All Chapters of 研究に身を捧げた私に、婚約者は狂ったように後悔した: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

その瞬間、冬翔は雷に打たれたようなショックを受けた。ぼんやり浮かんでいた疑いが、今ではっきりした。私は、本当に彼と別れようとしているーーでも、どうして?今日は二人の結婚式の日。私が二十年も夢見てきた願いを、そんなに簡単に捨てるはずがない。混乱する頭の中で、冬翔の脳裏に浮かんだのは、家を出る直前の私の、あまりにも静かな顔だった。何かを伝えようとしていたように見えた。でもその時の冬翔は、夏蓮の様子を見に浜城市医療センターへ向かうことで頭がいっぱいだった。私が何を言おうとしていたのか、結局最後まで聞かなかった。玄関のドアを閉める前、ソファに座る私の姿が目に入った。その顔には、結婚を控えた花嫁の喜びも、結婚式の直前に婚約者が他の女性に会いに行くことへの怒りもなかった。まるで静かな湖みたいに、全然波が立っていなかった。まさか、あの時に言いたかったのは「別れよう」ってことだったのか?冬翔は力が抜けてソファに崩れ落ち、頭の中はぐちゃぐちゃだった。リビングのテーブルに置かれたスマホが何度も鳴り、両親や友人たちから次々に電話がかかってきた。でも、出る気力なんてなかった。どうして私が別れを決めたのか、どうしても理解できなかった。スタッフによれば、私はもう半月も前に式場の予約をキャンセルしていたらしい。半月前ーーその瞬間、冬翔の頭に浮かんだのは、ちょうど半月前、夏蓮が人工授精で妊娠したと知った日のことだった。その日、冬翔は本当はもう一度人工授精の話を持ち出して、私に納得してもらおうと思っていた。でも、夏蓮から【検査結果が出た。もう妊娠してる】とメッセージが届き、嬉しさのあまり思考が吹っ飛んで、その話を途中で切り上げて病院へ急いでしまったのだった。その後の半月、徐々に記憶がよみがえってくる。ウェディングフォトの撮影をキャンセルし、夏蓮と旅行に行って……私は、そんなことがあってもまるで関心がないように見えた。前なら、絶対怒ってたはずなのに。冬翔の胸に、焦りと戸惑いが広がる。まさか、あの時すでに私は別れを決めていた?でも私は、夏蓮が命の恩人だってこと、知ってるはず。だからこそ、冬翔がしたことは全部恩返しのためだって、理解してくれると思ってた。最初にこっそり人工授精を決めたのも、そんなにうまく
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第12話

その頃、二時間のフライトを終えて、ついに京市に到着した。飛行機が離陸する前に先輩からメッセージが届いていた。【住所がわからないかもと思って、迎えに来る人を手配しておいたから】とのことだった。迎えの人がたくさんいるが、何度も目をこすって周りを見渡しても、自分の名前が書かれたプラカードを持っている人は見当たらない。電話をかけようとスマホを取り出し、誰か迎えに来ているか確認しようとしたその時、背後から声がかかった。「先輩」振り返ると、明るい笑顔を浮かべた男の子がこちらに向かって歩いてきた。「すみません、あなたは?」その男の子を見て、どこかで見覚えがある気がするが、どうしても思い出せなかった。目の前の男の子は、痛そうにため息をついてから、楽しげな声で言った。「先輩、たった五年で僕のことを忘れちゃったのか?ほんとに悲しいよ」五年前、実験室で寝ずに二十四時間も作業していた疲れ切った顔と目の前の姿が重なり合った。私は驚きながらその人を見つめた。「あなた、清水」五年前、私が卒業間近の頃、先生が新しく生徒を取った。名前は清水悠斗(しみず ゆうと)。その頃、私は卒業関連のことに追われていて、この後輩と接することはあまりなかった。唯一覚えているのは、彼の実験データに問題があったが、どこが間違っているのかわからず、実験室で丸一日徹夜していたことだ。