星野くんが私を家まで送ってくれた。 別れ際、彼は少し子供っぽい仕草で真面目に「さようなら」と言い、それがなんだかおかしくて笑ってしまった。 私も挨拶を返しながら、視界の隅で見慣れた靴が目に入った。 淵斗がリビングに座っていた。髭が伸びており、どうやら一晩中眠っていなかったようだ。 彼は私に何か聞きたそうだった。 「昨夜は……」 けれど、その言葉は飲み込まれ、代わりに言ったのはこうだった。 「朝ごはん、何が食べたい?作ってくるよ」 私は手を上げて彼の動きを止めた。 「淵斗、私たち、そろそろ離婚届を取りに行こうよ」 ずっと頭上に垂れていた剣が、ついに彼の上に落ちた。 淵斗は突然激昂し、周囲の物を次々と床に叩きつけた。 「今朝のあの男のせいか?君と彼が一晩中一緒にいたからだろう!」 彼は両手で顔を覆い、その場に膝をついた。 「どうしたって、もう一度俺を受け入れてはくれないんだな」 私は静かに頷いた。 「あなたのそばにいたら、また誰かにさらわれるかもしれない。そして犬のように扱われ、尊厳を踏みにじられる。私の体はもう、それに耐えられるほど強くない」 淵斗の声は壊れたように震えていた。 「でも、昔の俺たちはあんなに幸せだったじゃないか。どうして他の誰かを愛せるんだ!」 私の声は、それまで以上に真剣だった。 「淵斗、実は今の私は、とても幸せだよ」 そう言って、少し考えを巡らせた。 「例えば、家を買ったばかりで、新居でこれからの生活に胸を膨らませて泣いた時のように幸せ」 嘘だった。星野くんのせいではない。 ただ、私はきっと幸せを手にできると分かっているからだ。それを手にする価値があると信じているからだ。 その言葉に、淵斗の表情は絶望に染まった。 彼はきっと思い出しているのだろう。 あの頃、誰の助けもなく、家の頭金をようやく捻出した時のことを。 私は彼に言った。 「私は本当に幸運だよ。父を亡くしてからも、新しい家族を得られた。私たちはしょっちゅう工事現場を見に行ったよね。遠くからあの家を眺めるだけで、希望に満ち溢れていた。未来の幸せな生活を夢見ていた」 淵斗は結局、離婚届にサインした。 彼の財産の大半を私に譲り、私が一生お金に困らないようにしてくれた。 私
実際、私の精神状態はかなり回復していた。 けれど、淵斗の方がどこかおかしい。 毎晩、彼がこっそりと私の様子を確認しに来ているのが分かる。 また、たまに外で聞こえる彼の抑えた泣き声も耳に入ってきた。 ある日、私は淵斗に「仕事に復帰したい」と告げた。 彼は動揺した様子で、不安を隠しきれない。 「初音……君がある日外に出て行ったきり、もう帰ってこないんじゃないかと思うんだ」 私は彼に静かに微笑みかけ、軽く問いかけた。 「陽翔、何を怖がってるの?」 彼は私の目を直視できず、その場から逃げるように立ち去った。 実際、仕事に復帰したいのは本当だった。 私の人生は止まることなく続いていく。どんな経験をしても、時間は進み続ける。 だから、私も前に進まなければならない。 淵斗は今、財力も権力も手にしている。それを利用しない手はない。 彼は私を毎日送り迎えし、私の上司にも一声かけてくれたおかげで、最良の仕事環境を提供された。 大企業の社長であるはずの彼だが、今ではすっかり「私を見守る人」になってしまった。 私が仕事をしている間、彼は家で料理を作り、帰宅すると一緒に食べようと待っている。 彼の期待に満ちた目を前に、私は申し訳なさそうに言った。 「淵斗、私、お腹空いてないの。一人で食べて」 その言葉を聞いた彼の瞳の輝きが消え、彼は作った料理を次々とゴミ箱に捨てた。 まるで、かつて私が彼を待ちながら捨てていたように。 「淵斗、少なくとも私は、あなたにスープをぶっかけたことはないけどね」 その言葉に、彼は手にしていた器を落とし、割ってしまった。 彼は謝罪する言葉すら言えず、ただ慎重に、恐る恐る尋ねた。 「嫌いなら、次は別の料理を作るよ。今好きなものを教えてくれないか?」 私は微笑みながら答えた。 「淵斗、あなたが作った料理は全部好きよ」 「……本当?」 「でもね、あなたを見てると、なんだか食欲が湧かないだけ」 「そうか……じゃあ、また作るよ。君が食べたいと思えるまで」 会社では、新人の星野くんを指導することになった。 彼は私より数歳若く、毎日何かしら奇妙な質問を持ち込んでくる。 さらに、私のデスクに小さなプレゼントを積み上げていた。 「星野くん、私はもう歳だから、
