《3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた》全部章節:第 421 章 - 第 430 章

572 章節

第421話

私は動揺のあまり、危うく舌を噛みそうになった。慌てて桜井の腕を引っ張って部屋の中に引き入れ、ドアを閉めてから、眉をひそめて小声で叱る。「変なこと言わないでよ。夏目先生が私に告白なんてするわけないでしょ。あの人、ちゃんと彼女がいるんだから」「優月さん、それは決めつけすぎだよ。男女が一緒に歩いてたらすぐ恋人同士って思うの?兄妹かもしれないでしょ。それに、見たよね?夏目先生、あんなに優月さんのこと気にかけて、私たちの前で『優月』って呼んで、『仲良くする』とか言って……あれ絶対好きって意味なのよ!」……ほんと、この子は口が止まらない。「考えすぎだって」私は呆れて、彼女のほっぺたを軽くつねった。「夏目先生が私を気にかけてくれるのは、新雅に誘うため」そして、以前颯也に新雅へ来ないか、助手として働かないかと誘われたことを、簡単に説明し、桜井に念を押した。「だから変な憶測しないで。こんな話、もし夏目先生の恋人の耳に入ったら大変でしょ。桜井さんって夏目先生のファンなんでしょ?推しが嫌な思いするの、見たくないでしょ?」さっき颯也が先ほどの提案について尋ねてきた時から、私は気づいていた。今夜彼がそんなに親切だったのは、私を新雅に誘って助手にしようと思っていたからだ。当分行く気はないけれど、あんなに優秀な麻酔科医に認められていると思うと、やっぱり少し嬉しかった。「なーんだ、そっちの『引き抜き』か……」桜井は肩を落としてため息。「てっきり恋のほうの引き抜きかと。どっち応援するかめちゃくちゃ悩んだのに。親友も推しも、どっちも大事だから」「はいはい。これでもう悩まなくていいでしょ?」私は彼女の額を軽くつついた。「ところで、今日私が行けなかったけど、何かあった?高橋看護師長と何してたの?」「青葉主任がバーベキュー用意してくれて、みんな庭で飲んだり食べたりして盛り上がってたよ。特に何もない。私、さっきは薬届けに行っただけ。豊岡先生がコンロで火傷しちゃって、火傷用の軟膏が必要だって。それで高橋看護師長に『上に戻って水辺先生の面倒見てきて』って言われただけ」桜井はさらりと答えた。どうやら全部いつも通り。私が体調不良で参加できなくても、特に支障はなかったらしい。ほっと胸を撫で下ろした。しかし桜井がまた私の横にぴったりと寄ってきた。妙ににやにやしながら、ひそひ
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第422話

桜井の矢継ぎ早の質問に、私はすっかり言葉を失った。やっと落ち着いたはずの気持ちが、彼女の持ってきた「新情報」のせいで、またぐちゃぐちゃに乱される。……どうして?どうして八雲と葵がケンカなんて。さっきまで、葵は私の説明を信じてくれていたはずなのに。どうしてまた蒸し返して、あんなことを問い詰めるの?余計なこと、聞かなければよかった。あの一言の好奇心のせいで、また面倒ごとを呼び込んでしまった気がする。「もちろん本当だよ。付き合ってる最中のカップルって、相手のことに敏感になるでしょ。松島先生は、心配しすぎて勘違いしただけ。私と紀戸先生の関係を誤解しただけだと思う」私は無理やり感情を押さえ込み、できるだけ平静を装った。そう言いながらも、結局気になってしまって。「……紀戸先生、ちゃんと松島先生をなだめたんだよね?」きっと。八雲なら絶対に、優しく葵を慰める。私との関係なんてきっぱり否定して、安心させて、甘やかして、守って。――だって、あんなに葵を大事にしているんだから。「なだめてはいたよ。でも、なんていうか……はっきりしない感じで。『考えすぎだよ』って言うだけで。最後は松島先生のほうから折れて、『最近情緒不安定で、つい疑っちゃった、ごめんね、怒らないで』って」桜井はうなずき、また低く嘆いた。「前から紀戸先生が松島先生のことすごく大事にしてるのは知ってたけど……なんか逆に、松島先生のほうが立場弱い気がするよね。怒るのも遠慮して、最後は自分から謝るなんて」……葵が立場弱い?私はそうは思わない。葵は、八雲にすごく愛されている存在だ。あの関係の中で、主導権を握っているのは彼女のほう。思う存分甘えて、わがままを言っても許される。だって葵が泣いただけで、八雲はすぐになだめたじゃない。「考えすぎだ」って、あんなに優しく。桜井は壁越しでよく聞こえなかったから、勘違いしてるだけ。……本当に立場弱いのは、私だ。八雲との三年間。私はずっと卑屈で、何もできずにいた。自分を踏みにじるみたいにして尽くしていたのに、それでも彼は一度も振り向いてくれなかった。「桜井さん、疲れてない?先にシャワー浴びて休んだら?」私はそっと話題を変えた。桜井はようやく話を止め、慌てて浴室へ向かった。「入ります入ります!9時になったらうちの彼氏が電話してくれるから
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第423話

