All Chapters of 明月が一度も来なかった : Chapter 11 - Chapter 20

21 Chapters

第11話

「なんだって!?」その言葉を聞くや否や、深志は慌てて車に飛び乗り、猛スピードで実家へと車を走らせた。屋敷に駆け込むなり、深志は血相を変えて問い詰めた。「母さん、さっき電話で言っていたのはどういう意味だ?何の合意書だって? 芽依はあんなに風初を可愛がっていたんだ、あの子をいらないなんて言うはずがない!」静子は腑に落ちないといった顔つきで一枚の書類を取り出し、深志に突きつけた。「これを見てみなさい。芽依が自らの意思で風初の親権を放棄するって、はっきりと書かれているわ」書類を手にした深志は、雷に打たれたようにその場に立ち尽くした。つい先ほどまで、芽依が我が子を手放すはずがないと高を括っていたのだ。だが、まさか彼女が子供すらも捨てて出て行くとは、夢にも思わなかった。風初が生まれてから今日まで、ミルクの世話から幼稚園の行事に至るまで、何もかも芽依が手塩にかけて育ててきたのだ。彼女は自分自身のこと以上に風初のすべてを最優先にしてきた。あれほど愛情深い母親が、よりによって親権を放棄する道を選ぶなど信じがたかった。よほどの絶望を感じたからでなければ、芽依がこんな形で去る理由など他に考えられない。その時、深志の脳裏に、あの会社のパーティーでの出来事がふとよぎった。そうだ、芽依はあの夜のことで深く腹を立てているに違いない。だから当てつけに家を飛び出し、意地を張ってこんな合意書にサインしたのだ。そう思い至ると、深志は自分の推測が絶対に正しいと確信を深めた。一方、目の前の静子は冷ややかな声で深志を叱責し続けた。「あとの始末は自分でつけなさい。世間を騒がせたのはあなたなのだから。夏寧と結婚するか、それともきっぱり縁を切るか、二つに一つよ。自分で選びなさい」「母さん、以前は俺と夏寧の交際にあんなに反対していたじゃないか? どうして今更……」その言葉に、静子は歯痒そうに大きなため息をついた。「じゃあ、どうしろって言うの?あなたがどうしてもあの子がいいと執着しているのでしょう? 五年前もそう、そして五年の月日が流れた今も変わらないじゃないの。それに、これだけスキャンダルが大きくなってしまった以上、結婚でもして体裁を整えなければ、浅間家の名誉の傷は拭いきれないでしょうが!」その言葉を聞いて、深志は全身から力が抜け落ち、よろよ
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第12話

目の前で突如として狂態を演じる息子を前にして、静子は驚愕のあまり大きく瞳孔を開いた。五年前の夏寧の時を除いて、深志が誰かのためにここまで取り乱し、常軌を逸する姿など見たことがなかった。だいたい、深志はこの五年間、芽依に対してずっと冷淡な態度を取り続けてきたではないか。それなのに、いざ彼女が去ってから狂ったように執着を見せるなど、一体どういうことなのか。だが、深志の手からしたたり落ちる生々しい血を見て、静子は問い詰めるのをやめた。慌てて専属の家庭医を呼びつけ、深志の手当てを命じる。激痛のあまり全身に脂汗をにじませながらも、深志は血走った目で静子を強く睨みつけ、絞り出すように言った。「母さん、今すぐ芽依の居場所を教えてくれ。……でなきゃ、俺はこの手なんかどうなったっていい」その言葉を聞いて、静子は激しい怒りに血を上らせた。自分の息子がここまで不甲斐なく、二度も女のことで自らの体を傷つけるなど思いもよらなかったのだ。荒い息を整え、何とか心を落ち着かせると、静子は氷のように冷たい声で言い放った。「芽依がどこへ行ったかなど、私も知らないわ。契約が満了した以上、赤の他人の私生活を詮索する理由なんてないでしょう」それを聞いた深志は血走った目をカッと見開き、感情を爆発させて叫んだ。「嘘だ!母さんが契約を結んだんだから、知らないはずがない!早く教えてくれ、俺は芽依を探しに行かなきゃならないんだ!」次の瞬間、静子は勢いよく腕を振り上げ、深志の頬を力任せに張り飛ばした。乾いた音が響き、数秒もしないうちに深志の頬にはっきりと赤い手形の跡が浮かび上がる。静子は怒りのあまり声を震わせ、歯がゆさに顔を歪めながら怒鳴りつけた。「深志!芽依がこの家にいた頃、あなたは夏寧にばかりうつつを抜かしていたじゃないの!今になって、私がようやくあの見苦しいスキャンダルを受け入れて夏寧との結婚を許してやったというのに、今度は芽依を探しに行きたいですって? あなた、本当に頭がおかしくなったの!?」その後も、深志は実家でたっぷり一時間もの間、厳しく叱責され続けた。手の治療と包帯の処置が終わった後、彼はまるで魂を抜かれたような足取りで、重い足を引きずるようにして自宅へと帰った。玄関のドアを開けても、そこにはもう満面の笑みで出迎えてくれる芽依の姿はない。
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第13話