「どうしてあの女のために、そこまで自分を追い詰めるの!」 「彼女は俺の妻だ。俺が彼女のために何をしようと、それは当然のことだ。お前には口を挟む権利なんてない」 私は扉を押し開け、この茶番劇を遮った。 ベッドの上で淵斗は疲れ切った顔をして横たわっていた。 瑠衣は私を見て怒りに震え、私に平手打ちをしようと手を振り上げたが、淵斗が彼女の腕を掴んで止めた。 「彼女に敬意を払え。初音は俺の妻だ。それを忘れるなら、容赦しないぞ」 瑠衣は力強く押しのけられ、倒れ込んだまま信じられないという目で淵斗を見つめた。 「彼女が妻だって?じゃあ私は何?この指輪は、あなたが自分で私にはめたものでしょう!」 その言葉に、淵斗のこめかみに血管が浮き上がり、立ち上がると彼女の首を掴もうとした。 「嘘をつくな!」 「嘘?」 瑠衣は必死に彼の手を振り払おうとしながら叫んだ。 「橘初音、あなたは知らないんでしょう? この2年間、淵斗と私はずっと親密だった! 彼が突然こう言ったのよ。『お前をこれ以上傷つけたくない。だから初音を囮にして、仇敵に自分が愛しているのは初音だと思わせるんだ。初音が死ねば、離婚すらする必要もなくなる』ってね!」 瑠衣の声は次第に弱くなり、淵斗の怒りはますます激しくなっていった。 「嘘を言うな!」 彼女が今にも意識を失いそうな様子だったので、私は軽く声をかけた。 「そのままだと彼女、死んじゃうかもよ」 淵斗は苦しそうに手を離し、肩を落とした。 私は医者を呼びに行き、瑠衣を病室から連れ出させた。 部屋には淵斗と私だけが残った。空気が薄く感じられるほどの沈黙が流れる。 淵斗はベッドの端に座り込んだまま動かない。 私は軽く頭を掻きながら声をかけた。 「お腹空いてる?出前を頼もうか」 彼は私をじっと見つめ、目を赤く潤ませながら震える声で言った。 「初音……聞きたいことが何もないのか?」 私は首を横に振り、スマホで出前アプリを開いて画面に集中した。 「でも、なんで怒らないんだ?昔の君なら……」 昔の私――あの頃の私は、確かに嫉妬深かった。 彼が女友達と少し多く話すだけで、感情を抑えられなかったこともある。 彼の言葉を遮るように、私は真剣な顔で尋ねた。 「魚のスープにす
医師によると、私は病院で約1ヶ月間意識を失っていたらしい。 体の傷はほぼ治ったと聞かされ、淵斗は私を家に連れ帰った。 退院する際、医師は「重大な精神的ショックを受けた反応です」と説明し、感情をしっかりケアする必要があると言った。 家は何も変わっていなかった。けれど、すべてが変わってしまったようにも感じられた。 淵斗はどこかから昔の写真を見つけ出し、それをベッドサイドに飾っていた。 写真の中、スキー場で彼は分厚い防寒着を着た私を抱きしめ、まるで子供のような笑顔を浮かべていた。 その幸せは、写真の枠から溢れ出しそうなくらいだった。 手を伸ばして、写真をゴミ箱に投げ込みたい衝動をどうにか抑えた。 夜になると、淵斗は自然と私の隣に横になった。 何も言わず、私は枕を抱えて部屋を出ようとした。 それを見た彼が眉をひそめる。 「初音、どこへ行くんだ?」 その声に驚き、私は咄嗟に頭を抱え込んだ。 「殴らないで……私が悪かったです。ちょっと別の部屋で寝たいだけなんです……その……悪夢を見るかもしれないから、あなたを起こしちゃいけないと思って……ソファでもいいので、そこで寝ます!」 彼は肩を落とし、両手を力なく垂らした。 「初音、誰も君を殴ったりしない。ここにいてくれ。俺が隣の部屋で寝るから、何かあればすぐに分かる」 深夜になると、監禁されていた記憶が夢の中で甦る。 私はその度に目を覚まし、叫びながら泣いた。 淵斗は急いで駆けつけ、私を落ち着かせてくれる。 彼の胸に顔を埋め、息が詰まるほど泣きじゃくりながら問いかけた。 「淵斗……どうして私がこんな目に遭うの?私、一体何を間違えたの?」 私たち二人とも、その答えを心の中で分かっていた。 けれど、彼は何も言えず、ただ私を強く抱きしめるだけだった。 「ごめん……守れなかった俺が悪い」 そんな夜が毎晩繰り返された。 私は夜眠ることができず、彼も一緒に夜更かしをした。 私はスマホで動画を見て気を紛らわせていた。 ある動画では、誰かがチベットに行き、3000段の階段を登ってお守りを手に入れた話をしていた。 それを見て、思わず笑った。 「淵斗、もし本当に効くならいいのにね。外に出られるようになったら、私も試してみたいな」 翌日、淵
