Tous les chapitres de : Chapitre 351 - Chapitre 360

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第351話

浩賢は、本当に義理堅い人だ。私のことを気遣ってくれるだけでなく、私の家族に対してもあれほど辛抱強い。おじの言動が少し唐突だと分かっていながら、彼はまったく気にする様子もなく、あれほど真剣に答えてくれた。けれど、私は勘違いなどしていない。浩賢が口にした「好き」は、男女のそれではなく、友人としての好意だということを、私ははっきり理解している。浩賢は私を大切な友人だと思っている。だからこそ、私が傷ついたり、辛い思いをするのを見ていられず、必死に寄り添い、少しでも元気づけようとしてくれているのだ。「おじさん、もういいから。藤原先生を仕事に行かせてあげて」私はおじの言葉を遮った。浩賢と一緒に病室を出たあと、私は感謝と謝罪を伝えた。「ありがとう、藤原先生。……それに、ごめん。おじは、言い方がストレートすぎて。気にしないでね……」「どうして気にするの?回りくどいのは苦手なんだからさ、はっきり言う人のほうが好きだよ」浩賢は私の言葉を途中で遮り、こちらを見た。黒い瞳の奥に、きらりとした光が宿っている。「おじさんの言葉、ちゃんと胸に留めた。さっき言ったことも、全部本心だよ」「……え?」私は思わず言葉を失った。心臓が一拍、止まったかと思うと、次の瞬間には急に鼓動が速くなる。彼のきらきらとした瞳を見つめたまま、何を言えばいいのか分からなかった。ちょうどそのとき、エレベーターが五階に到着した。我に返った私は、逃げるように足早に降り、まっすぐ麻酔科のオフィスへと向かった。歩くのが速すぎたうえ、心に引っかかるものがあって前をよく見ていなかった私は、思いきり人とぶつかってしまった。「水辺先生、大丈夫?」幸い、相手は桜井だった。彼女は体勢を立て直しながら私の腕を支え、眉をひそめる。「……顔、どうしてそんなに赤いの?」「え?そう?……さっきちょっと急いで歩いただけだと思う」私は頬に触れ、少し熱を感じながらも、何事もないように答えた。「てっきり誰かに告白でもされて、恥ずかしくなってるのかと思ったよ」桜井が冗談めかして言った。理由もなく、また顔が熱くなった。「そんなことないよ」「でも水辺先生は、私たち麻酔科で目立つ存在だからね。綺麗で優秀だし、告白されるのも日常茶飯事でしょう?」桜井はにこにこ笑い、私の腕を引いて声を潜めた。「そうだ、ゴシップなん
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第352話

私の見方に対して、桜井は納得していなかった。「水辺先生、私、この目でいろんな人を見てたから。嬉しくて泣く人は見たことあるけど、嬉しくて目が真っ赤になるまで泣いて、しかもあんなにかわいそうな顔をする人なんて、見たことないよ」どうやら桜井は、葵が「悲しくて泣いた」という考えを譲らないらしい。けれど、私はどうしても、葵が悲しむ理由を思いつけなかった。昨夜起きたことは、どれも葵にとって嬉しいはずの出来事ばかりだ。それなのに、どうしてそこまで悲しくなって、目を赤くするほど泣く必要があるのだろう。「まあいいわ。人のことだし、放っておきましょう」考えても答えが出ないなら、考えない。そう決めて、私は桜井の腕を引き、麻酔科オフィスへ入った。やはり私は、桜井が見誤っているのだと思う。あるいは、彼女自身が葵の幸せを見たくなくて、無意識のうちに「悲しんでいるに違いない」と思い込んでいるのかもしれない。桜井は、葵のことが好きではないのだから。前回の一件を経てから、桜井の葵に対する評価はさらに悪化した。専門能力が足りないうえに、ぶりっ子だ――とまで言う。私は何度も説明した。あのときの出来事は、葵とは関係がない、と。それでも桜井は、葵がどこかで関わっていたからこそ、私があれほど長く理不尽な思いをしたのだと信じて疑わなかった。私はもう、八雲と葵に関する噂話をしたくなかった。この二人の名前を耳にするだけで、どうしても八雲の首元の噛み痕が脳裏に浮かび、そこから昨夜の光景へと連想がつながってしまう。心臓が、抑えきれずにぎゅっと痛む。その痛みは胃にまで波及し、きりきりと痙攣するように疼いた。私は拳を胸元に当てながら思った。――これからは、憂鬱な時にお酒を控えたほうがいい。心だけじゃなく、胃まで痛くなってしまうから。桜井と一緒に回診を終え、戻ってきたころには、胃の痛みはさらに強くなっている。昨夜から今朝にかけて、口にしたのは数杯の酒と、深夜の冷たい風だけ。お腹には、何も入っていない。浩賢がくれたあの牛乳も、おじの病室に置き忘れてきてしまった。――これは、さすがに胃がもたない。胃薬を探しに行こうかと考えていた、そのときだった。後ろから、看護師長が追いかけてきた。「優月ちゃん、これ、あなたに」「……これは?」差し出された袋を見て、私は首をかしげた。
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第353話

