会社を退職してからというもの、私は日比野先生の家で、驚くほど穏やかな時間を過ごしていた。 元のアパートから荷物をすべて運び終え、契約も解除し、もう戻る場所はない。でも、不思議と寂しくはなかった。むしろ、ここが自分の居場所なのだと、じわじわと実感していく日々だった。「ジャスティス、おいで」「にゃーん」 先生の愛猫ジャスティスは、今ではすっかり私に懐いてくれている。 私の心の動きに敏感に反応し、沈んでいるときはそっと隣に寄り添い、ぴたりと体をくっつけてくれる。先生が不在の間も、まるで代わりに「見守っているよ」とでも言うように、そばを離れないその仕草に、何度も救われた。 退職した翌日、私は先生に通帳を差し出した。 入院費や引っ越しの諸費用を差し引いても、まだ数百万円は残っている。それを、すこしでも先生に返したいと思ったからだ。けれど――『そのお金は、君のこれからのために使って。今までできなかったことを、これから取り戻していくんだ。生活費の心配なんてしなくていい』 先生はそう言って、静かに通帳を突き返してきた。 その表情にいっさいの迷いはなく、ただひたすらに私を思っての言葉なのだとわかって、胸が熱くなった。「……さて」 アパートから持ってきたデスクトップパソコンは、リビングの片隅に置かせてもらった。 その場所が今、私にとっての〝秘密基地〟になっている。 久しぶりにパソコンを立ち上げて、プログラミングを再開したのだ。あんなに好きだったのに、いつの間にか遠ざけていたこと――今はそれを、すこしずつ取り戻すように向き合っている。 ひとり静かにキーボードを叩く時間が、愛おしい。 自分のペースで、無理をせず、純粋に楽しいと思えることに取り組めているという実感が、こんなにも心を満たしてくれるなんて。私はようやく、自分自身を取り戻しつつあるのかもしれない。 画面に集中していたその時――「ただいま、黒磯さん」「わっ!」 あまりに夢中になっていたせいで、先生の帰宅にまったく気づかなかった。 慌てて振り向くと、先生は微笑みながら近づいてきて、そっと私の頭を撫でてくれた。「先生、おかえりなさい……すみません、集中し過ぎてました」「ふふ、いいことだよ。何してたの?」「あ、これ……ゲームを作っていたんです」 私は自分の作業画面を先生に見せた。 ま
Terakhir Diperbarui : 2025-07-22 Baca selengkapnya