All Chapters of 研究に身を捧げた私に、婚約者は狂ったように後悔した: Chapter 1 - Chapter 10

26 Chapters

第1話

「何度も言ったけど、夏蓮はガンで、余命はあと一年しかない。彼女の一番の願いは、家族に子どもを残すことなんだ。彼女は昔、命を懸けて俺を助けてくれた。だから、今度は俺が彼女の願いを叶える番なんだ」この一ヶ月で、何百回もこの言い訳を聞かされた。最初に朝倉冬翔(あさくら とうしょう)がこの話を切り出したとき、私は一瞬も迷わず拒否した。けれど彼は諦めず、ほぼ毎日のように同じ話を繰り返した。彼の態度も変わっていった。最初は私の気持ちを伺うように話していたのに、今では自信満々に、私を責め立てるようになった。まるで、私が同意しないことが「酷いこと」であるかのように。でも……命の恩人だからって、子どもで返そうなんて、そんなのありえないよ。一ヶ月もの間、彼と争い続けて、私はもう心も体も限界だった。彼を説得しようという気力も残っていない。私は、五年間想い続けた人に向けて、声を震わせながら問いかけた。「冬翔……来月、私たち結婚するんだよね?でも今、あなたは別の女性と子どもを作ろうとしてる。私は……私は一体、何なの?」冬翔は、私がこんなに落ち込んだ顔を見せたのは初めてだったのかもしれない。まるで暗い空に包まれたように、彼の目も少し曇っていた。彼は、わずかにトーンを落として言った。「柚希……つらいのはわかってる。でも、夏蓮を助けられるのは俺しかいないんだ。何もせずに後悔させたくない」「それに……人工授精なんだ。それだけで、体の関係なんて一切ない」「君が俺を愛してくれてるなら……理解してくれると信じてた」その瞬間、心が真っ暗な底に落ちていく感じだった。ああ……冬翔はもう、とっくに決めていたんだ。どんな形でも、桐島夏蓮(きりしま かれん)と子どもを残すって。私の気持ちなんて、最初から眼中になかったんだ。冬翔はまだ何かを言おうとしたが、その時、携帯の着信音が鳴り響いた。彼は画面を一瞥し、携帯を手に持ってベランダへと向かった。彼の背中を見ながら、思わず苦笑いしてしまった。私と冬翔は幼なじみで、小学校からずっと同じクラスで、大学も同じだった。子どもの頃から彼のことが好きで、ずっとそばにいたけれど、彼がそれに応えてくれたことは一度もなかった。 大学を卒業する頃に私の気持ちに気づいて、ついに彼氏になってくれた。本
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第2話

それは一通の妊娠検査の報告だった。そこには、妊婦としてーー夏蓮の名前がしっかりと書かれていた!さらに記載されていた妊娠週数を見た瞬間、足元から力が抜けてしまった。明確に「妊娠三週」と書かれていたのだ。つまり、冬翔はすでに一ヶ月前に夏蓮と人工授精を行っていたということになる。最初から最後まで、私に相談する気も、了承を取る気もなかったのだ。それなのに、この一ヶ月間、冬翔はなぜあんなにしつこく私に問い続けてきたの?自分の行動に正当性を持たせたかっただけ?彼は私、篠原柚希(しのはら ゆずき)のことを何だと思っていたの?その瞬間、まるで全身の力が抜けたように、私は床にへたり込んだ。胸は大きな手で締めつけられているように苦しく、息もまともにできなかった。道理で、さっきの冬翔の表情が抑えきれないほど嬉しそうだったわけだ。電話を終えたあと、慌ただしく出ていったのもそのせいだ。人工授精が成功し、夏蓮が妊娠したことを知っていたのだ。きっと今ごろは病院で、夏蓮と一緒に喜びを分かち合っているのだろう。あまりの苦しさに目を閉じると、胸の奥からどうしようもない悲しみがこみ上げてきた。信じられなかった。ずっと愛してきた人が、他の女性の子を持とうとしているなんて。たった二ヶ月前にプロポーズして、来月には結婚式を挙げる予定だったのに。ウェディングドレスも式場も、すべて早めに予約して準備していたのに。私はあの日をずっと楽しみにしていた。冬翔の腕に手を添えて、一緒にバージンロードを歩くあの日をーーだけど今、その全ての希望は泡のように消えて、虚空へと消え去ってしまった。その時、スマートフォンが震えて、私の思考が現実に引き戻された。私は無意識に通話を受けた。先輩の澄んだ声が耳に届いた。「柚希、結婚するって聞いたけど、それでもう一度聞かせて。うちの研究室に来てくれない?」「あなたは先生が一番才能を感じる学生だから、ずっと来てほしいと思ってるの」「君がこれから結婚することを考慮して、先生は特例で、研究室で2ヶ月勤務した後、半月休めるようにするって。そうすれば、ご主人とも過ごせる時間ができるから」先生が京市で新しい研究室を開設することは、半年前に知っていた。先生はわざわざ私に電話をかけてきて、その研究室で研究をしてほし
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第3話