私は奥村先生の隣に腰を下ろし、小さく「ありがとうございます」と礼を言った。そして――なんというか、タイミングが最悪で。顔を上げた瞬間、前の席に座っているのが、よりによって薔薇子と葵だと気づいた。「えっ?紀戸先生、昨日の夜もう帰っちゃったの?」薔薇子がいかにも興味津々といった顔で身を乗り出す。葵は肩を落として、しょんぼりした様子。「うん……私たち、まだ晩ごはんも食べ終わってなかったのに。電話が来た途端、顔色変わって、急いで出て行っちゃって……」――八雲が、昨夜もうホテルを出た?本当は、もう彼のことなんて気にしたくなかった。だけどこの話には、さすがに驚いた。視線はスマホに落としたまま、つい聞き耳を立ててしまう。「誰からの電話?そんなに急ぐなんて。せっかくのキャンドルディナーも途中だったんでしょ?」薔薇子が私の心の声をそのまま代弁する。「ていうか、なんで葵ちゃんも一緒に連れてかなかったの?一人で残して平気なの?」「薔薇子、そんな言い方しないで……」葵の耳がみるみる赤くなる。恥ずかしそうに薔薇子の肩を軽く押しながら言った。「私と八雲先輩は、まだ全然そんなんじゃ……」葵は周囲の同僚たちの目を気にして、薔薇子にはっきり言わせたくないんだろう。だがみんな、もう気づいている。この二人の関係なんて、隠したって無駄なのに。案の定、薔薇子は笑いながらからかう。「時間の問題でしょ?あとはきっかけだけじゃん」葵の耳はさらに真っ赤になる。唇を噛みながら私を一瞥したが、すぐに視線を外し、声はさらに小さくなった。「違うよ……ほんとに違うの。ただ、昨日は確かに都合が悪かった。紀戸夫人から電話が来て……すごく急ぎの用事みたいで、実家に戻らなきゃいけなかったの」「なるほど、お母さんかぁ」薔薇子は納得したように頷き、でもすぐ残念そうに言う。「じゃあなおさら、一緒に行けばよかったのに。ちょうど親御さんに挨拶できたじゃん。紀戸先生だってもう葵ちゃんの家族に会ってるんだし」「薔薇子、やめてってば……!そんなんじゃないから、みんな誤解するって……」葵は慌てて薔薇子の口を手でふさぐ。しかし薔薇子の声はやたら大きくて、さっきの一連の会話は、おそらく最前列の運転手にも聞こえていた。今さら塞いだって遅い。……でも薔薇子の言ってることは、間違っていない。
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第424話

