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明月が一度も来なかった

明月が一度も来なかった

By:  飛べないライスヌードル Completed
Language: Japanese
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小林芽依(こばやし めい)が浅間深志(あさま しんじ)と結婚して五年。二人の間には息子も生まれ、芽依はこの穏やかな家族の形がずっと続くのだと信じていた。だがある日、白坂夏寧(しらさか なつね)が帰国したことで、芽依は自分がこの家にとって不要な存在であると思い知らされることになる。深志は事あるごとに芽依を放り出しては夏寧の元へと駆けつけ、あろうことか、お腹を痛めて産んだ息子の浅間風初(あさま ふうい)でさえ夏寧ばかりに懐くようになってしまったのだ。どう足掻いても、もう自分の居場所なんてどこにもない。――でも、それならそれで構わない。なぜなら、この関係の始まりはただの契約に過ぎなかったのだから。あと七日。残された一週間が過ぎれば、芽依はこのかりそめの結婚から、完全に解放される。

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Chapter 1

第1話

「お義母様。この契約、もう終わりにしたいんです。おっしゃいましたよね、もし深志が五年以内に私を愛することがなければ、契約は無効になる、と」

浅間静子(あさま しずこ)は、深志の母だ。静子は芽依の言葉に、わずかに眉を寄せた。

「確かにそう言ったわ。でも、あなたには風初がいるじゃない。あんなに可愛がっているのに、他の女を『お母さん』と呼ばせても平気なの?」

「ええ、平気です」

芽依の返答は、一切の迷いもなく、揺るぎないものだった。

「深志との結婚は、もともと契約で始まったかりそめのもの。風初を産んだことも、その契約の一部に過ぎませんでしたから」

そこまで言って、芽依はふっと遠い目をした。

「それに、いま夏寧さんが戻っていらした。深志も風初も、もう私を必要としていません」

この五年という歳月の中で、芽依も確かに深志に心を寄せた時期があった。だが、その想いは幾度となく裏切られ、残ったのは失望ばかりだった。

息子が引き起こした騒動を思い出すように、静子が深くため息をつく。

「……契約はあと七日。その書類にサインすれば、一週間後には浅間家を出て、あなたはもう自由の身よ」

芽依は迷うことなく、提示された書類に筆を走らせた。そして振り返ることもなく、浅間家の門を後にする。

車を走らせていると、芽依のスマートフォンの通知が鳴った。幼稚園から送られてきた写真だ。

画面の中には、満面の笑みを浮かべた深志がいた。その体は自然と夏寧の方へと傾き、風初は夏寧の手をしっかりと握っている。

彼らが身につけていたのは、風初の運動会のために、芽依が奮発して買ったお揃いの親子コーデだった。

運動会には夏寧が代理で出席し、そして親子ペアの服までもが、夏寧に奪われていた。

……

浅間深志と白坂夏寧の恋は、かつて世間を大きく騒がせた。

一方は、莫大な資産を継ぐ名家の御曹司。もう一方は、学業を捨てて芸能界という荒波に飛び込んだ新進気鋭のスター。住む世界の違う二人が結ばれたのは、ひとえに混じりけのない愛ゆえだった。

しかし、夏寧の人気が絶頂に達した頃、彼女は深志に別れを告げた。すべては自分のキャリアを守るため。

深い絶望に叩き落とされた深志の精神は、崩壊寸前だった。連日泥酔しては荒れ、ついには自ら命を絶とうとするまでに追い詰められる。「名家の跡取り、愛に破れ自殺未遂」――そのスキャンダルは、一夜にしてネット上を駆け巡った。

