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第2話

Author: 三二
淵斗は、父がどこかで拾ってきた子供だった。

晴れた日に拾ったから、「陽翔」という名前がつけられた。

私たちはようやく婚姻届を提出し、間近に迫った幸福を迎えようとしていた。

ところが、陽翔が乗っていた飛行機が墜落し、彼は誰からも死んだと思われてしまった。

それでも私は信じられなかった。奇跡があるかもしれない、彼もまたどこかで拾われて生きているかもしれない、と。

そう信じて2年間、私は彼を探し続けた。

そして、霧島家が開いた記者会見で、家族の跡継ぎが見つかったという発表があった。私は記者としてその場にいた。

霧島淵斗は橘陽翔だったのだ。

再会できた喜びで胸がいっぱいだった私とは対照的に、彼の表情は暗く、私の首を掴むと、低い声で言った。

「よくも俺を探しに来たな!」

彼は私のことも、かつて一緒に暮らした村のことも覚えていた。

けれど、彼の記憶の中では、私の父は彼を誘拐した元凶、そして私は彼を虐待していた共犯者になっていた。

彼の母親は、彼が誘拐されたことでうつ病になり、そのまま亡くなった――それもすべて私たちのせいだと彼は思い込んでいた。

私たちの関係は今、たった一枚の結婚証明書でかろうじてつながっているにすぎない。

彼が離婚を切り出さないのは、私を「復讐」するためだった。

そして私は、彼が記憶を取り戻すことを待っている。ただ、それだけだった。

目を閉じると、次々と記憶が蘇る。

幼い頃、父は私たち二人の子供を育てるのに苦労していた。

陽翔は自分の少ない生活費を切り詰めて、私が少しでも幸せに過ごせるようにしてくれていた。

時々、父が漁に出るのを手伝うこともあったが、一度私は危うく命を落としかけた。

それ以来、陽翔は絶対に私を漁に連れて行かなくなった。

私が少しでも楽をできるようにと、彼は違法に献血をしてお金を稼ぎ、そのせいで顔が真っ青になって倒れたこともあった。

その時、彼は弱々しく笑ってこう言った。

「初音、あの時みたいなことがまた起きるなんて耐えられない。だから、何でもするさ」

あの頃の彼を、どうして簡単に諦められるだろう。

その夜、淵斗は帰ってこなかった。

代わりに私が見たのは、藤堂瑠衣(とうどう るい)のSNSの投稿だった。

そこには淵斗がいつもしている腕時計の一部が映り込んでいた。

「誰かさんは私がバーに行くのが嫌いらしいけど、心配して来てくれるなんてね。結局一晩中そばにいてくれたんだから」

傷ついた手がまだズキズキと痛む中、私は頭を振り、無表情のまま仕事に向かった。

朝の会議で、上司は興奮した様子でこう言った。

「昨夜、淵斗と瑠衣の親密な写真を撮った奴がいるぞ!これが独占できたら大スクープだ!」

PPTにはぼんやりとした写真が映し出される。

だが、はっきりわかる。陽翔が瑠衣を人混みから丁寧に守り、彼女が騒いでいるのを笑顔で受け止めている姿が。

頭の中がズキズキと痛み、怒りが沸き上がるのを感じた。

「このニュースを追って」と言う上司に対し、私は黙って立ち上がり、その場を出た。

私は瑠衣のことをずっと知っていた。

淵斗を見つけたあの日、彼は私の首を掴んで憎しみをぶつけた。その傍らに瑠衣が立ち、戸惑いながらも優しく「淵斗」と呼びかけていた。

あの時点で、彼らの距離感は親密すぎた。

私が二人に「私たちはすでに結婚している」と伝えた時、瑠衣は泣きじゃくり、淵斗はその怒りを私にぶつけてきた。

結婚証明書は彼の手で粉々に引き裂かれ、こう吐き捨てられた。

「この2年間、俺は病院で寝たきりだった。彼女がいなければ、絶対に持ちこたえられなかったんだ。二度と彼女を傷つけるな!」

物を壊したい衝動を抑え、私は市場に向かい、大量の食材を買い込んだ。

彼が好きだった料理を一品ずつ丁寧に作り、食卓に並べた。

今日は、私たちの結婚記念日のはずだったのだから。

私はもう、淵斗が帰ってこない覚悟をしていた。

けれど、彼は帰ってきた。

食卓に並んだ豪華な料理を見るなり、彼は鼻で笑い、軽蔑の声を上げた。

「どうやら俺はお前に甘すぎたみたいだな。こんなくだらないことをする余裕まで与えちまうなんて」

その言葉を無視して、私はグラスに酒を注ぎ、彼に差し出した。

「結婚2周年、おめでとう」

淵斗は無言でグラスを受け取ったが、その直後、赤い液体が私の頭に浴びせられた。

ワインが顔を伝って滴り落ちる。

「俺が戻ってきたのは、一緒に食事なんかするためだと思ったのか?」

次の瞬間、彼はテーブルをひっくり返した。

料理は床に飛び散り、熱いスープが私の体にかかる。

熱さで腕に水ぶくれができていくのが目に見えてわかった。

淵斗は一瞬驚いたようだったが、すぐに冷たい表情を取り戻し、自分の袖をまくり上げた。

彼の腕には無数の傷跡が刻まれていた。

「今日お前が受けたこの程度の痛みなんて、俺の傷に比べれば十分の一にも満たない!

