All Chapters of 目黒様に囚われた新婚妻: Chapter 801 - Chapter 810

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第0801話

男の声が耳元に滑り込んできた。いつものように低く、色気を帯びた清らかな響きだった。瑠璃の心臓は、どくんと重く鳴った。目黒夫人。彼はそう呼んだ。だが、その「目黒夫人」という言葉には、一体どんな意味が込められているのか。瑠璃は目の前のこの世のものとは思えないほど美しい顔をじっと見つめ、そっと息をついた。彼の服装からしても、今夜の入札に参加するために来たのだろう。こうして悠々と現れたところを見るに、体調には何の問題もないようだった。「目黒夫人、大丈夫か?」隼人はうっすらと微笑みながら口を開いた。瑠璃は首を横に振った。「大丈夫」「大丈夫なら、手を離すね」その言葉とともに、彼が彼女の腰に添えていた腕はあっさりと離された。一片の未練も感じさせない手つきだった。瑠璃は隼人が背を向けて歩き出すのを見て、胸の奥が一気に冷え込んだ。きっと彼は、三ヶ月前の自分の冷淡さを信じ込んでしまったのだ。瑠璃は衝動的に隼人に真実を伝えたくなり、足を踏み出して彼の後を追った。「はや……」「千璃」悪夢のような瞬の声が突然割り込んできた。穏やかな笑みを浮かべて近づいてきた彼は、瑠璃の細い腰にそっと手を添え、顔を近づけて耳元に唇を寄せた。「もし君が隼人にすべての真実を伝えようとするなら、もう二度と陽菜には会えなくなるよ」瞬の声は柔らかく優しかったが、言葉の裏には明らかな脅しと警告が込められていた。隼人は、さきほど瑠璃が自分の名を呼んだように聞こえ、振り返った。だが見えたのは、瞬が瑠璃を抱き寄せ、耳元で親しげに囁いている姿だった。「千璃、後悔するようなことはやめておこうね?うん?」瞬はそっと促した。「こういう場では楽しむのが一番。君が笑うと、どれほど綺麗か君自身は知らないだろう?」瑠璃は指を曲げて力を込め、どうにか笑顔を作って瞬に合わせた。目を上げながら、視線の端でこっそりと隼人の姿を追った。彼は背中を向け、誰かと楽しげに会話しているようだった。瑠璃はその場を離れ、瞬とともに会場内の人々と接した。数人が瞬に酒を勧めに来て、瑠璃の容姿や気品を褒めたたえ、「こんな美しい奥さんがいて羨ましい」と瞬の見る目を称賛した。瑠璃は作り笑いで応じ、どうにかその場をしのいだが、口実を見つけて離れようと思っていたところに、
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第0802話

その二文字は、目に見えぬ刃のように瑠璃の心を切り裂いた。彼女は隼人が何の迷いもなく背を向け、こちらを一瞥すらしなかった姿をじっと見ていた。——隼人、やっぱりあなたは、あのとき私がついた冷酷な嘘を信じたのね。「どうやら、彼は君のことを思っているほど深く愛してはいなかったようだね」瞬は穏やかに笑いながら言った。「重要な取引相手と少し話がある。君はここで軽く食事でもして待っていてくれ。すぐ戻るから」瞬はそう言ってその場を離れ、瑠璃は茫然とその場に立ち尽くしていた。彼女は長テーブルへと歩み寄り、ワインを一杯手に取って一気に飲み干した。だが、その味にもう甘く芳醇な香りは感じられず、ただひたすらに胸の奥へと染み入るような苦味だけが残った。「ねえ、あれって碓氷千璃じゃない?」「彼女って一体誰の女なの?数ヶ月前に目黒隼人と結婚したばかりじゃなかった?なんで今は隼人の叔父の目黒瞬と一緒にいるわけ?」「さすが名家、ゴタゴタしてるわね。隼人と瞬が彼女を巡って仲違いしたって噂もあるわよ。今は表向きは仲良く見せてるけど、本当は犬猿の仲だとか」「やっぱりね、絶世の美女ってのは災いの元よ。綺麗な女ほど毒があるって言うし!」「ほんとよ、あの顔、まるで魔性の女そのものじゃない?」悪意に満ちた噂話が耳元に響いた。瑠璃は優雅にワイングラスを持ち、静かに振り返ってその数人の名門夫人たちに向き直った。「皆さんの言いたいことはよく分かりました。私の容姿を褒めたいなら、遠回しに言わずにそう仰ってくださればいいのに。誰だって知ってるでしょう?魔性のって顔が特に美しいことで有名なんですよ?」「……」「……」その数人の夫人たちは気まずそうに顔をしかめ、小声で文句を言いながらそそくさとその場を離れた。瑠璃は、彼女たちに反論したせいか、あるいは違う理由か、自分でもよく分からないまま、胸がどこか詰まるように苦しくなっていた。もう一杯ワインを飲んでその苦しさを紛らわせようとしたが、逆に胃のあたりがますます気持ち悪くなった。気分転換に外の空気を吸おうと身を翻した瞬間、隼人がロングドレスをまとった一人の女を伴って入ってくるのが目に入った。瑠璃はその女に目を凝らした。どこかで見たことがあるような気がする。でも、はっきりとは思い出せなかった。
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第0803話