同じ頃、芽依は人生のどん底にいた。父が手術室で生死を彷徨う中、重くのしかかる高額な医療費を前に、なす術もなく立ち尽くしていたのだ。

そんな彼女に救いの手を差し伸べたのが、深志の母・静子だった。

提示された条件は、芽依が深志と結婚し、彼の立ち直りを五年間支えること。その対価として、父の手術費用を全額負担するというものだった。

後日、芽依は深志に紹介された。

「深志、芽依さんを妻に迎える気はないかしら?」

静子の問いに、芽依は祈るような心地でその答えを待った。もし彼に拒絶されれば、契約は成立せず、父を救う道は絶たれる。

だが、深志は死人のような顔で、ただ短く頷いた。

「……勝手にしてくれ。彼女じゃないなら、誰が相手でも同じだ」

そうして、契約から始まった関係。最初はただの利害関係に過ぎなかったが、献身的に尽くす日々の中で、芽依はいつしか深志に本気の恋をしてしまう。

けれど、深志の態度は氷のように冷たいままだった。芽依にまともな眼差しを向けることさえなく、二人の関係を証明する唯一の絆であるはずの婚姻届さえ、「仕事が忙しい」という理由で、いつまでも出されることはなかった。

そんな生活が五年目を迎えた、ある日の深夜。

深志がひどく酔った様子で帰宅した。虚ろな目で芽依をじっと見つめ、彼は低く呟いた。

「……子供、作ろうか」

その夜、二人は初めて体を重ねた。

芽依は、それがようやく芽生えた愛の始まりなのだと信じて疑わなかった。だが、残酷な真実を知ったのは後になってからのことだ。ちょうどその日、夏寧が新しい恋人の存在を世間に公表していたという事実を。

それでも、息子の風初が生まれてからというもの、深志の態度は少しずつ軟化していった。芽依の献身的な支えも、以前のように無下には扱われなくなっていた。

この穏やかな日々がずっと続く。そう思っていた――夏寧が恋人との破局を宣言するまでは。

破局報道が出たその日の夜、深志と夏寧が川沿いで手を繋いで歩く姿が週刊誌にすっぱ抜かれた。見出しには『世紀のカップル、復縁か』の文字が躍っていた。

それを機に、二人は堂々と連絡を取り合うようになり、あろうことか深志は夏寧をこの家にまで頻繁に招き入れるようになった。

そして、普段は母親である芽依にすら素っ気ない態度をとる風初も、夏寧に出会ってからはまるで別人のように変わってしまった。

すっかり彼女に懐き、事あるごとに「夏寧おばちゃんと遊びたい」と甘えて離れなくなったのだ。

家の中には、深志と夏寧、そして風初の三人が笑顔で写る写真がどんどん増えていった。

深志はもともと写真に撮られるのを極端に嫌う性格で、結婚してからの五年間、芽依とのツーショット写真など一枚たりとも存在しないというのに。

だが、夏寧が家に出入りするようになってから、深志は最新の一眼レフカメラを買い込み、あまつさえ自分たちを盗撮した三流のゴシップ記事すら切り抜いて、丁寧にスクラップするほどだった。

夏寧のこととなると、彼の中の常識やルールなど、すべてが特例として覆るのだ。

芽依は痛いほど思い知らされた。これから先、どれだけ長い時間をかけようとも、彼が自分を愛してくれる日は絶対にこない。深志の心の中には、永遠に夏寧しかいないのだから。