ちょうどその時、私は実験室で物を取りに行った際、悠斗が目に充血をしたまま作業しているのを見かけた。私は思わず声をかけ、「何か手伝えることは?」と聞いた。彼の説明を聞いてから、一歩一歩、慎重に確認していき、ようやく問題を見つけることができた。あれから五年、あんなに実験に悩んで疲れ切った顔をしていた彼が、まったく別人のように変わっていたので、私は一瞬認識できなかった。悠斗は自然に私のそばに歩いてきて、ニヤリと笑って言った。「先輩、僕のこと覚えてくれてたんだね。五年も会ってなかったから、忘れられてるかと思ったのに」私は鼻を触りながら少し困ったような表情をした。この数年、冬翔のような冷静な性格の人と一緒にいることが多かったので、悠斗のようにすぐに打ち解けてくる人物とはどう接すればいいのか、しばらく迷っていた。しかし、悠斗は気にせず、私がゆっくり歩いているとすぐに私の手
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第13話

考える暇もなく、私は慌てて気持ちを整え、深呼吸してからドアを押し開けた。五年ぶりの再会で、私はすぐに先生の髪にいくつかの白髪が混じっているのを見つけた。あの頃、先生の何度もの引き止めにもかかわらず、私は冬翔について行ってしまったーーそのことを思い出すと、どうしても胸の中に申し訳なさが込み上げてくる。先生は、最も期待し、同時に最も残念に思っていた教え子を見つめ、口に出せなかった想いをひとつのため息に込めた。「今回は、ちゃんと実験についてきなさいよ」私は込み上げてくる感情を押し殺し、大きくうなずいた。先生はそれ以上何も言わず、手を振って悠斗に私を寮まで案内するよう指示した。寮に着くと、私はすぐにバッグを置いてベッドに倒れ込み、心地よいため息を漏らした。昨夜から今まで、私は飛行機の中での二時間しか寝ておらず、すでに疲労困憊だった。ベッドに触れた瞬間、眠気が波のように押し寄せてきた。荷物を整理する暇もなく、そのまま眠りに落ちてしまった。深い眠りの中、突然のスマホの着信音に叩き起こされた。私は目をこすりながら手探りでスマホを取り、まだ完全に目覚めていない頭で反射的に通話ボタンを押した。電話の向こうから、怒りに満ちた冬翔の声が飛び込んできた。「柚希、どこに行ったんだ」その声は耳元で爆発するように響き、私は一瞬で目が覚めた。時間を見ると、眠りに落ちてからほんのわずかしか経っていなかった。突然の起こされ方に加え、長旅の疲れも相まって、私はやや苛立った声で返した。「カレンダーにも書いておいたでしょう。私たちはもう別れたの」この一言で、彼の怒りはさらに燃え上がった。彼は今でも、その理由を理解できていなかった。「ダメだ、俺は納得してない」「それに、別れるっていうなら、理由くらい教えてくれ」「結婚式の日にいきなり俺を置いていなくなって、ただの『別れよう』の一言だけって、どういうつもりだよ」よく聞けば、冬翔の声には、ほんの少しだけ悔しさが滲んでいた。彼は、私と別れるつもりなんてなかったし、ましてや結婚式当日に捨てられるなんて想像もしていなかった。二十年間一緒にいたのに、なぜ突然いなくなったのかーー彼はまだ理解できずにいた。けれど、私はただ眠りたかった。彼とこれ以上言い合いたくなかった。
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第14話

電話が切られた瞬間、冬翔はしばらく呆然としていた。私が自分から通話を切ったのは、これが初めてだった。しかも何も説明せずに、一体なぜ電話を切ったのか?私がどこに行ったのかも、まだ分かっていないというのに。冬翔は再び電話をかけたが、耳元に流れてきたのは冷たい機械音だった。「おかけになった電話番号は、現在つながりません。時間をおいておかけ直しください」彼はすぐにメッセージを送ろうとした。だが、送信した瞬間、赤く大きな感嘆符が表示された。【送信できませんでした】冬翔の頭は一瞬にして真っ白になった。私は……彼の連絡先をすべてブロックしたのか?