《3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた》全部章節:第 431 章 - 第 440 章

572 章節

第431話

八雲の大事な葵を不機嫌にさせてしまったからだ。たとえ発端が私たちにあったわけじゃなくて、向こうから絡んできたのだとしても、人を好きになったら、その人はいつだって正しい。だから八雲が葵を責めるはずもない。……まあいい。責められるのなんて、もう慣れっこだし。私は何事もなかったように食事を続けた。とにかく早くエネルギーを補給して、体調を立て直したかった。食べ終わると、桜井が真っ先に弁当箱を洗いに行ってくれた。その隙に、私は浩賢に声をかける。「もしかして、土曜日の件で謝ろうとしてるの?だったら気にしないで。本当に、私は全然平気だから」「水辺先生は……いつもそうやって優しすぎるんだよ」浩賢は私を見つめた。その瞳の奥で、何かが揺れている。言いたいことがあるのに、飲み込んでいるような表情だった。「どうしたの?あの日、何かあった?」彼の様子を見て、私はさらに尋ねた。きっと急に呼び戻された理由があるんだろうとは思っていたけれど、詳しい事情までは知らない。「母が……」彼は言葉を途切れ途切れに絞り出す。顔がみるみる赤くなっていく。「お見合いを、させようとしてて……」一瞬驚いたけれど、すぐに笑顔を作った。「それは良い話じゃない。おめでとう、藤原先生」浩賢は八雲の同級生で、年齢的にも結婚を考える時期だ。しかも藤原家は東市四大名家の一つで、彼は家の中でも特に可愛がられている息子だ。彼の結婚相手は当然、家族による審査を経る。家族が直接お見合いをセッティングするのも当然のことだ。昨日みんなの前で私たちの関係をはっきりさせておいて、本当に良かった。でなければ、彼の縁談に迷惑をかけるところだった。でも――彼は少しも嬉しそうじゃなかった。真っ黒な瞳が、じっと私を見つめる。その奥に渦巻く感情が今にも溢れ出しそうで、顔はさらに赤くなっていく。けれど、こぼれ落ちる寸前で彼はうつむいた。唇を噛みしめ、どこか恨めしげに言う。「八雲のやつ、ほんと余計なことばっかりして……この数日、母に何人もの女性のプロフィール送りつけてきて。俺は今恋愛する気ないって言ったのに、母が『胸が痛い』とか嘘ついて俺を呼び戻して、無理やり選ばせようとして……絶対会えって言われて……」私はこの話に全く驚かなかった。浩賢が突然家に呼び戻されたのは、八雲の仕業だろうと思っていた。だから浩
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第432話

おそらく、オフィスの暖房が効きすぎているせいだろう。浩賢の顔は、まるで熟れきったトマトみたいに真っ赤だった。星のように輝く瞳の奥では、炎が揺れている。その炎で霧が一気に晴れたみたいに――私は突然、彼の気持ちに気づいてしまった。言葉にしなくても、分かってしまった。彼がこれから何を言おうとしているのかも。「水辺先生、俺は……」心臓が胸を突き破りそうなほど高鳴る。でも、頭は妙に冷静だった。――言わせちゃいけない。彼を止めなきゃ。そう思った瞬間――突然、着信音が鳴り響き、彼の言葉を遮った。浩賢は画面を一瞥し、わずかに眉をひそめると、そのまま通話を切った。けれど相手はどうやらかなりしつこいらしく、また電話をかけてきた。彼は申し訳なさそうに私に微笑み、私は電話に出るよううなずいて促した。彼は振り返り、オフィスのドアを出る際に電話に出ると、不満げな口調で言った。「何度も言ってるだろ。もう電話してくるなって。俺は忙しいんだ……」誰からの電話かは分からなかったが、この電話は確かにタイミングが良く、目の前の困りごとを解決してくれた。私は椅子の背にもたれ、そっと息をつく。さっきまでぼやけていた視界が、ようやくはっきりしてきた。時計を見ると、夜の八時過ぎ。少し休んでから、おじの病室へ向かった。……病室には加藤さんの姿はなく、付き添いの介護士がベッドの角度を調整していた。私に気づいたおじが、すぐに声をかける。「優月、顔色があんまり良くないぞ?」「今日は手術が多くて、ちょっと疲れただけ。でもおじさんの顔を見たら元気出たよ」笑いながら近づき、布団の端を整えた。最近の様子をいくつか聞いた。「こっちは順調だ。ただ、お前の母さんが心配性でなあ。まだ安静にしろ、歩き回るなって、全然外に出してくれないんだ。退屈で仕方ない」おじは少し不機嫌そうだったが、すぐに笑顔になった。「でもな、お前の友達のあの藤原先生、いい子だぞ。よく顔出してくれてな。果物や飲み物持ってきてくれるし、話し相手にもなってくれる。……そういえば優月、今日は一緒じゃないのか?」……え?浩賢がよくおじに果物や飲み物を届けているの?私は一瞬固まったが、すぐに取り繕う。「藤原先生も忙しいから」するとおじは私の手を握り、声を潜めた。「優月な、おじさんには分か
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第433話