――けれど、幸いなことに、これはただの契約だ。

あと七日。そうすれば、尊厳をズタズタにされたこの家から離れ、海外で小説家になるという長年の夢を追うことができる。

そう思うと心が少し軽くなり、芽依はスマートフォンを取り出して海外の出版社に連絡を入れ、七日後に発つ航空券を予約した。

車を走らせ、自宅に戻ってきた芽依は、いつもの定位置に車を停めようとした。

だが次の瞬間、すっと横から割り込むようにして、見慣れた夏寧の車が芽依の駐車スペースを鮮やかに奪い取った。

そして、その車から楽しげに降りてきたのは、他でもない芽依の夫・深志と、お腹を痛めて産んだはずの息子・風初だった。

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幸子
幸子
つづきがとってもきになります
2025-05-31 11:38:47
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第1話
「お義母様。この契約、もう終わりにしたいんです。おっしゃいましたよね、もし深志が五年以内に私を愛することがなければ、契約は無効になる、と」浅間静子(あさま しずこ)は、深志の母だ。静子は芽依の言葉に、わずかに眉を寄せた。「確かにそう言ったわ。でも、あなたには風初がいるじゃない。あんなに可愛がっているのに、他の女を『お母さん』と呼ばせても平気なの?」「ええ、平気です」芽依の返答は、一切の迷いもなく、揺るぎないものだった。「深志との結婚は、もともと契約で始まったかりそめのもの。風初を産んだことも、その契約の一部に過ぎませんでしたから」そこまで言って、芽依はふっと遠い目をした。「それに、いま夏寧さんが戻っていらした。深志も風初も、もう私を必要としていません」この五年という歳月の中で、芽依も確かに深志に心を寄せた時期があった。だが、その想いは幾度となく裏切られ、残ったのは失望ばかりだった。息子が引き起こした騒動を思い出すように、静子が深くため息をつく。「……契約はあと七日。その書類にサインすれば、一週間後には浅間家を出て、あなたはもう自由の身よ」芽依は迷うことなく、提示された書類に筆を走らせた。そして振り返ることもなく、浅間家の門を後にする。車を走らせていると、芽依のスマートフォンの通知が鳴った。幼稚園から送られてきた写真だ。画面の中には、満面の笑みを浮かべた深志がいた。その体は自然と夏寧の方へと傾き、風初は夏寧の手をしっかりと握っている。彼らが身につけていたのは、風初の運動会のために、芽依が奮発して買ったお揃いの親子コーデだった。運動会には夏寧が代理で出席し、そして親子ペアの服までもが、夏寧に奪われていた。……浅間深志と白坂夏寧の恋は、かつて世間を大きく騒がせた。一方は、莫大な資産を継ぐ名家の御曹司。もう一方は、学業を捨てて芸能界という荒波に飛び込んだ新進気鋭のスター。住む世界の違う二人が結ばれたのは、ひとえに混じりけのない愛ゆえだった。しかし、夏寧の人気が絶頂に達した頃、彼女は深志に別れを告げた。すべては自分のキャリアを守るため。深い絶望に叩き落とされた深志の精神は、崩壊寸前だった。連日泥酔しては荒れ、ついには自ら命を絶とうとするまでに追い詰められる。「名家の跡取り、愛に破れ自殺未遂」――そ
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第2話
車を降りた夏寧は、わざわざ芽依の元へと歩み寄り、挑発的な笑みを浮かべた。「ごめんなさいね。うっかりあなたの駐車スペースを横取りしちゃったみたい。……怒ってないわよね?」芽依が口を開くより早く、深志が冷ややかな声でかばうように言った。「このスペースは誰かの専用というわけじゃない。君が停めたいなら停めればいい。誰にも文句は言わせないさ」そう言い放ち、深志は警告するように芽依を鋭く睨みつけた。すると、傍らにいた風初までもが同調するように口を尖らせる。「夏寧おばちゃん、お母さんのことなんて気にしなくていいよ!お母さんが乗ってるようなダサい車、ここに停まってるだけで僕、恥ずかしいもん!」その言葉に、芽依の胸の奥が冷たく凍りついた。