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23.家族①

last update Date de publication: 2025-07-22 21:07:48

 日比野先生——いや、玲司さんが持ち帰った1枚の紙は、まさかの「婚姻届」だった。

 やることがとにかく早い彼の欄にはすでに記入が済まされていて、あとは私が書くだけという状態になっていた。

 そして、あれよあれよという間に翌日。

「今日、実は休み取ってあるから」

 唐突にそんなことを言いながら、玲司さんは私の手を引いて役所に向かった。

 その足で婚姻届を提出し、私は——「黒磯由香里」から、「日比野由香里」へと変わった。

「……漢字、6文字」

「わかってたけど、名前長くなったね」

「ほんと、長いですね」

「敬語になってる」

「あ、はい」

「……」

 まだ呼吸のように出てしまう敬語。

 名前の変化も、立場の変化も、どうにも実感が湧かない。でも確かに、私は彼の妻になったのだ。日比野由香里——この字面だけが、まだすこしだけ、こそばゆい。

「ねぇ、由香里。このままデートしようか」

「……え?」

「〝デート〟って、したことないでしょ、僕たち」

 言われてみればその通りだった。

 恋人らしい時間を飛ばして、私たちは夫婦になったのだ。

 私は、ふと笑う。

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  • 人生を諦めた私へ、冷酷な産業医から最大級の溺愛を。   番外編 お弁当②

     玲司さんを見送ったあと、私は玄関のドアをそっと閉じた。  玄関先に残る、彼の匂いと体温の余韻が、まだ空気の中に漂っている気がする。 時計を見ると、まだ朝の8時半。 静まり返ったリビングに戻ると、ジャスティスがのっそりとやってきて、私の足元でころんと寝転んだ。「お疲れさま、私」 思わずそう呟いて、ソファに腰を下ろす。 ふと、あの頃のことを思い出す。 自分の声すら出せなかったあの日々。  朝になるのが怖くて、会社の近くを通るだけで吐き気がした。  何もかもが重く、苦しくて、ただ生きるだけで精一杯だった。 ……でも、今は違う。 朝、目が覚めると、隣に玲司さんがいる。  あの優しい寝息と、ぬくもりと、穏やかな時間。  起きて、顔を洗って、ごはんを作って、送り出す。 当たり前みたいで、ずっとできなかったこと。 今、私はそれを、きちんと〝日常〟として生活できている。 もちろん、完治というわけではない。  突然気持ちが沈むこともあるし、人混みに行くと動悸がする日もある。  でも――それでも、〝大丈夫〟と思えるようになった。「しっかりと、生きてるなぁ……私」 呟いた声に、ジャスティスが「にゃあ」と返してくれる。 こんなふうに思える日が来るなんて、あの頃の私は想像もしていなかった。 心を壊すのは一瞬だったけれど、癒していくのはとても長くて、根気のいる作業だった。 でも、今なら言える。 私は、きちんと立ち直りつつある。  そして、それは――「……玲司さんのおかげ、だね」 名前を呼ぶだけで、胸の奥がぽっとあたたかくなる。 あの人の隣にいる自分を、私はすこしずつ、好きになれている気がした。◇ 昼下がりのリビングは、冬の光に満ちていた。  ふわりとレースのカーテンが揺れ、窓辺で丸くなっているジャスティスの毛が、ほんのすこしだけきらめいて見える。 私は、デスクに向かっていた。  画面の中では、小さなキャラがぴょんと跳ねる。 簡単なジャンプゲームだけれど、あの人が「すごい」と笑ってくれたことが嬉しくて、またすこしだけ、コードをいじってみたくなった。 気づけば、あの頃の私が大好きだった〝集