今まで私が怒ったことはあっても、ブロックされたことなんて一度もなかった。焦りとともに、抑えきれない怒りが胸の中に湧き上がってくる。やっぱり……あの子どものせいなのか!でも、自分は何度も説明したはずだ。夏蓮はガンを患っていて、自分の命の恩人でもある。だからこそ、彼女の願いを叶えるために協力したのだ。なぜ私は、それを理解して支えてくれないんだ?だが、怒りのあとに押し寄せてきたのは、恐怖だった。彼は一度だって、私と別れることを考えたことなどなかった。それなのに今、私がどこにいるのかも分からない。連絡手段すら断たれたこの状況で、どうやって私を見つければいい?焦った冬翔の頭に浮かんだのは、私の親友ーー日和だった。以前、友人たちとの集まりで私と一緒に日和の家に行ったことがあり、その記憶を頼りに彼は向かった。玄関の扉が開くと、そこに立っていたのは、明らかに疲れ切った様子の冬翔。もともと日和は、親友が必死に彼を追いかけていたのに報われなかったことに対して、ずっと不満を抱いていた。だが当時は既に二人が付き合っていたため、余計な口出しはできなかった。しかしーー私から結婚式を中止した理由を聞いてからというもの、日和の中の不満は完全に爆発寸前となっていた。世の中に、こんなクズ男が存在するなんて信じられない。そんな彼が自宅に現れたとき、積もりに積もった怒りがついに爆発した。「おやおや、精子で恩返しする元カレさんじゃないの。どうしてうちに来たの?」……日和は、自分が精子提供したことまで知ってるのか?だが、今はそれどころじゃなかった。冬翔はただ、私の消息を知りた
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第15話

日和は、彼がそんな大事なことを忘れているとは思わなかった。私のことを思うと、ますます彼に対する嫌悪感が募った。「本当に都合のいい人ね。六年前の元旦の夜、あんなに大事な出来事を忘れちゃうなんて」「当時、お礼の一言もなかったのもそうだけど、今になっても柚希に対してそんな態度なんて、信じられない」日和は怒りを込めて、二十年間私が冬翔の背後でどれほど支えてきたか、そして六年前の危険な夜の出来事まで、一気にぶちまけた。さらには、当時私が入院していたときの写真までスマホで見せつけた。冬翔がどうやって日和の家を出たのか、自分でもよく覚えていなかった。全身から力が抜け、世界が音もなく崩れ落ちていくような感覚。彼の中にあった光が、一瞬で闇に呑まれた。冬翔の記憶では、六年前の夜、自分を助けたのは夏蓮だった。なのに、どうしてそれが私だったなんてことが?もし本当に日和の言う通りなら、自分はずっと救命恩人を勘違いしていたことになる。それどころかーー夏蓮のお腹の中の子どもも、本来存在すべきじゃなかった……冬翔はいても立ってもいられず、タクシーに飛び乗って病院へ向かった。道中、彼は必死にあの夜の記憶を呼び起こそうとしていた。寮へ帰る途中、誰かに尾行され、口と鼻を押さえられて路地裏へ引きずり込まれた。腰元に冷たい刃物を当てられ、必死で抵抗もできず、持っていた金をすべて差し出すしかなかった。だが、その男は金を奪った後、彼の腹部を思い切り刺してきた。あの瞬間、自分は本当に死ぬと思った。だが、そこに黒い影が飛び込んできて、襲ってきた男を押し倒した。彼は血まみれの手でなんとか警察に連絡し、意識を失った。次に目を覚ましたとき、視界に最初に映ったのは夏蓮だった。だから、当然のように彼女が自分を助けたのだと思っていた。だが、日和の話によれば、本当に彼を助けたのは私で、私自身も犯人に刺されて三日間も昏睡状態に陥っていたらしい。私が目を覚ましたときには、もう彼は退院していて、その後も恩を着せたくないと、一切その話を持ち出さなかったのだという。冬翔の心はどんどん混乱していった。もし、もし本当に冬翔を助けたのが私だったなら、自分は、なんてことをしてしまったんだ?病院に着くと、夏蓮は彼の姿を見て驚いた。「冬翔お兄ちゃん、今日は柚希