看護師長こそ本物のゴシップ女王で、特に私の噂話となると妙に張り切る。私はもともと別に何とも思っていなかったのに、そんな話を聞かされるうちに、気づけば頬がじんわり熱くなっていた。言い訳する声も、どこか落ち着きを失ってしまう。「わ、私たちはただの友達……」「はいはい、ただの友達ね」桜井はわざと私の口調を真似して繰り返し、目の奥の笑みはいっそう露骨になった。肩で軽く私を小突きながら言う。「じゃあ、このマフラーの件はどう説明するの?」あのマフラーは、昨夜洗面所に入る前に外して、浩賢に預けたものだった。ところが私は八雲に洗面所で引き止められ、出てきた頃には、浩賢は急用で呼び出されてしまい、私のマフラーを持ったまま行ってしまったのだ。彼は今日、ただこれを私に返しただけ。それなのに、桜井と看護師長に誤解されてしまった。説明しようとしたその時、背後から青葉主任の笑い声が聞こえてきた。「分かった、紀戸先生。それじゃあチームビルディングの件はこれで決まりだね。今週末、西山温泉に行こう」――紀戸先生?胸がざわりとして、私はすぐに振り向いた。次の瞬間、深く暗い瞳と真正面からぶつかった。八雲は、私のすぐ後ろに立っていた。青葉主任と並んで立ち、淡々と「いいでしょう」と頷く。けれど、その幽暗な眼差しだけは、今、確かに私に向けられている。静けさの奥で波が立ち、言葉にならない怒気が渦を巻くように膨れ上がり、私の視線を、そして心の奥を強く打った。理由もなく、私は急に怖くなった。桜井や看護師長に向けたはずの説明の声にまで、動揺が滲み出る。「ち、違うよ。昨日、たまたまマフラーを藤原先生のところに置き忘れただけで……それを届けてくれただけなの。わ、私たち、何も……」その瞬間、自分がいったい誰に向かって弁解しているのか、分からなくなった。桜井と看護師長なのか、それとも――八雲なのか。言っていることは事実なのに、この慌ただしく震える声は、まるで盗みを働いて現行犯で捕まった泥棒のようで、後ろめたさに満ちていた。「本当?でも水辺先生、なんだか動揺してるじゃない?ねえ、正直に言って。藤原先生ともう付き合ってるんじゃないの?」桜井が冗談めかして言ったその時、ようやく青葉主任と八雲に気づき、慌てて挨拶をした。「青葉主任、紀戸先生、お疲れ様です」青葉主任はすぐに桜井を
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第354話

