All Chapters of 私たちの絆は、ここに断つ: Chapter 1 - Chapter 10

25 Chapters

第1話

「システム、私はこの世界からの離脱を申請します」そう言った後、機械的な電子音がすぐに響いた。 「宿主の任務は、一途なサブキャラ・辻本茂仁(つじもと しげひと)を救済することでした。五年前に任務はすでに達成されましたが、当時、宿主が離脱を拒否したため、現在再び時空トンネルを開くには、辻本茂仁と別の女性との結婚を成立させる必要があります」その返答を聞いた橋本夕帆(はしもと ゆうほ)は一瞬呆然とし、続けて問いかけた。「誰とでもいいの?」「はい。こちらでは半月の時間を与えます。任務に失敗した場合、宿主は完全にこの世界に留まることになります」誰にも知られていないが、夕帆はこの世界の人ではなかった。彼女はシステムによって小説世界に送り込まれた存在だ。茂仁はこの物語の中で、ヒロインに狂おしいほどの愛情を注ぐサブキャラであり、彼女のためなら全てを捧げる覚悟を持っていた。彼はヒロインにこう語った。「雪華、君が俺と結婚するなら、辻本家すべてを結納にしよう。だがあいつを選ぶのなら、辻本家すべてを祝儀にしよう」この一言で、何千万の読者の涙を誘った。しかし、ヒロインの運命は主人公を愛すること。最後に選ばれるのは当然主人公であり、茂仁は若き日の狂気的な愛に囚われたまま、報われることなく孤独に老いていった。夕帆に課された任務は、そんな彼を救い、その結末を変えることだった。彼女は彼の世界に入り、彼が悲しみに沈んでいる時には寄り添い、堕落しそうな時には励まし、危険に晒された時には身を挺して守った。何度も、彼が必要とする時には必ずそばにいた。茂仁はかつて彼女にこう尋ねた。「なぜ、そこまで俺を助けてくれるんだ?」その時彼女は彼を見つめ、瞳に深い愛情と決意を湛えていた。「だって、私はあなたのためにここに来たのよ」彼女は七年の歳月をかけて攻略に成功した。だが、システムから帰還可能だと告げられたとき、彼を手放すことができず、迷いなくこの世界に留まることを選んだ。二人は恋人となり、幸せな時を過ごした。やがて、原作のヒロイン・千川雪華(ちがわ ゆきか)と主人公の離婚の知らせが届いた。雪華が再び茂仁の前に現れた時、彼の心はまるで宿命のように彼女へと向かっていった。彼はかつて、自分が「これからの人生は君だけだ」と誓ったのも、すっ
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第2話

「どういうつもり?」雪華は思わず戸惑ったが、すぐに我に返って嘲るように鼻で笑った。「あんたがそんな好意を持ってるなんて思えないけど」夕帆はそれ以上何も言わず、彼女を深く見つめてからそのまま背を向けた。「信じるかどうかはあなた次第。私の行動で証明するわ」翌日、茂仁が雪華を連れて病院から戻ってくると、目の前の光景に目を大きく見開いた。「これは、何をしてるんだ?」その声には困惑が滲んでいた。一方で、夕帆の表情は穏やかだった。「前に、私がうっかりお客さんに失礼なことをしてしまったでしょう?それで、寝室を空けて、雪華に使ってもらうことにしたの。彼女、ロココ調が好きって聞いたから、家具も全部それに合わせて新しくしたのよ」まるで別の家のように変わったインテリアに、茂仁の脳裏には夕帆がこの家に引っ越してきたばかりの頃の光景が浮かんだ。あの時の彼女もまた、嬉々としてこの家を飾り立てていた。無機質な白黒グレー一色だった別荘を一新し、彼女が心を込めて選んだ小物や観葉植物、二人の写真をあちこちに飾って、まるで「家」と呼ぶにふさわしい温もりを与えてくれた。だが今のロココ調は、雪華の趣味そのものだ。確かに豪奢で凝ったデザインではあるけれど......何かが、足りない。どこか温かみに欠けているように思った。彼が言葉を発しようと唇を開いたその時、ふと主寝室の中に敷かれた床の寝具に目が留まり、視線がそこに吸い寄せられた。それに気づいた夕帆は、微笑みながら説明を加えた。「雪華さんは雷が苦手だったでしょ?昔、あなたはよく彼女の家の下まで行って付き添ってあげてたじゃない。今はこうして一緒に住んでるし、より楽でしょ?だから二人で一緒に寝たらどうかと思って」その言葉に、茂仁の瞳は一層大きく見開かれ、信じられないといった表情になっていった。「夕帆、今、何て言った?俺が、雪華と......一緒に寝るって?」「あなたたち、もう終わったって言ってたじゃない?」彼女は笑顔のまま答えた。その言外の意図は明白だったが、茂仁にはどこか引っかかるものがあり、言葉を継ごうとしたところで、隣にいた雪華が急に顔を曇らせ、目にみるみる涙を浮かべ始めた。「いやなの?雷の日、あなたはいつも私の家の下でずっと立っててくれたじゃない......」大粒の涙が今にもこ
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第3話