M国の某有名出版社。芽依は周囲の喧騒を一切耳に入れず、ひたすらにキーボードを叩き、新作の執筆に没頭していた。つい先ほど担当編集者から、コンテストに応募した作品が無事に一次審査を通過したという知らせを受けたばかりだった。今は二次審査に向けて、急ピッチで新しい原稿を書き上げなければならないのだ。凄まじい集中力で執筆を進めていたその時、親友の美月から電話がかかってきた。「芽依、今すぐスマホ見て! とんでもない大ニュースよ!」何事かと首を傾げながらスマホを開くと、SNSのトレンド一位に『白坂夏寧の裏の顔』というワードが躍り出ていた。タップしてみると、彼女のこれまでのドロドロとした黒い噂やスキャンダルの数々が滝のように流れてきた。さらに驚くべきことに、それを拡散しているのは名だたる有名プロデューサーや映画監督たちだったのだ。彼らは一様に、同じ文面のポストを投稿していた。【素行不良のタレント・白坂夏寧は、今後一切起用しない!】どうやら彼女は、国内の全メディアから完全に抹殺されたらしい。画面を眺めながら、芽依はふっと皮肉な笑みをこぼした。「見たわ。やっぱり性根が腐っている人間は、どこへ行っても長続きしないものね」電話越しに、美月が声を潜めて言った。「業界の内部情報なんだけどね、これ仕掛けたの、あなたの元夫らしいわよ」それを聞いて、芽依の瞳に一瞬だけ驚きの色が走った。あんなにも夏寧を擁護し、大切にしていた深志が、最終的に彼女を破滅に追いやった張本人だとは予想もしていなかったからだ。「どうやら、夏寧が別の男とベッドにいるところを、あの人が直接踏み込んで修羅場になったみたい」美月の声には、面白がるような響きと、ほんの少しの同情が入り混じっていた。しかし、芽依の心はどこまでも凪いでいた。夏寧がどういう人間かなど、最初から分かりきっていたことだ。すべては深志自身が選んだ道であり、今の惨状も彼自身の自業自得に過ぎない。芽依が特に反応を示さないのを見て、美月は少し躊躇いがちに口を開いた。「……あなたが家を出た後、あの人が私のところに来たのよ。あなたの居場所を教えろって」芽依は眉をひそめ、声のトーンを落とした。「まさか、教えてないわよね?」「教えるわけないじゃない。あの人があなたにどんな酷い態度をとってきたか
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第14話