それは隼人の足音だった。彼の足取りを聞き間違えるはずがなかった。瑠璃は急いで自分の表情を整え、下腹にそっと手を当てて撫でると、何事もなかったかのように欄干のそばに立って夜風を浴びた。彼の足音が一歩ずつ近づくたびに、彼女の心臓はますます不規則に脈打った。「やっぱり目黒夫人は俺みたいなクズ男と別れたおかげで、ずっと幸せそうだな」背後から彼の皮肉混じりの声が届き、瑠璃の心は静かに痛んだ。隼人は彼女の背後に立った。月光が彼女の冷たく白い肌を照らし、ロングドレスの肩紐が夜風に揺れていた。その後ろ姿は今でも彼の目に焼きついて離れなかった。瑠璃は無理やり冷たい美貌の仮面を被り、笑みを浮かべて振り返り、彼の深く艶やかな瞳を見据えた。「お互い様よね。隼人様もお元気そうで。もう新しいお相手も見つかったようだし」「仕方なかったよ。あの日F国で目黒夫人に冷たく追い返されて、俺は本当に辛かった。だから帰国してすぐ、新しい恋人を作って失恋の傷を癒やしたってわけ。意外とこの方法、効くもんだな」「それはよかったわ。あなたと新しい恋人さんに幸あれ」瑠璃は何気なく祝福の言葉を口にし、歩き出そうとした。隼人はその場に立ち尽くしたまま、彼女がすぐそばを通り過ぎていくのをじっと見つめていた。彼女の体からほんのり漂う香りが鼻腔に届いた瞬間、彼は思わず手を伸ばし、瑠璃の手首を掴んだ。「そんなに俺の顔、見たくない?」彼が突然低く囁いた声は、不思議な魅力を含んでいた。瑠璃はぴたりと足を止めた。その一瞬の接触が、心の奥底に押し込めていた感情を一気に押し寄せさせた。彼女は冷淡を装い、無情に言い放った。「見ても何の意味もないでしょ」その言葉に、隼人の手の力が僅かに強まったのを感じた。彼は目を伏せて彼女を見つめ、冷たく香る気配で距離を詰めてきた。「俺が死んでなかったって、残念だった?」瑠璃はわけがわからず彼を見上げた。何を言っているのか理解できなかった。その大きな、美しい瞳を見つめながら、隼人の表情が少しだけ和らいだように見えた。「瞬は……優しくしてるか?」「彼が優しかろうがなかろうが、あなたには関係ない」瑠璃は彼の手を振り払った。「隼人様がわざわざ私を追ってきたってことは、彼女さんに嫉妬されるかもしれないわよ?」隼人は低く
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第0804話