突然、胸の奥に罪悪感が湧き上がってきた。少し悩んだ末に、彼は長蛇の列ができているカウンターに並び、夕帆の好きなお菓子をいくつか買った。買い物を終えた彼がふと顔を上げると、どこかで見覚えのある姿がこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。自然と口元に微笑みが浮かんだが、すぐに何かがおかしいと気がついた。服装、体つき、そして近づいてきたときに見えたその顔――夕帆ではない。どう見ても雪華だ。彼女は恥ずかしそうに微笑みながら彼に近づき、腕を絡ませた。「夕帆、ちょっと体調悪いみたいで......チケットを譲ってくれたの。さあ、行きましょ」だが、彼女の言葉を聞いた瞬間、茂仁の顔色が一変した。「具合が悪い?どこが?」そう言うなり、彼はすぐに引き返そうとした。それに気づいた雪華は慌てて彼の腕を引き止め、甘えるように言った。「ほんの風邪よ、ちょっと休めばすぐ治るって......茂仁、この演目、ずっと前から楽しみにしてたの。一緒に観ようよ!」彼女の甘く柔らかな声が、不安で乱れた彼の心を落ち着かせた。彼は昔から彼女の頼みを断れないのだ。少しのためらった末に、結局うなずいて、雪華と共に会場へと足を踏み入れた。彼女の顔には再び笑みが浮かび、道中も彼の腕を引きながら絶え間なく話しかけていた。本番が始まると、雪華は舞台の一場面ごとに感想を述べるほどだった。だが、かつてなら彼女の言葉に全て応じていた茂仁も、今日は上の空だった。ただ機械的に頷き、時おり適当な相槌を打つばかり。終演後、彼は一言も発さず、無言のまま彼女を連れて別荘に戻った。扉を開けると、そこにいたのは病気で寝込んでいるはずの夕帆ではなかった。彼女の頬には赤みが差し、霧吹きを手に花に水をやっていた。「具合が悪いって言ってたじゃないか?」茂仁の声は冷たく鋭く、その詰問が彼女を怯ませることはなかった。「ええ、もうだいぶ良くなったわ」彼女は手を止めることなく答えた。少し間を置いてから顔を上げ、二人を見た。「今日は楽しかった?良い時間を過ごせた?」彼女の様子を見て、茂仁にはわかっていた。彼女は病気なんかではなかったし、チケットを渡したのも自分の意思だったはず。だが、そんな平然な態度で振る舞われると、胸の中に何とも言えない怒りが渦巻いた。「とても、楽しかった」歯
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第4話

