Semua Bab 深秋に散るアイリス: Bab 1 - Bab 10

晴奈は苦笑を浮かべた。「もしかして酔って帰ってたの？」浩介には、酔うと必ず晴奈を探し回るという悪い癖があった。彼女のそばにいないと落ち着かず、物を壊し、人に当たり散らすまで暴れ続ける。彼の友人たちは、夜中に何度も晴奈に電話をかけてきて、どうか彼を迎えに来てほしいと懇願した。浩介の顔がみるみるうちに険しくなり、固く結んだ唇が一筋の線を描く。「だから何だ？昔俺に泣きついて結婚してくれって言ったこと、もう忘れたか？今になって離婚だと？ふざけるな、俺をなんだと思ってる！」晴奈は少し顔の向きを変え、ようやく彼の言葉を聞き取れた。彼女は微笑みながら言った。「あなたの心にいる望月はるなさんみたいな存在よ」その瞬間、浩介が目を細めた。「どうしてその名前を？」十六歳の時、晴奈は両親を事故で亡くし、街をさまよっていた。そんな彼女を拾ってくれたのが浩介だった。彼は晴奈に服や食事を与え、家を与え、そして彼女をもう一度学校へ通わせてくれた。晴奈にとって、浩介は恩人だった。長い時間を共に過ごすうちに、その感謝はやがて恋と、一緒にいたい気持ちに変わっていった。晴奈の二十歳の誕生日、浩介は盛大な成人式を用意してくれた。その日、晴奈は彼に想いを伝えようと決めていた。だが、式が終わって彼を探していた晴奈は、偶然、彼と友人たちの会話を耳にした。「ずっと彼女をそばに置くつもりなのか？」「……ああ。あの目が、はるなにそっくりなんだ」浩介のその声は、驚くほど静かだった。けれど、晴奈の胸に落ちたその言葉は、鉄のように重かった。家の掃除をしていたお手伝いの女性が話していたのをふと思い出す。浩介には幼馴染がいたが、何かの理由で亡くなったと。彼女の名前は望月はるな（もちづき はるな）。——そうか、自分はただ「目が似ていた」から拾われたのだ。その夜、浩介はひどく酔っていた。晴奈は思いきっていろいろと問いかけた。そこで全てを知ってしまった——彼が最も愛していたのは、望月はるなだと。そして、自分はその面影に心を動かされた、ただの代用品に過ぎなかったことも。晴奈とはるな。彼が夜ごとに囁く「はるちゃん」という愛称も、自分ではなかった。それから、晴奈の心は揺れ続けた。彼を愛している。けれど、他人の影で生きることが苦しい。

浩介は晴奈を見下ろし、鼻で笑った。「少しずつ返すって、それ、いつになったら完済するんだ？俺は慈善家なんかじゃないぞ。銀行に預けてたほうが利子がたくさんもらえる。……ま、他にも返済の方法はある」浩介の目が意味ありげに細められる。「待ってろ、また連絡する」そう言って、彼はレナを腕に抱きながら、晴奈の前を通り過ぎていく。レナは振り返り、彼女をじっと見つめた。「ねぇ、あの人誰？あなたとどういう関係なの？」浩介は満面の笑みで答える。「そんなの見れば分かるだろ。俺に借金してる女だ」彼らが離れていっても、その楽しげな笑い声が晴奈の右耳に響き続けた。晴奈はぎゅっと目を閉じ、涙を飲み込む。――悲しいことなんて、もうたくさん経験した。今さら一つ増えたって、どうってことない。ただ、かつて自分を借金から救ってくれた人が、今や新たな借金の主に変わっただけのことだ。あの頃、浩介がいなければ、彼女はたぶん街をさまよい、野良犬と食べ物を奪い合い、橋の下で眠り、もしかしたら人さらいに売られていたかもしれない。彼にどれだけ傷つけられようと、自分が無事に大人になれたのは彼のおかげ――そう思えば、この借りは返すべきだ。でも、まさか「また連絡する」と言ってきた内容が、これほど屈辱的なものだとは思わなかった。浩介が彼女に命じたのは、レナの専属家政婦をやれというものだった。「私を辱めないと気が済まないの？」震える指で服の裾を握りしめながら、晴奈は彼に問う。心の奥が、ずきずきと痛んだ。浩介は軽く笑った。「辱める？選択肢はちゃんと与えたよ。借金を返すか、俺の妻をやり続けるか。返済を選んだのはお前自身なんだぞ」「……妻？」その言葉に、胸の奥がひりつく。晴奈は力なく笑った。「そんな器じゃないわ。私はただの身代わり。七年も飼われた挙句、捨てられた代用品にすぎないのよ」浩介の顔が険しくなる。「誰が捨てると言った？出ていったのはお前のほうだろ。離婚するって騒いで」「じゃあ私はどうすればよかったの？婚姻届を振りかざして、あなたが浮気したって公表しろと？それとも何も知らないフリをして、あなたを愛し続けろと？」浩介は無言のまま、冷めた目で彼女を見つめた。かつてその目は、確かに自分を優しく見つめてくれていた――そう、思って

