All Chapters of 目を合わせたら、恋だった。: Chapter 21 - Chapter 30

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第二十一話 それでも……

 自宅マンションにどうやって帰ってきたのか、思い出せない。 スマートフォンが何度も何度も震えていた。陽翔からメッセージが送られてくるが、目を通す余裕がない。きっと「何があったの?」「ごめん」といった内容なのだろう。 帰ってきてから電気もつけずに、ベッドの上で、膝を抱えて俯いたままだ。頬には何度も涙が伝った跡が残り、目の周りは熱く腫れていた。 この涙は、トラウマの恐怖と、陽翔への態度の後悔からだった。彼のことを考えると、また涙が溢れた。温かな手のひらと、近づいてきた顔。そして、傷ついた表情。「……やめて、なんて、本当は……言いたくなかった……」 俺は怖かっただけだ。陽翔から優しくされることが、真っ直ぐ見られることが。 ――好きになってしまったら、彼の優しさが、これまでの態度が、全て壊れると思った。 好きになっちゃダメだと、あれだけ自分に言い聞かせていたのに、でも――。 もう、とっくに、陽翔のことを好きになってしまっていた。胸の奥で燻っていた感情は、確かな形を持った恋心だった。「……俺、どうしたら良かったのかな……」 陽翔から逃げたはずなのに、胸の奥に残ったのは、好きだと言ってくれた時に感じた、温かさだった。それを思い出すと、また涙が溢れた。 暗闇の中、スマートフォンの画面が再び明るく灯った。震える手で画面を見ると、陽翔からのメッセージが十件以上届いていた。最新のメッセージを開く。『叶翔くん、大丈夫? 無事に帰った? 心配だから返事だけでも……』 指先がスマートフォンの画面の上をさまよった。返事をするべきか、このまま無視するべきか。 高校時代、あんなに傷ついて、もう二度と誰かに心を開かないと誓ったはずなのに。なのに、なぜ陽翔には、こんなにも簡単に心を動かされるのだろう。 陽翔さんは違う――そう言いたい自分がいる。でも、また裏切られたらと思うと怖くて仕方がない。 スマートフォンを胸に抱きながら、俺は小さく呟いた。「陽翔さん……ごめん……」 窓から差し込む月明かりが、涙で濡れた頬を優しく照らしていた。
last updateLast Updated : 2025-05-19
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第二十二話 避けてるわけじゃ、ない

 鏡の前でまばたきをするたび、瞼の腫れが鈍く疼く。 昨夜あふれた涙と同じ重さが、まだ目の奥に残っている気がした。 春学期も半ば。ツツジが濃い朱を膨らませるキャンパスを、学生たちの笑い声が跳ね回る。けれど俺の靴裏は鉛のように重く、地面へ吸いこまれそうだった。「叶翔っ! ど、どうしたの……? 目、パンパンじゃん」 翌朝、キャンパス内で教室に向かう途中、早速芽衣に見つかった。新緑の薄緑色がキャンパスを明るく彩っている。鳥たちのさえずりが爽やかな朝の空気に混じり、春も半ばに差し掛かっていることを感じさせた。その風景とは裏腹に、俺の心の中は重たい霧に覆われたようにどんよりとしていた。「ん……。ちょっとね……寝不足」 朝起きた時には、目も開けられないほど腫れていたのを、冷やしてようやく目が開くようになったのだが、それでも腫れはひかなかった。目元が重たいのは、胸の中の重みと連動しているようだった。 それは、陽翔に放った『無理』だという言葉。彼を突き放した俺の弱さだ。 キャンパスを楽しそうに行き交う人たちを横目に、そっとため息をついた。 ――俺は、陽翔さんにこれからどう接したらいいんだろう……。 陽翔は俺のことを好きだと言ってくれた。俺も同じ気持ちだ。だけど――。 過去のトラウマが何度も頭をもたげてくる。好きだった人に告白した時の、あの、嫌悪感に満ちた顔。「ゲイはキモい」と言われて名前を晒されたこと……。 陽翔はそんな人ではないとは分かっている。彼の表情やしぐさ、眼差しを見れば本気であることも伝わってくる。 でも……。『やっぱり男と付き合うのは無理でした』 そう言われるのが怖い。そう言われたら、またあの時みたいに心が壊れるんじゃないかと思うと胸が痛くなる。怖くて壊れたくなくて。自分の心が臆病で小さいということをあからさまに感じてしまう。 大勢の学生が教室へと行き交う中、陽翔の姿が目に入った。桜の若葉が揺れるその先に、明るい金色の髪が春の光を受けて輝いていた。明るくて、いつも真っ直ぐで、見つけたらすぐわかる人。 --……いた……。 俺は思わず木の影に身を潜めて、陽翔が通り過ぎるのを息を潜めてじっと待っていた。目で彼を追いかけてしまっている自分がいる。だが、直接会う勇気が出ない。行動と気持ちがちぐはぐ過ぎて心が苦しい。「何やってんのよ? なんで陽
last updateLast Updated : 2025-05-19
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第二十三話 藤堂さんは優しい?