そもそも――浩賢は、私なんかが望んでいい相手じゃない。それに今、私にとって一番大事なのは、八雲との離婚をきちんと片付けることだ。私はおじにみかんを剥いてあげて、しばらく話し相手になった。時計を見ると、もう八時半。急いで麻酔科へ戻ることにした。しかし――まだオフィスの前にも着いていないのに、豊鬼先生の不機嫌な声が響いてきた。「お前、今までどこに行ってたんだ?医者のくせに自分の責任も分からないのか?水辺、他の先生に少し褒められたくらいで、もう自分は一人前だとでも思ってるのか?規則を無視してもいいとでも思ってるのか?」「豊岡先生、何か私の対応が必要な仕事がありましたか?」ドアを開けた途端、名指しで怒鳴られ、頭が真っ白になった。それでも私は感情を押し殺し、できるだけ落ち着いて尋ねた。朝から今まで、ずっと手術続きで休む暇もなかった。それなのに、どうしてこんなふうに責められなきゃいけないの?しかも、午後の手術で指導医の先生方に褒められたことまで、皮肉混じりに持ち出されるなんて。たった二人の先生に丁重に褒められただけで、彼は不機嫌になるのか?でも彼は私の指導医なのだ。私の能力が認められたことを喜ぶべきじゃないのか?「何を言ってる!紀戸先生の手術がずっとお前を待ってたんだぞ!責任感ゼロだな!お前が遅らせてるのは皆の時間だけじゃない、患者の命だ!」豊鬼先生の顔は、いつも以上に険しく黒ずんで見えた。八雲の……手術?ますます状況が分からない。そのとき、看護師長が慌てて入ってきた。「豊岡先生、それは優月ちゃんのせいじゃありません。彼女、昼に緊急手術に入って、ずっと午後いっぱい対応してたんです。紀戸先生の手術が待機になってるなんて、知らなかったはずです」――そういうことか。本来午後の予定だった手術が、この時間まで延期されていたらしい。執刀医は八雲。私は緊急手術に入ったから、当然ほかの麻酔科医が入ると思っていた。まさか、ずっと私を待っていたなんて。……じゃあ、さっき八雲と葵が来たのは、この手術のためだったの?だったら最初から言えばいいのに。どうして豊鬼先生を通して、あんな言い方で私を叱るの?一日中働き詰めで、もう言い返す気力もなかった。私はただ小さくうなずく。「……すぐ行きます」「予定されてた手術なんだぞ。緊急対応
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第434話