八雲の声は、冷え冷えとして低く、まるで冬の風のようで、鋭い寒気を帯びている。それは、彼の鋭利な視線と際立った輪郭と同じく、強い攻撃性を孕んでいて、人を容赦なく追い詰める。もともと脆く、疲れ切っていた私の心は、その氷の一撃で無残に打ち砕かれた。大きな穴が穿たれ、そこへ冷たい風がひゅうひゅうと吹き込んでくる。冷たくて、空っぽで。私の視線は一瞬、怯えたように揺らぎ、いつの間にか滲んだ霞がかかった。朝の八、九時。病院が最も騒がしい時間帯で、廊下には人がひっきりなしに行き交っている。私と八雲は廊下の曲がり角に立っていた。周囲はざわめきに満ちているのに、私だけは氷の底に閉じ込められたようだ。音は消え、世界は静まり返る。この賑わいは私とは無関係。私はこの世界と、防音ガラス一枚を隔てて切り離されている。何も聞こえず、何も感じない。ただ、ひたすら冷たい。目の前にいる、氷の彫像のような八雲と、その冷酷で鋭い視線だけが、はっきりと存在している。――すでに不倫している私の夫が、私に向かって「他の男と恋愛しているのか」と問い詰めている。でも、彼は忘れているのだろうか。彼自身が、いったい何をしてきたのか。毎日、愛人を連れて公然と歩き回り、今日は今日で、二人が愛し合った痕跡を隠しもせずに見せつけて、それでいて今さら、私を冷ややかに責め立てるなんて。「へえ……紀戸先生は、私たちがまだ離婚していないってこと、ちゃんと覚えているのね?」指先を強く握り締め、私は必死で涙を押し殺した。八雲の、静かに荒れ狂う墨色の瞳を正面から見据え、軽く笑う。「てっきり忘れかと思っていたよ。毎晩家にも帰らず、愛人と夜な夜な睦み合っているようだったから」「優月」八雲の声は、さらに低く沈んだ。――ほら。もう「水辺先生」ではない。敬称ではなく、名前を呼ぶということは、私の言葉がよほど痛いところを突いたのだろう。その声には、露骨な威圧が滲んでいる。でも私は、脅しに怯える女じゃない。かつて耐えていたのは、彼を愛していたから。失いたくなかったから。まだ、彼と幸せになれるという幻想を、心のどこかで手放せずにいたから。でも今は違う。私の心は、すでに絶望の静寂に沈みきっている。今さら、何を恐れるというのだろう。「紀戸先生、私を問い詰める前に、まず自分の身辺をきれいに
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第355話

浩賢の言うとおりだ。私は、もっと自分を大切にしなければならない。きちんと食事をして、身体を労わって、気分を整える。楽しく過ごすべきだ。八雲のことで、こんなにも苦しんだり、痛んだりする必要なんてない。そう思いながら、パンを二口ほど食べたところで、強い吐き気が込み上げてきた。私は食べ物を放り出し、洗面所へ駆け込んだ。激しくえずいたが、吐き出せるものは何もない。胃の中にあるのは、無理やり押し込んだ二口分のパンと、まだ消化もされていない胃薬一錠だけ。苦くて、酸っぱい。嘔吐の反動で涙が込み上げ、私は目を閉じたまま、頬を伝う涙に身を任せた。――八雲。あなたは本当に、私を傷つけるのが上手ね。私がずっとあなたを許し、受け入れ続けてきたから、あなたはますます増長し、私の心もプライドも、平然と踏みにじるようになった。でも、もう終わりだ。これからは違う。私はあなたと、完全に決別する。もう二度と、あなたに振り回されることはない。個室から出て、洗面台で手を洗っていると、思いがけず見慣れた姿が目に入った。隣の個室から出てきたのは、薔薇子だった。洗面台は他にも空いているのに、彼女はわざわざ私の横に割り込み、私が使っている蛇口に手を伸ばしてきた。身体が触れるのが嫌で、私は眉をひそめ、すぐに手を引いた。振り返って、不快感を隠さず彼女を見る。どう考えても、挑発的な行動だった。だが、薔薇子が私を見る目には、敵意は微塵もなく、むしろ心配そうな色が浮かんでいる。「水辺先生、さっき吐いていましたよね。かなり辛そうでしたけど……どうしたんですか?もしかして、おめでたですか?」――あからさまな挑発。表情は心配そのものなのに、言葉の端々には悪意が滲んでいる。「おめでた」という言い回しを使って、彼女は私が妊娠しているのではないかと、と探りを入れているのだ。私は表向きは独身という設定なのに、彼女はわざと「妊娠」を連想させる言い方をした。私は顔を冷たくした。「尾崎看護師、もう五年もこの病院にいらっしゃいますよね?それだけ長く勤めていて、基本的な医学知識も身についていないんですか。人が吐いただけで妊娠を疑うなんて、短絡的すぎます。胃腸炎でも嘔吐は起こりますよ。その程度のことも、ご存じないんですか?」薔薇子はここまでストレートに返されるとは思って
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第356話

