療養とリハビリのため、翔は晴奈を北欧の小さな町に連れてきた。美しい自然と静けさに包まれたこの地は、心と体を癒すのに最適だった。翔は町のスーパーでアルバイトをしていて、残りの時間はすべて晴奈と過ごしていた。ここへ来た一年間、ふたりで日の出を見に行き、夕焼けを追いかけ、夜には空を彩るオーロラを見上げたこともあった。すべてが夢のように美しかった。――まるで、現実ではないような幻想の中にいるように。事故で骨折した箇所のギプスや包帯が外れてから、翔はたまに晴奈を抱きしめるようになった。けれど、そのたびに晴奈の心には微かな拒絶感が押し寄せてくる――ぬくもりを感じても、心が安らぐことはなかった。日を重ねるごとに、その感覚は強くなっていった。翔は優しくて思いやりに満ちている。彼女のことをまるで宝物のように大切に扱ってくれている。なのに――なぜ彼を心から信頼できないのか、自分でもよくわからなかった。ある日の食後、いつものように食器を片付けていた時、翔はそっと後ろから晴奈を抱きしめてきた。その瞬間、晴奈の体がほんのわずかにこわばったのを、翔は敏感に感じ取った。彼は晴奈の右耳元に顔を寄せて、やわらかく囁く。「明日、スーパーで周年記念のイベントがあるんだ。俺、ピエロの格好でお客さんを呼び込むことになっててさ……興味があれば、見に来て?」そして、さらにそっと近づき――「あなたの怪我、もう完全に治ったよね……また、子どもを作ろうか?」熱い吐息が耳元をかすめ、ぞわっと鳥肌が立つ。晴奈は思わず翔を押しのけ、その場を逃げるように離れた。「……うん、行くよ。じゃ先にお風呂入ってくるね」逃げるような彼女の背中を、翔は黙って見つめていた。その瞳に宿る光は、かつての優しさを失い、まるで夜の闇のような深い陰りに変わっていた。――記憶を失ったのに、なぜ俺を受け入れてくれない?ふたりは、それぞれ眠れぬ夜を過ごした。翌朝。翔はいつもより早く出かけていった。晴奈はその後ろ姿を、家の前から黙って見送っていた。昨日の彼女の態度は、やはり翔を傷つけたのだろう。今朝は、いつものように優しく抱きしめてもくれなかった。それなのに、なぜか心のどこかでほっとしている自分がいた。そのことに気づいた瞬間、彼女は自分の気持ちがわからなくなった。
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