四年間、つきっきりで愛情を注いで育ててきたというのに。風初は夏寧をかばうばかりか、実の母親に向かってこんなにも残酷な言葉をぶつけてくるのだ。やがて、深志が楽しげな声で夏寧の腕を引いた。「さあ、君のために用意した部屋を見に行こう。俺の寝室の隣だ」風初もピョンピョンと跳ねて喜ぶ。「やったー!これからは夏寧おばちゃんがいっぱい遊んでくれるね!おばちゃんはなんでもできちゃうんだもん!」そして、ちらりと芽依を見て鼻で笑った。「お母さんみたいに、つまんなくないし!」深志はそこでようやく芽依を振り返り、思い出したように告げた。「夏寧のマンションが更新の時期でな。しばらくの間、この家で暮らすことになった」その言葉を聞いても、芽依の表情は少しも揺らがなかった。ただ短く、「そう」とだけ冷淡に返した。そのあまりに淡白な反応に、深志は虚を突かれたように一瞬言葉を失った。芽依がこれほどまでに無関心な態度をとるとは思っていなかったのだろう。代わって口を開いたのは、わざとらしく困ったような顔を作った夏寧だった。「……やっぱり、私、ホテルを取るわ。だって深志の奥様は芽依さんだし、私はただの部外者だもの」これに対し、真っ先に不満を露わにしたのは風初だった。「夏寧おばちゃん、何言ってるの!おばちゃんの方がお父さんとずっと前から知り合いだったんだよ?部外者なんて絶対違う!」「風初の言う通りだ。この家はもともと、君と住むために買ったものじゃないか。君が部外者なわけがない」深志と風初はそう言って夏
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第3話
翌朝、芽依はまだ他の家族が寝静まっているうちにベッドを抜け出した。深志と同じ家で暮らすようになってから、二人の寝室は常に分かれている。彼が芽依を妻として完全に受け入れていないことも理由の一つだが、何より深志は極度の潔癖症だった。自分のパーソナルスペースに他人が立ち入ることを、彼は生理的に受け付けないのだ。身支度を整えた芽依が向かったのは、友人の村上美月(むらかみ みつき)が営む法律事務所だった。美月はそこで、芽依からこれまでの経緯をすべて打ち明けられた。「……じゃあ、あんなに献身的に深志さんに尽くしてきたのは、全部あの契約のためだったの?」芽依は、静かに頷いた。それを聞いて、美月は大きく息を吐き出した。「最近、ネットで流れてくるニュースを見るたびに、あんたのことが心配でたまらなかったんだから。でも、契約だったって割り切れてるなら、ちょっと安心したわ」美月は手元の資料に目を落としながら、本題を切り出した。「それで、今日は何の用?離婚協議書の作成?」「ううん。私と深志、実は籍を入れてないの」芽依の口から自嘲気味な笑みがこぼれる。「だから、今日は親権の放棄に関する合意書を作ってほしくて」「なんですって!?」美月は思わず声を荒らげた。「あんたがどれだけ風初くんを……自分の命より大事に慈しんできたか、私が知らないとでも思ってるの?そのあんたが親権を手放すなんて、正気なの!?」芽依の目尻に、隠しきれない悲しみの色が差す。「……いいから、作って。お願い」切実な眼差しに気圧され、美月はそれ以上何も言えなくなった。彼女はプロとして冷静さを取り戻すと、鮮やかな手つきで書類をまとめ、芽依に手渡した。書類をしっかりと握りしめ、芽依が事務所を去ろうとした時だ。その背中に向かって、美月が叫ぶように声をかけた。「芽依!五年間、あんな氷みたいな男の心を溶かそうと必死だったんだもん、もう十分だよ。これからは、彼にあげてた優しさを全部、自分のために使いなさい!」芽依は足を止め、振り返ると、無理やり作ったような歪な微笑みを浮かべた。「……ええ。そうするわ」……芽依が家に帰り着いたのは午前十時を過ぎていたが、リビングには依然として誰の気配もなかった。ダイニングテーブルには、朝出かける前に作っておいた朝食
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第4話