不意に名前を呼ばれ、芽依は声のした方へ振り返った。視線の先には、手入れの行き届いた艶やかな短髪に、色白で整った顔立ちの男が立っていた。人目を惹くような、きらきらと光を宿した彼の瞳が、芽依の脳裏に忘れていた記憶を呼び覚ます。彼の名前は、遠野京介(とおの きょうすけ)。大学時代、二人はほんの短い期間だけ恋人同士だった時期があったのだ。しかし、交際を始めてわずか数ヶ月で京介は海外留学へと旅立ってしまった。国境を隔てた遠距離恋愛は呆気ないもので、一週間も経たないうちに二人は別れることになった。まさかこんな見知らぬ異国の地で、かつての彼と再会を果たす日が来るなんて、夢にも思っていなかった。芽依と京介は肩を並べて夜の通りを歩き、やがて一軒のコンビニエンスストアに入った。イートインのカウンター席に並んで腰を下ろし、二人は紙コップの熱いコーヒーを少しずつ口に運ぶ。京介は芽依の横顔をじっと見つめ、ぽつりとこぼした。「なんだか、現実なのか夢なのか分からなくなってくるよ」芽依がふっと微笑むと、京介は言葉を続けた。「覚えてる?大学時代、俺たちお金がなくてさ。よくこうやって深夜のコンビニで、一番安いコーヒーを飲みながら語り合ったよな。何年も経ってから、またこうして並んで座れる日が来るなんて思わなかった」その言葉を聞いて、芽依の脳裏にも数え切れないほどの思い出が蘇ってきた。彼女は深く、感慨に耽るようなため息をついた。あの頃の自分はまだ若く、深志という存在に出会う前の、無邪気な学生だったのだ。京介は少し首をかしげ、好奇心と気遣いの入り混じった声で尋ねた。「同級生から聞いたんだけど、結婚したんだって?どう?幸せにしてる?」紙コップを握りしめる芽依の指先が、スッと白くなった。この五年間、浅間家で味わわされた冷遇と屈辱がフラッシュバックする。彼女は眉をひそめ、口を開くのも億劫そうに、重苦しい声で答えた。「……離婚したの。幸せなんて、望むことすら恐ろしいし、今の私には縁のない言葉よ」自嘲気味に吐き出されたその声に、京介は一瞬言葉を失い、固まってしまった。数年ぶりに再会した芽依は、まるで別人のように変わっていた。かつては太陽のように明るく朗らかだった彼女が、今はひどく影のある、重く沈んだ空気を纏っている。芽依の結婚
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第15話

その知らせを聞いた瞬間、芽依は驚きのあまり目を丸くした。その文学賞がいかに格式高く、権威あるものか、誰よりも彼女自身がよく理解していたからだ。最終選考に名を連ねるのは、世界で活躍する名だたるトップクリエイターばかり。それに加え、このコンテストの審査基準は極めて厳格だ。つまり、金で順位を買うような不正や、コネや裏工作などが一切通用しない、完全な実力至上主義の公平な舞台なのである。編集長も興奮を隠しきれない様子で語りかけた。「うちの出版社から、これほど大きな賞で最終選考まで残る作家が出るなんて創業以来初めてよ。以前からあなたの文才は高く評価していたけれど、五年間のブランクを経て復帰したばかりで、いきなりここまでやってのけるなんてね」芽依の顔にも、隠しきれない喜びの色が広がった。彼女にとって、最終選考にノミネートされたこと自体が、自分の実力に対する最高の称賛だった。なにより、これからの作家としての経歴に、これ以上ないほど輝かしい箔がつくのだから。こうして、社の仲間たちから盛大な祝福を受けた芽依は、心地よい緊張感の中で最終選考に向けた執筆に取りかかった。思考を研ぎ澄ませ、物語の骨子を練り上げる。今回のテーマは「愛」。この普遍的な題材を真っ向から捉えつつ、読者の心を揺さぶる劇的な展開に仕立てなければならない。一週間後。心血を注いだ原稿がついに完成した。芽依は皆の期待を背負い、「スターライト文学賞」の授賞式会場へと足を踏み入れた。会場に集まった顔ぶれは、新聞や雑誌で見かけるような著名な作家ばかりだ。普通なら気後れしてもおかしくない場面。だが、今の芽依の心は驚くほど軽やかだった。ここまで来られただけで、もはや結果など二の次だ。自分の作品を世に送り出し、誰かに届ける。それだけで十分だった。参加者たちの作品が審査員の手へと渡される。張り詰めた空気の中、厳正な審査が繰り返され、ついに頂点が決まるときが来た。司会者が壇上で封筒を掲げ、もったいぶるように観客に問いかける。「栄えあるグランプリの発表です。私の手元にその名前があります。一体、誰だと思いますか?」芽依は期待も落胆もなく、ただ静かに壇上に立っていた。次の瞬間、鼓膜を震わせるほどの割れんばかりの拍手が巻き起こった。「今回の受賞者は、まさに
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第16話