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第16話

冬翔は目を閉じた。その胸は、今やこの事実により粉々に砕け散っていた。「夏蓮……六年前、俺を助けたのは君じゃなかった」夏蓮の瞳孔が一瞬揺れ、内心に不安が走る。当時は誰の目にも自分が助けたと映っていたはずなのに、なぜ今さら冬翔はそれを否定し、過去を蒸し返すのか。だが、彼女の顔には動揺の色は出さず、柔らかく微笑みながら彼の手を取ろうとした。「冬翔お兄ちゃん、何を言ってるの?」私が消えてしまったあの日の喪失感、そして真実を知った今の罪悪感が、津波のように冬翔を飲み込んだ。ついに、彼は爆発した。夏蓮の手を振り払って、目を赤く染めながら怒鳴った。「柚希だ!俺のそばで二十年もいてくれた人が、助けてくれたんだ」「もう言い訳はやめろ!証拠もあるんだ、なんで嘘をついたんだよ」彼のこの姿を見て、夏蓮は悟った。もう、すべては誤魔化せない。あの時、彼女はたまたま友達のお見舞いで病院に来ていた。その帰りに偶然通りかかった病室で、ベッドに寝ていた冬翔の顔を目にし、その整った顔に思わず足を止めた。その瞬間、彼が目を覚まし、彼女を命の恩人と勘違いしたのだ。気がつけば、夏蓮はそれを否定できなかった。彼に近づくチャンスだと、自らをその立場に重ねた。だがその矢先、家族の都合で急遽海外へと送られ、連絡も取れなくなった。半年ほど前、がんが見つかり、彼女はようやく日本に戻ってきた。そして再び冬翔と連絡を取るようになった。夏蓮は焦りながらも口を開いた。「冬翔お兄ちゃん……あの時は、ただあなたに近づきたくて」絶望が全身を覆い尽くす中、冬翔はそれ以上彼女の言い訳を聞くつもりはなかった。彼女ときっぱり縁を切り、これまで傷つけてしまった人に償いたかった。「すぐに子どもをおろせ」夏蓮は即座に取り乱した。この子は、彼女にとって家族との最後のつながりだった。絶対に失いたくない。「だめ!もう命があるのよ!あなたはあの子の父親よ、それでもいいの?」「それに……柚希お姉さんは、もう半月も前に私の妊娠を知ってたわ。今日の結婚式、もう中止になったんじゃないの?だったら私がこの子を産んで、あなたの家に後継ぎを残してあげてもいいんじゃない?」その言葉を聞いた瞬間、冬翔の足が止まった。……半月前?言いようのない悲しみが胸の奥から広がり、身体全体
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第17話

冬翔はその日のうちに、夏蓮が癌を患っており妊娠に適さないという理由で、彼女の子どもを強引に中絶させた。夏蓮の件を片付けた後も、私の消息をあきらめきれなかった冬翔は、日和の家に行き、私がどこに行ったのかを問いただした。日和は最初まったく口を割らなかったが、毎日のように家の前で張り込まれ、ついに「柚希は研究所に行った」とだけ答えた。「浜城市はもう離れている」とも言ったが、それ以上は何も話そうとしなかった。冬翔と私は同じ大学出身だった。彼は私の恩師のことを思い出し、大学の同窓をあちこちあたって、恩師が京市に新しい研究所を設立したことを突き止めた。確かな証拠はなかったが、直感で彼は私がそこにいると確信した。冬翔はすぐに飛行機に乗って京市へ向かった。同窓からもらった住所を頼りに、冬翔は無事に研究所を見つけた。そのとき、まだ初回の実験が始まっておらず、研究所は閉鎖状態ではなかった。冬翔はちょうど外から戻ってきた研究員に声をかけ、私を呼んでもらうよう頼んだ。「誰かがあなたを探している」と先輩に言われて、私は少し驚いた。研究所の住所はごくわずかな人にしか教えていないし、浜城市を離れて間もないのに、いったい誰が私をーー。不思議に思いながら外に出ると、そこにいたのは冬翔だった。彼の姿を見た瞬間、冬翔の目に涙が浮かんだ。ずっと張りつめていた心が、その瞬間にふっと解けた。彼は思わず私の手首を掴んだ。「なんで別れたんだ、なんで何も言わずにいなくなったんだ!