結婚してからの七年間、星野晴奈(ほしの はるな)はずっと、自分がとある女性の「身代わり」にすぎないことを自覚していた。 日向浩介(ひなた こうすけ)に抱かれるたび、涙ぼくろに何度も口づけされるたびに、その事実が鋭く胸に突き刺さる。 彼女は知っていた――あの女性の愛称が、自分の名前と同じ発音であることを。 そして、自分こそが、亡くなったあの女性を偲ぶために作り上げられた完璧な「模造品」であることも。 浩介には自分という身代わりがいれば十分だと彼女は思っていた。 けれど、彼はまるでコレクターのように、あの女性を彷彿とさせるすべてを集め続けていた。 その姿に、晴奈は心から落胆し、ついに彼のもとから去る覚悟を決めた。
Lihat lebih banyakもし自分が魂だけの存在でなければ、きっと鳥肌が立っていたことだろう。浩介がどれほど冷酷な人間なのか、晴奈はよく知っている。けれど、その冷酷さの理由を彼女のせいにしようとする姿勢には、心底うんざりした。ちょうどその時、秘書が花を持って戻ってきた。浩介はそれ以上何も言わず、紫のアイリスを墓前に丁寧に供えた。「待っていてくれ。百年後、お前と一緒のお墓に入るよ」その言葉を聞いた瞬間、晴奈は冷笑する。——生きているときにあれだけ苦しめておいて、死んでからも安らぎを奪おうとするの?幸いなことに、墓地を選ぶ際にはちゃんと調べていた。彼女の区画はすでに満員で、合葬は禁止されている。百年分の管理費を先払いしている間は、浩介が入り込む余地はない。その後、浩介は飛行機に乗り、十数時間かけて、かつて翔と記憶を無くした晴奈が暮らしていた小さな町へ向かった。だが、以前は手入れの行き届いていた庭付きの家は、今では雑草が伸び放題で、ツタが窓や屋根を覆っている。長い間、誰も住んでいない様子だった。希望が一瞬で潰え、浩介は我を忘れたように鍵のかかった門を破り、中に飛び込む。家中を探し回りながら、声を限りに叫んだ。やがて叫び声は罵声に変わり、その怒気は言葉の壁を越えて、近所の人々すら顔をしかめるほどだった。彼らによれば、三ヶ月前、あの陽気で優しそうな若者は子供を連れて引っ越したという。「どこへ行ったか分かりますか?」浩介が焦って問う。「いや、聞いたけど変な答えだったよ」「なんて言ってました?」隣人は少し考えてから答えた。「『最愛の人との約束を果たしに行く』ってさ」「最愛の人......晴奈」浩介はぽつりと呟いたかと思うと、突然、壊れたように泣き崩れた。「晴奈、お前はなんて酷い女だ!俺の子どもを奪ったのか!」空中に漂う晴奈は、ただ冷ややかに見下ろしていた。——あの子に浩介のような父親を持たせたくなかった。自分本位で、臆病で、都合の悪いことはすべて他人のせいにする男。今もそうだ。怒りを向ける相手は常に他人。彼自身の罪を直視しようとはしない。浩介はようやく、見捨てられ、嫌われるということがどういうことかを知ったのだった。三ヶ月前から引っ越したということは、晴奈がここを去る前に彼と約束していたということだ。あの時から
晴奈は見ていた。浩介が、自分のためにお寺から授かった「災病退散」という文字が入ったブレスレットを、引きちぎったところを。葬儀会社の車列を無理やり止め、自分がかつて住んでいた家に駆け込む姿も。その家を、相場よりも遥かに高い金額で買い戻し、彼女の好きだった場所に、まるで壊れた人形のように座り込んでいたことも。彼はまるでいじめられた子供のようだった。助けを求めて駆け込んだ「秘密基地」には、もう誰もいないというのに。そんな彼を、晴奈は七日間、ただじっと見つめていた。変わり果てた姿。目の輝きを失い、生きながら死んでいるかのような浩介。それを見て、晴奈はただつまらないと思った。だって、彼女自身、そんな思いを何度も経験してきたのだ。たとえば、はるなの誕生日になると決まって「仕事だ」と言って外出し、実は彼女の墓参りに行っていたこと。あるいは、レナと関係を持った後も「出張だ」と嘘をついていた日々。……その苦しみを、ようやく彼が体験したところで、何になるのだろう。浩介の後をつけていなかったが、晴奈の魂にはどうやら不思議な制限があるようだ。彼から五十メートル以上離れると、自動的にそのそばに引き戻される。そのせいで、自分の葬儀でさえ見届けることができなかった。一方の浩介は、行動を起こしていた。会社の緊急案件をいくつか処理すると、すぐに北欧へのプライベートジェットを手配しようとした。そのとき、秘書が立ちふさがる。「社長、今日は星野さんの初七日です……せめて、お花だけでも」その後、晴奈は自分の墓碑を目にした。墓碑には、写真も名前もなかった。ただ一輪、小さなアイリスの花が彫り込まれていた。——それは晴奈自身が選んだもの。彼女が愛してやまなかった花であり、彼女のデザインに必ず添えられていた「サイン」でもある。浩介は、手に持っていた白菊の花を握りしめ、ぽきりと茎を折ってしまった。そして、苦笑する。「……アイリスを買ってきてくれ」そう秘書に命じ、彼は一人墓前に残された。墓園は広かった。すぐそばで風景を眺めている晴奈を見ることができず、彼は木の葉を揺らす鋭い風の声だけを聞こえていた。浩介は墓碑にもたれかかり、静けさの中でぽつりとつぶやく。「ここ、いい場所だな。静かで……お前、いい所を選んだな…
