All Chapters of 偽りの結婚生活~私と彼の6年間の軌跡 偽装結婚の男性は私の初恋の人でした: Chapter 691 - Chapter 700

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<終章> 安西航 2

 17時――航は上野駅ジャイアントパンダ像の前で朱莉が来るのを待っていた。すると人混みに紛れながら朱莉がキョロキョロしながらこちらへ近づいてくる姿が見えた。「朱莉! こっちだ!」航は人目がある事も気にせず、大きな声で手を振ると朱莉を呼ぶ。すると、朱莉は笑顔になって航の方へと小走りでやってきた。「お待たせ……航君」朱莉は背の高い航を見上げ、ニコリと笑った。「あ、ああ……いや。たいして待ってないから大丈夫だ」そして航は朱莉の姿をマジマジと見た。今日の朱莉は紺色のカジュアルなワンピースを着ている。(こ、この格好……まるでデートみたいだ……)航は胸が高鳴った。「朱莉、今日は何所へ行きたい?」照れる心を隠しながら航は朱莉に尋ねた。「えっとね……実は事前に調べたお店があるの。良ければそこへ行ってみない?」珍しく朱莉から店の提案があったことに航は新鮮な気持ちになった。「よし、早速行ってみようぜ?」航は笑顔で答えた。そして2人が向かった店は―― **** 「まさか、沖縄風居酒屋だとはな~」掘りごたつ式のお座敷席に座った航は頬杖を突きながら朱莉を見た。既に2人の前にはオリオンビールと、ゴーヤチャンプルーにラフテー、海ぶどう等の沖縄名物料理が並べれている。「うん……沖縄は私と航君が初めて出会った思い出の場所だったから」「あ、朱莉……」何処か思わせぶりな朱莉の言葉に航は再び胸が高鳴ってきた。「そ、それで……朱莉、大事な話っていうのは……何だ?」すると朱莉は一口ビールを飲むと航を見た。「あのね……航君。私、翔さんと離婚が成立したの」「え……? ほ、本当か!? 朱莉!」「うん。それでね……私……結婚することになったの」朱莉は頬を染めながら航に告げた。「……え?」航は耳を疑った。
last updateLast Updated : 2025-07-04
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<終章> 安西航 3 

 この日の朱莉は饒舌だった。いつもなら航の方が朱莉に良く話しかけ、朱莉は笑顔で相槌を打って話を聞いているのだが、今夜は朱莉の方が航よりも良く話していた。航は苦しい胸の内を抱えつつ……ずっとこの時間が続けばいいのにと願っていた。だが……それは決して叶わない願い。こんなに朱莉は近くにいるのに、もう二度と手に入らない場所へ朱莉は行ってしまったのだ。本当なら、朱莉を思うこの苦しい胸の内を洗いざらい吐き出してしまいたい。出来ることならその手を取って世界の果てまで連れて逃げてしまいたい。そんな激しく湧き出てくる感情を航は必死で理性で抑え込んだ。そして……最後の時間が迫ってくる……。――20時半「ごめんね…。航君、そろそろ私帰らないといけないの」朱莉は腕時計を見た。「あ……ああ。」そ、そうだな。ここは上野だし……朱莉は電車に乗って帰らないといけないからな」航は何とか声を振り絞る。「ううん。電車には乗らなくてもいいんだけど……」そこで朱莉は言葉を切り、勘の鋭い航はぴんときた。「そ、そうか。迎えに来てくれるのか? あの男が」航はテーブルの下でギュッと拳を握った。名前は口に出したくは無かった。「うん。電話を入れれば迎えに来てくれることになってるから」「そっか……」航は改めて修也の度量の深さに感心していた。自分の恋人が他の男と会っている……。航だったら絶対にそんなことはさせないだろう。だが……。(きっと、あの男は絶対的な自信があるんだろうな……朱莉が決して他の男になびかないという自信が……)そう思うと航はむなしくてたまらなかった。「「……」」そ何となく2人の間に気まずい空気が流れる。が……それを破ったのは航の方からだった。「よし、朱莉。それじゃ店……出ようか?」航は立ち上がった。「うん……」**** 2人で夜の上野の繁華街を歩きながら、航は思った。最後に朱莉とどこかで綺麗な夜景を見てみたかったと。思えば朱莉と夜景を見たのは沖縄で一度だけだった。朱莉と恋人同士になれた暁には2人で色々な夜景を見に行きたいと思っていた。そう、例えば江の島の夜景を……。そんなふうに考えていると、不意に朱莉が言った。「ねえ、航君」朱莉の少し前を歩く航が振り返った。「何だ?」「……多分、こんな風に2人で夜会うのも今夜で最後だと思うから、何処か夜景
last updateLast Updated : 2025-07-05
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<終章> 安西航 4