晴奈は家を出た後も、吐き気がなかなか収まらなかった。胃の奥に鈍い痛みが走り、気分はますます悪くなるばかり。そんなこともあり、彼女は誘われるがまま、不動産業者の青年と食事をすることにした。彼はまだ大学を出たばかりの若者だったが、気配りの効く性格で、礼儀も正しかった。食事の席で、晴奈が酸っぱい筍を少しつついただけで、顔色がどんどん青白くなっていくのを見て、青年は心配そうに尋ねてきた。「星野さん、大丈夫ですか？顔色が悪いですよ。病院に付き添いましょうか？」晴奈は首を横に振って答えた。「大丈夫、ちょっと胃が荒れてるだけだから……」それでも彼は諦めず、身体を大切にしなきゃと、優しい声で何度も説得してくる。その穏やかな声色がふと、昔の浩介に重なった。夜になると、彼はいつもこんな風に優しく語りかけてくれた。体調を崩した時には、すぐに異変に気づいて、すべての予定をキャンセルし、病院に連れて行ってくれた。――あの頃の自分は、彼の愛を信じて疑わなかった。自分が「身代わり」だったなんて夢にも思わずに。けれど今では、あの優しさの一つ一つに、はるなの影を見てしまう。目の前で、自分を真剣に心配してくれる青年の姿に、晴奈は思わず口を開いた。「……うん。病院に行こうかな」青年は驚いたように目を丸くし、すぐに笑顔を咲かせた。「分かりました！ちょっとだけ待っててください。すぐ食べ終わりますから！」青年はすぐ食事を再開した。その勢いは凄まじいが、決してだらしないものではなかった。彼の姿を見て、また浩介のことが頭をよぎる。彼はどんな時も上品で、常に完璧な振る舞いを求められてきた。たとえ嫌いな料理でも、何事もなかったかのように食べ、笑顔で「美味しい」と言うのが常だった。ある夜のことを思い出す。浩介が友人の食事会に呼ばれ、途中で晴奈に迎えに来るよう頼んできた時。彼はビルの屋上にひとりで佇み、首元には真っ赤な蕁麻疹が浮かんでいた。晴奈は慌てて病院へ連れて行ったが、その後で問い詰めた。「どうしてアレルギーがあるのに食べたの？」彼はこう言った。「身体が拒んでも、食欲のほうが勝ったんだ」と。今になって思う。自分は彼にとって、あの時の料理のような存在だったのかもしれない。欲望には惹かれるけれど、結局は傷つけ合うだけだ。