 図書館の窓際の席は、午後の光がやわらかく差し込んで、春のくすんだ日差しに包まれていた。昼下がりの陽の光が床に長い四角形の明るさを作り出している。誰にも見つからずにそっと過ごせるこの場所が、俺のお気に入りの場所だ。 スケッチブックを広げて鉛筆を走らせる。無意識に書いていたのは、あの横顔。鉛筆の先が紙の上をなぞるたび、その線はどんどん彼の輪郭に近づいていく。 目鼻立ちがはっきりした、まるでモデルのような顔立ち。そこに描かれた笑顔はこの上なく眩しいほどだった。自分でも、誰を書いているのかは、言うまでもなかった。「すごい、うまいね。絵を描くのが好きなんだ」 不意に背後から声をかけられ、体が跳ねた。思わず両手でスケッチブックを覆う。ゆっくり振り向くと、そこにはインディーズバンド"BLUE MOON"のメンバー、藤堂晴臣が立っていた。 黒い春用のニットに白いシャツを合わせた出立ちは、どこか洗練されている。整った顔立ちは誰もが目を引くほどの美形なのに、そこに張り付いている笑顔が、なぜか "作りもの"のように見えた。「……藤堂さん……?」 絵を描いているところを見られたことに驚き、返事が少し遅れた。 晴臣はゆっくり隣の席に腰をかけると、机に肘をついて俺の方を向いた。「ごめんね。覗くつもりはなかったんだけど、すごい真剣に描いていたからしばらく後ろから見させてもらってたんだ」 晴臣の声は低く落ち着いたものだった。陽翔のように明るく眩しい感じとは正反対に、なんとなく棘のあるような、冷たい風に包まれたようだ。その声質は魅力的なはずなのに、どこか警戒感を抱かせる。「その絵さぁ、陽翔だよね? どうなの、最近。陽翔と……」 思わぬ名前を聞かされて、肩がビクッと震えた。頬が熱くなるのを感じる。「どう……って。別に……何も」 晴臣は俺から何かを見透かそうと、じっと見つめてくる。表面上は穏やかな表情だが、その瞳の奥には何か冷たいものが潜んでいるように感じた。俺はすぐに目を逸らしたが、軽く握った手が小刻みに震えていた。「ふーん。ちょっと気になるだけ。アイツ、最近、誰かさんのことを話す時だけ、表情が明るくなるからさ」 さらりとそう言って、晴臣はずいっと俺の方に顔を寄せた。 その顔は笑っているが、目はどこか冷たい水の底のような冷徹さを湛えていた。わずかに漂う香水の香りが、
last updateLast Updated : 2025-05-19
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第二十四話 目を逸らした、くせに