「え? そうなの? 向こうから見ても変わりないと思うんだけど……」朱莉は首を傾げる。「まあ、いいからいいから。俺はここにいるから……朱莉、ちょっと向こう側へ行ってみて来いよ。それで着いたら俺に電話を掛けてくれるか?」「う、うん別にいいけど……?」言われた朱莉は素直に航から離れて、噴水を挟んでちょうど航と向かい合わせの場所に来た。朱莉はスマホを取り出すと言われた通りに電話をかけ……すぐに航のスマホが着信を知らせた。『もしもし』「あ、航君。ねえ……ここでいいの?」『ああ、もうすぐ噴水ショーが始まるから待ってな』「う、うん……」すると航の言ったとおりに再び激しい水音ととともに噴水が吹き上がる。その為、反対側にいた航の姿が噴水に隠れて見えなくなってしまった。「ねえ、航君。こっちから見ても……綺麗だけどやっぱり変わらないよ」しかし航から返事がない。「航君?」すると……。『好きだ』「え?」電話越しから航の切なげな声が聞こえてくる。『俺は……ずっと……朱莉のことが好きだった。多分初めて会った時から……』「わ、航……君……?」突然の告白が信じられず、朱莉は声を震わせて噴水の向こう側にいるはずの航を見た。『お前にとって……俺は……ただの弟だったかもしれないけど……俺はずっとずっとお前のことが……大好きだった……!」「!」『朱莉……幸せになれよ……』いつの間にか電話越しから聞こえてくる航の声は涙声になっていた。「わ……たる君……」朱莉も涙を流していた。まさか航が今までずっと自分のことを好きだったとは思ってもいなかったのだ。どれだけ傷つけてしまったかと思うと、涙が溢れ出てくる。『さよなら』そこでプツリと電話が切れてしまった。「航君!!」朱莉は涙をぬぐうと、噴水の向こう側にいる航の方へ向かって走り出したが……既には航の姿は無かった。「そ、そんな……航君……」朱莉はハラハラと涙を流し続け……背後から朱莉を迎えに来た修也に抱きしめられるまで、ずっと泣き続けた――――その夜。「あ……朱莉……」航は自分の1DKのアパートで電気もつけず、朱莉の名前を呼びながら一晩中泣き続けるのだった……。**** 9月初旬――航は羽田空港に来ていた。そこには父、弘樹の姿もある。「航……まさか、本当に沖縄へ行くとはな」弘樹は溜息をついた
last updateLast Updated : 2025-07-05
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<終章> 2人の門出 1