命じられるままに、ボディガードはすぐさま夕帆を中庭へと引きずり出し、少し距離を置いて見張りを始めた。彼女はぼんやりとその場に立ち尽くし、弁解もせず、謝罪の言葉さえ口にしなかった。厚い雨雲が頭上に立ち込め、間もなく大粒の雨が降り注ぎ、彼女の薄手の服はあっという間にびしょ濡れになった。傍らにいた使用人たちはその様子を見て、耐えきれなかった。「橋本さん、なぜ弁明しないのですか?」先ほど雪華が取った行動は隠しようもなく、夕帆が水を差し出した事実などなかった。それでも茂仁は雪華の一言だけで、彼女を一方的に断罪した。「説明したところで、彼が信じるとでも?」彼女は苦笑を浮かべた。初めて茂仁と出会ったその日から、彼はいつも優しく、温かかった。数少ない感情の乱れも、すべて雪華のためだった。千川雪華という名は、彼の心の中で触れるべからず、純粋無垢な高嶺の花だった。誰も彼女の代わりにはなれない。空は次第に暗くなり、雨は一向に止む気配を見せなかった。初秋の風雨が肌を刺すように吹きつけ、彼女は思わず身震いした。雨に濡れた視界はぼやけ、意識もまた徐々に朦朧としていった。どれほどの時が過ぎたのかも分からぬまま、ついにはその身を支えきれず、地面に崩れ落ちた。再び目を開けた時、彼女は既に部屋のベッドに横たわっていた。茂仁が枕元に座り、薬をそっと吹き冷まし、差し出してきた。「すまない。使用人が教えてくれた。水は雪華自分で注いだんだ。君を誤解してしまった」彼女の表情は平静そのもので、まるで先日、彼が雪華を連れて屋敷へ戻ってきたあの日と同じだった。喜怒哀楽の欠片もない。茂仁はその様子に気づかなかった。彼女がまだ自分に怒っているのだろうと勝手に納得した。「雪華は以前、つらい恋愛を経験したんだ。だから不安定なんだよ。彼女のこと、許してやってくれないか」言葉を切り、彼女が黙って薬を飲み続けるのを見届けると、さらに続けた。「今回のことは、確かに俺が悪かった。もうすぐ君の誕生日だろう?一番欲しい『サプライズ』を用意してる」その言葉に、彼女の手が一瞬止まった。薬を飲むふりをして、口元の苦笑を隠した。いま、彼女が一番欲している「サプライズ」は、彼の元を去る自由だ。時は流れ、あっという間に夕帆の誕生日が訪れた。多くの客が招かれ、茂
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第5話

リビングには、事が露見しても慌てる様子のない穏やかな顔の夕帆がいた。対する茂仁は顔を曇らせ、黙ったまま二人と向き合っていた。「本当に、ただ部屋を間違えただけなの......」雪華は毛布に身を包み、涙を湛えた瞳で怯えたように小声で弁解した。だが、茂仁の視線はまっすぐ夕帆に向けられており、その言葉を信じていないことは明らかだった。けれど夕帆は落ち着いたまま、雪華の言葉を肯定した。「雪華さんは体調が悪いんだから、部屋を間違えるのも無理はないわ」茂仁は依然として沈黙しっていたが、そのとき、裾がふと引かれた。目を向けると、まだ目元に涙の痕を残す雪華がいて、巧妙に話題を変えてきた。「ひとりで寝るの怖いの......茂仁、今夜は一緒に寝てくれない?」しばらく躊躇したものの、彼はついにその願いを拒めず、うなずいた。そのまま事態はうやむやになったが、深夜になって夕帆のスマホがメッセージを受信した。差出人は茂仁だ。【今夜、一体どういうことなんだ?君からもらった水を飲んだあと、身体の調子が急におかしくなって......それで気づけば雪華がベッドにいた】夕帆は全く慌てず、少し考えてから返信した。【あの場は人も多かったし、パーティー中に誰かに薬を盛られたんじゃないの?それに、雪華さんのことならさっきも言ってたでしょ。ただ部屋を間違えただけ。まさか、私がわざと彼女をあなたのベッドに送り込んだとでも?】最後の一文を見て、茂仁はしばし沈黙した。そうだ。彼は何を考えていたのだろう?夕帆はあれほど自分を愛してくれた。どうして彼女が自ら、他の女に自分を譲るなんて考えられる?彼女が現れたあの年、彼の心は雪華でいっぱいで、突然現れて「好き」と言い張る彼女のことをまともに見たことがなかった。でも彼女は、決して諦めなかった。「あなたには好きな人がいるのは知ってる。でも私は気にしない。茂仁、私にもあなた自身にも、もう一度チャンスをちょうだい。過去の恋に縛られないで、お願い」どんなに落ちぶれても、彼女はずっとそばにいた。孤独なとき、振り返ればいつもそこに彼女がいた。四年前の事故のときだって、二人の車が衝突したあの瞬間、彼女は迷わず自分を庇ってくれた。後になって、なぜそこまでして自分を愛せるのかと問うと、彼女はこう答えた。
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第6話

