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深秋に散るアイリス のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

28 チャプター

第11話  

療養とリハビリのため、翔は晴奈を北欧の小さな町に連れてきた。美しい自然と静けさに包まれたこの地は、心と体を癒すのに最適だった。翔は町のスーパーでアルバイトをしていて、残りの時間はすべて晴奈と過ごしていた。ここへ来た一年間、ふたりで日の出を見に行き、夕焼けを追いかけ、夜には空を彩るオーロラを見上げたこともあった。すべてが夢のように美しかった。――まるで、現実ではないような幻想の中にいるように。事故で骨折した箇所のギプスや包帯が外れてから、翔はたまに晴奈を抱きしめるようになった。けれど、そのたびに晴奈の心には微かな拒絶感が押し寄せてくる――ぬくもりを感じても、心が安らぐことはなかった。日を重ねるごとに、その感覚は強くなっていった。翔は優しくて思いやりに満ちている。彼女のことをまるで宝物のように大切に扱ってくれている。なのに――なぜ彼を心から信頼できないのか、自分でもよくわからなかった。ある日の食後、いつものように食器を片付けていた時、翔はそっと後ろから晴奈を抱きしめてきた。その瞬間、晴奈の体がほんのわずかにこわばったのを、翔は敏感に感じ取った。彼は晴奈の右耳元に顔を寄せて、やわらかく囁く。「明日、スーパーで周年記念のイベントがあるんだ。俺、ピエロの格好でお客さんを呼び込むことになっててさ……興味があれば、見に来て?」そして、さらにそっと近づき――「あなたの怪我、もう完全に治ったよね……また、子どもを作ろうか?」熱い吐息が耳元をかすめ、ぞわっと鳥肌が立つ。晴奈は思わず翔を押しのけ、その場を逃げるように離れた。「……うん、行くよ。じゃ先にお風呂入ってくるね」逃げるような彼女の背中を、翔は黙って見つめていた。その瞳に宿る光は、かつての優しさを失い、まるで夜の闇のような深い陰りに変わっていた。――記憶を失ったのに、なぜ俺を受け入れてくれない?ふたりは、それぞれ眠れぬ夜を過ごした。翌朝。翔はいつもより早く出かけていった。晴奈はその後ろ姿を、家の前から黙って見送っていた。昨日の彼女の態度は、やはり翔を傷つけたのだろう。今朝は、いつものように優しく抱きしめてもくれなかった。それなのに、なぜか心のどこかでほっとしている自分がいた。そのことに気づいた瞬間、彼女は自分の気持ちがわからなくなった。
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第12話

町よりもにぎやかな市街地では、露店の呼び声があちこちから響いていた。けれど、車内はそれとは対照的に、針を落とせば音が聞こえそうなほど静まり返っていた。助手席に座る晴奈は、犬を抱えながら、先ほどの出来事を何度も頭の中で繰り返していた。彼――浩介が送ると言ったとき、特に断る理由もなかった。わざわざご近所に車を借りに行くより、そのまま彼の車に乗ったほうが早い。車に乗るとすぐに、彼は行き先を尋ねてきた。「誰に会いに行くんだ?」「恋人の大西翔という人ですけど」その答えを聞いた瞬間、浩介の顔に陰がさした。まるで嵐が来る直前の空のように、張り詰めた気配が車内に漂う。 晴奈は先ほど男が言った言葉を思い出す、自分は彼を一番愛していると。しかし翔の話によると、自分たちは五年間も愛し合っていた。いったい、どちらが本当なのか。彼女は浩介に話しかけようとした。もっと自分の過去について知るために。しかし彼は、短く冷たく告げただけだった――「……大西に会ってから話そう」。それ以降、彼は口を閉ざした。晴奈は言葉を飲み込み、抱えていた犬の柔らかい毛を撫でながら、心の中で彼の態度をかみ砕いていた。視線をそっと彼の手元へ移す。ハンドルを握る指先から、引き締まった腕、そして険しい眉、固く閉じられた口元まで。翔とはまるで違う。翔は優しくて、穏やかで、時折見せる執着も柔らかさの中に包まれている。けれど目の前の男は――第一印象からして、強引で支配的。その奥には、抑圧された狂気すら感じた。彼は冷静を装っていたが、その裏に潜む激しい感情は、わずかな仕草からも伝わってきた。なぜか彼の感情の起伏が、彼女にははっきりと感じ取れた。まるで、その感覚が彼女の本能に組み込まれているかのように。もし、彼の言葉が真実なら――本当に、彼こそが自分の「最愛の人」だとしたら……なぜ?なぜ、さっき転びそうになった時、彼に受け止められたその瞬間、心の底から拒絶したくなったのだろう。身体が小さく震えたあの感覚は、愛情ではなく、むしろ「恐怖」に近かった。ほどなくして、翔が働くスーパーに着いた。晴奈は先に犬を連れて店へ向かい、浩介は駐車場へと向かった。店の前で、翔がピエロの姿で子どもたちに風船を配っていた。晴奈を見つけると、すぐに長い風船をくるくる
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第13話