芽依の背中に、冷たい戦慄が走った。見たくないものほど、向こうから現れる。この世の理(ことわり)は、どこまでも残酷だ。気づけば、風初が芽依の太ももに必死にしがみついていた。かつてあれほど芽依を疎んでいた姿が嘘のように、何があっても離さないという執念で縋りついている。だが、芽依の対応は冷徹だった。表情にありありと嫌悪を浮かべ、風初の手を乱暴に振り払う。突き放された風初は、信じられないものを見るような目で芽依を見上げた。あんなに自分を愛してくれていたお母さんが、なぜ今、自分をこれほどまでに拒絶するのか。一年間待ちわびて、ようやく再会できた母の瞳には、かつての慈愛など欠片も残っていなかった。涙を滲ませた深志が、すがるような目で芽依を見つめる。「芽依……この一年、一体どこに行っていたんだ? 狂ったように君を探し回ったのに、どこにも……俺も風初も、ずっと君に会いたかった。なあ、帰ってきてくれないか? 芽依」震えるその声は、聞く者の涙を誘うほどに痛切だった。だが、芽依の態度は氷のように冷ややかだった。「深志。私たちはもう、二度とやり直せないわ」信じられないという顔で、深志が手を伸ばしてくる。芽依はスッと身を引いてそれを避けた。「それに、私たちの関係は一年前のあの日に終わってる。……馴れ馴れしくしないで」その冷たすぎる声に、深志は目の前の女がまるで別人のように思えた。かつての芽依なら、こんなに冷酷な言葉を投げつけることなど絶対にあり得なかった。どんな時も穏やかに、優しく語りかけてくれていたのに。今の彼女は、道端の赤の他人に接するよりも遥かに冷淡だ。周囲の視線を集め始め、芽依は深志を連れて宴会場のロビーへと場所を移した。大切な親友の晴れ舞台を、みっともない痴話喧嘩で台無しにするわけにはいかなかったからだ。心配そうに後を追おうとする京介を振り返り、芽依は小さく首を横に振る。「大丈夫よ。すぐに戻るから」会場の扉の外へ出た途端、深志が震える声で問い詰めてきた。「……さっきの男は誰だ?」芽依はふっと鼻で笑った。「一体どの口がそんなことを聞くのかしら?私が誰とどう付き合おうが、あなたには微塵も関係のないことよ」その冷たい拒絶に、深志は深く傷ついたような表情を浮かべる。しかし、すべては自業自得
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第17話

少し背が伸びた風初を前にして、芽依は思わずかぶりを振った。手塩にかけて育ててきた。この子には、ありったけの愛情と忍耐を注ぎ込んできたつもりだった。なのに彼は、幾度となく鋭いナイフで真っ直ぐに私の心をえぐってきた。豆粒みたいに小さかった頃から、よちよち歩きを覚え、幼稚園に通うようになるまでずっと見守ってきた。それなのに。この子は私が毎年誕生日に贈ってきた金塊を、いともあっさりと他の女に渡してしまったのだ。私には常に最悪の敵意を向けるくせに、夏寧のことは無条件に美化し、慕い続けていた。風初を愛していたのは本当だ。けれど、修復不可能なほどに絶望しきっているのもまた事実だった。子供の世界は単純だ。「ごめんなさい」と謝れば、すべて元通りになると思っているのだろう。けれど残念ながら、大人の世界では口先だけの謝罪なんて何の役にも立たない。芽依は風初を真っ直ぐに見つめ、静かに口を開いた。「風初。ごめんなさいはね、一番意味のない解決方法なのよ。それから、もう私をお母さんと呼ばないで。一年前の契約が終了した時点で、私とあなたの間にはもう何の関係もないんだから」風初は、大人の言葉のすべてを理解できたわけではない。それでも、たった一つだけ確実に伝わったことがあった。お母さんはもう、僕をいらないんだ。彼は道端に立ち尽くし、わあわあと大きな声で泣きじゃくった。一方の深志は、芽依の冷酷なまでの言葉を聞くと思わず言葉を詰まらせ、声も出せずにむせび泣いた。長い沈黙のあと、すがりつくようにようやく言葉を絞り出す。「芽依……すまない。夏寧があんな女だったなんて、本当に知らなかったんだ。心から後悔してる。夏寧の肩を持って、君をあんなに傷つけるべきじゃなかった。お願いだ、もう一度、最初からやり直してくれないか?」深志の言葉に、芽依は自嘲気味にふっと笑いを漏らした。「今さらそんなことを言われても、遅すぎるわ。これまでに起きたことは、すべて紛れもない事実なの。過去の痛みをなかったことにはできないし、すべてを忘れるなんて絶対に無理よ」なおもすがりつこうとする深志を遮るように、京介が歩み出てきた。彼はごく自然な動作で芽依の手を取った。「芽依。そろそろ披露宴が始まるよ。戻ろうか」そのやり取りに、深志は一縷の望みをか
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第18話

