3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた のすべてのチャプター: チャプター 401 - チャプター 410

414 チャプター

第401話

どうやら、さっき八雲は私に手を上げようとしていたらしい。でも私がすぐ気づいたせいで、少し気まずそうにしていた。「八雲先輩、水辺先輩と……どうしたの?もしかして……喧嘩?」そのとき、エレベーターの中からおずおずとした声が聞こえてきた。私ははっとして振り向き、視線がエレベーターの中に立つ葵と目が合った。彼女は困惑した顔をしていて、疑いを含んだ目が、私と八雲の顔の間を行き来していた。その瞳の奥には、緊張と不安、そして心配が揺れていた。どうやら、さっき洗面所で私が薔薇子に言い返した言葉が、葵の心にも引っかかっているらしい。今、私と八雲の関係を疑い、何か揉め事があるのではないかと心配しているのだ。「別に……」私は反射的に一歩前に出て、八雲と距離を取ろうとしながら説明しようとした。しかし、言い終える前に、別の低く重い声がそれを遮り、かき消した。「俺が彼女と喧嘩する理由なんてあるか?」八雲の声は、氷のように冷たく鋭かった。彼の視線が私の顔をすっとかすめる。まるで鋭い刃物で皮膚を切り裂かれたような気がした。そして何より、その刺々しい言葉が胸をえぐる。「分別のない人間と話す価値もない」分別がない?それって、私のこと?私は八雲を見つめた。しかし彼は私の脇をすり抜け、そのままエレベーターの中の葵へとまっすぐ歩いていった。長い腕が自然な動作で彼女の肩を抱き寄せる。さっきまでの冷たさはすでに消え、声はすっかり柔らかくなっていた。「どうして上に来たんだ?」「さっき目が覚めたら薔薇子が来てて。青葉主任がバーベキューするって言って、みんな準備を始めてたの。八雲先輩が下にいないから、まだ上で休んでるのかなって思って、迎えに来た」葵は彼の胸に身を寄せ、不安も緊張もすっかり消え去っている。小さな顔には甘い笑みが浮かんでいた。「ちょうどいいな。俺も今から葵を迎えに行くところだった」八雲は腕の中の葵を見下ろして微笑む。その声は冬の日差しのように優しかった。「俺たち、ほんと気が合うな」――気が合う。その言葉を胸の奥で反芻すると、どうしようもなく苦いものがこみ上げてきた。愛し合う者同士は、いつだって通じ合っている。他人には真似できない、特別な暗黙の了解。エレベーターの中。彼は背が高く、彼女は小柄で。彼の広い腕が彼女の細い体を包み込み、彼女は顔を
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第402話

私は、八雲と葵が甘く寄り添う姿を見たことがある。キスしているのも見た。葵が八雲の体に残した赤い痕を目にして、二人がどれほど激しく求め合ったのか想像したこともある。けれど――こんなふうに、身体ごと絡み合うほど親密な二人を見るのは、これが初めてだった。その光景は、容赦なく私の胸を刺した。そして同時に、私は葵の意図を悟った。この子は危機感を抱いているんだ。八雲から十分な安心と愛情を与えられているはずなのに、それでもなお、私の存在が気にかかる。だからわざと私を呼び止めて、二人の親密さを見せつけた。――私たちはうまくいってる。あなたみたいな女の入り込む隙なんてない。そう言っているのだ。その瞬間、私はまるで苦い薬を無理やり飲み込んだみたいだった。喉の奥から胸の底まで、強烈な苦さがじわじわと広がっていく。それなのに同時に、鋭い刃物で心臓を深く突き刺されたような激痛が走り、息をすることさえできなかった。それでも、私は笑えてしまった。冗談めかして、彼女に声をかけることさえできた。「やめとくわ。まだ用事があるのを思い出したの。紀戸先生と松島先生の邪魔をするのも悪いし、先に下りてて」……おかしな話だ。妻の私が、自分の夫と愛人が抱き合っているのを目の前で見ながら、わざわざ気を遣ってお邪魔虫にならないように身を引くなんて。ここまで物分かりのいい妻なんて、そうはいないだろう。けれど、そんな私の態度すら、八雲は気に入らないらしい。彼は眉をひそめ、あの整った切れ長の目に露骨な苛立ちと嫌悪を浮かべた。「放っておけ、葵。行こう」「八雲先輩、そんなにきつく言わないで。水辺先輩だって何も悪くないのに」葵は八雲の胸に寄りかかり、彼の服の裾を軽く引っ張って、甘えるように揺らす。半分なだめ、半分は甘えるような仕草。それから私を見て、心配そうな顔をした。「水辺先輩、顔色あんまりよくないよ。一緒に下りましょう?八雲先輩だって、水辺先輩を一人にするのが心配じゃない?」……よく見ている。私の顔色が悪いことに気づくなんて、気が利くし、優しい子だ。私を一人にするのが心配だと言って、どうしても八雲と一緒に下まで付き添うと言って、譲らなかった。もし、さっきみたいにわざと見せつける真似をしていなければ、私は本気でその気遣いに感謝していたかもし
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第403話

