愛と憎しみのすれ違い のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 9

9 チャプター

第1話

もう何回目かなんて覚えていない。 霧島淵斗(きりしま ひろと)は気まぐれに私を車に押し込み、猛スピードで山道を駆け上がっていく。 メーターは120kmを指していた。胸が詰まる。 「はる……淵斗……お願いだからスピードを落として!路面が危ない、安全第一だ!」 彼は鼻で笑った。 「心配するな。お前の命なんて安いもんだが、俺の命は惜しいんだよ」 言葉が詰まり、喉が渇く。まただ。 やがて車は止まり、着いたのは犬の飼育場だった。 「初音、俺は心を入れ替えて、いい夫になろうと思ってるんだ。友達と仲良くしなきゃ話にならないだろ?」 そう言いながら、彼が連れ出したのは大型犬――コーカシアンと呼ばれるものらしい。 血の気が引いた。私が犬を怖がるのを知っているのに。 幼い頃、田舎で野良犬に何度も足を噛まれたことがトラウマになっている。 目の前の犬は、かつて村で見たどんな凶暴な犬よりもはるかに大きい。 以前の橘陽翔(たちばな はると)なら棒を持って犬を追い払ってくれたものだ。 だが今の彼は、嘲笑を浮かべてこう言った。 「初音、ゲームをしよう。10秒やる。その間に逃げろ。うちの可愛い子に捕まらなければ、言い分を信じてやるよ」 犬は今にも飛び掛かりそうだった。 瞳孔が開き、彼が何をしようとしているのか悟る。 「10……9……」 淵斗のカウントが始まった。冗談ではない。本気だ。 私は全力で走り出した。けれど、人間が四本足の動物に勝てるわけがない。 巨大な犬が私に覆いかぶさり、鋭い爪が足を引き裂く。痛みが鋭く走る。 大きな口が開き、私の首を狙ってくる。 噛まれたら、半分は命を持っていかれる。 思わず両手で頭を庇った。 「陽翔、助けて!」 犬の牙が手に食い込み、鋭い痛みが全身を駆け巡る。 観客のように冷たく見ていた淵斗が、何かに触発されたように頭を押さえ、口笛を吹いた。 「チャンスはやった。掴めなかったのは自業自得だ」 彼の視線は氷のように冷たかった。 血が滲む手を抑え、胸がぎゅっと痛む。 「淵斗、こんなことをしてはいけない。思い出した時に、絶対後悔するよ」 「後悔?俺が?後悔するのは、お前にもっと酷いことをしなかったことだけだ。俺は何も忘れちゃいない。思い出す必要なんて
続きを読む

第2話

淵斗は、父がどこかで拾ってきた子供だった。 晴れた日に拾ったから、「陽翔」という名前がつけられた。 私たちはようやく婚姻届を提出し、間近に迫った幸福を迎えようとしていた。 ところが、陽翔が乗っていた飛行機が墜落し、彼は誰からも死んだと思われてしまった。 それでも私は信じられなかった。奇跡があるかもしれない、彼もまたどこかで拾われて生きているかもしれない、と。 そう信じて2年間、私は彼を探し続けた。 そして、霧島家が開いた記者会見で、家族の跡継ぎが見つかったという発表があった。私は記者としてその場にいた。 霧島淵斗は橘陽翔だったのだ。 再会できた喜びで胸がいっぱいだった私とは対照的に、彼の表情は暗く、私の首を掴むと、低い声で言った。 「よくも俺を探しに来たな!」 彼は私のことも、かつて一緒に暮らした村のことも覚えていた。 けれど、彼の記憶の中では、私の父は彼を誘拐した元凶、そして私は彼を虐待していた共犯者になっていた。 彼の母親は、彼が誘拐されたことでうつ病になり、そのまま亡くなった――それもすべて私たちのせいだと彼は思い込んでいた。 私たちの関係は今、たった一枚の結婚証明書でかろうじてつながっているにすぎない。 彼が離婚を切り出さないのは、私を「復讐」するためだった。 そして私は、彼が記憶を取り戻すことを待っている。ただ、それだけだった。 目を閉じると、次々と記憶が蘇る。 幼い頃、父は私たち二人の子供を育てるのに苦労していた。 陽翔は自分の少ない生活費を切り詰めて、私が少しでも幸せに過ごせるようにしてくれていた。 時々、父が漁に出るのを手伝うこともあったが、一度私は危うく命を落としかけた。 それ以来、陽翔は絶対に私を漁に連れて行かなくなった。 私が少しでも楽をできるようにと、彼は違法に献血をしてお金を稼ぎ、そのせいで顔が真っ青になって倒れたこともあった。 その時、彼は弱々しく笑ってこう言った。 「初音、あの時みたいなことがまた起きるなんて耐えられない。だから、何でもするさ」 あの頃の彼を、どうして簡単に諦められるだろう。 その夜、淵斗は帰ってこなかった。 代わりに私が見たのは、藤堂瑠衣(とうどう るい)のSNSの投稿だった。 そこには淵斗がいつもしている腕時計
続きを読む