入札会の会場に入って席について間もなく、瑠璃は隼人が春奈を連れて入ってくるのを見た。彼女はやはりこの女にどこか見覚えがあるような気がしたが、それは彼女の顔立ちが少しインフルエンサー風だからかもしれないと思った。予想外だったのは、隼人と春奈が彼女たちのすぐ後ろの席に座ったことだった。しかも隼人の席はちょうど瑠璃の斜め後方、彼女が少し横目で見れば、彼の端正な顔立ちが視界に入ってしまう位置だった。瞬も、後方に座った隼人に気づいたようで、まるで見せつけるように瑠璃の手を取り、さらに顔を近づけて耳元でささやいた。「碓氷さんと旦那様は本当に仲がいいのね」隼人の隣に座る春奈がうらやましげに言った。「隼人、席を変えようか?あなた、以前はあんなに碓氷さんのことが好きだったし、見るのも辛いんじゃない?」「まさか。おじさんとおばさんはあれだけ仲睦まじいんだ。俺も見ていて嬉しいよ。何より、今は君がいる。ほかの女なんて、もうどうでもいい」瑠璃は斜め前に座っていたが、隼人と春奈の会話ははっきりと耳に入った。「ほかの女」——つまり、彼の中にはもう自分の存在などないということだ。瑠璃は何事もないように前を見つめていたが、内心では握りしめた手が痛むほど力が入っていた。——やはり、彼は私のあの冷たい言葉を本気で信じてしまったのね。彼は本当にもう新しい人生を歩み始め、私を完全に忘れようとしている。いや、もう心の中から追い出してしまったのかもしれない。——これが、私がかつてあんなにも憧れていた「愛」だったの?瑠璃は自嘲気味に笑い、心ここにあらずのまま壇上の司会者の話に耳を傾けた。うっすらと、今回の入札はある土地の開発権だと聞こえてきた。その土地は景市の未開発地域に位置し、まさにお宝と呼べる物件だった。瞬はすでに準備を整えていたようで、このところ忙しそうだったのはおそらくこの案件のためだったのだろう。彼の表情からは自信があふれていた。司会者がプロジェクトの概要を説明し終えると、正式な入札が始まった。最低入札額は400億円。この金額だけでも多くの企業をふるい落とすには十分だった。残ったのはほんの数社にすぎなかった。だが、瞬はそれらの企業にチャンスを与えるつもりはなかった。彼は最初から600億という金額を提示した。まるで、こ
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第0805話

瑠璃は落ち着かない気持ちのまま、隼人がすぐ傍まで近づいてきたのを感じた。その直後、彼の声が耳元に届いた。「おじさんはこの土地を使って目黒夫人にリゾート施設を建てるつもりだったって聞いたけど、申し訳ないな。俺もこの土地に、俺が心から愛する女のための城を建てたいと思ってるんだ」彼は視線をそらしている瑠璃を、意味深なまなざしでじっと見つめた。「いつか、俺の大切な女がその城に住んで、何も心配のないお姫様のように暮らせる日が来ればいい。俺は彼女の騎士として、一生彼女を守り続ける覚悟がある」その言葉のあと、春奈がうっとりとした表情で彼の隣に寄り添った。「隼人、本当に優しいのね」瑠璃はまるで心を刃で切り裂かれたように痛みを感じ、顔をそらして瞬に無理やり笑顔を向けた。「瞬、お腹すいちゃった。何か食べに行かない?」「いいよ」瞬は穏やかな笑みで立ち上がり、淡々と隼人に目をやった。「どうやら俺は、君の実力を甘く見ていたようだな。目黒グループが他人の手に渡ったっていうのに、全然堪えていないみたいだ」隼人は余裕の笑みを浮かべたまま、視線を瑠璃の顔に止めた。「俺も、おじさんのやり手ぶりを見誤っていたよ。俺がどれだけ頑張っても手に入らなかった女を、君はすっかり虜にしたんだから」その皮肉混じりの言葉に、瑠璃は意にも介さぬようにふっと笑い、静かに瞬の腕に手を添えて身を寄せた。そしてそのままくるりと背を向けた。瞬も立ち去る前に、春奈をちらりと一瞥した。春奈は唇の端に微笑みを浮かべ、礼儀正しく瞬に微笑み返した。そのとき両頬に現れたふたつのえくぼが、瞬の視線を少しの間、留めさせた。ホテルを出たあと、瞬は瑠璃を車まで送った。「まずは君を別荘まで送らせるよ」「実家に帰りたいの」瑠璃は冷たく答えた。瞬は少し考え込むように黙り込んだ。「……帰ってもいい。ただし——」「もう警告しなくていいわ。陽菜のために、余計なことは言わない」「千璃、脅してるわけじゃないんだ。ただ、君にそばにいてほしいだけなんだ」瞬は眉を寄せながら、車のドアを開けた。瑠璃はそれ以上何も言わず、あっさりと車に乗り込んだ。彼女は波打つような胃を押さえながら、頭の中では隼人の言葉が何度もよみがえっていた。彼女は窓の外に広がる夜の景色を見つめな
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第0806話