私はそのまま桜井の手から水筒を取り上げ、エレベーターに乗り込んだ。そして彼女に向かって笑いかけた。「ちょっと急ぎの用事があって、下に行かなきゃいけないの。お湯、ありがとう」「えっ、水辺先生!藤原先生にちゃんと看病するよう頼まれてるのよ。熱もあるのに外に出るなんて、そんなのダメだって」桜井は慌てて引き止めようとする。けれど私は彼女より早くボタンを押し、手を振った。「大丈夫。用事が終わったらすぐ戻って、真っ先に解熱剤を飲むから。心配しないで。じゃ、行ってくるね」彼女の声を遮るように、エレベーターの扉が閉まった。変わり続ける階数表示をじっと見つめた。数分後、ようやく二階のカフェに到着した。ちょうどそのとき、玉惠から二度目の電話がかかってきた。不満をにじませた声だった。「まだ来ないの?まさか八雲を探しに行ってたんじゃないでしょうね?言っとくけど、彼を頼っても無駄よ。今日この離婚協議書、あんたは必ずサインするの」「ご心配なく、紀戸夫人。今日、たとえあなたに止められても、私は必ず署名します」私は淡々と答えながら、窓際に座る玉惠に視線を定め、足早に歩いていった。指定の場所に着いて、私は電話を切った。そして彼女の向かいに腰を下ろす。「まず、内容を確認させてください」玉惠は私を見るなり一瞬驚いたが、すぐにいつもの冷たい尊大な態度に戻った。バッグから書類を取り出し、乱暴に私の前に放り投げ、さらにペンを一本よこす。「早くして。読んだらすぐサインしなさい」彼女の態度などどうでもよかった。私にとって重要なのは、この離婚協議書の中身だけだ。私は細部まで目を通した。小さな条項一つも見落とさないように。けれど実際のところ、この協議書は驚くほど簡潔で、五分もかからず読み終えてしまった。確かに新しく作られた離婚協議書だった。いかにも玉惠らしい内容だ。簡単な理由は一つ。――財産分与が一切ない。「あんたは紀戸家に嫁いできたとき、何も持ってこなかった。八雲名義の資産はすべて婚前財産。婚姻中の収入はかなりあるけど、あんたと分ける必要はないと思ってるわ。この三年間、水辺家は八雲からずいぶん搾り取ったでしょう。あんたのお父さんの医療費と介護費、お母さんの毎月の小遣い、それに海外にいる妹さんの留学費用まで。全部、八雲のお金よ」玉惠は冷ややかな顔で、淡々と続
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第404話