 会長の下へ修也が朱莉と結婚したいと願い出てから4カ月が経過した。「よし、これで手続きは全て終了したな」猛は書類にサインをすると顔を上げた。ここは猛の書斎。今この部屋には猛と秘書の滝川、そして修也と朱莉に蓮が揃っていた。「これで修也と朱莉さんは正式な夫婦になった。そして……蓮は正式に2人の子供となったわけだな」猛は笑みを浮かべた。「会長、本当に有難うございます」修也は猛に頭を下げた。「会長、ありがとうございます」朱莉も頭を下げると、隣に座る蓮の頭を撫でた。「蓮ちゃん……ようやく蓮ちゃんと本当の家族になれたよ?」「本当の家族?」蓮は首を傾げる。「そうよ、蓮ちゃん。お母さんと修也さんは結婚して夫婦になって……そして蓮ちゃんは正式に私たちの子供になったの」「蓮君、今度から僕は蓮君のお父さんになったんだ。いいかな? 僕がお父さんになっても……」修也は恥ずかしそうに蓮に尋ねた。すると蓮はパッと笑った。「ううん! そんなこと無いよ。だって僕修ちゃんのこと大好きだもん! あ……もうお父さんって言うんだっけ……」蓮は修也を恥ずかしそうに見上げた。「お父さん……」「蓮君……」修也も顔を赤らめて蓮を見つめる。「よし、それじゃ蓮君。そろそろ皆でマンションに帰ろうか?」修也が蓮を抱き上げた。「うん、帰る! 僕たちのおうちへ!」蓮は修也の首に腕を巻き付ける。そして二人を笑顔で見つめる朱莉。そんな蓮に猛は声をかけた。「蓮、蓮と一緒に暮らした4か月間……本当に楽しかったぞ。又遊びに来てくれるかい?」「うん、又来るよ。だって僕、曾お爺ちゃんのこと大好きだから」「そうか、そうか」猛は目を細めた――****「会長はやはりすごい方ですね」3人の乗った車を見送る猛に秘書の滝川が話しかけてきた。「何がだ?」「始めからこうなることを想定済みだったのですね?」「こうなること……とは?」「朱莉様と翔様を離婚させて蓮君の親権を自分に移してから……新たに夫婦となった修也様と朱莉様の養子に蓮君を引き渡す。これであの方達は名実共に本当の家族になったわけですから。しかも入籍するまで4か月の間に両家の御挨拶や、他の方々への報告……引越しの準備やさらに朱莉様と修也様の新婚気分を味わせて差し上げたのですから。全くお見事でした」「朱莉さんと修也が互いに惹
last updateLast Updated : 2025-07-05
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<終章> 2人の門出 2  

 それから2ケ月後―― 朱莉と修也は都内のホテルで盛大に結婚式を挙げた。本来なら2人は入籍だけ済ませて式を挙げるつもりは無かった。しかし、猛から鳴海グループの新社長なのだから結婚式を挙げて知名度を上げなければならないと説得された為、2人は式を挙げることになったのだ。 結婚式には多くの著名人や、一流企業のトップ陣営、そして関係者一堂が勢ぞろいした。参加者の中には二階堂夫妻もいる。花嫁の控室にはヴェールを被り、純白のウェディングドレスに身を包んだ朱莉がいた。「朱莉……とっても綺麗よ」車いすに座った朱莉の母、笑顔で語りかけている。「お母さん……ありがとう」思わず涙ぐむ朱莉。「駄目よ、朱莉。泣いたら、せっかくのメイクが崩れてしまうわ」「う、うん。そうだよね……。でも、お母さん。本当に私達と一緒に暮らすつもりはないの?」「ええ、いいのよ。やっぱりまだ病気のことが心配だから。それにあんな立派な特別室に入院させて貰えるのだから、こんなに幸せなことは無いわ」「でも、もっと体調が良くなれば……その時は……」そこへ修也の母が顔を覗かせた。「その時は私と一緒に住むことになるのよね?」「え!? そうなんですか?」朱莉は驚いて洋子と修也の母の顔を見比べた。「ええ、すっかり意気投合してしまって……」「お互い独り身だし、一緒に暮らすのも悪くないわねって話になったのよ」洋子と修也の母が交互に言い、2人は笑った。「ま、まさかそんなことになっていたなんて……あ、あの。修也さんはそのことを知ってるんですか?」朱莉の質問に修也の母が答えた。「まさか~……知らないわよ。でもいずれ、現実化する時は報告するつもりよ?」その時……。――コンコン控室のドアをノックする音が聞こえた。「はい」朱莉が返事をするとホテルスタッフの女性がドアを開けて入室してきた。「失礼いたします、朱莉様。そろそろ式が始まりますので出て来ていただけますか?」「はい。すぐに行きます」「朱莉、行ってらっしゃい」「朱莉さん、すごく綺麗よ」2人の母に見送られ、朱莉は会釈すると控室を出た。すると真っ白いスーツを着た修也が待っていた。「朱莉さん……」「しゅ、修也さん……」途端に朱莉の顔が赤くなる。するとその様子を見た女性スタッフ。「まだ10分ほどお時間はありますので、後程伺いますね
last updateLast Updated : 2025-07-05
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<番外編> 明日香と母 1