八雲は手術台の脇に立っていた。緑の手術着が、彼の端正で彫りの深い顔立ちをいっそう際立たせている。無影灯の光を受けて、銀縁の眼鏡が冷たく光った。彼の視線が私の顔を冷たくなぞった。「無駄話はいい。準備しろ、手術に入る」不満。軽蔑。取り合う気もない態度。八雲の私への接し方は、どこまでも露骨で、隠しようもなく冷たい。胸が締め付けられるような思いがしたが、何も言わず、ただ急いで看護師長と共に患者の麻酔を施した。今回の術式は開頭血腫除去術。神経外科では比較的スタンダードな手術で、難度はそれほど高くない。けれど――この規模の手術で、私が単独で麻酔管理を任されるのは、これが初めてだ。そして今日は、これで四件目。最初の三件は、皆で雑談を交えながら、和やかな雰囲気のまま終わったが、この手術だけは重苦しいほどの静けさに包まれていた。一因は八雲が静寂を好み無口な性格であること。もう一つの理由は、八雲の機嫌が悪く、手術室の空気まで重く沈んでいたからだ。しかし、私にとってはむしろ悪い状況ではなかった。もともと極度の疲労と眠気に襲われていたが、この緊張感の中で気を緩める余裕などなく、終始神経を尖らせながら患者の状態を注視し、麻酔の深度と投与量を絶えず調整し続けた。一方、八雲は操作を続けながら、葵に細かい注意点を小声で伝えている。葵は彼のそばで、見ながら真剣にうなずき、時折質問を投げかけると、八雲は一つ一つ丁寧に答えていた。その優しさと忍耐強さが、さっきの私に対する冷たく見下した態度とは、まさに鮮やかな対照だった。不思議だ。以前ならこんな光景を見て胸が締め付けられるほど苦しかったのに、今見てもそれほど辛くはなかった。どうやら慣れてしまったようだ。きっとそうだろう。私は静かに視線を外し、自分の仕事に集中した。……ついに、二時間後、手術は最終段階に差し掛かった。血腫の除去を終え、創傷縫合を行う前に、私は患者の覚醒を開始した。その時、八雲は私のすぐそばに立っていた。彼の視線が私の顔に注がれているのを感じた。それは冷たく、そして集中していた。まるで私が失敗する瞬間を、待っているみたいに。胸の奥の糸が、さらに強く張り詰める。操作は一層慎重になり、ついに私の優しい呼びかけに、患者はゆっくりと目を開けた。血圧、心拍数
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第435話

聞き覚えのある声だった。私は足を止め、振り返る。八雲は手術台の脇の椅子に腰掛け、腕を組んでいた。そのまま、冷たい視線で私を値踏みするように見ている。……本当に、この人は存在感が強すぎる。座っているはずで、位置も低いのに、それでも見下ろされているようだった。彼は顎を上げ、銀縁眼鏡の奥――あの形の整った切れ長の目には、上に立つ者特有の圧が満ちていた。「仕事も忘れて、恋愛にうつつを抜かしてるのか。こんな麻酔科医、他にいないだろう」ああ、八雲は本当に私を見逃したわけではなかったのだ。手術が終わるまで待って、この件で私を責め、謝罪を要求するつもりだったのだ。言葉にできない倦怠感と無力感が、どっと肩にのしかかる。一日中忙しく働いていたのに、八雲はそれを見ようとしない。浩賢が食事を届けてくれたこと、二言三言話したことだけを見て、それを盾に「恋愛ばかりして本業を忘れている」と嘲笑し、皮肉を言うのだ。八雲を見ると、銀縁眼鏡の奥の目は鋭く冷たく、不快感がにじんでいた。……そこで、ようやく気づいた。彼が怒っている理由。「手術を遅らせた」ことなんて建前だ。本当は――葵のため。というのも、私たちはさっき、葵を暗に嘲笑し、浩賢に近づいているとか、ぶりっ子だと発言していたからだ。八雲はその場では直接言えなかったが、今こうして機会を借りて私を貶め、あらゆる手段で謝罪を迫っている。彼は葵に謝れとは言わず、皆に謝れと言う。その「皆」の中に葵が含まれていないはずがない。八雲は葵のために、本当に手を尽くしているのだ。「八雲先輩、私は水辺先輩の気持ち、分かるよ。藤原先生と付き合い始めたばかりなんだよね。熱愛中なら、少しくらい時間を取られても仕方ないし……あまり責めないであげて」八雲の後ろで守られていた葵が、この時自ら口を開いて私をフォローした。言葉の端々に私をフォローする意図がにじむ一方で、私が確かに恋愛に夢中になって仕事を遅らせ、皆の時間を無駄にしたという事実を裏付けてしまった。若いのに、言葉の使い方をよく分かっている。「少しの時間なんてとんでもない!午後まるごとよ。本来なら四時には手術できてたのに。水辺先生がいないから延期、やっと終わったと思ったらさらに三十分待ち!」薔薇子もまだ居残っており、その甲高い声が手術室中に響き渡っ
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第436話