玉惠が差し出したこの離婚協議書の内容に、私は満足していた。財産のもめ事もなければ、理不尽な条項もない。だからこそ、私はためらいなく、きっぱりと署名できた。けれど――この協議書が本当に効力を持つのか、それだけが不安だった。八雲は、私が彼の大事な葵に影響を与えることを嫌がっている。二人の未来を邪魔されるのを、何よりも嫌う人だ。彼が本当にサインしてくれるのか、それが心配だった。「そんなこと、あんたが気にする必要はないわ。私が何とかする。あんたは指印を押せばいいの」玉惠の声が冷たくなり、眉間にしわを寄せ、もう一度私を急かした。どんな手段で八雲を説得するのかは分からない。けれど、ここまで言い切るのなら、きっと勝算があるのだろう。「あんたは心配しなくていい」と言われて、私はようやく少しだけ安心した。そして迷いなく、指印を押した。玉惠は私の前から書類を素早く引き寄せ、署名と指印を入念に確認した。問題がないと分かると、ようやく満足そうにうなずいた。荷物を片づけながら、鋭い視線で私を見据える。「署名はしたけど、この件は口外しないこと。八雲に自分から言ってはダメよ」どうやら玉惠には、すでに具体的な計画があるらしい。おそらく、何らかの「特別な手段」で八雲にサインさせるつもりなのだろう。でも、私には関係ない。欲しいのは結果だけ。そのためなら、いくらでも協力する。「分かりました」私はうなずいた。「それから、この協議書には書いていないけど、私もそこまで非情じゃないわ。お父さんは紀戸家に恩がある。療養費は、今後も紀戸家が負担してあげる」どうやら、私の態度が気に入ったらしい。思いがけない優しさに、私は思わず顔を上げた。少し驚いてしまった。目の前の、手入れの行き届いた上品な婦人は、白磁のカップを優雅に持ち上げ、コーヒーを一口飲んだ。そして、ゆっくりと続きを告げる。「ただし、妹さんの留学費用までは払えない。紀戸家は彼女に義理はない。それから、お母さんもきちんと管理してちょうだい。もう二度とうちに乗り込んできて騒がれるのはごめんだわ。外で紀戸家の悪い噂を流されるのも困るわ」……やっぱり。玉惠がそんなに気前よくなるはずがない。自ら進んで父の療養費を負担するなんて。もし本当に善人なら、以前、私への見せしめに父の療養ランクを下げたりし
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第405話

もっとも――たとえ玉惠がそんなことまで私のせいにしたとしても、別に構わない。離婚後、彼女が私を脅せる材料なんて、父の療養費くらいしかない。でも、その件について、私は最初から彼らに頼り続けるつもりはなかった。一つは、浩賢がすでに手を貸してくれている。当面は心配しなくていい。もう一つは、以前八雲に借用書を書いている。あのお金は、もともと私が返すべきものだ。だから、たとえ玉惠がそれを盾に脅してきたところで、何の意味もない。玉惠は私の態度に満足したらしい。カップを置き、優雅な仕草で唇を拭った。その視線からは、さっきまでの攻撃性や威圧感は消えていたが、相変わらず傲慢さと軽蔑だけは残っていた。「三年間、あんたとは嫁姑としてやってきたけど、今日が初めてね。私を満足させたのは。これからは他人同士よ。だからこそ、あんたの将来のために最後に一言だけ忠告してあげる。人間ね、いちばん大事なのは身の程を知ることよ。自分の立場をわきまえて、余計なことはしないこと」……さすがは紀戸夫人。夫人としての気品もあれば、やり方も心得ている。この三年間、彼女が私に満足した日なんて一日もなかった。いや、最初から――玉惠という人は、私のことが気に入らなかったのだ。結婚してからずっと粗探しばかり。ようやく離婚できて、肩の荷が下りたのだろう。それでもなお、「あんたのため」と言いながら、最後まで私を牽制してくる。口を慎め。身の程を守れ。余計なことをするな、余計なことを言うな。……本当に抜け目がない人だ。そりゃあ葵みたいな子を気に入るはずだ。あの子は私より素直で、玉惠の強い支配欲や細かい干渉にも耐えられるし、上手に甘えて機嫌も取れる。「お気遣い、ありがとうございます」私は淡く微笑み、卑屈にも反抗的にもならず、穏やかに返した。そして、軽く付け加える。「それと、できるだけ早く八雲に署名していただけるようお願いします。私はいつでも離婚手続きに応じられますので」もう署名は済んでいる。それなのに、まだ年配者の立場を盾にして私を押さえつけようとするなんて。そんなの、黙って受け入れる義理はない。案の定、玉惠の顔色が変わった。ぎろりと私を睨む。「やっぱりあんたは、最後まで私を苛立たせるのね!連絡を待ってなさい!」そう言い捨て、バッグを掴ん
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第406話