冷たい雨が、冬の訪れを告げるようにしとしとと降り続いていた。浩介は、空っぽになった家の中でじっと座っている。あの夜、何が起きたのかはどうしても思い出せない。手作りのブレスレットを渡すため、ほんの数分遅れただけなのに、二度と晴奈に会えなくなってしまった。医師たちは、術前に成功率とリスクを説明していたと言った。けれど晴奈が、そのすべてを隠していた。気づいた時には、どこからともなく現れた葬儀会社のスタッフが、彼女を運び出していた。呆然と追いかける彼に、晴奈の署名入りの依頼書が突き出された。——墓地の手配まで、すべて済ませていた。その時の心情を、彼は今でもうまく言葉にできない。ただ、今になって思い返すと、心が何度も何度も、重たい槌で打ち砕かれるような鈍い痛みに襲われる。葬儀が終わっても、現実感が湧かなかった。せめてものの慰めを求めようと、浩介は晴奈の家へ向かったが、そこで彼を待っていたのは、玄関を壊している工事作業員の姿だった。驚いて怒鳴りつけた彼に、作業員は名義変更済みの権利書を差し出した。晴奈は、あの家さえも売っていた。何一つ、彼には残さずに。すべてを計画し、すべてに別れを告げたが……自分だけには何も言わなかった。浩介は、既に崩されかけたその家を、法外な値段で買い戻した。一夜をただ座って過ごし、そして記憶を頼りに、その家を元通りに直してもらった。だが、どれだけ忠実に作り直しても——そこに、もう彼女はいなかった。その家にこもり続けて数日後。秘書がようやく彼を見つけた時は、もう晴奈の初七日だった。「社長、会社には処理すべき案件が……」浩介は、イラついたように彼を怒鳴りつけた。「……出ていけ!」数日間も水や食事をろくに取らなかったからか、自分でも驚くくらいに声がひどく掠れていた。秘書は十五年も彼のもとで働いていた。浩介と晴奈の関係も、そして望月はるなとのことも、すべて知っていた。荒んだ浩介を見て、同僚たちにプレッシャーをかけられた彼の心にも怒りが込み上げた。「お言葉ですが……失ってから気づいても、もう遅いんですよ。あなたは何年も星野さんをそばに置きながら、望月さんのことばかり思っていました。彼女がこんな形で去ったのは、あなたの責任が大きいです。今さら自暴自棄
時は流れ、あっという間に一週間が過ぎた。浩介はますます忙しくなったようで、晴奈が彼の姿を見るのは、朝食の時間だけになった。そして、朝食を食べ終わると、彼は足早に家を出ていく。——彼がどこに行こうと、何をしていようと、もうどうでもよかった。彼女の中で、彼はただ毎朝朝食を届けてくれる配達員のような存在になっていた。それ以外は、ただ自分のリズムで、淡々と準備を進めていただけだった。ある日、彼女は墓地を見に行った。場所は郊外の小高い丘の上。そこからは翠緑の湖が一望でき、木々が風に揺れ、空はどこまでも澄んでいた。彼女は、その場所を一目で気に入り、すぐに契約書にサインをした。今の住まいも、不動産仲介を通じて格安で売り出した。数日も経たないうちに、即決で買い手が現れ、手付金が振り込まれた。仕事で使っていた受注サイトのアカウントにも、「長期休暇中」のプロフィールを載せ、アイコンをグレーに変えた。それに気づいた常連客たちから心配のメッセージが届いた。彼女はどれも丁寧に返し、「宝くじに当たったのでしばらく仕事は休みます」と伝えた。「羨ましい!」「おめでとう!」そんな軽やかな言葉が返ってくる。——友達がいないのも悪くない、彼女はそう思った。もし、親しい人がいたなら、こんな別れを前にして嘘なんてつけなかった。けれど、他人になら簡単にできる。そしてついに、入院して手術を受ける日がやってきた。朝、浩介は現れなかった。軽く驚きはしたが、それだけのことだった。彼女は自分でタクシーを呼び、病院へ向かった。すでに医師たちは準備を整えて待っていた。術前の検査と観察の間、看護師たちは何度も励ました。「確かに難しい手術だけど、成功の可能性はありますよ」と。彼女は静かに微笑み、何度も頷いた。その落ち着いた精神状態に、長年の経験を持つ医師たちも思わず安心する。「……日向社長は付き添っていないのですか?」ある老医師が尋ねた。「同意書にサインが必要でして」「手術同意書のことですね」彼女は少しも動じず、にこやかに答えた。「……もう離婚してるので、自分でサインします」医師は一瞬戸惑ったが、彼女の毅然とした態度に頷き、同意書を彼女に渡した。午後二時、予定された手術の時間。晴奈は手術台に横たわり、点滴から静かに麻酔薬が流