第3話

淵斗はどこか落ち着かない様子で、瑠衣の腕を掴むとすぐに外へ連れ出そうとした。 「初音、少し彼女と話をしてくる」 そう言い残し、彼は扉を閉めた。私たちの間に壁ができ、彼らは外に隔絶された。 瑠衣を目にした瞬間、心の奥底に押し込めていた不安が一気に吹き出してくる。 私は部屋の中を行ったり来たりしながら、物を投げつけたい衝動を必死に抑えた。 どれほどの時間が経っただろうか。とうとう我慢できず、そっとドアに耳を近づけた。 その時、淵斗の声が聞こえた。 「これも全部、お前のためなんだ!」 瑠衣が帰った後、淵斗は険しい顔で戻ってきた。 その目はどこか怯えているようで、緊張が見て取れる。 「初音、深く考えるな。ただの仕事のことだ。彼女との取引を取り消したから、文句を言いに来ただけだよ」 飲み込んだ言葉を胸の中に押し込み、私は微笑んで答えた。 「早くご飯作ってよ、お腹ペコペコなの!」 彼がホッと息をついたのを見て、私は心の中で自嘲気味に笑った。 自分がこんなにも臆病だとは。父を亡くしてから、やっと手に入れた最後の家族と幸せを壊したくない、それだけだった。 数日後、淵斗が私にドレスを送ってきた。 「今夜、オークションがあるんだ。一緒に来てほしい」 彼が選んだ服は私にぴったりで、趣味の良さは昔と変わっていなかった。 以前、二人でショッピングをした時、私の服の好みが気に入らないといって、彼が全て選んでくれたのを思い出した。 ドレスを身にまとい、化粧を済ませて、彼の前でくるりと回ってみせる。 「どう?綺麗すぎて頭がクラクラしちゃった?」 淵斗は呆然とした後、急に頭を押さえた。 その顔には痛みが浮かんでいる。 「どうしたの?また頭が痛むの?」 記憶の問題が何度もあっただけに、私は心配になった。 彼は首を振り、私の頬に軽くキスを落とした。 「大丈夫。ただ、綺麗すぎて、見とれていただけだよ」 私はオークションにあまり興味がなく、展示品にもほとんど関心を持たなかった。 しかし、淵斗は何かを気にしているのか、ずっと落ち着かず、緊張した目で舞台を見つめていた。 やがて、司会者が一つの指輪を取り出した時、彼は突然背筋を伸ばし、私を揺り起こした。 「初音、これ、気に入る?」 私はほと
続きを読む

第4話

口を覆われ、冷たい金属が腰に押し付けられた。 「抵抗するな。さもなければ、その場で命を奪う」 私は無理やりバンに押し込まれ、何かよく分からない液体を飲まされ、意識を失った。 次に目を覚ました時、海の塩っぽい匂いが鼻をついた。 そこは遊覧船の上だった。 私は甲板に投げ出され、目の前には穏やかな顔つきをした男が座っていた。 「橘さん、だよね。心配しなくていい。ただ招待しただけさ。ついでに霧島とちょっと取引をしたくてね」 男の言葉は丁寧だったが、その雰囲気には背筋が凍るものがあった。 彼は私のスマホを手で弄びながら、淵斗に電話をかけた。 何度か呼び出し音が鳴った後、ようやく淵斗が応答した。 「霧島、取引の話だ。どうする?」 そう言って、男はスマホのカメラをオンにし、私の髪を掴み上げた。私は悲鳴を上げた。 「これがお前の大事な恋人だろう?俺から奪った品物を返してくれれば、彼女を無事に返してやる。どうだ、公平な条件だろう?」 電話の向こうから、淵斗が慌てた声を上げた。 「彼女には手を出すな!何でも条件を呑む!品物を返せばいいんだろう?すぐに届ける!」 電話を切ると、その青龍さんと呼ばれた男は満足げに笑った。 「お前たちの愛は本当に高値だな。何十億もする品物を、あっさり返してくれるなんて。やっぱりこの女を捕まえて正解だったよ」 私は甲板に倒れ込んだまま、頭が混乱していた。 けれど、心の中の不安は少しずつ和らいでいく。 彼が必ず助けに来てくれる、そう信じていたからだ。 青龍さんたちは、淵斗の約束があるからか、最低限の食事と飲み物は与えてくれた。 自由は奪われていたが、過酷な扱いではなかった。 しかし、三日が過ぎても彼は来なかった。 一週間が経っても、まだ来ない。 青龍さんはついに苛立ちを隠せなくなり、再び淵斗に電話をかけた。 しかし、何度かけても応答はない。 怒りに任せ、青龍さんは私のスマホを床に叩きつけ、粉々に壊した。 「霧島、俺を舐める気か!」 そして部下に命令した。 「客人を丁重に扱え。毎日彼女の写真を霧島に送りつけろ。奴がどこまで耐えられるか見ものだ」 その「丁重な扱い」とやらの意味はすぐに分かった。 私の顔に薄い布を被せ、その上から水を滴らせて窒息
続きを読む