「おじいちゃん……あなたの千璃に、どうすればいいか教えてよ……」瑠璃は眉間にしわを寄せ、苦しげに呟いた。そのとき、スマートフォンが突然震えた。見知らぬ番号が、電話番号検索を使って友達申請を送ってきたのだ。画面を見ると、申請者は女らしく、備考欄にはこう書かれていた。——「失恋しました。適当に打った番号です。誰かと話したくて」瑠璃は今、誰かを慰める気力もなかった。ただでさえ心が疲れ果てていた。返事をすることもなく、そのまま深い眠りに落ちた。翌朝、瑠璃が目を覚ますと、すぐに胃がムカつき始めた。急いで洗面所へ駆け込み、何度もえずいたが、何も出てこなかった。——あの時と同じ……君秋を妊娠したときも、最初にこの症状が出た。陽菜を身ごもった時は、心が死んでいたせいか、ほとんど辛さを感じなかった。彼女は無意識にお腹に手を当て、三ヶ月前の隼人との夜を思い出した。あの夜、彼は優しく耳元で囁いた。——「千璃ちゃん、もう一人……俺たちの赤ちゃんを作ろう」その言葉に、彼女も頷いた。だから、何の避妊もしなかった。彼は、あの夜、すべてを注ぎ込むように——これ以上考えるのが怖くなり、瑠璃は気持ちを切り替えて身支度を済ませ、階下へ降りた。ダイニングでは、夏美が豪華な朝食を用意して待っていた。「千璃、起きたのね。お母さんが心を込めて作った朝ごはんよ、早く食べて」夏美は微笑みながら、優しく瑠璃を呼び寄せた。瑠璃は玄関の方を一瞥し、そのまま静かに食卓へ向かった。夏美は、かつて瑠璃にした冷酷な仕打ちを悔いており、今でも娘に恨まれていると思って、どこかおずおずとした口調だった。「この三ヶ月、ずっと瞬とF国にいたの?……ちゃんと暮らせてた?F国にいる友人から、よく二人でビジネスのレセプションに出てるって聞いたわよ。すごく仲睦まじいって」瑠璃には否定の言葉が出なかった。F国の上流階級では、彼らの夫婦関係は愛に満ちたものと認識されていたのだ。「F国ではちゃんと過ごせてたわ。瞬は私をとても大切にしてくれてた。心配いらないわ」「そう……それならいいの。あんたが幸せなら、それで十分。お母さんもお父さんも、それだけが願いよ」「……うん」瑠璃は小さくうなずいた。朝食を食べ終えたあと、彼女は身体のことをはっきりさせるため、病
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第0807話

突然聞こえた隼人の声に、瑠璃の心臓が大きく跳ねた。彼女の手が震え、ゴミ箱に投げようとしていた紙くずは床に転がった。慌てて手を伸ばしたが、それよりも早く隼人が屈み込んだ。彼が身をかがめたとき、その繊細な横顔が瑠璃の頬をかすめ、二人の呼吸が一瞬交わった。隼人は紙くずを拾い上げ、そのまま捨てようとした——が、瑠璃の目つきに何かを感じて、手を止めた。紙を広げようとする隼人に、瑠璃は慌てて手を伸ばしたが、わずかに間に合わなかった。彼の目が検査結果に走り、その瞬間、漆黒の瞳に陰りが走った。完璧な美貌が、一瞬で凍りついたように冷たくなった。瑠璃はその変化に気づき、慌ててレポートを奪い返し、そのままゴミ箱に突っ込んだ。心は乱れ、彼が内容をきちんと読んだのかどうかさえ判断できなかった。立ち去ろうかと考えたその時、隼人の冷ややかな笑い声が背後から響いた。「あいつの子を……」「……」瑠璃の顔が凍りついた。心が奈落に落ちたような衝撃に襲われた。彼が……なんて言った?信じられない思いで振り返ると、隼人の冷たい声が重ねられた。「瞬との子供、か」その表情は、まるで氷そのものだった。——そう、彼はそう誤解したのだ。瑠璃は言葉にできないほどの悔しさと苦しさに襲われた。でも、隼人を責めることはできなかった。この三ヶ月間、自分は瞬と「夫婦」として暮らしていたのだから。彼の目に、自分が瞬と同じベッドを共にしているように映っても不思議ではない。——でも現実には、瞬には一度たりとも触れさせていない。あの一夜ですら、彼にアロマを焚いて幻を見せただけだった。沈黙する瑠璃を、隼人は「肯定」と受け取ったようだった。彼の瞳が一段と暗くなり、突然手を伸ばして瑠璃の手首を掴むと、そのまま前方へと引き寄せた。瑠璃は振り払おうとしたが、抵抗しきれずに引っ張られるまま歩かされた。「隼人、何するつもり?放して!」その様子を見た瞬の護衛はすぐに追いかけながら、瞬に状況を報告した。「隼人、放してってば!」彼の歩調は速く、ついていくのが精一杯だった。転んでしまえば、お腹の赤ちゃんに何かあったら——その不安が瑠璃を苛んだ。もみ合いの中で、隼人は彼女を引っ張って非常階段の通路に入った。瑠璃は逃げようと身をかわしたが、彼は彼女を壁に
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第0808話