 13時―― 青空の下、白い帽子にサングラスをかけた明日香が大きなキャリーケースを持って長野の駅に降り立った。バス停に向かって歩いていると、突然背後から声をかけられた。「明日香」「え……?」振り向くと白鳥誠也の姿があった。仕事を抜け出してきたのか、背広姿の白鳥は明日香を見て右手を少し上げて微笑んだ。「誠也……。まさか、仕事を抜け出してここで私が来るのを待っていたの?」明日香はサングラスを外した。「当然だ。明日香、お前は俺と別れたつもりでいたかもしれないが……俺にはそんなつもりは全くなかったからな」白鳥は肩をすくめる。「だけど……私は酷い女なのよ。子供がいたことも黙っていたし……勝手に貴方に別れを告げて東京へ行ってしまったし……」明日香は俯き、視線をそらせた。「だけど、またこうして長野に戻って来てくれた。……つまり、俺の元へ戻って来てくれたってことだろう?」「……」答えないでいると、白鳥は明日香の足元にあるキャリーケースのハンドルを握った。「向こうに車を止めてあるんだ。とりあえず今はホテルに行こう。勝手に仕事場を離れてしまったから、今頃大騒ぎになっているかもしれない」そしていたずらっ子のような笑みを浮かべた――****「ふう……」ホテルの丁寧にベッドメイクされたベッドの上にゴロリと横になると天井を見上げた。白鳥に連れられてホテルへやってきた明日香は、空いている部屋に急遽宿泊することにしたのだ。真っ白な天井をじっと見つめながら、明日香はこれまでのことを振り返っていた。蓮に会いたい一心で、朱莉たちの元へ強引に押しかけてしまった。嫌な顔一つせずに明日香を受け入れてくれた朱莉と蓮。蓮との暮らしはとても楽しかった。だけど……所詮蓮にとっての母は朱莉だったのだ。自分のせいで2人を傷つけ、挙句の果てには祖父に親権を奪われてしまった。なのに、悲しみがあまりこみ上げてこない。「やっぱり……私は母と変わらない人間だったのかしら」明日香はポツリと呟き、おもむろにベッドから起き上がると手元に置いておいたショルダーバックから1枚のメモを取り出した。そこには長野県のとある住所が書かれていた。「お母さん……」この住所は明日香が興信所を使って調べ上げたものだ。情報によれば、明日香の母、麗子は、ここに住んでいる。「……行ってみよう」明日香はす
last updateLast Updated : 2025-07-05
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<番外編> 明日香と母 2

 明日香の母――麗子が、恋人を作って突然家を出て行ってしまったのは明日香と翔が7歳の時だった。それは本当に突然の出来事だった。麗子はたった1枚のメモだけを残し、実の連れ子の明日香を鳴海家に置いて新しく恋人になった年下の若い恋人と逃げてしまったのだった。『ウワーン! お母さーん!』まだたった7歳の明日香は母に置いて行かれてしまったことが悲しくてたまらなかった。この鳴海家は冷たい家だった。父は海外赴任させられ、厳しい祖父は明日香を邪険に扱った。そして使用人たちからも明日香は軽蔑の眼差しで見られていた。その中で、たった1人明日香の味方だったのが……血の繋がらない兄の鳴海翔だった。『明日香、そんなに泣くなよ』翔が明日香の頭を撫でた。『うう……で、でもお母さんが……帰ってこないんだもの……』明日香は母が唯一買ってくれたウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま泣き続ける。『う~ん。でも明日香のお母さんが何処に行ったのか僕たちは知らないからなあ。あ! そうだ、いい考えがある! 明日香!』『何? 良い考えって……?』泣きながら尋ねる明日香。『明日香がほんの少し、怪我をしてみるといいんだよ。そして御爺様に言うんだ。明日香が怪我をしてしまったから、お母さんを呼んで欲しいって。そしたらきっと来てくれるよ!』そこで考え付いたのが、家の階段から落ちて軽い怪我をすること。しかし、2人はまだ幼い子供だった。加減と言うものを知らなかった。翔の言うがままに、明日香は無茶な高さから階段を落ちて……大怪我を負って入院する羽目になってしまった。救急車で運ばれて行く明日香を翔は泣きながら見送り……それ以来翔は明日香を大切に扱うようになった。しかし……大怪我を負った明日香のもとに、母は決して戻ってくることは無かった――****「ごめんね……こんなものしか出せなくて」6畳間の古びた畳の部屋、小さな卓袱台の上にお茶を置くと麗子は明日香に謝った。「ありがとう……」明日香は湯呑を持ち、お茶を飲んだ。安い茶葉なのだろう。少しも美味しくは無かった。部屋の中は殺風景だった。卓袱台の下にはラグマットが敷かれてはあるものの座布団すらない。横置きにされたカラーボックスの上には恐らく一番小さなサイズの液晶テレビが置かれている。窓にかけてあるレースのカーテンは太陽の光で焼けたのか茶色く染ま
last updateLast Updated : 2025-07-05
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<番外編> 明日香と母 3