やっぱり――人は過去なんて振り返るべきじゃない。ましてや、期待なんて、少しでも抱くべきじゃない。ほんの少しでも。昨夜八雲があんなふうに優しく、甘く「いい子」なんて囁いたせいで、私は簡単に心が緩んでしまった。抱きしめられても拒まなかったし、彼の腕の中で、昔のことまで思い出して。……挙げ句の果てに、期待してしまった。もしかしたら、彼の中に、まだあの頃の温もりが残っているんじゃないかって。私に対して、ほんの少しでも情があるんじゃないかって。でも――現実は、こんなにも残酷だ。温もりなんて、どこにもなかった。あの頃の優しさだって、彼にとっては、一時的な新鮮さに過ぎなかったんだ。彼に大切にされている葵の扱いと比べものになるはずがない。今ならはっきり分かる。昨夜の「いい子」も、きっと私に向けた言葉じゃなかった。あれは葵に向けた呼び方だった。だって彼は、もう彼女を妻にするつもりなんだから。彼女の前で「夫」気取りで甘やかすのも、自然なことなんだろう。昨夜の彼は、本当に私を葵と間違えていたからこそ、あんなに優しく繊細だったのだ。もういい。これで終わりにしよう。ずっと張り詰めていた心の弦を完全に解き放ち、体から力が抜ける。そのまま、前に倒れ込んだ。疲れた。本当に、疲れた。それに――痛い。倒れた瞬間、かすかに数人の驚きの声が聞こえた。他の声ははっきりとは聞き取れなかったが、看護師長の声だけは認識できた。「優月ちゃん!」それ以降のことは、何も覚えていない。……まるで霞んだ混沌の世界に漂っているようで、私はただ静かに横たわり、空が崩れ落ちてくるような感覚のまま、私は動けなかった。意識が戻った時、加藤さんの泣き声が聞こえた。「かわいそうなうちの娘……優月……どうしてこんなになるまで働いたの……一晩も眠ったままで、まだ起きないなんて……」泣き声が激しく、とてもリアルだった。頭はまだぼんやりしていたが、そんな泣き声を聞くと、心に温かさが広がった。「……お母さん、私……大丈夫……」目を開けてそう言うと、喉が締め付けられるように、声はかすれていた。見覚えのあるこの環境は、明らかに東市協和病院の入院病棟だ。朝早く、病室はとても静かだった。そして私の視線が加藤さんの大げさに泣いている顔から
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第437話

彼は身をかがめて、グラスを私の口元へ差し出した。薄い唇がわずかに開く。「優月、水を少し飲んで」声は――驚くほど柔らかかった。八雲は、本当に容姿に恵まれている。今日は白衣ではなく私服。ダークグレーのスーツに、黒のロングコート。重く沈んだ色合いが、彼の顔立ちをいっそう冷ややかに際立たせている。けれど病室の窓から差し込んだ朝日が、ちょうど彼の頬を照らしていた。その光が冷たさを和らげ、整った横顔を淡いオレンジ色に染める。眉尻はやわらかく上がり、銀縁眼鏡の奥の目には――優しさ。それに、わずかな後悔の色。……そんなふうに見えた。目覚めたばかりで、頭はまだ霞んでいる。その優しい顔を前にして、私は一瞬、ぼんやりと固まった。この優しさは、本物?それとも――私の錯覚?朝日の演出が作った、ただの幻?私は手を上げ、優しくも確かな動きでグラスを押しのけた。どうやら今日の役者は加藤さんだけじゃなく、八雲もいたらしい。誰の芝居にも付き合うつもりはない。「優月、何してるのよ。八雲くんが気を遣ってくれてるのに。ほら、飲みなさい。喉ガラガラでしょ」加藤さんは本当に役に入り込んでしまったようで、私の代わりにその役を引き受け、八雲の手からグラスを奪い取ると私の手に押し付けた。振り返って八雲に笑いかけながら言うのを忘れない。「気にしないでね。まだ拗ねてるだけなの。ちょっと甘やかしてあげればすぐ機嫌直るから」「気にしてない」八雲は怒っておらず、低く柔らかな笑い声を立てた。「優月が怒るのは構わない。ただ……体だけは壊すな。俺が心配するから」「ほらね、八雲くんはこんなに大事にしてくれてるのよ。優月もほどほどにしなさい」加藤さんもすぐ調子を合わせて笑った。やっぱり加藤さんの演技が上達したのだ。さっきまで涙をぬぐっていたのに、もう笑っている。私の肩を抱きながら「もういいのよ」と慰める。何が「いいのよ」なの?私はグラスを握ったまま口をつけず、そっと加藤さんの腕を肩から外し、かすれた声で平静を装って要求した。「拗ねてない。ただ、少し静かにしたいの。……彼、外に出して」その瞬間、八雲の笑顔が一瞬止まった。「この子ったら強情なんだから。ほら、前にあの松島先生と仲良くしてたからヤキモチ焼いてるだけよ」加藤さんは本当に役者ぶるのが
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第438話