第5話

神様はまだ私を見放してはいなかったらしい。 まさか、もう一度目を覚ませる日が来るとは思わなかった。 長い間、ずっと眠っていたような気がする。 誰かが何度も私を呼んでいる。 「初音、目を覚まして」 ようやく目を開けると、誰かが興奮した様子でこちらに駆け寄ってきた。 私は反射的に腕に繋がれた点滴を振りほどこうとし、身を隠せる場所を探したが、病室には逃げ場がなかった。 壁際の隅に身を縮め、地面に這いつくばった。 「ごめんなさい、私が悪かったです!お願い、もう殴らないでください!ちゃんと淵斗に電話をかけますから!」 身を探りながらスマホを探したが、どこにも見当たらない。 焦った私は必死になって探し続けた。 「私のスマホ、どこですか?お願いです、返してください!淵斗に電話しますから!」 目の前の人が手を上げると、私は条件反射で頭を抱え込んだ。 「殴らないでください……淵斗はもうすぐ助けに来てくれます。本当に、すぐ来ますから!」 その人は妙な顔をしていた。目が赤く潤んでいる。 大の男が泣いているのだ。 「初音……俺だよ。霧島淵斗だ。迎えに来たんだ」 あの監禁された地獄の日々、淵斗の名前が出るたびに私は殴られた。 だから、彼の名前を聞いただけで、全身が条件反射で痛みを感じるようになっていた。 私は彼をさらに恐れるようになり、声を震わせて叫んだ。 「お願い、もう殴らないでください!淵斗はもうすぐ来ますから!」 淵斗は慎重に私を抱きしめ、震える声で謝り続けた。 「俺が悪かった。本当にクズだ。こんな目に遭わせて……遅くなってごめん。どうか、こんな風にならないでくれ……」 逃げ出そうとしたが、力が入らず、身動きが取れない。 ふと窓ガラスに反射した自分の姿が目に入った。 そこに映っていたのは……誰だ? 裸になった皮膚は傷だらけで、一箇所も無事な場所がなかった。 顔は火傷のせいで潰れ、治療を受けられなかったせいで膿んで黒く変色している。元の面影はどこにも残っていなかった。 「違う、これは私じゃない……あの女を追い出して!」 突然狂ったように叫び、手に取ったものを窓に叩きつけた。 ガラスは粉々に砕け散り、医師が駆け込んでくると、私は鎮静剤を打たれてベッドに押さえつけられた。
続きを読む

