口の中にはまだ血の生臭さが広がっていて、体中の血液も、さっき起きた出来事のせいでざわついたままだ。けれど、胸の奥はひどく冷え切っていた。――これが、違いなのだ。八雲が私と浩賢の関係を気にするのは、私を大切に思っているからではない。男としての所有欲と自尊心ゆえに過ぎない。彼は私を問い詰め、警告し、これ以上彼の機嫌を損ねるなと釘を刺す。その言葉の端々にあるのは、脅しと皮肉ばかりだった。彼が本当に大事にしているのは葵だ。だからいつも彼女を庇い、気遣い、彼女に話しかける声は、決まって柔らかく、優しい。「八雲先輩、迷子になったのかと思ったわ」葵の声には不安が滲んでいて、そして何かに気づいたように、心配そうに、少し慌てて続けた。「唇、切れてない?血も出てる……」「大丈夫。さっきうっかり歯に当てて、皮が擦り切れただけだ」八雲の口調はあまりにも自然で、微塵の綻びもなかった。葵はとても心配そうに言った。「それ、痛かったでしょう……」「葵がそばにいるのに、どうして痛いなんて思う?」くすりとした笑い声。そこには露骨なほどの色気と甘さが滲んでいた。もう聞いていられなくて、私は蛇口をひねった。ざあっと流れ落ちる水音が、外から聞こえてくる葵の照れた甘い笑い声をかき消す。私は必死に、顔と唇を洗った。唇が赤く腫れるほど強くこすり、鏡の中の自分をぼんやりと見つめる。口角を引きつらせ、かろうじて苦笑を作った。――やっぱり、負けた。ピエロにはなりたくなかったのに、結局、私はピエロになってしまった。八雲は相変わらず手強くて、いとも簡単に私の心を掻き乱し、惨めで、苦しい気持ちにさせる。この瞬間になって、頬を伝い落ちているものが、水なのか、それとも涙なのかさえ、分からなくなっていた。今夜の食事は、もう無理だ。あの個室に戻って、夫が好きな女性と戯れる姿を見るなんて、考えただけでも耐えられない。けれど洗面所を出ると、浩賢の姿が見当たらなかった。おかしい。さっきまで、ここで私を待っていて、飲みに連れて行くと言っていたのに。携帯を取り出してみて、浩賢から二件のLineメッセージが届いていることに気づいた。一つは音声メッセージで、かなり切迫した声。背景にはエンジンのかかる音まで入っている。【水辺先生、ごめん。急用ができて、先に失礼しないといけな
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