瑠璃は眉をひそめ、足を速めてその場を離れた。車に乗り込むと、無意識に腹部をそっと撫でながら、隼人のあの時の眼差しを思い出していた。あれは——怒り?嫉妬?それとも、悲しみ?瑠璃には、見分けがつかなかった。しかし彼女が瞬に知られたくなかったことは、すぐに手下から彼の耳に入った。瞬は嬉しそうに目を細めた。「千璃、本当に俺の子を?」瑠璃は否定しなかった。もし否定すれば、瞬がどんな手段でこの子を奪おうとするか分からなかったから。この話をこれ以上続けたくなかった彼女は、話題を変えた。「明日はおじいちゃんの命日。お墓参りに行くつもり」瞬はすぐに了承した。「入札は失敗したから、処理すべきことがある。でも明日は人を手配して君を墓地に送るよ」彼は穏やかな笑みを浮かべた。「千璃、これは俺たちの初めての子だ。安心して。たとえこの子ができても、俺は陽菜を実の娘のように大切にする」「陽菜を本当に娘のように思ってるなら、あなたは彼女を道具として使わなかったはず」瑠璃は冷たく言い放った。瞬の表情がわずかに曇る。彼は無意識に、彼女の手首に巻かれていた一本のヘアゴムに視線を落とした。そのまま、しばらく目を離せずにいた。……翌朝、瑠璃は花と線香を買い、墓園へ向かった。早春の風はやわらかく、小雨がしとしとと降る中、少し肌寒さを感じる日だった。車を降りると、やはり護衛がぴったりついてこようとした。「ついてこないで。今日はおじいちゃんと二人きりで過ごしたいの」不満げに言うと、護衛は一瞬戸惑ったが、彼女の意志に逆らえず、駐車場付近で見送ることにした。「ただの墓参りだし、問題ないだろう……」そうつぶやいて寒さに肩をすくめながら、車に戻ってスマホをいじり始めた。瑠璃は倫太郎の墓前にたどり着き、花を供え、線香に火をつけた。風も雨も小さく、火を邪魔することはなかった。彼女は周囲の雑草を丁寧に取り除き、墓碑の前に立って、その名前を静かに見つめた。「おじいちゃん、千璃が来たよ」「四宮蛍は……助けられて生き延びた。でも安心して、私は絶対に、あの女を逃がしたりしない」「おじいちゃん、ありがとう。あの時、私を見捨てずにいてくれて。あなたがいなかったら、私はもうこの世にいなかった。あなたがいなかったら、あ
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第0809話