神様はまだ私を見放してはいなかったらしい。 まさか、もう一度目を覚ませる日が来るとは思わなかった。 長い間、ずっと眠っていたような気がする。 誰かが何度も私を呼んでいる。 「初音、目を覚まして」 ようやく目を開けると、誰かが興奮した様子でこちらに駆け寄ってきた。 私は反射的に腕に繋がれた点滴を振りほどこうとし、身を隠せる場所を探したが、病室には逃げ場がなかった。 壁際の隅に身を縮め、地面に這いつくばった。 「ごめんなさい、私が悪かったです!お願い、もう殴らないでください!ちゃんと淵斗に電話をかけますから!」 身を探りながらスマホを探したが、どこにも見当たらない。 焦った私は必死になって探し続けた。 「私のスマホ、どこですか?お願いです、返してください!淵斗に電話しますから!」 目の前の人が手を上げると、私は条件反射で頭を抱え込んだ。 「殴らないでください……淵斗はもうすぐ助けに来てくれます。本当に、すぐ来ますから!」 その人は妙な顔をしていた。目が赤く潤んでいる。 大の男が泣いているのだ。 「初音……俺だよ。霧島淵斗だ。迎えに来たんだ」 あの監禁された地獄の日々、淵斗の名前が出るたびに私は殴られた。 だから、彼の名前を聞いただけで、全身が条件反射で痛みを感じるようになっていた。 私は彼をさらに恐れるようになり、声を震わせて叫んだ。 「お願い、もう殴らないでください!淵斗はもうすぐ来ますから!」 淵斗は慎重に私を抱きしめ、震える声で謝り続けた。 「俺が悪かった。本当にクズだ。こんな目に遭わせて……遅くなってごめん。どうか、こんな風にならないでくれ……」 逃げ出そうとしたが、力が入らず、身動きが取れない。 ふと窓ガラスに反射した自分の姿が目に入った。 そこに映っていたのは……誰だ? 裸になった皮膚は傷だらけで、一箇所も無事な場所がなかった。 顔は火傷のせいで潰れ、治療を受けられなかったせいで膿んで黒く変色している。元の面影はどこにも残っていなかった。 「違う、これは私じゃない……あの女を追い出して!」 突然狂ったように叫び、手に取ったものを窓に叩きつけた。 ガラスは粉々に砕け散り、医師が駆け込んでくると、私は鎮静剤を打たれてベッドに押さえつけられた。
口を覆われ、冷たい金属が腰に押し付けられた。 「抵抗するな。さもなければ、その場で命を奪う」 私は無理やりバンに押し込まれ、何かよく分からない液体を飲まされ、意識を失った。 次に目を覚ました時、海の塩っぽい匂いが鼻をついた。 そこは遊覧船の上だった。 私は甲板に投げ出され、目の前には穏やかな顔つきをした男が座っていた。 「橘さん、だよね。心配しなくていい。ただ招待しただけさ。ついでに霧島とちょっと取引をしたくてね」 男の言葉は丁寧だったが、その雰囲気には背筋が凍るものがあった。 彼は私のスマホを手で弄びながら、淵斗に電話をかけた。 何度か呼び出し音が鳴った後、ようやく淵斗が応答した。 「霧島、取引の話だ。どうする?」 そう言って、男はスマホのカメラをオンにし、私の髪を掴み上げた。私は悲鳴を上げた。 「これがお前の大事な恋人だろう?俺から奪った品物を返してくれれば、彼女を無事に返してやる。どうだ、公平な条件だろう?」 電話の向こうから、淵斗が慌てた声を上げた。 「彼女には手を出すな!何でも条件を呑む!品物を返せばいいんだろう?すぐに届ける!」 電話を切ると、その青龍さんと呼ばれた男は満足げに笑った。 「お前たちの愛は本当に高値だな。何十億もする品物を、あっさり返してくれるなんて。やっぱりこの女を捕まえて正解だったよ」 私は甲板に倒れ込んだまま、頭が混乱していた。 けれど、心の中の不安は少しずつ和らいでいく。 彼が必ず助けに来てくれる、そう信じていたからだ。 青龍さんたちは、淵斗の約束があるからか、最低限の食事と飲み物は与えてくれた。 自由は奪われていたが、過酷な扱いではなかった。 しかし、三日が過ぎても彼は来なかった。 一週間が経っても、まだ来ない。 青龍さんはついに苛立ちを隠せなくなり、再び淵斗に電話をかけた。 しかし、何度かけても応答はない。 怒りに任せ、青龍さんは私のスマホを床に叩きつけ、粉々に壊した。 「霧島、俺を舐める気か!」 そして部下に命令した。 「客人を丁重に扱え。毎日彼女の写真を霧島に送りつけろ。奴がどこまで耐えられるか見ものだ」 その「丁重な扱い」とやらの意味はすぐに分かった。 私の顔に薄い布を被せ、その上から水を滴らせて窒息