……まだ、私と八雲は離婚していないのに。それなのに彼は、もう葵を実家に連れて行って、家族に紹介するつもりでいる。まだ実際に連れて行ったわけじゃない。でも、彼はもう葵にその話をしている。そして、まだ連れて帰らない理由も、私は分かっている。離婚手続きが終わっていないから。私がまだ、彼の家から完全に「いなくなっていない」から。彼はきっと嫌なんだ。彼の大事な人が、少しでも不快な思いをするのが。だから完璧で、ちゃんと筋を通した形で、何の後ろめたさもなく、彼女を迎え入れてあげたい。……爪が手のひらを食い込んでも、痛みは感じなかった。心が痛すぎて。そして同時に、はっとした。昨夜、玉惠が真夜中に八雲を呼び戻した理由。――きっと、離婚の手続きだ。私はもう離婚協議書にサインしている。紀戸家としては、私の気持ちが変わらないうちに、早く手続きを済ませたいはず。「水辺先生、顔色悪いよ。酔ったか?」隣の奥村先生が私の異変に気づいたようで声をかけてきた。我に返り、無理やり笑みを浮かべた。「あ……いえ、私は大丈夫です」そのとき。「先輩、また車酔いですか?水、飲みます?」前席で薔薇子と話していた葵が素早く振り返り、タイミングよく水を差し出した。葵の顔には心配の色が浮かび、大きな目には緊張と不安が満ちていた。これほど親切な好意を、多くの同僚の前で断るわけにはいかない。しかし、この愛らしい顔、そして彼女の目尻や眉間にまだ消えきっていない喜びと照れを見れば、胸の奥が、じわりと苦く染みていく。彼女は知っているだろうか。私はもう過去の女で、彼女は今の女。新しい女の笑顔は見えても、捨てられたほうの涙なんて誰も見ない。結局私はその水を受け取り、心から微笑みながら言った。「ありがとう、松島先生」「そんな、水辺先輩こそ。昨日、紀戸夫人の前で私のことをフォローしてくれてありがとうございました」葵は何度も手を振り、顔の照れと喜びがますます濃くなった。「八雲先輩も言ってました。紀戸夫人、私のこと気に入ってくれたって。きっと水辺先輩のおかげですよね」――ドン。また心臓に銃弾が撃ち込まれたみたいだった。胸の奥に、ぽっかり穴が開く。無理に口元を引き上げて、自然な笑みを浮かべた。「……松島先生が愛されやすい人だから。私の功績じゃないよ」玉惠が葵を気
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第425話

私は顔を上げて葵を見た。「大丈夫だよ」ただ、その一瞥で――ふと気づいた。葵の隣に座っている薔薇子が、ずっと静かに私を見ている。メガネの奥には感情の読めない瞳。私と目が合った瞬間、薔薇子の視線がわずかに揺れ、すぐに口角を上げて笑った。「葵、別に悪気はないんですよ。水辺先生のこと身内だと思ってるから、つい何でも話しちゃうだけです」「そうです、私、水辺先輩のこと本当にお姉さんみたいに思ってるし……それに、水辺先輩だって今、藤原先生とラブラブじゃないですか。この水筒、藤原先生がくれたんですよね?」葵が何度も頷く。私は手元のコップを見下ろした。確かに。これは浩賢が前にはちみつ水を入れてくれた、あの水筒だ。「水筒は藤原先生のだけど、私たち別にラブラブじゃないよ。ただの友達」この機会に、はっきりさせておいたほうがいいと思った。「ただの友達?でもこの前、隠れ家レストランで手つないでましたよね……?」葵が丸い目を見開く。……説明のしようがない。あれは八雲への意地で、衝動的に浩賢の手を掴んだだけ。でも事情を知らない葵から見れば、恋人同士にしか見えないだろう。まさか、「葵の彼氏に腹を立ててたから」なんて言えるわけもない。「つまり、藤原くんはまだ『口説いてる最中』ってことか」隣の奥村先生がのんびり口を挟んだ。お茶を一口すすって、ため息混じりに言う。「道のりは長いなあ。あの子、もっと頑張らないと」その一言で、葵はそれ以上追及せず、軽く笑って前を向いた。ようやく静かになる。私はゆっくり水を飲む。……なのに。薔薇子の視線だけが、いまだに時々私の顔に刺さる。何を見ているんだろう。……夕方、私たちは東市に戻った。私はタクシーで景苑へ戻った。まず簡単にシャワーを浴びて着替えたが、休むことはせず、ソファでずっと前に整理した書類を、パラパラとめくっていた。私は、玉惠からの電話を待っている。昨夜、八雲を実家に呼び戻して離婚のことを話したのなら、今日にはもう彼も署名しているはず。玉惠からの連絡を待とうと思った。もしかしたら明日、正式に手続きできるかもしれない。……そう思ったが、どれだけ待っても連絡は来なかった。いつの間にか睡魔に襲われ、そのままソファにもたれて眠ってしまった。どれくらい経っただろう。――バタン。
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第426話