 陽翔を避けてしばらく経った日の放課後。スケッチする場所を求めて大学内をうろうろしていると、ベンチに座っている陽翔を見かけた。 陽翔は一人、空を見上げていた。その表情はいつも俺に向けている熱っぽいものでもなく、みんなの前で振り撒いている明るい表情でもない。何かを考え込んでいるような顔だった。 俺は陽翔のその姿に見入ってしまった。真剣だが、どこか悲しげな表情は、今まで見たことない。明るい陽翔には不似合いな憂いを帯びた横顔。それをさせているのは、もしかしたら俺なのかもしれないと思うと、胸の奥がズキズキと痛んだ。 ふと、先日、晴臣からかけられた言葉を思い出す。『正直、陽翔のこと、どう思ってるの?』 ――俺は……。 ベンチに座っている陽翔を見ているだけで、鼓動が激しくなるのが分かった。これは、もう、自分の気持ちに正直になるしかない。心臓が胸の中でドクドクと脈打つ。 ――やっぱり、陽翔さんが、好きだ。 胸の痛みを和らげたくて、胸元をギュッと掴んだ。シャツの布地が握りしめられる。 陽翔が本気で人を好きになったのが初めてだと言ってくれた。俺自身も、こんな気持ちになるのは初めてだ。ただの憧れでも一時的な感情でもなく、誰かを深く思う――この感覚が、本当の「好き」なんだと分かる。『俺も、陽翔さんのことが好きだ』 言いたい。 だけど、その度に過去のトラウマが頭をよぎる。再び、拒絶されたことを考えると、怖い。手が小刻みに震えている。恐怖が足を縛り付ける。「昔は、こんなにヘタレじゃなかったのにな……」 俺は苦笑いした。 どんなに想っていても、それを伝えないと相手には届かない。沈黙は何も解決しない。 そんなことを考えている時、陽翔がこちらを見た。俺は慌てて陽翔に背を向けた。少しひんやりした風が俺の頬をかすめた。 こっちを見ないでほしい。でも……、見て欲しかった。俺もずっと見ていたい。そんな風に思ってしまうなんて、……俺はやっぱりおかしい。 目を逸らしたのは、信じるのが怖かったからだ。それなのに、ずっと見ていたいし、見られたいと思うなんて……。 陽翔のまっすぐな瞳がいつまでも忘れられなかった。陽の光を浴びて輝く、琥珀色の瞳。その中に映る自分の姿を、いつか真正面から見つめられる日が来るのだろうか。
last updateLast Updated : 2025-05-19
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第二十五話 気づかれてる、かも

 二限と三限のあいだ――二時間の空白を埋めるように、俺は図書館の最奥へ足を運ぶ。 机の前に腰掛けて、スケッチブックを開く。何度も撫でて馴染ませた厚紙の感触は、掌にだけ許された秘密の温度を宿している。 鉛筆を寝かせ、紙を撫で――浮かびあがった輪郭は、バンドのボーカル風の青年。目鼻立ちのはっきりとした、まるでモデルのような整った顔立ち。髪の毛は金色に近い茶色で、朝日を浴びたような輝きを放っている。マイクの代わりに、赤い薔薇の花を一輪持たせた。 その表情はいつもの人好きのする明るいものではなく、静かに熱のこもった優しい視線をこちらに向けている。どこか儚げで、見る者の胸を締め付けるような、切なさを湛えた瞳だった。 ラフが仕上がり、絵の顔の部分に愛おしそうに指を滑らせた。冷たいスケッチブックの上で、指先だけが熱を持っているように感じる。 ――陽翔さん、この前、寂しそうな顔してたな……。 いつもの眩しいほどの笑顔ではなく、熱っぽく俺を見つめる目。その瞳にいつも引き込まれそうになり、その度に俺は目を逸らした。本当は目を合わせて、自分の気持ちを伝えたいのに、それができない自分が情けなくて仕方がない。「このイラストになら、いくらでも目を合わせることができるのになぁ……」 スケッチブックの上で肘をついて手を組み、その上に額を乗せた。陽翔を避けるようになってから、ため息ばかりが出る日々が続いていた。胸の奥に重たい石が積み上げられていくような感覚だ。 次の授業まではまだ時間があるので、急いで絵を仕上げることにした。鉛筆の線を消しゴムで軽く擦り、適度な加減で影を入れていく。線一本一本に、言葉にできない想いを込めながら。 授業終了後、キャンパスの桜の木の新緑がサワサワと爽やかな風に揺れ、夕暮れの光が葉の間から漏れていた。俺は芽衣と木の下のベンチに腰掛けていた。周囲には他の学生の声や笑い声が遠くに聞こえる。 バッグの中からスケッチブックを取り出し、今日の空き時間で書いたイラストを芽衣に見せた。手が少し震えていることに自分でも気づく。「……これ、見てくれる?」 ページをめくって、イラストを見せる。芽衣は目を見開き、息を呑んだ。「これって……」 芽衣がゴクリと唾を飲み込むのが見えた。彼女の瞳が驚きと何かを理解したような色に変わる。「陽翔さん……、だよね? 創作垢にア
last updateLast Updated : 2025-05-19
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第二十六話 バレた。終わった。