  • 人生を諦めた私へ、冷酷な産業医から最大級の溺愛を。   番外編 お弁当①

     朝の光が、レースのカーテン越しにふわりと部屋を包む。 目を覚ました瞬間、視界に入るのは、となりで寝息を立てている玲司さんの穏やかな寝顔。  規則正しく上下する胸のリズムが、なんだか心地よくて、つい見入ってしまう。 休日以外、玲司さんの方がいつも早く家を出る。  だからこんなふうに、朝いちばんに彼の寝顔を見るのは久しぶりだった。「……ふふっ」 頬に髪がかかっているのを指でそっと払う。  玲司さんは眉をぴくりと動かしたあと、目を開けずにぼそりと呟いた。「……見すぎ」「えっ、起きてたんですか?」「さっきからずっと。見られてたから、恥ずかしくて寝たふりしてた」 そう言いながら、玲司さんが私の首に腕を回して引き寄せる。「ちょ、ちょっと……!」「朝のキス、忘れてる」「まだ、起きたばかりで……顔、たぶんすごいですよ……?」「関係ないよ。今の由香里が一番可愛い」 いつのまにか、こういう甘い台詞が自然に出てくるようになった。  前はあんなに、感情を出すのが苦手だったくせに。「……玲司さん、ずるいです」「うん、朝だから許して」 そして唇が重なった。  いつもの、優しい、深くも軽くもない、ぴたりと呼吸の合ったキス。 それだけで、今日という一日が、うまくいきそうな気がした。◇ キスの余韻を引きずりつつ、私はエプロンをぎゅっと結ぶ。「……よしっ」 今日はお弁当を作ると、昨日の夜から決めていた。  玲司さんは、たいていコンビニか、職場の売店で済ませてしまう。  だけど私としては、やはり〝愛妻弁当〟というものを一度はやってみたかった。 今日の玲司さんは遅番。弁当を作るなら、今日がチャンスだと思っていた。「由香里、無理はしなくていいんだよ?」「無理してません。やるって決めたんですから」 そう言ってフライパンを熱し始めたが、早速焦げそうになる。  あわてて火を弱めて、溶き卵を流し込む。 昨日の夜、YouTubeでレシピ動画を繰り返し見た。  玉子焼きは弱火でじっくり……のはず——はずなんだけど。 結局、見た目はちょっと崩れたけれど、それなりに巻けた。 続いてウインナー、ミニトマト、ブロッコリー。  バランスも考えて詰めたつもりだったけれど、どうしても偏ってしまう。「由香里、ちょっと見せてくれる?」「

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    「玲司さん?」「ふふ……作ろう、一緒に。君となら、どんな料理だってきっとおいしくなる」 そのまま抱きしめた彼女の頭にそっと顔を寄せると、あたたかくて柔らかな香りがした。 涙がこみ上げるのをごまかすように、そっと彼女の髪にキスを落とす。 このぬくもりを、守っていきたい。 今、この瞬間に改めて誓う。 一生をかけて、彼女の心と命を守ると——「……あの、卵は何個ですか?」「2個」「了解ですっ!」 まるで新婚夫婦みたいなやり取りだなと思いながら、笑って彼女の背中に手を添える。 こんな未来が、あの時の彼女に想像できていただろうか。 すくなくとも、僕はずっと願っていた。 彼女がもう一度笑えるようにと、ただそれだけを。 鍋を火にかける彼女の後ろ姿を見つめながら、もう一度、そっと名前を呼んだ。「……由香里」「はい?」「愛してる」 僕の言葉に驚いたようにこちらを振り返った彼女は、すぐに頬を真っ赤に染めた。「えっ、えっと……わ、私も、愛してます。あの、えっと、卵……混ぜますね」 あたふたしながらボウルをかき混ぜる姿が、あまりにも愛おしくて、胸がいっぱいになる。 これが、人生をかけて守るべき〝愛おしい人〟なんだと、何度でも胸に刻みたくなる。 もう一度、背後からそっと抱きしめる。 彼女はすこし驚きながらも、抵抗せずに身を預けてくれた。「……ねえ、由香里」「生きてくれて、ありがとう」「……」 そっと彼女が顔を上げ、戸惑いながら僕を見た。 目が潤んでいる。声が震えている。「……れ、玲司さん……その……」「うん」「……こちらこそ、ほんとうにありがとうございます」 言い切った後、彼女は恥ずかしそうに顔を隠した。 その表情が可愛くて、僕は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。「隠さなくてもいいのに」 冗談まじりに笑いながら、もう一度キスを落とす。 彼女の肩にそっと顔を埋めて、深く、深く、呼吸を重ねた。 彼女は〝生きている〟。 心も、笑顔も、すべてがここにある。「……君の命は、僕が守る」 小さく呟いた言葉は、彼女の耳に届いたかどうかわからない。 それでも構わなかった。 これから先、どれだけの時間が過ぎても。 どんな困難があったとしても。 ずっとそばで支えていくと、何度でも誓える。 僕の人生をかけて、大切な彼女を守り