目の前では、薔薇子が値踏みするような、疑い深く私を見ていた。私が彼女に気づいたのを確認すると、口角を引き上げてにやりと笑った。その笑みが、やけに不気味だった。さっきまでぼんやりしすぎていて、彼女がいつの間に向かいに座ったのか、まったく気づかなかった。「尾崎看護師もコーヒーですか?」気持ちを落ち着け、できるだけ自然な声で先に挨拶した。けれど返事も待たず、そのまま立ち上がった。「私は失礼しますね」薔薇子は噂好きで、トラブルメーカーだ。できるだけ関わらないことに限る。しかし、立ち上がった瞬間、彼女が急に身を乗り出し、私の顔をじっと見つめて言った。「水辺先生、私に何か見られたら困るから、焦って逃げようとしてるんですか?」いつもは大声で騒がしいくせに、今回はやけに声が低い。その目がまっすぐ私を射抜く。瞳の奥に浮かぶ、見慣れた光。――好奇心と興奮。薔薇子は、いつもこんな目で私を見る。その言葉を聞いた瞬間、体が固まった。心臓が一拍、飛ぶ。……まさか、本当に何か見られた?私はそっと指先に力を込めながら、ゆっくり笑った。「どうして私が後ろめたいんです?別に秘密なんてありませんよ。何を見られて困るんですか?」彼女が口を開く前に、私は両手をテーブルについて見下ろす。「尾崎看護師、前に私が言ったこと、忘れました?私にちょっかい出さないでって忠告しましたよね。どうして学ばないんですか?」ほんの一瞬、彼女の目に動揺が走った。でもそれはすぐ消え、代わりに妙に納得したような色が浮かぶ。薔薇子はまた笑った。「水辺先生、ただ席借りてコーヒー飲んでただけなのに、そんなにピリピリして。しかも脅してくるなんて。リラックスしてくださいよ、座ってちょっと話しましょう」「尾崎看護師と話すことなんてありませんけど」緊張していないふりをした。でも――本当は、確実に動揺していた。彼女がいつ来たのか分からない。玉惠と一緒にいるところを見られたのかも分からない。離婚協議書にサインした場面を見られた可能性だってある。焦ったせいで、虚勢を張って脅した。それが逆に見透かされた。それでも表情は崩さない。これ以上関わらず、さっさと立ち去ろうとする。そのとき――「見ましたよ」突然、薔薇子が言った。……はったりだ。引っかかるもんか。
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第407話

私と八雲は、もう離婚寸前のところまで来ている。それでも――私のことで、他人に彼の足を引っ張らせるつもりはなかった。八雲は、結婚相手としては決して良い夫じゃなかった。でも、医者としては間違いなく一流だ。腕は確かで、まっすぐで、ただひたすら高度な医療研究に没頭している。私利私欲のために職場で足を引っ張り合うような人間じゃない。あんな医師は、尊敬されるべきだし、大切にされるべきだ。だから私は許せない。彼がまた中傷されることも、汚名を着せられることも。ましてや、誰かに陥れられるなんて、絶対に。だから私は立ち止まり、薔薇子にきっぱりと言った。「はっきり言いますけど、私と紀戸先生の間には何の関係もありません。紀戸夫人が私に会ったのは、別件です。尾崎看護師が噂話や憶測が好きなのは知ってますけど、勝手な想像はやめたほうがいいですよ。それに、尾崎看護師の親友と紀戸先生の関係に余計なことをしないでください。。松島先生は本気で尾崎看護師を親友だと思ってるんですから。その信頼、裏切らないでください」……おかしな話だ。薔薇子は葵の親友のくせに、最近はやたらと葵の耳元で何か吹き込み、二人の関係をかき乱している。それなのに私は――まだ「八雲の妻」の立場にいる私が、必死になって夫とその恋人の仲を守ろうとしているなんて。皮肉にもほどがある。「水辺先生、私と葵の仲を壊そうとしないでくださいよ!私たち、親友なんです。だからこそ責任があって聞いてるんです!」薔薇子は図星を突かれたみたいに、声を荒げた。「水辺先生に忠告してるんですよ。葵と張り合おうなんて思わないこと。紀戸夫人に取り入ろうとしても無駄ですからね。紀戸先生が好きなのは葵なんです。どんな小細工を使っても、水辺先生じゃ勝てません」……思わず、笑ってしまった。顔は笑っているのに、胸の奥の苦さはまた広がっていく。薔薇子の言葉が本当かどうかはさておき、あんなことをわざわざする必要なんて、どこにもない。きっと彼女は想像もしていないだろう。私は最初から、葵と争う気なんてない。玉惠に会ったのだって、紀戸家に入り込むためじゃない。――紀戸家から出ていくためだ。八雲が葵を愛しているのは明らかだし、玉惠だって葵を気に入っている。そんな相手に、どうやって勝つというの?
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第408話