晴奈は赤い招待状を握りしめたまま、鈍いナイフでひたすら心臓を刺されているような痛みを覚えた。なんとか笑みを作って、彼女は言った。「……結婚式には行けない。お幸せに」自分は七年をかけてようやく「身代わり」という甘い罠から抜け出せたのだ。目の前で自分の代わりに罠にかかる誰かを見届けるなんてできるはずがない。その態度に、浩介の顔がわずかに歪んだ。苛立ち混じりに、彼は吐き捨てるように言った。「……お前といたときより、ずっと幸せだ」だがその言葉は、晴奈の耳には届かなかった。左の補聴器はまだ壊れたままだ。けれど彼女は、そもそも聞き返すつもりもなく、ただ静かに背を向け、その場を去った。浩介の視線が、去りゆく背中に釘付けになっているのを見て、レナの心はひやりと冷えた。芸能界で生きてきた彼女には、恋に落ちた男の目がどんなものなのか、痛いほどわかる。本人だけが、まだ気づいていないだけ。レナは自分の腹をそっと撫で、何かを考えるように目を細めた。八ヶ月が過ぎ、出産予定日が近づいていた。晴奈はお腹をさすりながら、まだ見ぬ我が子に童謡を歌っていた。テレビでは、今でも六ヶ月前の世紀の結婚式を話題にしている。世界を巡る豪華な挙式、誰でも参加できるオープンな披露宴――黒澤レナのファンでなくとも、祝福の言葉ひとつで浩介が投じた数百億の披露宴に参加できるという、前代未聞のイベントだった。巨大スクリーンには、一ヶ月間もふたりのウェディングフォトが映し出され、「レナは浩介がいちばん愛してる人」というセリフは、今や幼稚園児までが口にするほどに浸透していた。晴奈は、産婦人科の帰りにその写真を初めて目にし、しばらく立ち止まっていた。浩介の顔を、目でなぞる――自分もかつて、彼のウェディング姿を想像して、何度もイラストに描いたことがあった。だけどまさか、こんな形で見ることになるなんて。「晴奈さん！熱々の焼き栗を買ってきたよ！」明るく響く声とともに、香ばしい栗の香りが部屋の中に流れ込んできた。ふと顔を上げると、陽気な青年が笑顔で立っていた。「そんなに頻繁に来なくてもいいのに。あなただって忙しいでしょ？」晴奈は穏やかな顔で言った。「今日は三件も契約が取れて、早めに上がれたんだよ。お祝いもかねてね！」大西翔（おおにし しょう）は手早

浩介が我に返った時、翔はもうどこかへ逃げ去っていた。一方、レナは力尽きたように地面に倒れ込み、深くため息をついていた。彼女の腹部――本来なら膨らんでいるはずの「お腹」は、荒々しい動きでずれ落ち、中に仕込まれていたクッションの一角が露わになっていた。浩介は無表情のまま、そんなレナの前に立つ。地面に転がったクッションをじっと見つめながら。彼の顔には何の感情も浮かんでいなかったが、その目は、氷のように冷たく凍りついていた。――まるで、目の前のものが死体でもあるかのように。レナの背筋にゾクッとした悪寒が走った。危険を察知する感覚には誰よりも敏感だった彼女は、地面に額を擦りつけるようにして、謝罪を始める。「悪気はなかったの……私はただ、ちゃんとした立場が欲しかっただけなのよ！浩介さんと結婚したかったの！タイミングを見て、ちゃんと本当のこと言おうと思ってたけど、なかなか言えなくて……！お願い、許して……許して……！」繰り返し地面に額を打ちつけるたびに、整えられた顔立ちは血で汚れ、擦れた傷口に小石が入り込む。痛みはあった――けれど、彼女は止めなかった。止めれば、次の瞬間に命を奪われても不思議ではないと、肌でわかっていたから。浩介は、そんなレナの姿を冷たく見下ろしていた。そして、自分の中に湧き上がる皮肉な感情を噛み締める。――自分はこんな女のために、十一年も共に暮らしてきた人を失くしたのか？あまりにも愚かだ。しかも、レナは「体調管理はプロのチームに任せてる」と言って、彼の目を誤魔化してきたが、彼は一度も疑わなかった。浩介は無言のまま足先でレナの顔を持ち上げさせ、目を細める。「お前は、俺の大切な人を殺した。ごめんなさいで済むと思うなよ。命で償え」……季節は巡り、また栗が実る時期になっていた。晴奈は栗の木の下にしゃがみこみ、落ちた実を拾う。そのそばには、飼い犬のボーダーコリーが一匹。時折トゲのあるイガに足を刺されそうになりながらも、健気に栗を口に咥えて、彼女のそばに運んでくる。晴奈は犬の頭を優しく撫でて、ご褒美のように笑むと、遠くへと延びる細い道を見やる。やがて、彼女のカゴがほぼいっぱいになる頃――道の向こうから、一台の四駆がゆっくりと姿を現した。犬は嬉しそうに尻尾を振りながら駆け寄