  • 人生を諦めた私へ、冷酷な産業医から最大級の溺愛を。   25.大切な人① side 日比野玲司

     黒磯由香里、31歳。 過労による精神的疲弊。 感情の希薄化。 情緒不安定。 自殺未遂。 緘黙症。 ——好きな仕事に、殺されかけた真面目な女性。 同情していたわけではない。 ただ、彼女のことがどうしても気にかかった。 何度か面談を重ねるうちに、自然と〝守りたい〟と思うようになっていた。 彼女が自殺未遂を起こした日のことは、今でもはっきりと覚えている。 体の奥が、冷たく、そして震えるような感覚に襲われる。 患者が本気で死のうとした——初めての経験だった。 これまで多くの社員と面談をしてきた。 「死にたい」「生きている意味がわからない」そう口にする者は多かった。 だが、実際に命を絶とうと行動した者は、ひとりとしていなかった。 唯一、彼女だけがほんとうに〝死のうとした〟人だった。 ——それでもやはり、同情からではなかった。 僕は単に、彼女をただ守りたかった。 それだけだった。◇「日比野先生」「ん?」「医師会からご連絡です。あのゲーム会社の産業医を外れる手続き、正式に完了したそうです。他の派遣先が決まり次第、また書面でのご連絡になるとのことです」「……そうか。ありがとう」 ようやく——終わった。 やっと、あの会社から手を引くことができる。 彼女がいたシステム部は、地獄のようだった。 月に100時間を超える残業。 産業医として何度も是正を訴えてきたが、会社は〝形式上の対応〟をするだけで、何ひとつ変えようとはしなかった。 心が壊れた社員は、面談を受けさせればそれでいい。 ……あの企業のスタンスは、まさにそれだった。 僕の元へ来る頃には、みんな壊れ切っていた。 ——彼女もそのひとりだった。 でも、もう彼女をあの場所に戻すつもりはない。 いや、二度と、あんな顔をさせたくない。◇「由香里、ジャスティス。ただいま」「玲司さん、おかえりなさい」「にゃーん!」 玄関を抜けてリビングへ入った瞬間、ふと焦げ臭い匂いが鼻をついた。 慌てて鞄を床に置き、小走りでキッチンへ向かう。「……焦げてる?」「あっ、玲司さんっ……ごめんなさい……!」 慌てた声と共に現れた由香里は、手にフライパンを持ち、目を伏せている。「玉子焼きを作ってみたんですけど、ちょっと……焦げちゃって……」 皿に盛られた黒い物体は、かつて玉子