 翌日、大学内には強い風が吹き荒れていた。乱れる髪の毛を抑えつつ、教室へ向かおうとすると、俺の耳に話し声が聞こえてきた。「ねえ、見た? ほら、"BLUE MOON"の自称ハルトの彼女候補って言ってる、誰だっけ? ナナだっけ? あの子のアカウント」「うん、見た見た! なんかハルトにストーカーまがいのことしてる人がいるって話じゃない?」 ひそひそと話しているのだろうが、陽翔の名前に敏感になっている俺には、普通に聞こえてしまった。体が石のように固まる。「なんでも有名な絵師さんらしいじゃん。この大学の男子学生だって言ってたよ」「え? 男子? キモっ! やめてほしいよねー、あたしらのハルトにストーカーとか」「でもさぁ、ナナのハルトとのツーショット写真も合成って噂だし、そのストーカー話も盛ってるだけかもよ?」「ハハっ! ありえるね」 キャハハと楽しそうに二人で会話しながら過ぎ去っていくのを横目に、俺の背中には冷たいものが流れ落ちていくのを感じた。もしかして、俺のアカウントが晒されたのか……。全身から血の気が引いていく。 ――まさか……。そんな……、俺を特定できるものは、あのアカウントには何もアップしていないはず。 自分に大丈夫だと言い聞かせながら教室へ向かっていると、後ろから声をかけられた。振り向くと、そこには芽衣が血相を変えて俺の元へと走ってきた。「叶翔、大変っ!」 芽衣は肩を上下させて息を荒くしている。その顔には焦りと怒りが入り混じっていた。その様子を見ると、ただ事じゃないと言うのが窺えた。恐怖が背中を駆け上がる。「どう……したんだよ。そんなに焦って」 芽衣は荒くなった息を整えて、ゆっくり深呼吸した。彼女の瞳には怒りの炎が灯っていた。「これ、見て」 芽衣はスマートフォンの画面を俺に向けた。その画面を見た俺は、全身から血の気が引くのを感じた。足が震え始め、立っているのも辛くなる。 SNSのアカウントは"ナナ"のもので、俺が昨日アップロードした陽翔のイラストを引用する形で投稿していた。『この絵師、キモい! BLUE MOON・ハルトにストーカー行為。実名は"綾瀬叶翔(あやせかなと)"でハルトと同じ大学の一年』 キャンパス内の学生が俺に目を向けているように感じて冷や汗が止まらない。息が荒くなり、周囲の音がどこか遠くに聞こえる。「この絵垢の人
last updateLast Updated : 2025-05-19
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第二十七話 何も言わないで……

「今日はもう、帰ろう……」 いつもなら、創作活動のために、イラストを描く場所を探してキャンパスをうろうろするのだが、さすがにそんな元気は、今日は、もう、ない。体の中に入れた食べ物も、喉を通らず、心も身体も疲れ果てていた。 今日一日、長かった。特に、創作アカウントについて誰からも直接、声をかけられることはなかったが、キャンパスのあちこちで「ハルトのストーカー」の噂話が聞こえてきた。聞こえないふりをしても、その言葉だけが耳に残る。 実名が晒されたことで、近いうちに俺がそのアカウントの持ち主だと言うことが陽翔にもバレるだろう。大学内でもそのことが広まったら、また、あの誹謗中傷が俺を襲ってくる。そう考えただけで膝がガクガクと震えた。喉が渇き、息が浅くなる。 授業が終わった時、芽衣が「何かあったらいつでも連絡して!」と念を押してきた。高校の時のゲイバレ事件についても芽衣には話しているからか、心配してくれているのだろう。彼女の目には心からの友情が見えて、少しだけ救われた気がした。 その時、隣を歩いているグループから話し声が聞こえてきた。「ねぇ、見た? あのハルトのイラスト」 その声を聞いて俺はまた背中が冷たくなるのを感じた。またキモいとか言われるんじゃないかと思うと、これ以上話を聞きたくないと思ったが、それでも耳に彼女たちの声は届いた。「すごいうまいよねー! しかもさぁ、あのイラストの表情、めっちゃ良くない?」「わかるー! なんか愛しさが伝わるっていうか、愛が溢れているよね!」 思いがけない優しい言葉を聞いて、全員が俺のことを悪く言っているわけじゃないんだと思ったら、目頭が熱くなった。うっかり瞬きをすると、涙がこぼれ落ちそうになる。「きっとさ、あの絵師さん、ハルトのこと本気で好きなんだよ。だからあんな素敵な絵が描けるんじゃないかな……」 うふふと頬を赤らめて言っているその人の声に、俺は心が温かくなった。だが、みんながみんな、こんな反応ではないはずだ。そう考えると、気が滅入った。胸に小さな明かりが灯ったと思ったのに、すぐに闇に呑まれていく感覚。 重い足取りでキャンパス内を歩いていたら、誰かが走っている足音が聞こえた。鼓動が跳ね上がる。「やっと見つけた!」 振り返るとそこには息を切らした陽翔が立っていた。彼の髪は風で乱れ、瞳には真剣な光が宿っていた。
last updateLast Updated : 2025-05-19
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第二十八話 鍵をかけた世界