第6話

医師によると、私は病院で約1ヶ月間意識を失っていたらしい。 体の傷はほぼ治ったと聞かされ、淵斗は私を家に連れ帰った。 退院する際、医師は「重大な精神的ショックを受けた反応です」と説明し、感情をしっかりケアする必要があると言った。 家は何も変わっていなかった。けれど、すべてが変わってしまったようにも感じられた。 淵斗はどこかから昔の写真を見つけ出し、それをベッドサイドに飾っていた。 写真の中、スキー場で彼は分厚い防寒着を着た私を抱きしめ、まるで子供のような笑顔を浮かべていた。 その幸せは、写真の枠から溢れ出しそうなくらいだった。 手を伸ばして、写真をゴミ箱に投げ込みたい衝動をどうにか抑えた。 夜になると、淵斗は自然と私の隣に横になった。 何も言わず、私は枕を抱えて部屋を出ようとした。 それを見た彼が眉をひそめる。 「初音、どこへ行くんだ?」 その声に驚き、私は咄嗟に頭を抱え込んだ。 「殴らないで……私が悪かったです。ちょっと別の部屋で寝たいだけなんです……その……悪夢を見るかもしれないから、あなたを起こしちゃいけないと思って……ソファでもいいので、そこで寝ます!」 彼は肩を落とし、両手を力なく垂らした。 「初音、誰も君を殴ったりしない。ここにいてくれ。俺が隣の部屋で寝るから、何かあればすぐに分かる」 深夜になると、監禁されていた記憶が夢の中で甦る。 私はその度に目を覚まし、叫びながら泣いた。 淵斗は急いで駆けつけ、私を落ち着かせてくれる。 彼の胸に顔を埋め、息が詰まるほど泣きじゃくりながら問いかけた。 「淵斗……どうして私がこんな目に遭うの?私、一体何を間違えたの?」 私たち二人とも、その答えを心の中で分かっていた。 けれど、彼は何も言えず、ただ私を強く抱きしめるだけだった。 「ごめん……守れなかった俺が悪い」 そんな夜が毎晩繰り返された。 私は夜眠ることができず、彼も一緒に夜更かしをした。 私はスマホで動画を見て気を紛らわせていた。 ある動画では、誰かがチベットに行き、3000段の階段を登ってお守りを手に入れた話をしていた。 それを見て、思わず笑った。 「淵斗、もし本当に効くならいいのにね。外に出られるようになったら、私も試してみたいな」 翌日、淵
続きを読む

第7話

「どうしてあの女のために、そこまで自分を追い詰めるの!」 「彼女は俺の妻だ。俺が彼女のために何をしようと、それは当然のことだ。お前には口を挟む権利なんてない」 私は扉を押し開け、この茶番劇を遮った。 ベッドの上で淵斗は疲れ切った顔をして横たわっていた。 瑠衣は私を見て怒りに震え、私に平手打ちをしようと手を振り上げたが、淵斗が彼女の腕を掴んで止めた。 「彼女に敬意を払え。初音は俺の妻だ。それを忘れるなら、容赦しないぞ」 瑠衣は力強く押しのけられ、倒れ込んだまま信じられないという目で淵斗を見つめた。 「彼女が妻だって?じゃあ私は何?この指輪は、あなたが自分で私にはめたものでしょう!」 その言葉に、淵斗のこめかみに血管が浮き上がり、立ち上がると彼女の首を掴もうとした。 「嘘をつくな!」 「嘘?」 瑠衣は必死に彼の手を振り払おうとしながら叫んだ。 「橘初音、あなたは知らないんでしょう? この2年間、淵斗と私はずっと親密だった! 彼が突然こう言ったのよ。『お前をこれ以上傷つけたくない。だから初音を囮にして、仇敵に自分が愛しているのは初音だと思わせるんだ。初音が死ねば、離婚すらする必要もなくなる』ってね!」 瑠衣の声は次第に弱くなり、淵斗の怒りはますます激しくなっていった。 「嘘を言うな!」 彼女が今にも意識を失いそうな様子だったので、私は軽く声をかけた。 「そのままだと彼女、死んじゃうかもよ」 淵斗は苦しそうに手を離し、肩を落とした。 私は医者を呼びに行き、瑠衣を病室から連れ出させた。 部屋には淵斗と私だけが残った。空気が薄く感じられるほどの沈黙が流れる。 淵斗はベッドの端に座り込んだまま動かない。 私は軽く頭を掻きながら声をかけた。 「お腹空いてる?出前を頼もうか」 彼は私をじっと見つめ、目を赤く潤ませながら震える声で言った。 「初音……聞きたいことが何もないのか?」 私は首を横に振り、スマホで出前アプリを開いて画面に集中した。 「でも、なんで怒らないんだ?昔の君なら……」 昔の私――あの頃の私は、確かに嫉妬深かった。 彼が女友達と少し多く話すだけで、感情を抑えられなかったこともある。 彼の言葉を遮るように、私は真剣な顔で尋ねた。 「魚のスープにす
続きを読む