深志は絶句した。彼の記憶にある芽依は、どんなに不条理な要求であっても決して拒まず、ひたすら献身的に尽くしてくる存在だったからだ。彼女がこれほどはっきりと拒絶する姿など、見たことがなかった。すると夏寧が、自嘲気味な笑みを浮かべてみせた。「……でしゃばりすぎたわね。居候の身で、芽依さんの手料理を味わいたいなんて、図々しい望みだったわ」そう言って、彼女は悲しげに席を立とうとする。それを見た風初が、逆上して芽依をポカポカと叩き始めた。「悪いお母さん!夏寧おばちゃんをイジメるな!お母さんのせいでおばちゃんが出ていっちゃうじゃないか!」深志もまた、焦って夏寧の腕を掴み、芽依に向けて非難の声を浴びせる。「まだ今朝のことを根に持っているのか?夏寧はバッテリーを借りに来ただけだと言っただろう。いつまでそうやって、つまらないことにこだわっているんだ」芽依の表情は、ぴくりとも動かない。「あいにくだけど、今は体が重くて、台所に立つ余裕なんてないの。気分が悪くて」「お母さん、病気なの?」風初は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに嫌悪感を露わにして口元を覆った。「だったらどうして早く言わないんだよ!夏寧おばちゃんは体が弱いんだから、うつったらどうするのさ!」風初は深志の袖をぐいぐいと引っ張る。「ねえお父さん、早くおばちゃんに病気がうつらないようにお薬をもらってきて!」それを聞いて、夏寧がわざとらしく困ったような笑顔を見せた。「風初くん、ありがとう。でもそんなの申し訳ないわ。おばちゃんは平気よ」「……いや。風初の言う通りだ」深志は夏寧を愛おしそうに見つめ、優しく肩を抱いた。「夏寧、君は無理をしないでいい。昔から君は、一度風邪を引くと二週間は寝込んでしまうんだから」深志、夏寧、風初の三人は、「天気もいいから散歩がてらに」と、まるで本当の家族のように仲良く手をつないで近所のクリニックへと歩いて家を出て行った。ダイニングに取り残されたのは、芽依と、すっかり冷めきってしなしなになったホットサンドだけだった。一緒に暮らして何年も経つというのに。自分の夫と、お腹を痛めて産んだはずの息子は、具合を悪くしている自分を心配するどころか、病気でも何でもない夏寧の「予防薬」をもらうためだけに、わざわざ出かけていったのだ。残
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第5話
夏寧の顔には、隠しきれない優越感が浮かんでいた。それに呼応するように、風初はさらに声を張り上げた。「お父さんと夏寧おばちゃんは優しいのに!悪いお母さんなんて大嫌い! アイスひとつ買ってくれないんだもん!」子供の大きな声に、周囲の買い物客たちが次々と立ち止まり、遠巻きに芽依を指差してヒソヒソと噂し合った。芽依の心は、ただただ冷えきっていくばかりだった。これが、四年間、自分のすべてを捧げて慈しみ育ててきた息子の……今の姿なのだ。深志はといえば、喚き散らす風初をただ見守るだけで、一切たしなめる様子はなかった。結局、夏寧が「もう、その辺にしておきなさい」とわざとらしく優しく宥めたことで、この茶番はようやく終わりを告げた。スーパーでの買い物を終えると、彼らは香辛料をふんだんに使った激辛料理の専門店へ行くと言い出した。提案という体裁をとってはいたが、芽依に拒否権など最初から与えられていなかった。テーブルにつくなり、深志は次々と料理を注文していった。風初のために頼んだ辛くないチーズオムレツを除けば、見事に唐辛子の効いた真っ赤な料理ばかりだった。その間、誰一人として芽依の希望を聞くことはなく、深志はそのまま伝票を店員に渡してしまった。「深志……あんなに長く離れていたのに、私の好きな料理、ひとつも忘れずに覚えていてくれたのね」夏寧が甘ったるい声を出して、テーブルの下でそっと深志の手に触れる。深志の耳元が、うっすらと赤く染まった。料理が運ばれてくると、深志は甲斐甲斐しく夏寧の取り皿に料理を取り分けた。一方の芽依は、ただ俯いて白米を口に運ぶだけで、おかずには一切箸をつけなかった。それに気づいた深志が、不思議そうに眉を寄せる。「お前、どうしておかずを食べないんだ?」芽依は顔を上げることもなく、淡々と答えた。「……私、辛いものは食べられないから」深志はハッと息を呑み、呆然と固まった。芽依が家で作る料理は、いつも彼好みの辛い味付けだった。だから深志は、てっきり彼女も辛いものが好きなのだとばかり思い込んでいたのだ。五年もの間、妻の本当の味覚になど、一度も気を留めたことがなかったのだと痛感する。急にバツが悪くなったのか、深志は慌ててメニューを手に取った。「……なら、お前のために辛くない料理をいくつか追加しよう。