ここまでお前を探すのに、どれだけ苦労したと思ってる」私は彼の突然の登場にまだ混乱していて、そのまま彼の手を振り払うことができなかった。冬翔は、私が彼の手を拒まなかったことに少し希望を抱いた。きっと私はまだ怒っているだけで、ちゃんと謝れば許してもらえる、そう信じた。だが、次の瞬間、その幻想はあっさり崩れ去る。私が正気に戻り、すぐに彼の手を振り払った。表情には明らかな苛立ちが浮かんでいた。「なんでここに来たの?」彼の顔に戸惑いが走る。「柚希……謝りたくて来たんだ、俺は」「聞きたくない」冬翔の言葉を私はきっぱりと遮った。「最初から、私の態度は変わってない。別れるって言ったでしょ」「住所をどうやって手に入れたかは知らないけど、もう私のこと探さない
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第18話

二年後、浜城市空港。私はキャリーケースを引きながら、周囲の変化を観察していた。まさか初回の実験研究が二年もかかるとは思ってもみなかった。でも、最終的な成果は完璧だった。先生は私たちに丸々二ヶ月の休暇をくれて、やっと私は再び浜城市の地を踏むことができた。一瞬、感慨深さがこみ上げる。この街を離れてから、もう二年になる。でも、違うのはーー隣にいる悠斗の楽しげな姿が目に入った瞬間、私の視線は優しくなった。違うのは、二年前は一人でここを離れた。二年後は、二人で帰ってきた。そして今回の帰還には、もう一つ重要な目的がある。悠斗は腕時計を見下ろし、私の手首を掴んで小走りに急かす。「柚希さん、早くしないと遅れるよ」私が浜城市に戻ってくるという話を聞いた日和は、即座に歓迎パーティーを開くと言い出した。二年ぶりの再会に、仲間たちと盛り上がりたいとのことだった。私も彼女たちが恋しかったから、すぐにOKを出して、パーティーは私と悠斗が到着する当日に設定された。私たちがレストランの入口に着いた時、ちょうど約束の時間だった。悠斗に手を引かれ、慌ただしく駆け込む。階段を登っている途中、どこかで見覚えのあるシルエットが視界の端に映ったような気がした。でも、あまりにも急いでいたせいで見間違いだと思い、気にせず個室を探した。一方その頃ーー冬翔は胸を押さえ、瞳を潤ませながら、震えるような喜びの中にいた。二年ーー彼はこの二年間ずっと、私の姿を待ち続けていた。誰にも分からない。あの空っぽの部屋で、どれだけ孤独な夜を彼が一人で過ごしたか。最初の頃は、毎晩眠れなかった。ようやく朦朧とした意識で眠りに落ちても、目覚めた途端、最初に口にしたのは「柚希」という名前だった。でも、返ってくるのはただの静寂だけ。もう朝食を用意してくれる人もいないし、帰宅を待ってくれる人もいない。部屋の隅々を探しても、私に関するものは何一つ残っていなかった。かつてお揃いで買ったルームウェアさえ、すでに姿を消していた。彼の唯一の慰めは、枕元に置いた一冊のカレンダー。 それには、私が書いた【別れる】という言葉があった。だが、彼にとってそれは私が残した唯一の痕跡だった。しかも、彼はずっと信じていた。自分が認めなければ、二人はまだ別れて
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第19話

冬翔は個室の扉の前に立ち、鏡に映る今日の服装を整えながら、少しだけ気持ちを落ち着かせていた。本当は、ただごはんを食べに来ただけだった。まさか私に会うことになるなんて、思ってもみなかった。でも、私がこの場所にいるってわかってしまった以上、次に会える日まで待つなんて、できなかった。あわてて服を整えて、個室の前まで来た。扉を開ける直前、私がどんな反応をするか、少しだけ想像してみた。もしかしたら、まだ怒っていて、許してくれないかもしれない。それとも、もう全部を忘れて、ただの知り合いとして接してくれるかもしれない。でも、どんな形であっても、今の私の気持ちがどうであれ、冬翔はそれを受け止めるつもりだった。何よりも、もう一度私に会えるだけで、十分だった。