その夜、冬翔は帰ってこなかった。私も彼に電話をかけて、どこにいるのかを聞こうとはしなかった。すでに、夏蓮のSNSで全て見てしまっていたから。午後、二人は病院を出た後すぐに桐島家へ向かい、妊娠のことを家族に伝えていた。写真には、夏蓮のおばあさんが優しげに冬翔の手を取って、何かを語りかけている様子が映っていた。彼はもう一方の手で夏蓮のお腹を優しく撫でながら、穏やかな笑顔を浮かべていた。五年間付き合ってきた中で、冬翔が私の実家に来てくれたのは、私のプロポーズを受け入れてくれたあの時だけだった。私たちの実家は車で三十分もかからない距離だったのに、それまで彼は一度も自分から訪ねてこなかった。「年配の人と一緒にいるのはあまり得意じゃなくて、ちょっと気まずいんだ」と、彼は言っていた。その一度だけの訪問でも、彼の態度は丁寧で礼儀正しかったけれど、決して心を開いているようには見えなかった。写真の中で桐島家の人たちと接している、あの柔らかい笑顔とはまるで違う人のようだった。私は目の奥に滲む苦しさをこらえるように、スマートフォンの画面をそっと閉じた。翌日、私は数人の友人を呼んで、結婚式をキャンセルすることを伝えた。最初、冬翔は結婚式を嫌がっていた。「結婚式なんて、ただの形式で意味がない」と言っていた。私が願いしたおかげで、彼はやっと親しい友人や家族だけを招いた小さな結婚式に同意してくれた。周囲の人たちは私が冬翔にどれだけ強い感情を抱いているか知っていたから、結婚式が中止になったと聞いて、皆驚いていた。「ずっと朝倉さんのことが好きだったんでしょ?やっと高嶺の花を手に入れそうだったのに、どうして諦めるの?」胸の中に、抑えきれない苦さが広がった。諦めるなんて、できるわけがない。私は二十年も冬翔を追い続け、ようやく彼が結婚を承諾してくれた。そんな長い時間をかけて築いた感情を、簡単に手放すことなんてできない。でも実際、この関係は最初から対等ではなかった。ずっと私が冬翔の後ろを追い続けーー彼は一度も立ち止まることなく、私の心を求めてくれなかった。最初は気にしていなかった。二十年かけて、彼が結婚を承諾してくれたのだからーー私もきっと、時間が経てば彼の心に入り込めると思っていた。結婚後には、まだたくさんの時間があ
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第4話