「どうしてこんなに貧しい生活をしているの? 駆け落ちした男性は実業家だったって聞いてるわ。それに家を出る時に通帳を3冊も持って行ったって……。5千万以上は持ち去って行ったって聞いていたけど?」明日香はどこか非難めいた言葉で言う。「ああ……相手の彼がね、事業で失敗して失踪してしまったのよ。借金を作ってね。その連帯保証人が私だったってわけ。1億も借金していて……今もその返済でこんな暮らしをしているのよ」「……家には泣きつかなかったの?」「そんなこと出来るはずないでしょう? だって貴女を鳴海家に置いてきてしまったし、実家からは駆け落ちした段階で縁を切られてしまったから自業自得よ」「……どうして……私を捨てたの……?」明日香は震えながら尋ねた。「ごめんなさい……。私は貴女が……怖かったのよ…」「え……? こ、怖い……? 何故……?」すると麗子は溜息をついた。「あの頃の私はお嬢様育ちで世間知らずで……親に反発して夜遊びばかりして……それが間違いだったのよね。ある夜、見知らぬ男に……」そこで麗子は言葉を切った。その身体は小刻みに震えていた。それで明日香は悟った。(ああ……やっぱり私は望まれて生まれてきた子供では無かったのね……)「それで……私を捨てたの……?」「ごめんなさい……明日香……本当に……」目の前で肩を震わせて悲し気に俯く麗子を見て明日香は思った。(まだ母は私を見て怯えているのね……。少しでも私に会えて喜んでくれると思っていたのに……)溜息をついた時、明日香は壁の隅に置かれたガラスケースが目に止まった。そこには明日香が子供の頃に大切に持っていたウサギのぬいぐるみがあったのだ。「え……? あれは……?」すると麗子も気づいたのか、ぬいぐるみを見ると尋ねてきた。「あのぬいぐるみ……もしかして覚えているの?」明日香は黙って頷く。「そう……実はあのぬいぐるみ、2つ買っておいたのよ。明日香とお揃いで持っていたかったから」「お母さん……」(ひょっとするとお母さんは私のことを忘れないために……?)「お母さん、私今長野に住んでるのよ。もし気が向いたら……たまには電話して?」明日香は電話番号をすらすらとメモ紙に書くと卓袱台の上に置き、立ち上がって玄関へと向かった。その後ろを麗子がついて来る。「……帰るの?」「ええ。恋人が待ってるから
last updateLast Updated : 2025-07-05
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<スピンオフ> 第1章 安西航 1