彼女は強く突き飛ばされ、体勢を崩したまま地面に尻もちをついた。足首に走った鋭い痛みに思わず声を上げるが、その瞬間、彼女は気付いた――声を上げたのは自分だけではなかった。振り返ると、顔をくしゃくしゃにして、今にも泣き出しそうな表情の雪華が、茂仁を見つめていた。その位置を見た瞬間、先ほどの突き飛ばす力が誰からか、夕帆はすぐに察した。二人の異変に気づいた茂仁はすぐに戻ってきて、唇を尖らせた雪華が訴える。「茂仁......足を挫いちゃったみたい。痛いよ......」甘えたような声が出た瞬間、彼の心は大きく波立ち、目には彼女への憐れみが浮かんだ。「俺が背負って山頂まで連れて行くよ、ね?」彼は優しく語りかけ、心のすべては雪華だけに向けられていた。まるで、同じ足を挫いた夕帆の存在など初めからなかったかのように。彼女は何も言わず、ただ黙って立ち上がった。幸いにも彼が雪華を背負っていたおかげで、何とかついていけた。足を引きずりながらようやく山頂に着いたころ、ようやく一息つけると思った矢先、雪華が声を上げた。「あっ、カメラを車に忘れちゃった!」それを聞いた彼は彼女を見つめ、優しく微笑んだ。「俺が取ってくるよ」その瞬間、雪華の視線が自分に向けられたことを感じた夕帆の胸に、警鐘が鳴った。案の定、次の瞬間、彼女はにこやかにこう言った。「いいの、夕帆さんが付き合ってくれればいい」有無を言わせず手を引かれ、ふたりは山を下り始めた。茂仁の視界から外れたところで、雪華は急に足を止め、夕帆を見つめながら得意げに笑った。「夕帆、昨日はあなたの誕生日だったよね?プレゼントを渡すのを忘れてたけど、今からでも遅くない」そう言ってスマホを取り出し、何かを操作したかと思うと、それを夕帆の前に差し出した。画面に映ったのは、こっそり撮られた日記帳の写真だ。そこに綴られた文字は、筆跡からして茂仁のものだとすぐに分かった。【雪華は他の人を選んだ。長年守ってきたけれど、彼女は結局俺のものにはならなかった】【彼女はプロポーズを受け入れた。俺の気持ちを知ってるくせに、俺を介添人に指名した。きっと彼女は、俺が彼女を愛してるから、何を言っても断れないって分かってるんだ。いいさ、彼女が笑ってくれるなら、地獄だって喜んで行くよ】【雪華は今幸せじ
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第7話

茂仁が異変に気づき、山を下りて二人を探し始めたのは、それから数時間が経ってからだった。ようやく山のふもとで、傷だらけで瀕死の状態にある夕帆と雪華を見つけた彼は、動揺と焦りを隠せずにいた。「茂仁......」かすかな物音に反応して、夕帆がぼんやりと目を開けた時、目の前には雪華を抱き上げようとする茂仁の姿があった。無意識のうちに、彼の名を呼んだ。その声に、彼の体が一瞬ビクリと強張り、ゆっくりと振り返って彼女を見た。「夕帆、雪華の容態がかなり悪いんだ。彼女を安全なところに運んだら、すぐ戻ってくるから、ちょっとだけ待っててくれないか?」夕帆は何か言おうとしたが、声はあまりにもか細く、彼の耳には届かなかった。彼はそれ以上何も言わず、雪華を抱えたまま急いで去って行った。止めることもできず、夕帆はただその場で待つしかなかった。しかし、時間は過ぎても、彼は戻ってこなかった。日が傾き、気温もどんどん下がっていく中で、彼女の意識は再び朦朧としてきた。朦朧とした意識の中、生き延びたいという本能で、彼女は自分の舌を噛んで、激痛で意識を無理やり呼び戻した。目に宿るのは、ただ一つの想い――「生きたい」。ここで死ぬわけにはいかない。絶対に、帰らなければ。誰も助けに来ないのなら、自分で這ってでも助けを呼ぶしかない。その強い意志で、彼女は血まみれの体を引きずりながら、車の通る道路までたどり着いた。そして、人影を見たその瞬間、張り詰めていた神経が途切れ、彼女はそのまま意識を失った。次に目を覚ました時、夕帆はすでに病院のベッドの上にいた。そして、ようやくあの時「すぐ戻ってくる」と言った茂仁と再会することになった。「夕帆、目が覚めたんだね」彼は緊張した面持ちでベッドに駆け寄り、安堵の息を吐いた。だが、夕帆はただ黙って彼を見つめ、しばらくして、かすれた声で問いかけた。「どうして、迎えに来なかったの?」その言葉に、茂仁の顔は一瞬で凍りついた。やがて目を赤くしながら、ぽつりと語り始めた。「雪華の容体がかなり悪くて......急いで病院に連れて行ったんだ。検査してみたら.....実は彼女、この前すでにがんだと診断されてたんだ。今回戻ってきたのは、最後のお別れを言うためだったんだって。俺に心配かけたくなくて、隠し
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第8話

