を追って飛び込み、彼女の腕を掴んで岸へ引き上げようとした。だが彼女は、頑なに彼を拒絶し、「助けないで」と突き放した。——これが私の、失われていた記憶?瑠璃は自問したが、答えは返ってこなかった。さらに海水が口と鼻に流れ込み、ついに意識は完全に途切れた。その瞬間、隼人の手が、沈ん
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第0609話

隼人の感情は完全に崩壊していた。彼は絶望のあまり頭を垂れ、瑠璃の滑らかな額にそっと額を押し当てた。震える手で、彼女の柔らかな頬をそっと撫でながら、止まらない涙が熱く流れ落ちていった。「なぜ……どうして俺たちをこんなにも苦しめる?お前があれほど俺を愛してくれていたとき、俺はなんて愚かなことばかりしてたんだ……千璃ちゃん、お願いだから、俺のもとを離れないで……頼むよ……」隼人は瑠璃の青白い顔を抱きしめながら、心が涙と共に砕けていくのを感じていた。骨の髄まで痛みが染み込んでくるようだった。「千璃ちゃん……もしお前が本当に別の世界へ行こうとしてるなら、俺も一緒に行く」彼は冷たい指先で彼女の頬をなぞり、瞳には深い闇が広がっていた。「これからお前がどこへ行っても……俺はついて行く」そう囁き、彼は静かに微笑んで、唇を瑠璃の唇へと重ねた。——その時だった。「……っ、げほっ」瑠璃が小さく咳き込んだ。死にかけていた隼人の心が、その一瞬で鼓動を取り戻した。「千璃ちゃん!」彼は信じられないというように彼女を見つめた。「千璃ちゃん、目を覚ましたのか?」「けほっ、けほっ、けほっ!」瑠璃は何度も咳き込みながら、口から海水を激しく吐き出した。「千璃ちゃん、よかった!」隼人は喜びで彼女を抱き起こし、自分の胸にそっともたれさせた。「千璃ちゃん、目が覚めたんだね。俺だよ、隼人だよ」彼は彼女の顔を覗き込み、湿った睫毛がかすかに動き、秀麗な眉がぴくりと動いたのを見て、安堵の息をついた。彼はすぐさま瑠璃を抱き上げ、休ませようと別荘に向かおうとした。だが、振り返ったその瞬間——瞬の姿が目に入った。隼人の顔に浮かんでいた優しい表情は、一瞬にして鋭い光に変わった。「どけ。俺の邪魔をするな」瞬は一歩も引かず、真剣な表情で隼人の前に立った。隼人の腕の中で徐々に意識を取り戻している瑠璃を見て、彼は眉をひそめ、口を開いた。「瑠璃を、俺に渡してくれ」その言葉を聞いて、隼人はまるで大きな冗談を聞いたように鼻で笑った。「千璃ちゃんを俺以外の男に渡すつもりなんてない。ましてやお前に、渡すものか」その口調は冷酷で、圧倒的な威圧感を放っていた。瑠璃の体調が万全でないこともあり、隼人は瞬と争うのを避けるように、脇を
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第0610話

瞬に抱きかかえられて船に乗って間もなく、瑠璃は目を覚ました。うっすらと目を開けると、視界に入ってきたのは、心配と優しさに満ちた瞬の顔だった。「千璃、千璃……目が覚めたか?」彼は静かな声でそう問いかけた。瑠璃はまだ完全に目覚めきっておらず、視線を巡らせながら、どこか戸惑った様子で何かを探しているようだった。「千璃?」「瞬?どうして……あなたなの?」瑠璃は不思議そうに、自分を抱えている男を見上げた。「バカだな、俺以外に誰がいるって言うんだ?」瞬は微笑みながら彼女の頬を優しく撫でた。「隼人に連れ去られたって知って、ずっと探してた。さっき船で岸に近づいたとき、君が海に落ちるのを見たんだ」その言葉を聞いて、瑠璃の脳裏に、失神する前の記憶が少しずつ蘇ってきた。あの時、隼人が背を向けて遠ざかっていく姿を見て、胸がざわついた。そして手にしていた栞——木の葉のしおりを落としてしまった。慌てて拾おうとして、バランスを崩し、そのまま海に落ちたのだった。「無事でよかった。君のあの姿、心底怖かった……このまま永遠に目を覚まさないんじゃないかって……」瑠璃はしばらく呆然としていたが、やがてまばたきをしながら疲れた目で問いかけた。「私を……助けてくれたのはあなた?隼人は……」「君が落ちたときには、彼はもう立ち去っていたよ」その言葉を聞いた瞬間、瑠璃の心は、またもや深い海底に沈み込むような感覚に包まれた。あのとき、なんとなく隼人に助けられたような気がしていた。海の中から引き上げられ、名前を呼ばれ、岸へと抱き上げられた記憶。——でも、それは幻だったのか。彼は、本当に行ってしまった。一度も振り返らずに。「瞬……少し、頭がくらくらする……少し眠りたい」瑠璃はそう静かに呟いた。「いいよ。ゆっくり休んで。俺はずっとそばにいる」「……うん」瑠璃は短く返事をして、まだ手に握っていた木の葉のしおりを強く握りしめ、そっと目を閉じた。……瑠璃を瞬に託した後、隼人はまるで魂を抜かれたように、岸辺をさまよっていた。傷口は出血し、すでに炎症を起こしていたが、彼はまったく意に介していなかった。胸を引き裂くような痛みが、他のすべての感覚を奪っていた。夜になり、彼は静まり返った海を見つめながら、風に
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