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第6話
その声を聞いた瞬間、深志はビクッと体を震わせ、すぐさま夏寧の方へと振り返った。その瞳には、先ほどよりもはるかに強い焦燥が浮かんでいた。夏寧は弱々しく顔を伏せながら、健気な声で言う。「深志……私は大丈夫。血を見て、少し立ちくらみがしただけだから。どうか私のことは構わないで……今は、芽依さんの方が大切よ」「夏寧おばちゃん、顔が真っ白だよ!全然大丈夫じゃない!」風初は深志のズボンの裾を引っ張りながら喚いた。「お父さん、ぼんやりしないで早くおばちゃんを病院に連れてってよ!だって、車はちゃんとブレーキかけて止まってたもん!お母さんは夏寧おばちゃんより自分を心配してほしくて、大怪我したフリをしてるだけだよ!」それを聞いた深志は、横たわる芽依を疑わしげな目で見下ろした。眉を深くひそめ、どちらを優先すべきか迷っているのがありありとわかる。だが、夏寧が「うっ……」と苦しそうに呻き声を上げた途端、彼の中の理性が完全に吹き飛んだ。深志はすぐさま夏寧の体を抱きかかえ、自分の車の方へと歩き出した。倒れている芽依の横を通り過ぎる際、彼女に視線を向けることすらせず、ただ夏寧の目を優しく手で覆い隠した。少し離れてから、最後に一度だけ振り返る。「……夏寧は昔から体が弱いんだ。彼女に万が一のことがあっては困る。救急車は呼んでおいたから、そのまま待っていればいい」その冷酷な言葉と共に、三人の足音はあっという間に遠ざかり、やがて車の走り去る音が響いた。芽依は、自分が冷たいアスファルトの上に見捨てられたのだという事実を、ゆっくりと噛み締めた。酷薄な現実に自嘲の笑みが漏れそうになったが、唇を動かした途端、口の端から赤い血の滴りが止めどなく溢れ出した。救急隊が駆けつけた頃には、芽依の意識はすでに白濁し、途切れかけていた。ざわめきの中、救急隊員の呆れたような声だけが鼓膜を叩く。「……なんて身内だ。救急車だけ呼んで、怪我人を路地に放置していくなんて」再び意識が戻った時、芽依は病院の白い天井を見つめていた。すぐに医師が呼ばれ、ベッドの横でカルテを見ながら口を開く。「車にはねられたそうですね。全身のひどい擦り傷に加えて、軽い脳震盪を起こしていますよ」芽依に驚きはなかった。あの時、車はギリギリでブレーキをかけたが、それでも衝撃をまともに受
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第7話
芽依は怪訝に思って首を傾げた。普段、彼の方からメッセージを送ってくることすら滅多にないというのに、わざわざ電話まで、それもこれほど異常な回数をかけてくるなんて、いったい何の風の吹き回しだろうか。訝しみながら家へ帰ると、住み込みの家政婦がパッと顔をほころばせて出迎えてきた。「芽依様!やっとお帰りになったのですね。芽依様がいらっしゃらないこの数日、深志様は気が狂いそうなほど苛立っておられましたよ。私たちが作る食事はどれも深志様のお口に合わないみたいで、ずっと不機嫌で……」その言葉を聞いて、芽依はすべてを悟った。なるほど。妻を心配したからではなく、私が作る完璧な料理がないせいで、生活の勝手が違って苛立っていただけのことか。唇の端に冷たい笑みが浮かぶ。だが、彼には今のうちにその不便さに慣れてもらうしかない。これからはもう、彼のわがままな舌を満足させるためだけに、必死にレシピを研究して台所に立つような人間は、いなくなるのだから。靴を履き替えてリビングへ向かうと、深志が眉をひそめながらソファに座り込んでいた。その全身からは、重くどんよりとした空気が漂っている。足音に気づいた彼が、ゆっくりと顔を上げた。その目元には色濃い疲労がにじんでいたが、芽依の姿を捉えた瞬間、パッと安堵の光が宿った。