「明日はウェディングフォトを撮りに行かないで」私はテーブルの上に置かれたカレンダーを見つめた。明日の欄には、マーカーで大きく「ウェディングフォト」と書かれていた。冬翔がどうして突然撮影をキャンセルしたいのかは分からない。でも、もともと私はこの結婚をするつもりなんてなかった。冬翔がこの言葉を口にしなかったとしても、私は何か理由をつけて撮影を断ろうとしていただろう。だから彼から提案してくれたことで、かえって手間が省けた。私は小さくうなずいた。「分かった。カメラマンには私から連絡してキャンセルしておくよ」その言葉を聞いた瞬間、冬翔の心が一瞬揺れた。まさか、こんなにもあっさりと私が了承するとは思っていなかったのだろう。彼は、私が理由を聞いてくると思っていた。なにしろ、結婚式のすべての準備は私が何ヶ月もかけて調べ上げて、やっと決めたことばかりだったのだから。今回のウェディングフォトのカメラマンだって、私がかなりの追加料金を支払って順番を飛ばしてもらい、ようやく撮影を受けてもらえたほど。完璧な一枚のために、妥協は一切しなかった。なのに私は、彼の一言を聞いたあとも静かに、それでいて迷いもなく頷いたのだ。冬翔は複雑な表情で、じっと私を見つめていた。「キャンセルしなくていい」「夏蓮が言ってたんだ。この先、結婚する可能性はないから、せめて一度、ウェディングフォトを撮りたいって。これで後悔することはなくなるって」「明日、夏蓮と一緒に撮ることにしよう。後で改めて撮り直せばいいさ」冬翔の口調は、まるで今日何を食べるかのように軽々しい。まるで一ヶ月前に夏蓮との人工授精の話をした時と同じだった。表面上は相談しているように見えたが、実際には彼の言葉の隅々から、すでに決まっていることをただ知らせているだけだと感じた。伏せた目が、私の中にある皮肉を隠していた。「後で?」冬翔は知らない。私がこの浜城市にあと13日しかいられないことを。もう「後で」なんてない。私は小さく「うん」と答え、そのまま寝室へと戻って休む準備をした。どうせ、結婚するつもりはもうない。だから、冬翔が誰とウェディングフォトを撮ろうと、私には関係のないことだ。冬翔は私の背中を見つめながら、心に不安を感じた。私はあまりにも冷静だった。一言の問いもなく、彼
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第5話

これから一週間、冬翔は一度も家に戻ってこなかった。だけど私は、彼が今どこで何をしているのか、すぐに分かる。だって、何でもかんでもインスタに載せたがる夏蓮がいるから。二人で温泉に行ったり、海を眺めたり、朝日をバックに自撮りしたり……。インスタのタイムラインには、今まで見たことのない冬翔の姿が映っていた。あんなふうに普通のカップルみたいに振る舞える人だったんだ。ただ、私の前ではできなかっただけで。私は特に彼らがどこへ行ったか、何を食べたかなんて詳しくチェックしなかった。写真をさっと流し見しては、すぐに画面を閉じる。その間、私は家の片付けに追われていた。物が多すぎて、何日もかけてようやく整理し終えた。それから、実家にも顔を出した。父と母に、もうすぐ研究所にこもる予定だから、しばらくは連絡が取れないと伝えた。父は少し驚いた顔をした。「冬翔と結婚するんだろ?そしたら遠距離になるんじゃないのか?」母も心配そうに私の手を握り、優しく言った。「よく考えなさいよ、柚希。せっかくここまで来たのに。もしそのことで冬翔が反対したら、結婚式だってどうなるか」親の気持ちは分かっていた。長年、私がどれほど冬翔を想い続けてきたか、二人とも知っているし、彼の私への態度も知っていた。婚約の話が出たとき、父と母は、彼の気持ちがそこまでないならやめた方がいいと、やんわり忠告もしてくれていた。でも、私はあの時、自分ならきっと冬翔を変えられるって信じてた。だから二人も、私の決意を尊重してくれたのだ。もうすぐ結婚式なのに、両親は私が研究所に行ったら、冬翔がきっと反対するだろうし、最悪そのまま結婚式を取り消して私と別れるんじゃないかって心配していた。私が傷つくのが怖くて、だからこそ今一度ちゃんと考え直してほしいと思ってるのだ。だけど今、この結婚をやめると決めたのは、私。婚約破棄のことを伝えると、二人は長い間黙っていた。私は、冬翔が他の女と子どもを授かったことまでは話せなかった。そんなこと、きっと両親の心が耐えられないと思った。私はただ、「研究にもっと打ち込みたくなった」とだけ伝えた。父と母は顔を見合わせ、娘の決意を受け入れるしかなかった。父はため息をつき、私の肩をぽんと叩いて言った。「自分で選んだ道なら、後悔するなよ」
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第6話