正直、分からない。どうして八雲は、まだこんな芝居を続けるんだろう。私たちは、とっくにここまで来ている。体裁も面目も捨てて、関係なんて、もうとっくに終わってる。彼はもう葵を家族に紹介する準備までしているくせに。なのに、どうして加藤さんの前でだけ、そんな「夫婦円満」みたいな顔をするの?葵とは関係がないとか、離婚したくないとか。……そんなこと、誰が信じるのよ。もう離婚協議書には署名したくせに。ただ知りたいのは、いつ私を連れて離婚手続きをしに行くのかということ。一刻も早く、離婚したい。しかし私がそう言うと、病室は一瞬で静まり返り、八雲の笑顔は固まった。加藤さんは呆然とした表情で、すぐに私の手首を掴んだ。「……今、なんて言ったの?」「聞こえたでしょ?」加藤さんは本当に興奮していて、私の手首を痛いくらいに握りしめた。私は耐えながら、かすかに笑った。「問い詰めるなら、私じゃなくてお母さんの自慢の婿に聞けば?署名したのに、なんでまだ演技してるのって」加藤さんは私の言葉に詰まったようで、目をきょろきょろさせ、八雲を見ずに、また無理やり笑みを浮かべた。「きっと一時的に怒ってただけよ!勢いでサインしちゃったの!これ、全部お母さんのせいなの。前に誤解して、八雲くんのお母さんとケンカして……話が大きくなっちゃって……お母さんが悪かった。謝るから。今日はちゃんと話し合えばいいのよ」ようやく彼女は八雲の方を向いた。「八雲くん、これは二人の問題だし、私は口出しできないけど……離婚したくないなら、あの協議書、無効にできるわよね?」加藤さんは本当に諦めきれていなかった。彼女は必死で、私に八雲という大物にしがみつくよう助けようとしていた。たとえ八雲と私がすでに離婚協議書に署名していることを知っていても、たとえ離婚が既定事実だと分かっていても、彼女はなおも力を尽くして離婚協議書を無効にしようとしていた。彼女が知る由もなかった。私が言った離婚協議書は、当初彼女が見たものとは全く別物で、玉惠が後になって私と八雲のために新たに作成したものであったことを。八雲が私以上に離婚を望んでいるなんて、加藤さんは知らなかった。「……署名したのか?」案の定、八雲は加藤さんの切実な視線にも、彼女の問いかけにも応えず、ただその深く暗い瞳で私をじっと見つめ
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第439話