彼が書き残した言葉の続きを、彼女はあえて考えようとはしなかった。ただ静かに微笑んで、日記を閉じ、元の場所に戻した。翌日、雪華は茂仁に付き添われて退院した。「どうせ死ぬなら、一番馴染みのある場所で死にたい」と言った。ちょうど数日後は彼女の誕生日だ。茂仁は自ら準備をし、かつて夕帆のために開いた宴よりも盛大な誕生日会を開いた。「あなたが引き下がらないなら、私が目の前で見せてあげるわ。茂仁がどれほど私を愛してるのか、思い知らせてあげる!」得意げに眉を上げた雪華だったが、夕帆はその挑発に微塵も動じず、まるで何も聞こえなかったかのように落ち着いていた。代わりに、他ののことを聞いた。「あとで、願い事をするんでしょう?」「もちろんよ!」願い事の話になると、雪華はさらに得意げに言った。「今の私が願えば、彼は何でも叶えてくれるもの」夕帆は静かに首を振った。「それなら、これを願ってみて」そう言って、彼女は小声で雪華の耳元に何かを囁いた。雪華は息を呑み、信じられないように夕帆を見つめた。二十分後、大きなバースデーケーキが運ばれ、ろうそくの火が灯された。雪華の目には光が宿っていた。「茂仁、私が何を願っても叶えてくれるって言ったわよね?」「ええ」彼は優しく頷いた。その言葉を確認すると、彼女は夕帆を一瞥し、唇の端をゆるやかに上げて言った。「じゃあ、私、あなたと結婚したい」その一言で、場内は騒然となった。茂仁は息を呑み、なぜか無意識に夕帆の方を見てしまった。彼の返事がなかなか返ってこず、雪華の目の光は消え、涙が瞬く間にあふれた。その涙が、まるで大きな金槌のように彼の心を打ち砕いた。もう何も考えられなくなった彼は、ただ焦りながら優しく彼女を宥めた。「……わかった、結婚しよう」彼女はようやく笑顔を取り戻し、彼の手を引いてホールの外へと駆け出していった。「辻本社長が千川さんにぞっこんって噂は本当だったのね」「そりゃそうよ。昔、千川さんが苦境に立たされたと聞いた辻本社長は、すぐさま私財の半分を投げ打って彼女を支えたんだから」「今の彼女もずっと一緒にいたんでしょ?でも、やっぱり初恋には敵わないのね。その人が戻ってきたら、何年もの付き合いなんて全部無意味だね」角に立ち、目を赤くして黙って涙を流していた夕帆を見て
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第9話