自分と八雲の離婚話が表沙汰になってからというもの、玉惠の私に対する態度はますます悪化していた。たとえば今日のこの電話もそうだ。口調がきついだけでなく、十五分以内に紀戸家本家へ来いと命じてきた。けれど彼女は忘れている。私がまもなく八雲と離婚するということは、つまり私はもうすぐ紀戸家の嫁ではなくなるということだ。そうなれば、この私が、これまでのように彼女に対して何事も従順に、言われるがまま従う理由はない。私は淡々と答えた。「今夜は当直なので、今すぐには行けない。もし何か重要な用件だったら、直接紀戸先生に連絡してください」玉惠が私を呼びつける理由は、だいたい見当がついていた。前に顔を合わせてからもう二日が経っている。きっと彼女は離婚手続きを急かしたくて仕方がないのだろう。それで私を慌てて呼び出そうとしたに違いない。だが、その点については前回すでに私の態度をはっきり示し、署名済みの白紙まで彼女に渡している。私にできることはすべてやった。あとは八雲の問題であって、玉惠が私を責め立てる筋合いではない。こんなことで、これ以上自分の大事な仕事を犠牲にしたくなかった。ところが、私の返答はかえって玉惠を激昂させた。甲高く尖った声が、受話器越しに耳を突き刺す。「私だって、あんたのその顔を見たくないの!あんたを呼んだのは、その恥知らずな母親を連れて帰らせるためよ!うちで好き勝手なことを喚き散らして、まったく手に負えない!」――加藤さんが、紀戸家に?胸がぎゅっと締めつけられ、神経が一気に張り詰めた。最も恐れていた事態が、やはり起こってしまった。今朝、私がうっかり口を滑らせたせいで、加藤さんはあの言葉を心に留め、案の定、何も言わずに紀戸家へ押しかけて騒動を起こしたのだ。こんな肝心な時期に、私が一番恐れているのは、離婚が滞りなく進まなくなること。「優月、これは通知よ。今すぐ来なさい!」玉惠はそう言い捨てると、電話を切った。私は心の中で大きくため息をつき、観念して手元の仕事を手早く整理し、豊鬼先生のところへ休暇をもらいに行った。「また休み?いったい何の用だ。水辺ちゃん、悪いけど最近麻酔科は忙しいんだぞ。患者は山ほどいるのに、しょっちゅう休みを取って、それでいいと思ってるのか?」このところ豊鬼先生は機嫌が悪く、私が休暇を申請すると、案の定、不機嫌な
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第357話

その時、ドアの外から低く控えめなノックの音が響き、豊鬼先生の叱責はぴたりと途切れた。私は顔を上げてそちらを見ると、そこに立っていたのは、八雲のあの冷ややかな顔だった。――どうして彼が?「紀戸先生」豊鬼先生は八雲の姿を見るや否や、たちまち顔色を変え、すぐににこやかな笑顔を作った。八雲は軽くうなずくと、視線を私に向け、よそよそしく淡々とした口調で言った。「水辺先生に少し用事があるのですが、今よろしいですか?」「ええ、もちろんですとも」豊鬼先生は即座にうなずいた。その時点で、私はもう八雲の意図を察していた。彼もおそらく、玉惠から電話を受け、私を連れて本家へ向かうために来たのだろう。とはいえ、八雲が来たタイミングは絶妙だった。少なくとも、豊鬼先生の根拠のない説教を止めてくれたのだから。私はすかさず、この機会を逃さずに言った。「では豊岡先生、私の休暇申請は……?」「もう許可する。早く行きなさい、仕事に支障が出ないようにな!」豊鬼先生はようやく、気持ちよく承諾した。私はすぐに部屋を出て、八雲と並んでエレベーターの方へ向かった。その間、私たちは一言も交わさず、視線も、身振りも、いっさいなかった。私は先に俯いてエレベーターに乗り込み、八雲と肩を並べることもせず、意識的に距離を取って離れて立った。八雲は、以前から私との関係を非常に気にしていた。かつては、私を愛していなかったからこそ、私の存在を知られたくなかった。そして今は、彼には想う相手がいて、なおさら「独身」というイメージを保たねばならず、大切に思う葵を守るためにも、余計な誤解は避ける必要がある。そして私も同じだった。今の私の望みはただ一つ――一刻も早くこの結婚関係を終わらせ、できることなら、この結婚そのものをきれいさっぱり消し去ること。だからこそ、私も距離を取る。けれど、人は往々にして、恐れていることほど早く現実になるものだ。俯いたまま、加藤さんが今日、紀戸家で何をやらかしたのかを考えていたその時、驚きを含んだ声が耳に飛び込んできた。「えっ、紀戸先生と水辺先生、一緒なんですか?」声の方を振り向くと、ちょうど薔薇子の好奇心丸出しの顔と目が合った。彼女の視線は、私と八雲の間を行ったり来たりしていて、その意味はあまりにも明白だった。――私たちの関係を疑っている。事実、関係はあ
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第358話