八雲がこちらへ歩み寄ってきた、その瞬間――私の心臓はほとんど止まりかけた。明るい照明の下で、彼の顔の輪郭はいっそうくっきりと浮かび上がる。高い眉骨、きつく寄せられた濃い眉。銀縁の眼鏡の奥にある、綺麗な瞳が、不満げに揺れていた。「どうしてこんなところで寝てるんだ?」「わ、私……」どうして最初にそれを言うの?一瞬、頭が真っ白になる。けれど次の瞬間には、彼の腕がもう伸びてきていた。片手がそっと私の腰を抱き、もう片方が膝裏をすくい上げる。ふわりと体が軽くなり、気づけば私はすでに彼の広くて逞しい胸の中にすっぽり収まっていた。肩にかけていた毛布が滑り落ち、あの書類もソファから床へ落ちる。「八雲、何するの?」彼の意図が分からない。けれど彼は答えなかった。私を抱いたまま、まっすぐ寝室へ向かう。端正な顔は相変わらず険しく、目の奥の不満と叱るような色がいっそう濃くなった。「昨日あんなに熱出してたのに、今日もソファで寝るなんて。こんな薄いの一枚で……自分の体、どうなってもいいのか?」……きっとまだ寝ぼけているんだ。でなきゃ、夢でも見てるに違いない。あるいは聞き間違い?口調は不満と責めるような響きばかりなのに、その言葉は――まるで私を心配しているみたいだった。私の体を気遣って、また熱を出すんじゃないかと心配しているみたいに。私は何度もまばたきをして確認する。目の前にいるのは、本当に八雲だ。でも、どうして彼が私を心配するの?ずっと私のことを嫌っていたのに。私たちはもう離婚するはずの関係なのに。どうして……?驚きと戸惑いのままの私をよそに、彼は寝室に入ると、手早く私を布団に押し込み、しっかり寝かせた。動作は大きいのに乱暴さはなく、むしろどこか丁寧で、優しく、布団の端まできちんと整えてくれる。気づけば私はふかふかの布団に仰向けになっていて、八雲はもう部屋を出ていた。寝室には、呆然とした私だけが残される。風邪のせいでぼんやりしているわけじゃない。今の状況を必死に整理しようとしている。……どうやら、八雲は怒っていない。玉惠が出した離婚協議書の内容を受け入れた、ということだろうか。それなら私は大きな山を一つ越えたことになる。もう彼の理不尽な要求を気にしなくていい……?もしそうなら、本当に肩の荷が下りる。そんなことを考えてい
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第427話

頭が真っ白になった。また、あの感覚だ。まるで夢の中にいるみたいな、現実味のない感覚。私は八雲の腕の中に抱き込まれていた。彼の顎が私の頭頂に軽く触れ、体と体がぴったり密着する。胸越しに、彼の鼓動がはっきり伝わってくる。呼吸は規則正しく、……もう眠っているみたいだった。「八雲、放して」身をよじって、彼の腕から抜け出そうとする。けれど次の瞬間、さらに強く抱き締められた。低く掠れた声。深い疲労がにじんでいるのに、どこか優しく、甘やかすような響き。「いい子だから、暴れるな……少し、抱かせて」胸がひくりと跳ねた。気づかないうちに、心がふっと緩んでしまう。――「いい子」。もうずっと、八雲にそんなふうに呼ばれていなかった。どれくらいだろう。たぶん、二年……結婚して最初の一年間、彼はよくそう呼んでくれた。優しく、親しげに「いい子」と囁きながら、一緒にご飯を食べようと甘えてきて、散歩に誘って、同じベッドで眠って――気持ちが高ぶった夜には、耳元でそう呼びながら、私をなだめ、誘い、何度も体を重ねた。けれど今は、あんなふうに穏やかな時間なんて、もうずっとなかった。たった一言の「いい子」で、いくつもの思い出が頭の中をよぎった。もがいていた力が止まり、いつの間にか、抵抗する気力も抜けていた。彼の呼吸はさらに深く、ゆっくりと落ち着いていく。……本当に疲れているんだ。もう完全に眠ってしまったらしい。そっと顔を上げて彼を見る。今は眼鏡をかけていない。彫りの深い眉骨、長く整ったまつげが白い頬に影を落としている。けれど濃い眉は強く寄せられたまま。まるで何か重い悩みを抱えているみたいに。思わず手を伸ばした。指先で彼の眉間をなぞり、そっと皺をほぐす。そのまま眉、鼻筋、頬骨、唇へと、輪郭をたどる。胸の奥に込み上げてきたのは、やっぱり優しさと……どうしようもない切なさ。八年間、八雲を愛してきた。この顔は、もう心に刻み込まれている。どこもかしこも、全部知っている。全部、好きだった。なのに今、触れていると、自分がどんな気持ちなのか、うまく言葉にできない。複雑な感情が絡み合って、最後には小さな溜め息に変わった。……離婚前、最後の夜だと思おう。彼はもう離婚協議書にサインした。きっと、すぐ手続きに進むはず。今夜が、最後の同じ
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第428話