結婚式の前夜、夕帆は自分の持ち物をすべて整理し、一つ一つ火の中に投げ入れていた。その光景を目にした茂仁は、目を見開き、慌てて駆け寄った。「夕帆、何をしてるんだ!」「ここはこれからあなたたちの新居になる場所よ。私の物を置いておくのはよくないでしょ?」彼女は淡々と笑いながら答えた。言葉は軽やかだったが、茂仁の心には妙な不安が広がっていった。「前にも言ったけど、あれは全部偽りなんだ!」「わかってるわ。でも、偽りならなおさら、それらしく演じなきゃ」彼女の表情は静かで、手の動きも止まらなかった。物をひとつ火鉢に投げ入れれと、その物の思い出を口にした。「これは私があなたに書いたラブレター。あの頃、あなたの心は雪華でいっぱいで、私の手紙は読むこともなく捨ててたわね。これは私があなたに編んだマフラー。雪華が森承平(もり しょうへい)にマフラーを編んだと知って嫉妬してたから、私が代わりに編んだの」......彼女はすべてを燃やし尽くし、茂仁は今まで感じたことのない焦燥に襲われ、彼女を抱きしめて必死に繰り返した。「全部偽りなんだ、本当に......」彼女は真剣にうなずいて、ただ一言。「わかってる」結婚式当日、招かれた客は多かった。花嫁を迎える儀式で、夕帆は自らの手で雪華を茂仁に引き渡した。彼の前には確かに雪華と夕帆が並んでいた。だが、何故か心のどこかがざわついている。まるで、何か大切なものが自分の人生から永遠に消え去ってしまうような、そんな予感が胸を締めつけている。彼は雪華の手を取りながらも、視線は夕帆から離せず、離れ際にひとこと声をかけた。「夕帆、君は後ろの車に乗ってきて。安心して、変なことはしないから」彼女はやはり笑顔でうなずいた。すぐそこにいるのに、彼には彼女がもう遠くへ行ってしまうような錯覚があった。そのとき、彼女の脳裏に再び電子音が響いた。「宿主、任務完了おめでとうございます。肉体の死をもって、この世界から離脱し、元の世界へ帰還できます」この時、夕帆は本当に心から笑った。何度も振り返る茂仁は、その笑顔を見てふと立ち止まった。最近もよく彼女の笑顔を見たが、こんなに心からの笑顔は本当に久しぶりだった。「茂仁、どうかしたの?」雪華が不思議そうに問いかけると、茂仁は我に返り、彼
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第10話

ホテルの中、結婚式の進行は順調に進んでいたが、茂仁の心臓はなぜか激しく脈打っていた。何気なく周囲を見回したが、予想していた人物の姿はどこにもいなかった。一瞬呆然とし、胸の内に不安がよぎった。会場に入る直前までは、彼女がすぐ後ろにいたはずなのに、どうして今は姿を消したのか?司会者が新郎新婦にキスを促す声が響き、目の前の人に袖を引かれて、ようやく彼は現実に引き戻された。そうだ、彼女は自分のことをあまりにも愛してくれたから、たとえ全てが偽りでも、他の人と結婚する自分の姿を見るに耐えなかっただろう。だからこそ、すべてが終わったら、きちんと償いをしようと、彼は思っていた。実際にキスするつもりはなかったが、顔を近づけたその瞬間、胸の痛みがどんどん激しくなっていった。思わず顔を上げ、会場の端を見たとき――ガラス張りの壁の外で、上から落ちてくる人影があった。ほんの一瞬の出来事だったが、茂仁はその顔をはっきりと見た。まさしく、先ほどまで会場で探し回っていた橋本夕帆!その瞬間、理性の糸が完全に断ち切られた。茂仁の瞳孔が激しく収縮し、脳内は真っ白になった。音という音が一切聞こえなくなり、頭の中に残ったのはただひとつの思い。彼女を助けなければ。「夕帆!」彼はふらつきながらも窓辺へと駆け出した。だが、人間の走る速さが、自然落下の速度に勝てるはずもなかった。ガラス越しに――彼が窓辺にたどり着いた瞬間、地面に何かが激しく落ちた音が耳元で爆ぜた。会場内は彼の突然の行動に一瞬静まり返ったが、ガラス壁の近くにいた数人が叫び声を上げた。「誰かが飛び降りた!」瞬く間に、会場内は騒然となった。雪華は、もうすぐ完成するはずだった結婚式が混乱になってしまうを目の当たりにしながら、新郎の腕を取ろうとしたが、周囲の賓客は我先にと外へ退場し始めていた。この混乱の元凶は、間違いなくあの橋本夕帆だ!自分と茂仁をくっつけようなどと言っておきながら、毎回最後には茂仁の目を自分に向けさせるなんて!雪華の顔は怒りで歪み、理性は燃え尽きていた。ヴェールを乱暴に引き剥がして地面に叩きつけ、何度も踏みつけてから、ようやくわざと悲しげな顔を作って裾を持ち上げ、茂仁に近づこうとした。「茂仁......あっ!」だが――以前なら、彼女が少し泣きそう
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