八雲のああした行動は、理にかなっていると言えば理にかなっている。ついさっき、私たちは薔薇子に誤解されかけたばかりだったのだから。しかも薔薇子は、彼の好きな人――葵の親友だ。もしあの誤解が葵の耳に入れば、あの子の気分に影響するのは間違いない。万が一、葵がまた彼に詰め寄るようなことになれば、確かに厄介だろう。そう頭では分かっていても、感情までは制御できなかった。エレベーターを出て、前を行く八雲の足取りを追いながら、私はその大きな背中を見つめ、胸の奥に込み上げる辛さを、危うく抑えきれなくなるところだった。車に乗ろうとしたとき、私は迷わず後部座席のドアへ向かった。だが、八雲に呼び止められた。「前に座れ」――前?八雲は忘れているのだろうか。助手席は、葵の「プリンセス専用席」で、ラベルまで貼られていることを。さっき薔薇子に誤解されかけただけでも、十分リスクがあったのに、今度は私を彼の助手席に座らせるというのか。――彼は、葵が後で細かいところに気づいて、騒ぎ立てることを心配しないのだろうか。私は彼を一瞥し、そのまま後部座席へ向かおうとした。「やっぱり後ろにするわ。前は、都合が悪い」「後ろは都合が悪い。物を置いてある」八雲の声は相変わらず淡々としていたが、そこにはわずかな焦りが滲んでいた。「前に座れ」私は足を止めた。後部座席が使えない以上、選択肢はない。助手席に座り、目の前の【プリンセス専用】のラベルを目にした瞬間、胸の奥に言いようのない違和感が広がり、痛みがまた静かに染みわたってきた。顔を背けて、できるだけ見ないようにした。だが視線は、後部座席に置かれた物へと吸い寄せられてしまう。その瞬間、私は理解した。さきほど八雲が、私を後部座席に座らせなかった理由を。――後ろは、確かに「不便」だったのだ。彼は、葵に贈る予定のプレゼントを、私が潰してしまうのを嫌がったのだ。そうでなければ、彼が譲歩して、私を「プリンセス専用」の助手席に座らせるはずがない。真っ赤なバラの花束と、ピンクと水色の流体ベア。とてもきれいだった。バラも、流体ベアも、どちらも私の好きなものだ。このベアがネットで流行り始めた頃、私は自分で材料を買って、DIYまでした。今も家の棚に飾ってある。けれど、八雲がそれに気づいたことは一度もないし、私の好みを覚
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第359話