商談を終えてオフィスビルを出ると、ひときわ目を引くマイバッハが停まっていた。車体に寄りかかっていたのは、深志だった。芽依は少し驚いた。今日のスケジュールのことなど、誰にも漏らしていない。それなのに、彼はここを嗅ぎつけてきたのだ。芽依の姿を認めるなり、深志は慌てたように駆け寄ってきた。「芽依。少しだけ、話せないか?」結局、芽依は深志の車に乗り込んだ。彼とは一度、きっちりとけじめをつけておくべきだと思ったからだ。ハンドルを握りながら、深志がちらりと横目で芽依を見た。「芽依。人づてに聞いたんだが……今は自分で小説の会社を立ち上げてるそうだな?」芽依が冷ややかに頷くと、深志は気を悪くするそぶりも見せず、言葉を継いだ。「君が執筆に興味があったなんて、以前は少しも気づかなかったよ」その言葉に、芽依は皮肉な笑みを浮かべた。「あなたが私に無関心だったからよ。私のことなんて知ろうともしなかったんだから、好みに気づくわけがないでしょ」図星を突かれ、深志は気まずそうに顔をこわばらせた。何か言い訳をしようと口を開きかけたが、ちょうど車が目的のカフェに到着した。車を降り、店内で飲み物を注文する。席につき、芽依がコーヒーを一口飲んだのを見計らうように、深志が口を開いた。「芽依。君がいなくなってからのこの一年……俺たち父子は、本当に辛い毎日を送っていたんだ」芽依はふっと鼻で笑った。「そう。私は逆よ。以前の何百倍も素晴らしい毎日を送っているわ」深志は理解に苦しむというように、すがるような目を向けた。「芽依……あの五年間、嫌な思いをさせたこともあったかもしれない。でも、俺たちには素敵な思い出だってたくさんあったじゃないか。君はそんなにも、過去を嫌悪しているのか?それに、俺たちには風初という可愛い息子だっている。また戻ってきて、家族三人でやり直せばいい。それのどこがいけないんだ?」芽依の瞳に、冷たい嘲りの色が浮かんだ。彼女は深志を静かに見つめ返し、口を開く。「それはね、あなたがいつも与えられる側だったからよ。だから私の苦しみなんて、わかるはずもないの」この五年間、家庭で身を粉にして尽くしてきたのはいつも自分だった。料理も洗濯も掃除も、父子の身の回りの世話はすべて芽依が一人で背負っていた。一方
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第19話