カフェはそれなりに広い。ただ、この時間帯のせいか、客はまばらだった。私は店内をぐるりと見回した。――八雲の姿は、ない。どうやら彼は、葵に付き添ってコーヒーを買いに来たわけじゃないらしい。胸の奥で、そっと息を吐いた。ほんの少しだけ、緊張がほどけた。けれど次の瞬間、葵の戸惑った声が耳に入った。「薔薇子、見間違いじゃない?先輩が紀戸夫人と一緒にいるなんて……水辺先輩と八雲先輩はただの同僚だし、他に接点なんてないよ。紀戸夫人のこと、知ってるはずないもん」……安心なんて、していられなかった。この子、完全に薔薇子の話を真に受けていた。また私を疑い始めている。「葵ちゃん、私の目を疑うの?はっきり見たよ。さっき紀戸夫人があそこに座ってて、水辺先生の真正面だった。もう少し早く来てたら、何話してたか聞けたのに」薔薇子の声がまた大きくなる。「そうなの……?先輩、本当に紀戸夫人と一緒だったんですか?」葵は目を丸くして、半信半疑な様子で私を見つめながら、慎重に尋ねた。「知り合いだったんですか……?」「絶対そうだよ!じゃなきゃ一緒にコーヒー飲まないでしょ。それに、紀戸夫人、書類みたいなの片付けてたし。普通の関係じゃないって」薔薇子は葵の手を引いて、私の向かいに勢いよく座り、相変わらずの大声でまくしたてる。……書類。その言葉に、心臓がぎゅっと縮んだ。まずい。この人はゴシップ好きで、しかも口が軽い。玉惠と私が書類を前にして話していたことが、八雲の耳に入ったら――面倒どころの話じゃない。私は席に座り直して、葵の、ますます疑いを深める目をまっすぐ見つめた。「……紀戸夫人と知り合ったのは、本当です。でも、それは松島先生がきっかけです」「え……私?」葵がぽかんとする。薔薇子も眉をひそめた。「そう。前に紀戸先生が『権限を私的に利用した』で告発されて職務停止になったでしょう?あのとき、私が通報者だって噂が立って……その話が紀戸夫人の耳にも入ったんです。それで直接話をしたいって呼ばれて。それが最初の接点」私は間髪入れずに続けた。「それで今回も、紀戸夫人が私に会いに来たのは、松島先生のことだよ」二人の視線が、さらに怪訝になる。私は声を落として言った。「松島先生が紀戸先生と親しくしているって聞いて、将来の『お嫁さん候補』を前もって知っておき
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第409話