第8話

実際、私の精神状態はかなり回復していた。 けれど、淵斗の方がどこかおかしい。 毎晩、彼がこっそりと私の様子を確認しに来ているのが分かる。 また、たまに外で聞こえる彼の抑えた泣き声も耳に入ってきた。 ある日、私は淵斗に「仕事に復帰したい」と告げた。 彼は動揺した様子で、不安を隠しきれない。 「初音……君がある日外に出て行ったきり、もう帰ってこないんじゃないかと思うんだ」 私は彼に静かに微笑みかけ、軽く問いかけた。 「陽翔、何を怖がってるの?」 彼は私の目を直視できず、その場から逃げるように立ち去った。 実際、仕事に復帰したいのは本当だった。 私の人生は止まることなく続いていく。どんな経験をしても、時間は進み続ける。 だから、私も前に進まなければならない。 淵斗は今、財力も権力も手にしている。それを利用しない手はない。 彼は私を毎日送り迎えし、私の上司にも一声かけてくれたおかげで、最良の仕事環境を提供された。 大企業の社長であるはずの彼だが、今ではすっかり「私を見守る人」になってしまった。 私が仕事をしている間、彼は家で料理を作り、帰宅すると一緒に食べようと待っている。 彼の期待に満ちた目を前に、私は申し訳なさそうに言った。 「淵斗、私、お腹空いてないの。一人で食べて」 その言葉を聞いた彼の瞳の輝きが消え、彼は作った料理を次々とゴミ箱に捨てた。 まるで、かつて私が彼を待ちながら捨てていたように。 「淵斗、少なくとも私は、あなたにスープをぶっかけたことはないけどね」 その言葉に、彼は手にしていた器を落とし、割ってしまった。 彼は謝罪する言葉すら言えず、ただ慎重に、恐る恐る尋ねた。 「嫌いなら、次は別の料理を作るよ。今好きなものを教えてくれないか?」 私は微笑みながら答えた。 「淵斗、あなたが作った料理は全部好きよ」 「……本当?」 「でもね、あなたを見てると、なんだか食欲が湧かないだけ」 「そうか……じゃあ、また作るよ。君が食べたいと思えるまで」 会社では、新人の星野くんを指導することになった。 彼は私より数歳若く、毎日何かしら奇妙な質問を持ち込んでくる。 さらに、私のデスクに小さなプレゼントを積み上げていた。 「星野くん、私はもう歳だから、
続きを読む

第9話

星野くんが私を家まで送ってくれた。 別れ際、彼は少し子供っぽい仕草で真面目に「さようなら」と言い、それがなんだかおかしくて笑ってしまった。 私も挨拶を返しながら、視界の隅で見慣れた靴が目に入った。 淵斗がリビングに座っていた。髭が伸びており、どうやら一晩中眠っていなかったようだ。 彼は私に何か聞きたそうだった。 「昨夜は……」 けれど、その言葉は飲み込まれ、代わりに言ったのはこうだった。 「朝ごはん、何が食べたい?作ってくるよ」 私は手を上げて彼の動きを止めた。 「淵斗、私たち、そろそろ離婚届を取りに行こうよ」 ずっと頭上に垂れていた剣が、ついに彼の上に落ちた。 淵斗は突然激昂し、周囲の物を次々と床に叩きつけた。 「今朝のあの男のせいか?君と彼が一晩中一緒にいたからだろう!」 彼は両手で顔を覆い、その場に膝をついた。 「どうしたって、もう一度俺を受け入れてはくれないんだな」 私は静かに頷いた。 「あなたのそばにいたら、また誰かにさらわれるかもしれない。そして犬のように扱われ、尊厳を踏みにじられる。私の体はもう、それに耐えられるほど強くない」 淵斗の声は壊れたように震えていた。 「でも、昔の俺たちはあんなに幸せだったじゃないか。どうして他の誰かを愛せるんだ!」 私の声は、それまで以上に真剣だった。 「淵斗、実は今の私は、とても幸せだよ」 そう言って、少し考えを巡らせた。 「例えば、家を買ったばかりで、新居でこれからの生活に胸を膨らませて泣いた時のように幸せ」 嘘だった。星野くんのせいではない。 ただ、私はきっと幸せを手にできると分かっているからだ。それを手にする価値があると信じているからだ。 その言葉に、淵斗の表情は絶望に染まった。 彼はきっと思い出しているのだろう。 あの頃、誰の助けもなく、家の頭金をようやく捻出した時のことを。 私は彼に言った。 「私は本当に幸運だよ。父を亡くしてからも、新しい家族を得られた。私たちはしょっちゅう工事現場を見に行ったよね。遠くからあの家を眺めるだけで、希望に満ち溢れていた。未来の幸せな生活を夢見ていた」 淵斗は結局、離婚届にサインした。 彼の財産の大半を私に譲り、私が一生お金に困らないようにしてくれた。 私
続きを読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status