あと5日。私は学校に退職届を提出した。あのとき、冬翔と一緒にいるために、恩師からの「研究室に残ってほしい」という誘いを断り、冬翔のいる浜城市の大学で教員になる道を選んだ。だからこそ、私の退職に同僚たちは驚きを隠せなかった。「えっ、篠原先生、辞めちゃうんですか?」「この前、結婚式の引き菓子もらったばかりですよね?もしかして、結婚して専業主婦になるとか?朝倉先生、羨ましいな」冗談交じりの声が飛ぶ。私は荷物を抱えたまま、ふっと笑った。「違います。結婚式は、中止になりました」家に戻ってドアを開けると、ちょうど一週間ぶりに見る冬翔と夏蓮がリビングのソファに並んで座っていた。冬翔は、私が手に抱えていた荷物に気づき、思わず声をかけてきた。「その荷物、どうしたの?」私は適当に理由をでっち上げた。「もう使わないものばかりだから、持ち帰ってきただけ」冬翔は軽く頷き、部屋を見渡したあと、少し首をかしげた。「たった一週間なのに、なんだか部屋のものがずいぶん減ってる気がする」私は荷物を寝室に運び入れ、淡々と答えた。「不要なゴミを整理しただけだよ」冬翔がまだ何か言いたげだったが、夏蓮が口を挟んできた。「柚希お姉さん、この数日間、冬翔お兄ちゃんが旅行に付き合ってくれて、ほんとに助かりました。ウェディングフォトまで撮らせてくれて、夢が叶いました」「だから、今日は私がお礼にご馳走します。これからもしばらくお世話になると思うので、柚希お姉さん、どうか嫌わないでくださいね?」夏蓮の、どこか勝ち誇ったような視線が痛いほど刺さった。私は、まだ一言も責めていない。妊娠検査の紙を手にしたあの日から今日まで、何も言わず、何も問いたださずに来た。でも、今さら無意味な争いはしたくない。あと五日。五日経てば、私はもう冬翔の前から姿を消す。それまでに、この部屋の整理を終えることの方が大事だった。私が何も答えなかったせいか、夏蓮の目に一瞬で涙が浮かんだ。「冬翔お兄ちゃん……柚希お姉さん、やっぱり怒ってるのかな……結婚の準備もあるのに……でも」その言葉を聞いて、冬翔の眉がすぐに険しくなり、不機嫌そうに私を責めてきた。「夏蓮は純粋に感謝してるだけだろ。なんでそんな顔してんの?ただの食事だぞ、毒でも盛られると思ってんのか?絶対
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第7話

冬翔が夏蓮を車に乗せたばかりで、最後の言葉を耳にした。私は、彼が前の言葉を聞いていなかったことに気付き、適当に理由をつけた。「私の友達、少し後に出発するんだ」冬翔は頷き、それ以上は何も尋ねなかった。あと4日、冬翔は夏蓮とのウェディングフォトを持ってきた。片手にスマホで夏蓮とビデオ通話をし、もう一方の手に写真立てを持ってカメラに見せながら、優しさが溢れる表情をしていた。「夏蓮、私たちの結婚式の写真が仕上がったよ。写真を取りに行った時、スタッフもすごく良い写真だと言ってたよ」その言葉を聞いた瞬間、私はちょうど水を取りに出たところだった。冬翔の目に一瞬、少し気まずそうな表情が浮かび、私に何か言おうとしている様子だった。私はその写真に一瞥をくれ、真剣にコメントした。「確かに、綺麗だね」私は最初、高額な料金でこのカメラマンを雇ったのは、冬翔と私の最も愛し合っている瞬間を残すためだった。その時、完成した写真を見たら、きっと今までに感じたことのない幸福を感じるだろうと思っていた。スーツを着た冬翔は、私が想像していた通り、とても格好良かった。唯一の違いは、彼の隣にいる新婦が私ではないことだった。しかし、私の心の中では、それによって何も揺らぐことはなかった。夏蓮が妊娠していると知ったあの日から、冬翔への気持ちは完全に収められていた。冬翔は、逆にぽかんとした。ふと、彼は気づいた。最近、私とちゃんと話していないことに。夏蓮との旅行中、一度も私からメッセージが来なかったことにも。それが少し気になった。ビデオの中で夏蓮がまだ喋り続けているのを見ながら、冬翔はその不安な思いを振り払うように頭を振った。私は結婚準備で忙しくて疲れているのだろうと思うことにした。結婚式の前々日、私は薬をもらいに病院に行くつもりだった。しかし、思いがけず、ちょうど産婦人科の検診を終えたばかりの冬翔と夏蓮に出会った。冬翔の目に珍しく慌てた様子が見え、何かを言おうとしたが、夏蓮が先に話し始めた。彼女は私の前に歩み寄り、私の手を握って膝をつこうとした。声が震えていた。「柚希お姉さん、私は冬翔お兄ちゃんと子供を作ることに、まだあなたが同意していないことはわかっているけれど、もう待てません。医者が言うには、あと一年が限度だそうです。
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第8話