私が紀戸家を離れたら――この子はきっと、すぐにあの家に迎え入れられるだろう。葵はさらに頬を赤らめ、照れたように視線を落としながらも、小さな声で尋ねた。「先輩……それで、紀戸夫人は……なんて言ってましたか?」……玉惠の、葵への印象と態度を聞きたいのだ。口では「付き合っていない」と言いながら、心の中ではもう嫁入りの準備をしていた。「紀戸夫人はもともと松島先生のことを気に入ってたから。話を聞けば聞くほど、ますます好きになったみたいよ」私は微笑み、それから少し間を置いて言葉を継いだ。「ただ……帰るときに、ひとつだけ釘を刺された」「えっ、何ですか?」葵の耳までほんのり赤く染まり、期待に満ちた目で私を見る。「この件は秘密にしてほしいって。紀戸先生には知られたくないみたい」そう言って、私は穏やかに葵を見つめた。薔薇子が「ああ、なるほどね」という顔をした。「そりゃそうだよ。まだ紀戸先生は葵ちゃんを正式に家族に紹介してないのに、紀戸夫人が先に裏で調べてたなんて知られたら、絶対機嫌悪くなるって。あの人、葵ちゃんのことめちゃくちゃ大事にしてるし。失礼だって思うでしょ」……まさか薔薇子が、私の話を補強してくれるとは。さっきまであんなに疑っていたのに。でもそのおかげで、葵はすっかり安心したように、何度も頷いた。「分かりました、先輩。絶対言いません。八雲先輩にも言わないし、薔薇子も言わないよね?」「もちろん!」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張りつめていた糸がようやく緩んだ。――まさにこの言葉を待っていたのだ。葵が私と玉惠の面会を八雲に告げさえしなければ、私は安心できる。そう思い、立ち上がった。「じゃあ、これで。ちょっと体調がよくなくて、先に休みます」「先輩、お大事に」張りつめていた心がゆっくりとほどけ、ぎこちなくなった頬の筋肉を引き上げ、無理やり笑顔を作る。……もう限界だった。心も体も、ぐったりと疲れている。深い疲労感が押し寄せてきて、胸の奥に残っていた痛みも苦さも、全部飲み込んでいく。どうして、まだこんなに胸が痛むんだろう。人が離れれば、関係なんてすぐ冷める――そんな寂しさのせい?……違う。私たちの関係は、最初から一度も温まったことなんてなかった。玉惠が葵を気に入っているのは疑いようがない。でも、
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第410話

誰かが、とっさに私の腕を支えてくれた。私はかろうじて体勢を立て直し、隣の壁に寄りかかりながら必死にバランスを取ると、すぐに「ありがとうございます」と礼を言った。さっき玉惠の相手をして、そのあと薔薇子と葵まで。神経を使いすぎて、もう完全に力尽きていた。頭はぐらぐらして、視界もぼやけていた。ただ、目の前に背の高い男性がいる、ということだけがかろうじて分かった。すると次の瞬間、相手が驚いたように私の名前を呼んだ。「水辺先生?水辺先生ですよね?こんなところで会うなんて……顔色悪いですよ。熱ですか?」声はあまり聞き覚えがない。今日一緒に来ている同僚ではなさそうだ。でも「水辺先生」と呼ぶということは、面識があるはず。私は目を細めて顔を見上げ、なんとか焦点を合わせる。そしてすぐに分かった。「……夏目先生?」視界はぼやけていたのに。それでも一瞬で分かるくらい、印象的な顔立ちだった。新雅総合病院の有名な麻酔科医――夏目颯也。肩幅が広く、腰は細く、脚が長い。ゆったりした私服姿で、どう見ても今から温泉に向かうところのようだった。白く整った肌に端正な顔立ち。特に切れ長の目元が印象的で、どこか人を惑わせるような色気がある。正直――一度見たら忘れられないタイプだ。その彼が、今は眉をひそめ、心配そうに私を見つめている。「薬は飲みましたか?」そう言ったかと思うと、間髪入れず私の腕を支えてくれた。「とりあえず座りましょう。動かないで。近くの薬局で薬買ってきます」そのままカフェのほうへ連れて行こうとした。ほとんど有無を言わせない。少し強引なくらい。でも――不思議と嫌じゃなかった。以前、学会の招待で知り合って、数日一緒に過ごしたことがある。付き合いは短いけれど、印象はとても良かった。腕も確かだし、なにより面白い人だ。ただ純粋に、心配してくれているだけ。だからこその強引さ。……でも、私はもうカフェには戻りたくなかった。葵と薔薇子が、まだあそこにいる。これ以上、顔を合わせたくない。それに、薬なら部屋にある。わざわざ彼に寒い外へ買いに行ってもらう必要なんてない。このホテルは暖房が効いているけど、外は凍えるほど寒いのに。だから私は笑って、彼を軽く制した。「ありがとうございます。でも部屋に薬がありますし、このまま戻って
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