毎晩俺は悪夢にうなされるんだ。お前がナイフを持って俺の体を弄んでいる光景、

お前の父親が俺を縛り上げて殴りつけている場面が何度も何度も繰り返される!」

私は虚しい笑みを浮かべるしかなかった。

何度弁解しても、彼は耳を貸さない。

私の父が彼を拾った時、彼の体は傷だらけで、命を救えるかどうかも分からないほどだった。

彼が目を覚ました時、精神的にも追い詰められていて、人を恐れ、自傷行為を繰り返した。

父と私は昼夜問わず見守り、彼がまた手首を切ろうとするたびにナイフを取り上げた。

その過程で、誤って彼を傷つけてしまったこともあった。

ある日、彼が再び命を絶とうとした時、ついに父は怒りを爆発させ、彼を縛り上げて殴った。

「みんなお前が生きることを望んでいるのに、なんで自分から死ににいくんだ!」

それでも止まらない彼に、私は最後の手段に出た。

「もしまた自分を傷つけるなら、私も同じことをするから」

彼は私を傷つけたくない一心で、ようやくその衝動を抑えるようになったのだ。

けれど今、彼の記憶は歪んでしまい、その全てが私たちのせいになっていた。

何か言おうとしたが、彼のスマホが鳴り、話は中断された。

電話の向こうから聞こえてきたのは「藤堂さん」の名前だった。

淵斗の顔色が一変し、彼は慌てて出て行こうとした。

私は彼の手を掴み、お願いした。

「今夜だけは行かないで。お願いだから」

ふと頭に浮かんだのは、婚姻届を提出したあの日。

彼が婚姻届を握りしめ、まるで子供のように喜んでいた姿だ。

「これからの結婚記念日は、毎年どうやって過ごそうか考えてるんだ。絶対に欠席なんてしないぞ!」

その時の彼の笑顔は、もうどこにもなかった。

彼は私の手を振り払い、冷たく言い放った。

「橘初音、そんな惨めな真似をするな」

そして、振り返ることなく部屋を出て行った。

時計の針が12時を指した時、私は静かに散らかった床を片付け始めた。

涙がボロボロと零れ落ち、床に染み込んでいく。

淵斗、どうせ私が記憶を持っていることに甘えているんでしょう?

でも、次があったら……次こそ、私はもうあなたを求めない。

本当に、求めないから。

淵斗が家を出たまま、半月が過ぎた。

彼はもう村から出て行った少年ではなく、私と彼の間には天と地ほどの隔たりがある。

彼が連絡してこない限り、私は彼に近づけない。

私は待っている。彼がいつまでも思い出さないなら、時間が私の信念を削り取っていくまで。

でも、神様というのは、どうやら人を試すのが好きらしい。

半月が過ぎた頃、淵斗が帰ってきた。

頭には包帯が巻かれ、目は真っ赤に充血していた。

彼は私を強く抱きしめ、その声は嗚咽で詰まっていた。

「初音、ごめん……本当にごめん」

彼が何を言ったのか、正直最初はよく分からなかった。

そう、彼はこう言ったのだ――「記憶が戻った」と。

「初音、俺は本当に最低だ。どうして君のことを、あんな風にしか思い出せなかったんだろう……」

肩に落ちる熱い何かが涙だと気づき、私も泣きたくなった。

けれど、心の奥で何かがざわついていた。

こんなにうまくいくはずがない。

どうしたらいいのか分からず、手を宙に浮かせたまま固まっていると、彼はさらに強く抱きしめてきた。

「全部思い出せたわけじゃないけど、君のことだけは鮮明に分かる。俺は本当に最低だ。全世界で陽翔を一番愛しているのは初音で、初音を一番愛しているのも陽翔だ」

そう言って彼はまた泣き出した。

馬鹿だな、と自分を責めた。

あれだけ「思い出してほしい」と願っていたのに、いざ叶うと怖くなるなんて。

彼の体温を感じるたび、乾いていた心がじんわりと満たされていくような気がした。

もういいや。これが私の陽翔だ。

私は顔を彼の胸に埋め、軽く言った。

「そうよ、陽翔は本当に馬鹿で最低の人。でも、だからって簡単には許さないからね」

淵斗は「何があっても償う」と誓った。

その行動は驚くほど早く、そして派手だった。

まず、記者会見を開き、藤堂家との婚約を完全に否定した。

「僕には愛する人がいます。彼女とは20年間の付き合いがありました。僕の未熟さから一度彼女を失いかけましたが、実は病気になる前から僕たちは結婚を予定していました。彼女が僕を拒絶しない限り、僕の人生の伴侶は彼女以外に考えられません」

さらに彼は、私を様々な社交の場に連れ出した。

そんな場には慣れておらず、行きたくないと告げたが、淵斗はきっぱりと言った。

「初音、こればかりは君のわがままを聞けない。俺たちは一生を共にするんだ。そのうち慣れなきゃいけない場なんだから、今から始めよう」

パーティー会場では、彼は人々に私を紹介して回った。

「彼女が僕の妻です」

そして付け加える。

「どうですか?綺麗でしょう?僕は本当にこの世で一番幸運な男です」

周囲の人々が私を褒めるたび、彼は得意げに言い返す。

「ですよね。どうして僕なんかが手に入れたんでしょう?本当に幸せ者です」

「霧島さん、まさかこんなに愛妻家だったなんて」と驚かれるたび、彼はただ笑顔で応じた。

その様子に私はどこか嬉しさを覚えながらも、胸にわずかな違和感を感じていた。

陽翔はもともと感情を外に出さないタイプで、愛は言葉ではなく行動で示す人だった。

もしかして、事故の後で性格が変わったのだろうか?

2年間会わなかった間に、何かが変わったのだろうか?

そう自分に言い聞かせ、考えを振り払った。

そんな矢先、週末のことだった。

淵斗は私に料理の腕を披露すると意気込んで、台所で奮闘していた。

その時、玄関のチャイムが鳴った。

ドアを開けると、そこに立っていたのは瑠衣だった。
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