彼が何も考えずに私を責めるのを聞いて、思わず笑ってしまった。「私が謝るの?監視カメラを自分で見て、それでも謝る必要があるか考えてみて」冬翔が監視カメラも見ずに、私が夏蓮を階段から突き落とそうとしたって決めつけてることに驚いた。「夏蓮は病人であり、妊婦だ。そんな彼女が自分の体を傷つけるようなことをするわけがないだろう?」夏蓮の目に一瞬、慌てたような表情が浮かんだ。「もういいわ、冬翔お兄ちゃん。柚希お姉さんが怒っているのも当然よ、私たち、行こう?」しかし、冬翔は譲らなかった。「ダメだ。彼女は今日、必ず君に謝らせる」私は一歩も引かなかった。やってもいないことを認めるつもりはなかった。夏蓮は、これ以上冬翔が監視カメラを確認しようとしたら、自分の不利になってしまうと気づき、手でお腹を押さえながら体調が悪いふりをした。冬翔の怒った顔はすぐに心配そうな顔に変わり、慌てて夏蓮を抱えて医者を探しに走っていった。私は二人の背中を見送りながら、心の中で抑えきれない苦さが広がっていくのを感じた。二十年の付き合い、五年の時を共に過ごしてきたのに、冬翔は私に対して一度も信頼を寄せてくれなかった。幸いにも、私は今、目を覚まし、タイミングよく距離を取ることができた。その日、冬翔は帰ってこなかった。今、彼は夏蓮の世話をしているに違いないと思う。夏蓮は今、体調が良くないから。最後の日、私は荷物を整理して実験室に送り、ひとつのスーツケースだけを残した。夜になり、冬翔が帰ってきた。彼の顔にはまだ怒りが浮かんでいた。「夏蓮はまだ病院に寝ている。彼女は病人だし、今お腹の中の子供も安定していないんだ。もし本当に故意じゃないとしても、少しは大人になって彼女を譲ってやれないのか?そんなに細かく計算しなくてもいいだろう?」大人になれ、だと?私はもう十分に大人になったと思ってる。本来私のものだったウェディングドレスとカメラマンを夏蓮に譲り、もうすぐ私の夫になるべき人を夏蓮と子供を作らせた。今度は、冬翔の隣の席も夏蓮に譲らないといけない。冬翔は、視線をカレンダーに向けて大きな赤丸を見つけた。その表情が少し和らいだ。「もう、明日結婚するんだし、もう君とは喧嘩しないよ」「結婚式が終わったら、夏蓮に謝りに行こう。その後、俺た
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第9話