しばらくしてようやく加藤さんは振り返り、うつむいたまま私のベッドの端に座った。重いため息が漏れたが、声はかすかに響いた。「……あんた、いったい何がしたいの?」「離婚したい」私は静かに答えた。この言葉は何度も彼女に伝えてきた。「離婚したいなら、別に反対はしてないわよ。でもね優月、離婚って現実的に考えなきゃいけないでしょ?」加藤さんは顔を上げた。「慎重に考えた末に、離婚を決めたの。早ければ早いほどいい」私は彼女の視線を受け止め、確固たる口調で言った。「もう離婚協議書にサインした」「このバカ娘!前は『もう少し待つ』って言ってたじゃない!どうして勝手にサインなんか……優月、離婚は人生の一大事なのよ。もっと慎重になりなさい。確かに八雲くんは財産もたくさん分けてくれたし、しばらく生活には困らないわ。でも将来のこと考えたら?」加藤さんは私の太ももをパチンと叩いた。彼女は焦っているようだったが、またもや切実な口調で私の手を握りながら説得した。「おじさんから聞いたわ。藤原先生、もう家で縁談決まったんでしょ?あんたたち終わりなんでしょ?じゃあ、八雲くんみたいな優秀な男、次どこで見つけるの?見つけるのなんて奇跡みたいなもんよ。それにね、私には分かるの。あの子、あんたのこと絶対まだ好きよ。未練ある顔をしてたじゃない。だったらこっちが折れてあげればいいのよ。夫婦なんてね、ケンカして当たり前なの。お父さんと私だって散々よ?今はあの人寝たきりでケンカもできないけど。協議書なんて破って、二人で旅行でも行って、やり直せばいいじゃない」……なるほど。だから加藤さんが今日、私と八雲を必死に説得していたのか。どうやら彼女は、私と浩賢に未来がないことを知っていたようだ。でも彼女は本当に分かってない。八雲が私を惜しむわけがない。彼はただ、彼女の芝居に付き合ってただけ。加藤さんは甘すぎる。紀戸家の人間が本気で駆け引きしたら、彼女が勝てるわけない。「私は誰の庇護にも頼らない」私は深く息を吸い込み、平静でありながら異様に確固たる口調で言った。「離婚協議書も破れないし、彼と戻る必要もない。これで決まりだ。手続きが終われば、もう他人なの」「優月!」加藤さんは私が今日ここまで頑なになるとは思っていなかったようで、目を丸くして突然声を張り上げた。彼女は怒っ
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第440話

葵は一人じゃなかった。後ろには、いつもの親友――薔薇子もいる。薔薇子の声は葵よりもさらに大きく、驚きの表情で言った。「えっ、離婚するのっておばさんなんですか!?どうして!?」「誰が離婚するって言ったのよ?」加藤さんは看護師長と麻酔科の忙しさを愚痴っている最中で、今になって薔薇子の言葉を聞き、反射的に反論した。その反論を聞いた瞬間、私の胸に嫌な予感がよぎった。案の定、次の瞬間、葵の追及が聞こえてきた。「おばさんじゃないなら……誰が離婚するんですか?」空気は一瞬で静まり返った。葵の視線が私の顔に釘付けになり、驚きの中に疑念が浮かび、花束を抱えた指に力が入り、白くなった指の関節が浮き出た。しまった、また葵の疑念が湧いてきた。胸がドクンと鳴ったが、肝心な時に頭が真っ白になり、適切な言い訳が浮かばなかった。「松島先生と尾崎看護師も来てくれたの?おばさんの離婚の噂を聞きに?」肝心な時に、看護師長の機転が光った。笑いながらそう言ったのだ。桜井もすぐ乗っかる。「そうそう、ゴシップ中毒?誰の事情も聞き出す気なんですか?」「い、いえ、違います!」葵の青ざめた小さな顔がわずかに赤らみ、慌てて首を振った。疑いのこもった瞳も私の顔から離れ、花を抱えて中に入ると、切実な様子で、それでも礼儀正しく加藤さんに説明した。「私たち、水辺先輩のお見舞いに来ました。それと……謝りたくて」葵の視線が私に向けられ、深い謝罪の念が込められていた。「ごめんなさい、先輩。昨夜のこと……私たち悪気はなかったんですが、それでも気になってしまって。先輩、体調は大丈夫ですか?」やっぱりこの子は言葉の扱いが上手い。謝りに来たと言いながら、まず「悪気はなかった」と自己定義し、ただ申し訳なく思って来ただけだと前置きする。つまり、自分たちに責任はないと思っているのだ。「水辺先生、顔色だいぶ良くなってますよね。休めたみたいで安心しました」と薔薇子は葵の言葉を継いで、笑いながら言った。さすが親友同士、二人とも言葉の芸術を心得ている。次々と責任をこちらに押し付け、きれいに逃れている。ただ、彼女たちが自分たちに責任はないと思っているのなら、なぜ謝罪など言うのか?「松島先生、その言い方どうなんですかね。お二人、本当に『悪気はなかった』んですか?昨日水辺先生がどれだけ疲れ
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