それを聞いた瞬間、深志の顔からさっと血の気が引いた。芽依が去ってからの彼にとって、残された風初がすべての支えだった。もし風初までいなくなれば、生きていく気力さえ失ってしまう。その息子が、忽然と姿を消したというのだ。電話の音声は、向かいに座る芽依の耳にも届いていた。彼女は取り乱す深志を見て、冷静に声をかけた。「落ち着いて。誰か他所の人が迎えに行ったんじゃないの?心当たりに連絡してみて」促されるまま、深志は震える手でスマートフォンを操作し、次々と電話をかけた。だが、思い当たる相手に片っ端から連絡しても、全く手がかりは掴めない。その時、一通のメッセージが送られてきた。【子供は預かった。命が惜しければ警察には通報するな。現金で1億円用意しろ】続いて、ある廃工場の住所が記されている。画面を見た深志は、青ざめた顔で芽依を見上げ、震える声で絞り出した。「風初が……拉致された」さすがに芽依の瞳にも驚きが走った。しかし、彼女はすぐに冷静さを取り戻して言った。「犯人の指示に従いましょう。私も一緒に行くわ」もう縁を切ったとはいえ、風初は自分のお腹を痛めて産んだ実の息子だ。いくら関わりたくないからといって、見殺しにできるはずもなかった。指示された通りに現金を用意し、二人は指定された廃工場へと車を走らせた。そこは街から遠く離れた人気の途絶えた場所で、今すぐ警察に通報したとしても、到着までに最低三十分はかかるだろう。芽依は周囲の状況を冷静に観察しながら、犯人の正体を推測していた。浅間家の恨みを買った者か、それともただの金目当ての小悪党か——しかし次の瞬間、その答えはあっさりと突きつけられた。風初のすぐ傍らで、ナイフを握りしめ、怨念に満ちた凄惨な顔で立っていたのは——夏寧だった。この一年で、彼女はすっかり別人のように変わり果てていた。伸び放題の髪が不気味に顔を覆い、かつて艶やかだった肌は見る影もなく荒れ果て、這いつくばって生きてきたような薄汚れた姿になっている。これでは、昔のファンが見ても絶対に彼女だとは気づかないだろう。犯人が夏寧だと気づいた深志は愕然とし、なぜ風初にこんな真似をするのかと狂乱したように怒鳴りつけた。すると夏寧は、彼を鋭く睨み返して叫んだ。「あんたが私を業界から追放なんかする
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第20話

その言葉が落ちるのとほぼ同時に、けたたましいサイレンの音が響き渡り、警察が到着した。冷たい手錠をかけられても、夏寧はもう抵抗するそぶりすら見せなかった。ただ、死人のように灰色の顔をして連行されていった。芽依は震える手で深志の手を強く握りしめ、必死に声をかけた。「深志、しっかりして!もうすぐ救急車が来るから!」深志は薄れゆく意識の中、残されたありったけの力を振り絞り、かすれた声で呟いた。「芽依……すまなかった。これは、俺が君に返すべきただ一つの借りで……当然の報いだ……」十分後。深志は救急救命室へと運び込まれた。数時間にも及ぶ懸命な処置の末、どうにか彼の心拍は安定を取り戻した。この事態を受け、芽依はM国へ帰るフライトをさらに数日延期した。病室に付き添い、かつてそうしていたように、静かに深志の看病を続けた。麻酔から覚め、深志が最初に見たのは、ベッドの傍らに座る芽依の姿だった。彼女は手慣れた動作で水を飲ませ、「具合はどう?」と短く尋ねた。深志は何も答えず、ただじっと芽依を見つめていた。やがて、その目尻から涙がこぼれ落ち、真っ白な枕の布地を静かに濡らした。「芽依……」彼は喉を詰まらせ、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。「こうして、心穏やかに君と一緒にいるのは……本当に久しぶりだね」芽依は何も言い返さなかった。ただ無言で立ち上がり、医師を呼びに行こうと背を向けた。その背中へ向かって、深志が声を絞り出す。「……ありがとう。もう、二度と君を煩わせたりはしないよ」ひどく掠れ、泣き出しそうな声だった。芽依の足が、ピタリと止まる。それでも彼女は一度も振り返ることなく、そのまま病室を出て医師を呼んだ。そして、彼女が再びその病室に戻ることはなかった。そのままホテルへ直行して荷物をまとめ、M国へと旅立ったのだ。深志が目を覚まし、命の危機を脱した今、もうこれ以上あの場所に留まる理由は、どこにもなかった。病院のエントランスを出たところで、学校帰りに執事へ連れられてきた風初と鉢合わせた。芽依は何も言わず、そのまま通り過ぎようとした。しかし風初のほうは、もう芽依がどこか遠くへ行ってしまうことを、子供ながらに察知していたのだろう。もう二度と、お母さんには会えない。そう直感した彼は、涙を浮かべ
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