もう一方で、冬翔は夏蓮の容体が落ち着いたのを見届けてから、病院を後にした。道を歩きながら、彼は私にメッセージを送り、【結婚式の準備はもう全部できた?】と聞いた。【もうホテルに向かってるよ】とも。けれど、車に乗っても私から返事はなかった。もう一度聞こうとスマホを開いた冬翔は、ふと、ふたりの最後のやりとりが半月も前だったことに気づいた。トーク履歴をさかのぼると、画面はほとんど真っ白だった。私が【今日の晩ごはんどうする?」と聞いてきたり、【結婚式の飾り、どう思う?】と意見を求めてきたりしていた。でも、冬翔の返事はいつもそっけなかったーー【なんでもいい】【どっちでも】【君に任せる】それでも私は気にする様子もなく、毎日欠かさずメッセージを送り続けていた。けれど、この半月はまったくやりとりがなかった。冬翔の胸に、何とも言えない不安が広がっていった。ーーどうして私は、こんなにも長く連絡をくれなかったんだ?そう思った瞬間、彼の脳裏に浮かんだのは、ちょうど一ヶ月前、夏蓮への精子提供を決めたと告げたときの、信じられないという表情を浮かべた私の顔だった。知り合って二十年、あんなにもつらそうな顔を私がしたのは、あれが初めてだった。そして、あれほどはっきりと拒否の気持ちを見せたのも、あのときが最初で最後だった。でもその後、人工授精のことだけは頑なに拒んだものの、それ以外はいつも通りに接してくれていた。思い返せば、あれが最後だったーー彼が私の前で「夏蓮に精子提供する」と口にしたのは。それ以降、ふたりの間には完全な沈黙が流れていた。メッセージを送らなくなっただけじゃない。家でも、私はほとんど話しかけてこなくなった。思い返すたびに、冬翔の不安はどんどん膨らんでいった。心臓がどくどくと脈打ち、まるで何か悪いことが起こる前触れのようだった。ーー最近は結婚式の準備でバタバタしてたし、きっとそのせいだ。そう自分に言い聞かせながら、彼は運転手に「スピード上げてもらえますか」と頼んだ。スマホを見た。やはり返信は来ていない。自然と握っていた手に力が入った。ホテルに着いた時には、冬翔の友人や家族はすでに集まっていた。皆が何かを話し合っていたが、冬翔の姿を見るなり、すぐに駆け寄ってきた。冬翔の母は心配そうに眉をひそめ、慌てた様子
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第10話

冬翔は一歩下がって、信じられないとばかりに首を横に振った。そんなはずがない。たしかに、二ヶ月前に私のプロポーズを受けた時ーー私の顔には、隠しきれないほどのよろこびがにじんでいた。それなのに、どうして自分から結婚式を取りやめるなんてことがあるんだ?まわりにいた友人や家族も、何が起きたのか分からず戸惑っていた。みんなちゃんと日取りは覚えていた。間違ってるはずがない。なのに、どうして「式が中止になった」なんて話になっているんだ?冬翔の母はスタッフに何度もたずねた末、たしかに私のほうからキャンセルの連絡があったと聞き、怒りを抑えきれずに冬翔の腕をぐっとつかんでロビーのすみに連れて行った。「どういうこと?結婚式の日取りなんて、とっくに決まってたよね?それなのに彼女、今日来てないどころか、半月も前に式を取り消してたって……いったい何を考えてるの?」冬翔の顔を見て、冬翔の母もまた驚いているのを感じ取った。まるで今、はじめてこの事実を知ったかのような様子。それがまた、怒りに火をつけた。冬翔の母は、私と冬翔が二十年の付き合いであることもよく知っていたし、私が冬翔のことをどれだけ大事に思っていたかも、ずっと見てきた。だからこそ、この嫁にはそれなりに満足していた。まさか、結婚式当日に花嫁が現れないどころか、半月も前に式そのものを取りやめていたなんてーー。それを、誰ひとり知らなかったなんて!「今すぐ柚希に電話しなさい!まだ結婚する気があるのかどうか、はっきりさせて」母の勢いに押されるようにして、冬翔はようやく現実に引き戻され、慌ててスマホを取り出した。ふるえる指先で私の番号を押し、通話のボタンをタップする。けれどその時ーー私はすでに、京市へ向かう便に乗っていた。私の電話は、もうつながらなかった。スピーカーから流れてきたのは、つめたい機械の音だけだった。冬翔の胸の中は、しだいに沈んでいった。昨日までは何の問題もなかったのに、どうして今日に限って急に、連絡が取れなくなるんだ?彼はもういてもたってもいられず、急いで家へ戻った。心のどこかで、まだほんの少しだけ希望を抱いていた。だが、玄関のドアを開けた瞬間、部屋の中はしんと静まり返っていて、誰もいないことがすぐに分かった。その時、彼はふと気づいた。テーブルの上に置か
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