昨夜、私が寝乱したソファは、今はきれいに片付けられていた。くしゃくしゃだった毛布も、きちんと畳まれて隅に整然と置かれている。そして、昨夜寝る前に読んでいたあの書類は、今はローテーブルの上に、きちんと揃えて置かれていた。私はすぐにそれを掴み上げ、素早く、しかし念入りに中身を確認する。ページは一枚も抜けていない。ほっと息をつき、すぐに部屋に持って戻って、クローゼットのいちばん下の引き出しにしまった。けれど立ち上がった瞬間、また胸がぎゅっと締めつけられる。……そういえば。昨夜、八雲に抱き上げられた時、この書類は毛布の上から滑り落ちて、ソファの下に落ちたはず。彼は、いつソファを片付けたの?その時、この書類の中身を見たりしなかった……?不安が胸の奥に居座って離れない。そのせいで、麻酔科オフィスに着いてから看護師長に声をかけられても気づかなかった。「優月ちゃん、どうしたの?何か考え事?」看護師長が近づいてきて、私の肩を軽く叩いた。私ははっと我に返り、すぐに仕事モードに切り替えた。「あ、いえ……すみません。看護師長、今なんておっしゃいました?」「昨日のバーベキューで、豊岡先生がコンロで手を火傷しちゃってね。しかも結構ひどいの。今日の手術、優月ちゃんに代わってもらうことになりそう」看護師長は期待のこもった目で私を見る。「優月ちゃん、実力を見せるチャンスよ」豊鬼先生の手が火傷したのは知っていたけれど、まさか手術に出られないほど重いとは思わなかった。……それに、今日は手術がやたら多い。午前中だけで整形外科の手術が二件。一件は単純骨折の固定。もう一件は半月板損傷の低侵襲手術。一件目はまだ楽だったけれど、二件目が終わった頃には、もう午後一時になっていた。手術を終えるなり、私は桜井と一緒に食堂へ駆け込む。麻酔科医は他の診療科と違って、サポート役だ。午前の二件だけで終わるはずもなく、午後もまだ手術が控えている。食堂で昼食を急いでかき込み、二口ほど食べたところで、また看護師長から電話がかかってきた。「優月ちゃん、もう食べ終わった?こっちで緊急オペが入ったの。すぐ戻れる?」「何の手術ですか?どの手術室?すぐ向かいます」胸がきゅっと締めつけられる。慌ててご飯をかき込み、立ち上がりながら早口で尋ねる。「心臓外科。外傷による心破
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第429話