  • 人生を諦めた私へ、冷酷な産業医から最大級の溺愛を。   24.家族②

     家に戻ってしばらくしてからのこと。 玲司さんが、ふとした顔で言った。「由香里、今日から一緒に寝よう」 「……え?」 その一言に、私は思わず目を瞬かせた。  そういえば、ここへ来てからというもの、私は用意された客間で寝ていた。  けれど、夫婦になった今、玲司さんの言うそれは、きっと自然な流れなのだろう。「……」 驚きとすこしの戸惑いを胸に抱えながら、玲司さんに導かれるまま寝室へと足を踏み入れる。  そこには、思っていたよりもずっと広く、ふかふかそうなダブルベッドがひとつ置かれていた。「君が来る前に買っておいたんだ。ちなみに……君が今まで使ってたシングルベッドは、僕のお古だよ」「……」 さらりと笑いながら告げる玲司さんに、思わず肩の力が抜ける。  やはりこの人は、抜け目がない。きっと私が困らないように、先回りしてくれていたんだ——そう思うと、胸がじんわりと温かくなった。「……由香里、おいで」 彼の言葉に小さく頷いて、私はベッドの縁に腰を下ろす。  そのまま背中をそっと押されるようにして、ベッドに横たわると、玲司さんが隣に滑り込んできて、優しくキスを落とした。「……っ」 目を閉じると、まぶたの裏がじんわり熱くなる。  彼の手が髪を梳いて、何度も唇を重ねてくる。穏やかで、丁寧で、愛情に満ちたキスだった。「由香里、愛してる」 「……玲司さん、私も」 唇を交わすたびに、胸の奥で何かがとろけていくようだった。  だけど、彼の手が私の身体をそっと撫ではじめた瞬間—— どくん、と心臓が大きく跳ねた。「……っ」 体がびくりと強張って、無意識に肩がすくむ。  怖い。知らない。どうすればいいのか分からない。  私のなかに、ふいに〝初めて〟の不安が波のように押し寄せた。「……っ、ごめん」 玲司さんの手が止まり、静かな声が降りてきた。  私はぎこちなく首を振る。「違うんです、私……経験がなくて……」 「……うん、わかってるよ。ごめん、急ぎすぎた」 玲司さんは私の頭をそっと撫で、ゆっくりと隣に寝転んだ。  そして、優しく背中から抱き締めてくれる。「今日は、こうして眠ろう。君が怖くないって思えるようになるまで……無理はしない」 その言葉に、心がじわりとほどけていく。「……ありがとう。ごめんなさい」 「謝らなくていい。

  • 人生を諦めた私へ、冷酷な産業医から最大級の溺愛を。   23.家族①

     日比野先生——いや、玲司さんが持ち帰った1枚の紙は、まさかの「婚姻届」だった。  やることがとにかく早い彼の欄にはすでに記入が済まされていて、あとは私が書くだけという状態になっていた。 そして、あれよあれよという間に翌日。「今日、実は休み取ってあるから」 唐突にそんなことを言いながら、玲司さんは私の手を引いて役所に向かった。  その足で婚姻届を提出し、私は——「黒磯由香里」から、「日比野由香里」へと変わった。「……漢字、6文字」 「わかってたけど、名前長くなったね」 「ほんと、長いですね」 「敬語になってる」 「あ、はい」 「……」 まだ呼吸のように出てしまう敬語。  名前の変化も、立場の変化も、どうにも実感が湧かない。でも確かに、私は彼の妻になったのだ。日比野由香里——この字面だけが、まだすこしだけ、こそばゆい。「ねぇ、由香里。このままデートしようか」 「……え?」 「〝デート〟って、したことないでしょ、僕たち」 言われてみればその通りだった。  恋人らしい時間を飛ばして、私たちは夫婦になったのだ。 私は、ふと笑う。  デート。まるで学生のような響きが愛おしくて、頷いた。「する。デート、したい」 「ふふ、よかった」 玲司さんが嬉しそうに笑って、私の手を握ってくれる。  体温がじんわりと伝わってきて、そのぬくもりに、自然と顔がほころんだ。「行こう、由香里。今日はいっぱい遊ぼう」 「うん!」 そんなふたりのはじめてのデートは、何も決まっていない行き当たりばったりだったけれど、かえってそれが心地よかった。 最初に行ったのは動物園。ライオンを見て笑い合い、カピバラに癒される。  その後はカフェでランチ。お互いに料理を分け合って、「これ美味しいね」と言い合った。 午後にはゲームセンターへ寄り道して、玲司さんの得意な格闘ゲームで勝負——私は完敗だったけれど、それすらも楽しかった。  その後はショッピングモールでウインドウショッピングをして、クレープを買って半分こした。 全部が初めての経験だった。  仕事一筋だった頃の私には、想像もつかなかった〝誰かと過ごす休日〟。 その帰り道、電車に揺られていると、ぽろりと涙がこぼれた。「……由香里、泣いてるの? 無理しすぎた?」

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