だが次の瞬間、彼は勢いよく立ち上がり、咎めるような怒気を孕んだ声で言った。「一体どこに行ってたんだ?あれだけ電話したのに、なぜ出ない!」芽依は静かにソファへ歩み寄り、腰を下ろしてから口を開いた。「入院してたの。今日、退院したところ」それを聞いた深志は、ハッとして表情を強張らせた。この数日、夏寧の看病にかかりきりだった彼は、あの日起きた交通事故のことなどすっかり頭から抜け落ちていたのだ。あの時、彼は風初の言葉を鵜呑みにし、芽依が嫉妬から怪我をしたフリをしているのだと本気で思い込んでいた。仮に怪我をしていたとしても、ほんの擦り傷程度だろうと高を括っていたのだ。まさか本当に入院が必要なほどの怪我を負っていたとは、夢にも思わなかった。気まずさに彼の瞳が揺れ、誤魔化すような上ずった声が出た。「あの日のこと……怒ってないよな?君がそんなに酷い状態だなんて思わなかったんだ。夏寧の方は、一刻も早く処置しないと命に関わる状態だったから……君を置
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第8話
その夜。会社主催の華やかなレセプションパーティーが開かれていた。参加者はパートナーを同伴することが決められており、美しくドレスアップした夏寧が、深志の腕に堂々と手を添えて出席していた。芽依のもとには当然のように何の案内も届いていなかったが、それでも彼女はこの会場へ足を運んだ。風初の親権を放棄するための合意書を、深志の母・静子に手渡す必要があったからだ。搭乗予定の飛行機が離陸するまで、あと二時間。もう一刻の猶予もない。芽依は焦る気持ちを抑えながら、静子の姿を探して会場の隅を見回した。その時、不意にステージの照明が眩く点灯し、スピーチを行うために深志が壇上へと姿を現した。そして彼のすぐ両隣には、風初と夏寧が寄り添うように並んで立っていた。ステージの下では、グラスを手にした社員たちがさざ波のようにヒソヒソと噂話を交わしている。「やっぱりネットの記事は本当だったのね。社長も一途だこと。何度も噂になるのは結局同じ人なんだから」「えっ、でも社長って結婚してるんじゃなかった……?」「あんなの、表舞台に出せないような冴えない女らしいよ。社長だって冷め切ってるし、夏寧さんこそが真実の愛ってわけ」社員たちの無遠慮な声が嫌でも耳に入ってきたが、芽依は気にも留めなかった。そんなゴシップに耳を傾けている時間は微塵もないのだ。彼女は静子の姿を求めて、人気のない階段の踊り場へと足を踏み入れた。一通り探してみたが、静子の姿はどこにもない。仕方なく踵を返そうとしたその瞬間、背後から底意地の悪い声がかかった。「あなた、招待状なんてもらってないでしょ?ここはパートナーを一人しか同伴できない決まりなのよ」カツコツと高めのヒールを鳴らしながら近づいてきたのは、夏寧だった。「一目瞭然じゃない。勝ったのは私ってこと」今の彼女の顔には傲慢で歪んだ笑みが浮かんでおり、深志の前で見せているあの儚げで弱々しい姿は欠片も残っていなかった。「深志があなたと私のどちらを選ぶか……言うまでもないわよね。彼はいつだって、絶対に私を優先するのよ。悔しい?」「……あなたのくだらない遊びに付き合ってる暇はないの」芽依は氷のように冷たい声で言い捨て、彼女を無視して歩き出そうとした。鼻で嗤う声が聞こえた直後だった。夏寧が一歩踏み込み、芽依の肩を背後から力任
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第9話