 自宅マンションに帰り、電気をつけることもせず、ベッドの上で膝を抱えてスマートフォンでSNSを眺めていた。外の光すら入れたくなくて、カーテンを閉め切っている。どんどん増えるフォロワーと、通知。そして不躾な言葉の数々。それらが、俺の心を少しずつ削っていく。 俺は耐えきれなくなって、創作アカウントを非公開にして鍵アカウントにすることで、今後、勝手にフォローされないようにした。そして、今までフォローしていたアカウントを全て解除していく。指先が震えているのに、画面をタップする動きは機械的だった。コメントは返信制限をかけて、誰からもコメントを受け付けないようにした。 非公開アカウントにしたら、少しは無断転載や拡散されるのは落ち着くかもしれないが、それでもすでに拡散されているのを抑え込むことは難しい。暗い部屋の中で、スマートフォンの画面だけが青白く光っている。その光が、俺の顔に涙の跡を照らし出す。「……また、前みたいに拡散されちゃうのかな……」 SNSの拡散にうんざりする。もう、これ以上は見てられない。そう感じてスマートフォンの電源を落とそうとしたちょうどその時、芽衣からメッセージが届いた。『叶翔の描く世界は、誰のものでもなく、叶翔自身のものなんだよ。誰も邪魔できないんだから。好きって気持ちまで、閉じ込めなくていいからね』 メッセージを見ている画面に、涙がぼたぼたと落ちた。芽衣に返信することはできなかったが、その言葉だけが心の隅に残った。暗闇の中で、ぽつんと灯る小さな希望の光のように。 ――絵を描くのも、陽翔さんを好きなことも、どっちもやめたくないな……。 誰かに見られて、辛い言葉をかけられるのが嫌で、アカウントに鍵をかけてしまった。でも本当は、見て欲しかった。陽翔にだけは――。 胸の奥がズキズキと痛むのが分かった。暗い部屋の中で、俺は陽翔の姿を思い浮かべる。彼の「好きな子守れない」という言葉が、何度も何度も頭の中で繰り返される。その言葉が、今は痛みを伴うけれど、温かさも同時に持っていた。 ――もう一度、あの目を見たい。もう一度、陽翔さんと話したい。 だけど、恐怖が俺を縛り付ける。高校の時のトラウマが、蘇ってくる。信じて裏切られた記憶が、俺の心を引き裂く。どうすればいいのか分からなくて、ただベッドの上で体を丸めたまま、夜が明けるのを待った。 窓の外の闇
last updateLast Updated : 2025-05-19
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第二十九話 やっぱ、帰りたい