言ったその瞬間に、晴奈は後悔していた。彼女は頭を押さえ、顔をしかめてつぶやいた。「……目が回る。ちょっと休みたいから、出ていってくれる?」浩介は「もしかして記憶が戻ったのでは」と戸惑っていたが、看護師に促され、病室を後にした。そして彼の頭には、ある手作りの手首紐が浮かんでいた。あの、少しごつくて、不格好で——けれど、彼女が宝物のように差し出してきたもの。それは会社の上場を祝う祝賀パーティーの夜だった。周囲は名家の子息、富裕層、政財界の面々が揃っていたというのに、彼女は埃だらけのジャージ姿で駆け込み、声高に彼に向かってそれを差し出したのだ。一気に注がれる視線。——浩介は、あの瞬間ほど自分が恥をかかされたと感じたことはなかった。名門の後継ぎにして、上場までできた社長である彼が、もらった祝賀の品が不格好なブレスレットだなんて。それに、晴奈の貧相な格好も彼にとって何よりの侮辱だった。彼女の言葉など頭に入ってこなかった。ただ、不快と怒りだけが募った。彼は冷たく言い放ち、着替えてくるよう指示し、使用人に彼女を外へ連れ出させた。その後のパーティーは、どうにも落ち着かなかった。誰の目線にも嘲りや軽蔑を感じ、彼は酒を煽り、酔い潰れた。翌朝——目を覚ました彼の視界に映ったのは左耳に包帯を巻いた晴奈だった。彼女に手を伸ばそうとした時、自分の腕に巻かれた、あの醜いブレスレットに気づいた。昨日の不愉快な出来事を思い出し、ブレスレットを外そうと手を振ったが、包帯に手が触れてしまい、彼女を起こしてしまった。「……耳はどうしたんだ」「ちょっとぶつけちゃっただけ……」そう言って、彼女は彼の手を包み込むように握りしめた。その声には、懇願のような響きがあった。「……昨夜、これをつけてくれるって約束したでしょ?もう外さないで……お願い」そんなお願いに応じるつもりはなかったが、昨夜の満足感がその感情を上回った——どうやら昨夜、晴奈にとことん奉仕させたらしい。——会社に行ってから外せばいい、今はその満足感に浸っておこう。結局そのブレスレットは、彼のデスクに放置された。たまに書類に押し出され、床に落ちることもあったが、秘書が拾って戻してくれる。……もし、レナがそれを勝手につけなければ、彼はきっとそのまま忘れて
晴奈は、そっと指を折ってみた。その場所には、かつて七年間、バラの指輪がはめられていた。まるで「身代わり」であることの烙印のように。一年前、全てを捨てる覚悟で彼の元を去ったとき、あの指輪も他のアクセサリーと一緒に売り払った。それは、身代わりとしての自分を手放すという宣言でもあった。いま改めてそのことを思い出し、彼女はふっと笑みを漏らす。——欲しかったときは、どれだけ乞い願っても手に入らなかった。——いまはもう欲しくないのに、彼はこうして後悔し、何もかも差し出してくる。なんて滑稽だ。——遅すぎた愛なんて、雑草よりも価値がない。彼女は首を傾け、無邪気な笑みを浮かべた。「……浩介さん、指輪買い間違えたんじゃない?アイリスなんて地味でしょ?あなたが好きなのは、いつだってバラだったはずよ」その言葉は、拳よりも強く浩介の心を打ち抜いた。朝食の一件で彼女に咎められた以来、彼は徐々に気づき始めていた——彼女の中に、もうはるなの影はない。彼は戸惑い、恐怖すら覚え、晴奈の記憶さえ戻れば、ふたりはやり直せるという考えもますます馬鹿らしく思えてくる。かつて思い描いた「完璧な身代わり」像は、もうどこにもいない。それでも彼は——彼女を求めるのだろうか?一週間、浩介は自問自答しながら晴奈を見つめ続けた。その時間は、過去十一年よりも濃密で、真剣だった。十一年間、彼は晴奈の「はるなに似た部分」しか見ていなかった。似ていない部分は、見て見ぬふりをしていた。しかし今——彼の目に映っているのは、「晴奈」その人だった。彼女の何気ない仕草、癖、すべてが——今の自分の心を揺さぶる。愛しさの正体が、もはや身代わりではなく、彼女自身への感情でもあると、ようやく気づいた。だから、やり直したいと思った。記憶を失っても、彼女には自分を想う本能が残っているはずだと信じていた。しかし、まさかあの時の出来事がこんなふうに自分を打ちのめすことになるとは。——そうか。本当に、傷つけてしまったんだな。浩介は心の痛みを押し殺し、必死に言葉を絞り出す。「……バラは綺麗だった。あの頃は好きだったよ。でも、アイリスは上品で強い。今の俺は……こっちの方が好きだ」もしこれを、一年前の——レナの事件の前に言えていたら。きっと晴奈は、飛び上がって喜
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