そして、自分の想いを伝えれば、私もまた彼のことを好きになってくれる。そんな自信があった。ただ、思いもしなかったのはーー私にはもう恋人がいて、しかも近いうちに結婚するということだった。「婚約者」って言葉が耳に入った瞬間、まるで冷たい水を浴びせられたみたいに、全身が凍りついた。心臓を大きな手でぎゅっと握られたような感覚に襲われて、息もできなくなった。彼は、私が冗談を言っているんじゃないかって、どこかで期待していた。悠斗はただの後輩なんだって、そう言ってくれるんじゃないかって。でも、それはなかった。個室の中では、私の友達たちがどんどん盛り上がって話していて、話題は花嫁の付き添いのことから、子どもの名付け親のことにまで広がっていった。もう我慢できなかった!そう思った瞬間、冬翔は勢いよくドアを押し開けた。彼の視線は、すぐさま私と悠斗がつないでいた手に釘付けになった。二人のあいだにただよう、そのはっきりとした親しさが、彼の息を止めた。でも、私は冬翔がそれを見て、何を思ったかなんて、まったく気にしていなかった。彼は、私たちが二年前に別れたことを知っている。私にとって冬翔は、せいぜい「知ってるようで知らない人」でしかなかった。本来なら楽しいはずだった今日の歓迎会は、冬翔が現れたことで一瞬にして台なしになった。しかも、私にとっては何の意味もない、唐突な言葉を投げかけてきた。二年前、別れを切り出したのは彼のほうだったはず。だったら、今になって一体何を言
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第20話

私はそのことばを聞いて、思わず笑いそうになった。何が「うそ」なの?わざわざ彼を怒らせるために、私が役者でも雇ったって言いたいの?そんなこと、どうだっていい。彼が何を思おうと、私には関係ない。でも、心のどこかでほんの少しだけ、疑問が浮かんだ。前に付き合っていたころ、冬翔はいつもどこか冷たかった。私がどんなに想っても、全然変わらなかった。あのとき、本気で思った。彼の心って、石みたいなんじゃないかって。どれだけあたためても、全然ぬくもりが返ってこなかった。そしてーー夏蓮があらわれた。あのとき初めて知った。冬翔にも、誰かにやさしくできる心があるんだって。だから、私は身を引いた。ふたりを応援する道を選んだ。なのに今、この態度はなに?まるで、私に未練があるかのような目。たしかに、夏蓮は病気で亡くなった。でも、だからって私に近づいてくるなんて、おかしいよね。「ごめんね、悠斗は私の正式な婚約者なの」「結婚式は今月の十八日。もう十日しかないの」ひとことひとことが、まるで雷のように冬翔の耳に響いた。彼の目はあっという間に赤くなって、現実を受け入れられない様子だった。好きな女の子が、ほかの男と結婚するなんて、簡単には飲み込めなかった。でも、私はもう感情を引きずるつもりなんてなかった。どうして、関係ないひとりのせいで、今日のたのしい歓迎会が台なしにされなきゃいけないの?私はみんなを呼んで、別の場所にうつることにした。その場を通りすぎようとしたとき、冬翔は無意識に手を伸ばして、私の服のすそをつかんだ。だけど、もうそこに何の感情もなかった私は、ためらうことなくその手をふりはらって、悠斗の手をしっかり握り、その場を後にした。冬翔は、一人、ぼんやりと立ち尽くしたまま、私たちの背中を見つめることしかできなかった。車に乗ったあと、悠斗はすぐに私を抱いていた手を離して、腕を組み、少し距離を取ってそっぽを向いた。私は吹き出してしまった。ああ、嫉妬してるんだなって、すぐに分かった。そういえば、誰かが自分のためにやきもちを焼いてくれるなんて、初めてのことかもしれない。昔、冬翔と付き合い始めたころ、彼の態度はずっと変わらなかった。だから、やきもちを焼かせれば少しは気にしてもらえるんじゃないかと思った。わざと男友だちと
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