 創作アカウントを非公開にしてから丸三日。 ゴールデンウィークは想像以上に静かで、窓の外を流れる雲さえ止まって見えた。 スマートフォンの電源は切ったまま。どれほど拡散され、どんな罵声が飛び交ったか――考えるだけで胃が軋む。舌打ちの音が頭の中で鳴り響く。まるで高校時代の悪夢の続きのように。「どれだけの人が、俺のこと知ったんだろう……」 気持ちが沈み、はぁ……と大きくため息をはいた。吐き出した息が冷たく感じる。 創作アカウントは非公開にしたものの、この休みの間、ライフワークとも言えるイラストの創作活動は止められなかった。手が勝手に動いて、ペンが紙の上を舞う。毎日、絵を描き続けた。気づけば、イラストのほとんどが陽翔を描いたものばかりになっていた。陽翔の笑顔、陽翔の横顔、ステージに立つ陽翔。彼の姿が脳裏から離れなかった。 机の上にスケッチブックを広げて、今日もイラストを描いている。鉛筆の芯が紙の上で軽い音を立てながら走る。窓から差し込む柔らかな春の光が、スケッチブックの上で踊っている。 カーテン越しの淡い光が午後を告げた頃、スマートフォンがバイブレーションで震えた。胸がひくりと跳ねる。渋々手に取ると、芽衣からの着信だった。何かあったのかと思い、通話に応じた。「芽衣? なにかあった?」「やっほー、叶翔―。生存確認、よし! ゴールデンウィーク、堪能してる?」 相変わらず明るい声で話しかけてくる。その明るさに、俺の心は暖かさを取り戻した。芽衣の声には、いつも不思議な力があった。曇りガラスに差し込む日差しのように、心の奥まで届く。「堪能って……。別に、毎日、絵を描いてるだけだよ」 軽く笑って答えると、芽衣が「よかった」と小さく安堵の息をつくのが聞こえた。「叶翔が、絵を描くのをやめてなくて嬉しい! あ、そうそう。今日は伝えたいことがあって電話したんだった」 明るい声で言うのだから、大した話ではないだろうと思ったが、耳にした言葉はかなり重いものだった。「あの"ナナ"のアカウント、潰しといた。あと、BLUE MOON出禁にしてもらったから」 マグカップでコーヒーを啜りながら話を聞いていたが、ブーっと盛大に吹き出してしまった。喉に詰まったコーヒーが鼻から出そうになり、咳き込む。「つ、潰したって……。あと、出禁って……どう言うこと?」 言葉を絞り出すのが
last updateLast Updated : 2025-05-19
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第三十話 意外と、大丈夫かも?

 次の日、芽衣と待ち合わせをしている正門に向かうと、おびただしい数の人が門を潜っていた。人の波が次々と流れ込んでいく様子に、一瞬たじろいだ。「おいおいおい、なんだよ、この人混み……。うちの大学って、こんなに学生、いたんだ……」 いくつかの食べ物系のサークルが模擬店を出していて、開店準備をしている。焼きそばの香ばしさ、たこ焼きの甘い醤油の香り、綿菓子の甘い匂い。様々な香りが鼻腔をくすぐる。 芽衣を待っている間、多くの人が俺の横を過ぎ去っていく。肩がぶつかるたびに体が硬直する。目を合わせないように、前髪をおろし、目を隠して誰とも顔を合わせないように俯いた。心臓がドクドクと早鐘を打つ。 その時、元気よく手を振りながら芽衣が現れた。細身のブラックジーンズに、編み上げブーツ。黒いシャツを着て、首には銀の大ぶりなネックレス。耳には銀色のロングピアスがゆらゆら揺れていた。まるでロックバンドのボーカルのようなスタイルに身を包んでいる。「お待たせー。待った?」 彼女の声には人混みを切り裂く力があった。まるで太陽の光のように明るい。「うん。ちょっと。でも大丈夫」 俺は小さな声で答えた。これだけの人混みの中でも、彼女の姿を見つけられたことに安堵する。「じゃあ、行こうか!」 芽衣のブーツのカツカツという足音が響き渡る。凛と伸びた後ろ姿がとてもかっこいい。芽衣の背中を追いながら、俺は人混みの中で彼女を見失わないように必死だった。「ステージパフォーマンスは午後からだから、それまでいろいろ堪能しようよ!」 イケメンな芽衣に手を引かれるような形で学内を見て回った。彼女の手は温かく、安心感を与えてくれる。 春フェスは小規模な学祭のようだった。文化系サークルに所属している人たちが、サークルの紹介も兼ねて行っているフェスティバルだ。 写真の展示や映画やアニメの上映などもある。素人集団のはずなのに、どれも真剣に取り組んでいるのが分かった。写真サークルの展示には、夕暮れの校舎や満開の桜、笑顔の学生たちの姿が収められている。どの写真からも、撮影者の愛情が伝わってくる。「みんな、サークルって楽しんでるんだな」 周りの学生がキラキラ輝いて見えて、俺はボソッと呟いた。俺は一人で地味にイラストを描いているだけだ。彼らの輝きと比べると、自分が影のように感じる。「えー、叶翔もイラスト描
last updateLast Updated : 2025-05-19
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