瑠璃は、早足で自分に近づいてくる隼人の姿を見て、胸が少し早鐘を打つように高鳴った。彼女は今、身重の身。隼人が何か衝動的な行動を取るのではと、不安になり、警戒心から一歩後ずさった。その反応を見た隼人は、口元を皮肉げに歪めた。「目黒夫人は俺が何かするのを心配してるのか?瞬の子供が傷つくんじゃないかって?」「……」確かに、彼女はお腹の子が何より大事だった。だが、その子は——隼人、あなたの子なのよ。瑠璃はその想いをぐっと飲み込み、淡々とした口調で答えた。「その通りよ。この子は私にとって何よりも大切。だから目黒さんには、くれぐれも言動にご注意願いたいわ」その言葉が落ちた瞬間、隼人の瞳が一気に暗く沈んだ。整った眉の間に、鋭い冷気が宿る。「そんなに大事なら……風邪をひかないように、ちゃんと傘を差せよ」そう言いながら、彼は手にしていた傘を差し出し、ポケットから何かを取り出した。瑠璃が目を凝らすと、細い雨の向こうに、彼の指先にはあの色褪せた七色の貝殻が握られていた。「昔、君はこれで清算しようって言ったよな。お互いにもう、何も借りも貸しもない。——だから今、返すよ」その言葉の意味は明白だった。だが、瑠璃にとっては予想していなかった場面だった。この貝殻は十年以上前に彼女が贈ったもの。隼人はそれを、どんなときも肌身離さず持っていた。そんな大切なものを、今、彼は返そうとしている。——だから、落とし物だと言ったのね。隼人は彼女が茫然としているのを見て、唇を軽く持ち上げた。「目黒夫人、何を考えてる?——もしかして、本当は俺と清算したくないのか?」その言葉に、瑠璃は平静を装いながら彼を見つめ返した。「あなたの言うとおり。清算するなら、思い出の品なんてもういらないわ」そう言って、彼女はバッグの内ポケットから、ずっと大切に保管していたしおりを取り出した。「これも、目黒さんにお返しするわ」隼人は目を伏せ、しおりをじっと見つめた。「目黒夫人、まさかこんなものを今でも持ってたなんて……もしかして、俺みたいなクズ男にまだ未練があるのか?」「違うわ。今こうして返すために、持ち歩いてただけ」瑠璃はあっさりと言い切った。「受け取りなさい」隼人は手を伸ばし、しおりを受け取った。「そうか。なら、このしおりもも
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第0810話

蟻が全身を噛みつくような痛みが再び瑠璃を襲い、彼女はそっと目を上げ、必死に涙を堪えた。泣いちゃだめ。お腹の子のために、強くあらなければ。……倫太郎の墓参りを終えた瑠璃は、すぐに瞬の別荘へと連れ戻された。瞬は書斎でオンライン会議の真っ最中だったが、瑠璃が戻ったと聞くと、すぐに会議を切り上げた。彼は瑠璃のコートが雨に濡れているのを見て、少し気になった様子で口を開いた。「傘は使わなかったのか?結構濡れてるじゃないか」「これくらいの小雨、平気よ」彼女は冷ややかに答え、瞬を避けるように階段を上っていった。瞬は、その冷たい態度にももう慣れていた。「今は妊娠中なんだ、雨に濡れると身体に悪い」——雨に濡れる。瑠璃はふと、手にしていた傘を見下ろした。それは、さっき墓地で隼人が差し出してくれた傘だった。けれど、もうその柄には彼の体温は残っていなかった。「……君も少しは目黒家の爺さんを気にかけてるだろう?今夜、挨拶に行く」階段を上る瑠璃の足が一瞬止まった。「わかったわ」彼女には、同意以外の選択肢など存在しなかった。夕方になると、瞬はメイドに高級ブランドのドレスやアクセサリーを運ばせた。すべてが限定品で、一目で高級だとわかるものばかりだった。瑠璃は黙って瞬の意向に従って着替えた後、隼人が返してくれた七色の貝殻に小さな穴をあけ、ネックレスチェーンに通した。少し色あせてはいたが、それでもその貝殻は美しかった。鏡の前に立ち、ネックレスを首にかけ、襟の中にそっと隠す。準備を終えた彼女は階下へ降りていった。外はまだ雨が降っていた。瞬はすでに車の中で待っており、彼女の姿を見ると満足げに微笑んだ。「千璃、とても綺麗だよ。この子も、きっと君に似て美しく生まれてくるだろう」——子供は隼人の子よ。だからきっと、綺麗な子に生まれるわ。瑠璃は心の中で密かに反論した。瞬は彼女の冷たい態度にも気にする様子なく、運転手に出発を命じた。空がうっすらと暗くなり始めた頃、車は目黒家の本邸に到着した。瑠璃が車を降りた瞬間、すぐ隣にもう一台の高級車が停まった。ドアが開き、隼人が傘をさして助手席のドアを開けた。そこから降りてきたのは——春奈だった。彼女は嬉しそうに隼人の腕にしっかりと絡みつき、二人の姿を見た春
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