私も、早くこの泥沼みたいな状態から抜け出したい。いつか桜井みたいに、満たされていて、軽やかに笑って生きられるようになりたい。仕事モードに入った途端、桜井はすぐにいつものプロの顔に戻った。真剣で、無駄がなくて、頼もしい。あまりにも急遽入ったオペで、私と桜井はほとんど駆け込むように手術室へ飛び込み、緊急の心臓修復手術を開始した。患者は事故による肋骨骨折。折れた骨が心臓を損傷し、心破裂を起こしている。手術時間は六時間。心臓血管外科と整形外科の合同オペで、心臓の修復に加え、肋骨の固定術も同時に行う大掛かりなものだった。手術室から出た時には、もう夕方。……六時間ぶっ通しで、さすがに体力が削られる。今回心臓修復術の執刀医である米田(よねだ)先生が、感心したように私を見る。「水辺先生はさすが麻酔科のエースだな。技術も安定しているし、何より落ち着いている。これだけ長時間集中力を保てるなんて、本当に優秀だ」肋骨固定を担当した西岡(にしおか)先生も眼鏡を押し上げ、うなずいた。「確かに。これは大したもんだ。この若手、もうすぐ豊岡先生に追いつくんじゃないか?」「いえ、豊岡先生が普段しっかり指導してくださっているおかげです。今日はお二方が中心になってくださったから、無事に最後まで担当できました。またぜひご一緒できたら嬉しいです」私はすぐに丁寧に頭を下げた。……本音を言えば、ここまで持ったのは、ほとんど気力だけだ。麻酔科オフィスの扉が見えた頃、突然、目の前がぐらつき、足元がふらついた。もうすぐ転びそうになった。幸い、左右から同時に手が伸びて、しっかりと支えてくれた。「優月さん、大丈夫!?」「水辺先生、気をつけて」なんとか体勢を立て直し、顔を上げる。目の前にあったのは、素朴で優しい顔立ち。……浩賢だった。大きな手で私の腕をしっかり支え、眉間に深い心配を寄せている。「手術終わったって聞いて、すぐ来たんだ。負担が大きすぎて疲れ切ってるんじゃないか?」「疲れただけじゃなくて、お腹ペコペコなんですよ!昼ご飯二口しか食べてないのに、またオペですからね。私はまだ朝ご飯食べてたけど、優月さんは朝も抜きで、朝から今までぶっ通し。絶対低血糖気味ですよ」桜井が私を椅子に座らせながら、浩賢に訴えかけた。そして私の引き出しを開けると、彼女は驚い
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第430話

正直に言えば、この時の私の視界が暗くにじんでいて、何もはっきり見えていない。ただ――葵の声と、あの「八雲先輩」という呼び方で、そこにいるのが彼女と八雲だと分かっただけ。実際のところ、八雲の表情なんて見えていない。ただ、黒い影のように立っているのが分かるだけ。何も言わない。でも……きっと機嫌は悪い。なんとなく、そう察してしまう。そして、不機嫌なのは私も同じだ。こっちは疲労困憊で、空腹で、まだ休みも取れていないのに、八雲は彼の大事な葵を連れて、わざわざ私を嘲笑いに来たのか?どういうつもりなんだろう。そう思ったけれど、私が口を開く前に、横から桜井が鼻を鳴らした。「松島先生、紀戸先生ってそんなに松島先生に優しくないんですか?どうしていつもご本人の前でそんな聞き方するんです?なんかすごく妬いてるみたいですよ」「ち、違います!そんな意味じゃ……八雲先輩、誤解しないで」葵は一瞬で慌てふためき、八雲に弁解する。「水辺先輩と藤原先生を妬んでるわけじゃないの。ただ、お二人が仲良さそうで……幸せそうだから、私も嬉しくて……」八雲は相変わらず黒い影のまま。やっぱり何も言わない。……もう彼の顔色なんて見る気力もない。今の私には、話す元気すら残っていない。私は浩賢から箸を受け取り、隣の桜井を軽くつついた。「桜井さん、体力温存しなきゃ。ご飯食べよ」「そうだよ、早く食べな。スープもよそってあげる」浩賢も穏やかに笑う。……今日の浩賢、なんだか様子がおかしい。普段なら八雲に不満があっても、皮肉を言ったり直接言い返したりするのが普通だったのに、今日は八雲が入り口にずっと立っているのに、浩賢はまるで気づかないかのように、全く反応を示さない。まるで八雲と葵を空気のように扱い、今はただ私の食事に専念しているかのようだ。この態度は、皮肉や言い返されるより、よほど不快だった。相手を完全に無視し、最初から相手にしていないみたいだった。しかも浩賢自身だけでなく、桜井にも八雲と葵を無視させていた。桜井がさらに追撃する。「藤原先生、おかしいと思いません?彼氏の前で他人の彼氏のほうが優しいって褒める人って。もしかして藤原先生のこと狙ってるんじゃないですか?優月さんから奪おうとしてるとか?」……なかなか鋭い一撃。「それはないよ。俺、ぶりっ子好きじ
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