「八雲、やっと帰ってきたのね!早く!離婚協議書を出しなさい。今日は今日で決着をつけるわ。この恥知らずどもが、ハエみたいに何度も目の前で騒ぐのはもうたくさん!」八雲と私が中へ入るや否や、玉惠は立ち上がり、苛立ちを隠そうともせず叫んだ。正直、彼女にしてはかなり取り乱している。あの教養と品位のある人が、こんな下品な言葉を口にするはずがないのだから。それだけ、今日は加藤さんに相当腹を立てさせられたということだろう。つまり、今日に限って言えば、加藤さんのほうが一枚上手だった。案の定、玉惠の怒りが頂点に達しているのとは対照的に、加藤さんは驚くほど落ち着き払っていた。それどころか、これまでになく優位に立っているようにすら見える。加藤さんの前には一杯の茶すら置かれていないのに、全身から漂うのは余裕と泰然自若さ。加藤さんはゆっくりと玉惠のほうへ顔を向け、にこやかに言葉を継いだ。「離婚するのは結構だよ。私も賛成。ただし、離婚協議の内容はきちんと話し合わないといけないね。なにしろ、八雲くんは婚姻中に他の女性と関係を持った。これは不貞行為だもの。財産分与では、当然譲歩していただかないと」――他の女性と関係を持った。不貞行為。その言葉が出た瞬間、頭がくらくらした。私が恐れていたことが、やはり現実になった。加藤さんは本当にこの件を利用して、紀戸家本家まで押しかけ、大騒ぎを起こしたのだ。しかもそれを理由に、財産分与で紀戸家に譲歩を迫るつもりらしい。玉惠がここまで激怒するのも無理はない。前回、玉惠が血相を変えて私に「なぜ八雲を告発したのか」と詰め寄ってきた理由も、まさにこれだったのだから。そのとき、私は必死に否定した。だが今日は、加藤さんが実際に行動に移してしまった。玉惠から見れば、これは完全な掌返しにほかならない。「優月、あ、あんた……前に私に何て言ったか、覚えてるでしょう?今、あんたのお母さんが何を言ってるか、よく聞きなさい!だから言ったのよ、あんたたち一家はろくでもないって!腹の中が真っ黒で、悪知恵ばかり!」玉惠は怒りのあまり言葉を噛み、その手入れの行き届いた顔さえ歪んでいた。玉惠は私を心底嫌悪しているようで、私が口を開く間も与えず、すぐに八雲へ向き直った。「もう無駄話はしないわ。八雲、今すぐ離婚協議書を出しなさい。前に決めた通りに進めるのよ!
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第360話

玄関に入ってから今に至るまで、八雲の表情は終始、先ほどと変わらぬ冷淡さと距離感を保っていた。加藤さんの口から「不貞」という言葉が飛び出しても、玉惠のように取り乱したり激昂したりすることはなく、ただわずかに眉を上げただけだった。そして今、加藤さんを見つめるその黒い瞳は、相変わらず落ち着き払っていて、そこに一片の動揺も見当たらない。「さすがは名高い首席執刀医ね。何が起きても、手術をする時と同じくらい動じない」加藤さんは彼を一瞥し、皮肉混じりにそう言った。その視線は彼の顔からゆっくりと滑り落ち、首元の襟へと留まる。そして、鼻で軽く笑った。「でもね、八雲くんは記憶力があまり良くないみたい。自分の首に何が付いているかも、覚えていないなんて?」正直、私も驚かされた。葵につけられた噛み痕をそのまま晒しながら、ここまで平然と加藤さんに反問できるなんて、いったいどういう神経をしているのだろう。加藤さんはそう言うと、忘れずに玉惠へも指し示した。「竹内さん、よく見なさい。あんたの息子さんが浮気した証拠は、今もその身にしっかり残っているのよ。私が言いがかりをつけてるなんて思わないでちょうだい!うちの優月はあんたたちの家に嫁いでから、夫に尽くして、義父母にも仕えてきた。それなのに、こんな仕打ちを受けて……補償されるべきじゃないの?」加藤さんという人は、実に立ち回りが上手い。以前、紀戸家に取り入ろうとしていた頃は、猫なで声で愛想を振りまいていたくせに、今は動かぬ証拠を掴んだと見るや、堂々として、迫力満点で補償を迫っている。私は止めに入るつもりだった。だが、いつの間にか加藤さんに押さえ込まれ、さらに背後へ引き寄せられていた。まるで子を守る母狼のように、加藤さんは私を庇う。玉惠は怒りと嫌悪をない交ぜにした表情で、加藤さんの視線を追って八雲の首元を見た。一瞬、言葉に詰まり――すぐに眉をひそめる。「これが証拠?ただの擦り傷じゃない。蚊に刺されたのかもしれないわ」「はぁ?竹内さん、本気で言ってるの?」加藤さんの嘲笑は、さらに鋭さを増した。「真冬に蚊に刺される?そんな話、外で言ったら笑い者よ!この時期に蚊がいるなら、よっぽど妖怪みたいな雌蚊でしょうね!」玉惠の顔色はますます悪くなり、さすがに気まずそうだった。だが玉惠は素早く八雲の首元を一瞥し、別の可能性を捻り出
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