深志は専属の医師を呼びつけ、夏寧の足の怪我を診察させた。ひと通り診終えた医師は、淡々と告げた。「ただの軽い捻挫ですね。二、三日もすれば治るでしょう」それを聞いた深志はホッと胸を撫で下ろし、夏寧に向かって言った。「よかった。夏寧、君はここで少し休んでいてくれ。俺はちょっと芽依の様子を見てくる」その言葉を聞いた瞬間、夏寧の瞳の奥にドス黒い憎悪がよぎった。私がわざわざ怪我をしてまで引き止めているというのに、どうしてあの女のところへ行こうとするの? あの女のどこがいいって言うのよ。すると、ベッドの傍らにいた風初が、深志の服の袖を引っ張って小さな声で言った。「お父さん、夏寧おばちゃんのこと大好きなんじゃないの?僕がせっかく二人っきりになれるチャンスを作ってあげたのに、ここでしっかり掴まないと駄目だよ!」その言葉に、深志はハッとして動きを止めた。……そうだ。俺が愛しているのは夏寧じゃないか。彼女がこんなに痛がって弱っている時こそ、そばに寄り添ってやらなければならないのに、俺はどうして芽依のことなんか気にかけていたんだ?そう思い直した深志の瞳から迷いが消えた。彼は夏寧の手をしっかりと握りしめて言った。「夏寧、俺はずっとここにいる。どこへも行かないよ」夏寧の瞳が感激に潤んだ。次の瞬間、彼女は身を乗り出し、深志の唇へとそっと自分の唇を重ねた。深志もそれを避けることはなかった。二人は周囲の目も忘れ、互いに貪るように深く熱いキスを交わし続けた。その様子を見ていた風初が、両手で顔を覆いながら「もー、えっち!」とおどけて笑う。……その後、すっかり落ち着いた夏寧を部屋で休ませ、深志が再び会場へと戻った頃には、すでに芽依の姿はどこにもなかった。だが深志は深く考えることもなく、風初の手を引いてさっさと自宅の別荘へと帰った。玄関で靴を脱ぎながら、彼は無意識のうちに習慣となっているその名前を口にした。「芽依、帰ったぞ」しかし、いつもならすぐに出迎えに来るはずの返事がない。苛立って執事を呼びつけると、執事は不思議そうな顔で首を傾げた。「芽依様でしたら、深志様とご一緒だったのでは……?今朝お出かけになられてから、一度もこちらにはお戻りになっておりませんが」執事の言葉を聞き、深志の胸の中に得体の知れない怒りがふつ
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第10話
深志は大きく目を見開き、素頓狂な声を上げた。「何を言ってるんだ!そんなわけがないだろう!何かの間違いじゃないのか!?」電話口の秘書は、恐縮しきった様子で震え声で答えた。「申し訳ございません。戸籍等の記録を何度確認しても結果は同じでした。社長と芽依様は、間違いなく夫婦関係にはございません」ほんの数秒後、深志はハッとして、自らの愚かさを呪うように拳でソファーを強く殴りつけた。あの頃の彼は、自分を捨てた元恋人である夏寧のことで頭がいっぱいだった。芽依から「婚姻届を出そう」と何度も念を押されていたのに、その度に「仕事が忙しいから」という言い訳で先延ばしにし続け、しまいにはその手続き自体を完全に忘却してしまっていたのだ。彼は苦痛に顔を歪めて目を閉じ、事態の取り返しのつかなさを骨の髄まで思い知らされた。秘書に芽依の行方を捜索するよう命じながら、自分でも彼女が向かいそうな場所を必死に考えた。だが、どれほど頭を抱えて捻り出そうとしても、何一つとして心当たりが浮かんでこない。ふと、恐ろしい事実に気がついた。五年間も共に暮らしてきたというのに、自分は芽依のことを何一つ理解していなかったのだ。彼女の好きな食べ物も、趣味も、実家の両親のことも……本当に、何一つとして知らない。彼女がスマートフォンの契約を解除しただけで、自分に繋ぎ止める手段がすべて消滅してしまうほどに。芽依は、深志のすべてを完全に把握し、尽くし切ってくれていたというのに。そこまで思い至り、深志の瞳は深い自責と後悔に覆い尽くされた。その時、ふと脳裏をよぎる顔があった。芽依には、弁護士事務所で働いている親友がいたはずだ。この五年間で、芽依が唯一交流を続けていた友人――村上美月だ。藁にも縋る思いでスマートフォンを取り出し、電話をかけようとしたが、画面の時計を見て動きを止めた。時間はすでに深夜の二時を回っている。深志はスマートフォンを置き、再び芽依の部屋へと向かった。そして、冷たい床に散乱する引き裂かれた結婚写真の破片を拾い集め、一つひとつ必死に繋ぎ合わせ始めた。だが、どれほど丁寧に元の形に戻そうとしても、一度ズタズタに引き裂かれた写真は決して元には戻らない。写真の中の二人の間には、無残な亀裂が永遠に残ったままだ。結局、深志は一睡もすることなく、夜明けまで虚しく
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