 11月初旬――「ったく……今日も興信所の依頼は無しか……」航は口を尖らせ、事務所の入り口にかけてある手作りの木の札をopenからclosed に変更すると事務所に戻り、うち鍵をかけた。「まぁいきなり沖縄にやってきて興信所を開くこと自体無謀だったか……」事務所に置かれた黒い合皮製のベンチ型ソファーにゴロリと横になると、航は窓の外を眺めた。窓にかけられたブラインドは開け放たれ、沖縄の美しい夜空に輝く星々が見える。今の時刻は19時。事務所は朝の9時から開けてあるが、その1日の大半は航はこの事務所にいることは無い。何故なら興信所以外に便利屋の仕事も併用しているからだ。メールや電話1本で、自分に出来る範囲の仕事ならどんなに遠くても、たとえどんなものでも引き受けて依頼を達成してきた。例えば害虫駆除であったり、網戸の張替え。時には代わりに海に行って魚を釣ってきたこともある。航はオールマイティーな人間だったのである。最近は航の仕事ぶりが話題になり、口コミで少しずつ便利屋の依頼が増えてきたが、肝心の本業である興信所の仕事はまだ1件も入ってきたことは無い。「いっそ本業を廃業して便利屋一本でやっていくか……」しかし、首を振ってすぐにその考えを否定した。「いや、駄目だ。父さんの反対を振り切って、沖縄までやってきたんだ。これで興信所の仕事を諦めて便利屋家業になったことを知られた日には、ほれ見たことかって馬鹿にされるに決まってる!」それに興信所をやめたくない理由はそれだけでは無かった。その理由は朱莉である。興信所の仕事をしていなければ航は沖縄に来ることも、朱莉に出会うことも無かった。朱莉に失恋した直後は絶望の日々で、一時は発作的に上野の興信所のビルのてっぺんから飛び降りてしまおうかと思ったこともあった。しかしその度に朱莉の悲しむ顔が脳裏に浮かび、衝動を抑え込めてきたのだ。あの当時の自分は随分やけになっていたが、同じ苦しみを分かちあう琢磨がいたお陰で、徐々に失恋の痛手から立ち直っていけたのである。あの当時の航は朱莉になんか出会わなければ良かったと自分の運命を呪った。初めから出会うことも無ければ、身を引きちぎられそうな悲しい目にあうことは無かったのだ。心の傷はなかなか癒えることは無い。けれど一月が過ぎ、二月が過ぎ……三月目が過ぎた頃から、航の時はようやく動き
last updateLast Updated : 2025-07-06
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<スピンオフ> 第1章 安西航 2

 航はコンビニへ来ていた。レジカゴに大盛りのカップ麺、袋売りのカットサラダ。そしてオリオンビールに手を伸ばし掛け……ため息をついて安い発泡酒を冷蔵庫から取り出すとカゴに入れて男性店員の待つレジへと持っていく。そしてアイスコーヒーを注文した。「657円になります」航はスマホ決済をすると、レジ横にあるコーヒーマシンにレジで受け取ったカップをセットしてボタンを押した。ウィ~ン……コーヒーが注がれる音がして、やがてマシンが止まったので航はカップを取り出すと出入り口へ向かい……。ドンッ!!出会い頭に店内へ入って来た女性とぶつかってしまった。「ウワッ!!」「キャアッ!!」航は手に持っていたコーヒーをぶちまけてしまい……航も女性も互いの服にコーヒーを被ってしまった。途端に航の来ていた黄色いTシャツがこげ茶色に染まる。「あ……」ポタポタとコーヒーが垂れるカップを手に持ったまま航は呆然としていると、突然女性が謝ってきた。「ご、ごめんなさい!!」見ると、その女性は白いTシャツにデニムのスカートを履いていて、コーヒーがすっかり染みて茶色くなっている。「い、いや……むしろ謝るのは俺の方……」航が言うと、女性は顔を上げた。「いいえ! 実は私ぼんやりしていて下を向いてコンビニへ入ってしまったんです。ちゃんと前を向いていれば貴方にぶつかることも、コーヒーをこぼさせて服を汚してしまうことも無かったんです! 本当にごめんなさい!」そして再び女性は頭を下げてきた。「い、いや。だけど、俺よりもむしろそっちの方が汚れているだろう?」相手の女性はどう見ても航より年下に見えたので、ついいつもの口調で航は話してしまった。「いいえ! だって折角買ったコーヒーを駄目にしてしまいましたから」その時、レジから店員がモップを持ってやって来た。「御客様方、大丈夫ですか?」すると女性が言った。「あ、す、すみません! 私が原因でこぼしてしまったのでお掃除します!」「「え?」」女性のあまりに突拍子もない台詞に航と男性店員が同時に声を上げてしまった。「い、いえ。お客様……掃除はこちらで行いますので、お気になさらないでください」「でも……」尚も女性が言うので航は口を挟んだ。「いいから店員の言う通りにした方がいい、ほら。困ってるじゃないか」航の言葉に女性は店員を見た。
last updateLast Updated : 2025-07-07
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