翔は唇を動かし、眉をひそめたまま何も言い返さなかった。彼は確かに私欲のためにあの「誘拐劇」を仕組んだのだ。彼は晴奈を愛し、そして晴奈が浩介を愛してることを知っていた。そんな芝居を打ったのは、浩介の本性を暴こうとしただけだった。浩介がどれほど冷酷で、薄情な男であるかを晴奈に見せるために。だからあの崖下には、事前に安全ネットや運搬装置を設置していたし、晴奈の背中には安全ロープまでつけていた。 彼女が落下した後、すぐに病院に運ばれるよう万全の準備をしていた。けれど、想定外の事故が起きた。妊娠によって体のバランスが変わり、彼女は崖の突起に頭をぶつけてしまったのだ。それが原因で、彼女は記憶を失った。自分のせいで傷つけてしまったことは事実だ。言い訳などできない。浩介の声を聞いていくうちに、晴奈の脳裏にはぼんやりとした映像が浮かんでいた。皺くちゃな赤ん坊の顔。その泣き声は思ったよりも小さくて……すぐに、誰かの腕に抱き上げられていた。突然、晴奈は翔の手をぎゅっと掴んだ。「……違う」「……何が?」二人の男が同時に聞き返した。彼女は顔を上げ、翔の目をまっすぐに見つめた。「……子ども……私の子、死んでない……そうでしょう?」翔の顔がこわばった。「……記憶が戻ったのか?」浩介が固唾を飲むように彼女を見つめていた。「……ううん」晴奈は首を振りながら、さらに強く翔の手を握りしめた。「でも……思い出したの。あなたが――子どもを抱いていたのを!」その言葉を聞いた瞬間、浩介の表情が変わった。怒りと喜びが入り混じったような激情が彼の中で爆発し、翔の頬に拳が叩き込まれた。「……俺の子どもを盗んだのか!返せ!」不意を突かれた翔は後方へよろけ、思わず晴奈の手を引いてしまった。彼女もバランスを崩しかけたが、素早く翔が引き寄せて何とか体勢を立て直した。その拍子に、彼女の左耳から何かが弾かれ、コロコロと浩介の足元に転がった。「……これは?」浩介がそれを拾い上げると、翔が唇の血を拭いながら答えた。「……補聴器だよ。そういえば知らなかったな?晴奈さんの左耳は聞こえないんだ。あの時病院で、お前にあれほどビンタされて――彼女は耳鳴りとめまいに一ヶ月も苦しんでたぞ。彼女を傷つけておいて、まだ『愛してる』なんて言えるのか?恥
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第14話

「晴奈は俺と帰る、子供もだ!」「お前たちはもう離婚しただろ?彼女を連れ戻す権利はないんだ!」二人の男の声が激しくぶつかり合う中で、晴奈の耳にはノイズのような歪んだ音が響いていた。さっき外れた補聴器は、もう使い物にならないらしい。金属のこすれるような異音と頭のくらつきに、彼女は立っているのがやっとだった。その異変に、近くで遊んでいたボーダーコリーがいち早く気付き、咆哮を上げて飛びかかるように駆け寄ったが――間に合わなかった。晴奈の体が、ふっと崩れ落ちた。床に倒れ込んだ衝撃に驚いた赤ん坊が、ベビーカーの中で大声で泣き始める。……晴奈は夢を見ていた。長い長い夢を。飢えと寒さの中、街角をさまよっていた自分に、優しく手を差し伸べてくれた人がいた。その人は、彼女を豪奢な屋敷に連れていき、街を、四季を、人生の断片を共に歩んでくれた。彼女はその人に恋をした。でも、その人の言葉はいつも優しさと冷酷が背中合わせだった。「お前は、はるなには敵わない」「彼女の代わりにもなれない」「お前はただの身代わりだ」「いつでも捨てられる存在だ」……否定、嘲笑い、無視、蔑み。それらの言葉はまるで重たい石のようだった。彼女はもがき、あの「はるな」が好きなドレスを着て、好きなアクセサリーを身に着けて――愛されるために必死だった。けれど、その人の手が振り上げられた瞬間、花瓶が宙を舞った。逃げる間もなく、飛んできた枝が自分の左耳を貫いては、その先端で花を咲かせた。こんな光景を見たあの人は笑った。明らかに酔っているのだ。「今のお前のほうが、はるなより可愛いかもな」でもその時、彼女はもう聞こえなくなっていた。彼女は恐怖に陥っていたのだ。不完全な自分では、もうはるなの影すら踏めない。……そう思った瞬間、追い出される未来がはっきりと見えた。だから彼女は嘘をついた。あの人が酔いから覚め、彼女の包帯で隠された耳を見て尋ねた時――彼女はただ、「……ちょっと、ぶつけただけ」と笑って誤魔化した。大丈夫、もう嘘にも、望月はるなになりきることにも慣れているのだから。しかしある日、彼は別の女性を連れてきて、こう言い放った。「代わりを見つけた。お前はもういらない」その言葉に、彼女は奈落の底へと突き落とされた。
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第15話

看護師の一言が病室の空気を凍らせた。「な、何だって?」浩介と翔が同時に声を失う。医師と看護師が、彼女の意識が戻るまで病状を伏せていた理由はこれだった。「左耳を最初に損傷した際、細かな傷が十分に処置されませんでした。さらに一年前、強い衝撃で鼓膜が再び裂け、補聴器の電流で火傷した跡も残っています。損傷は神経に波及し、腫瘍が形成されています」説明を聞き終えるや否や、翔が浩介に拳を叩き込む。「お前のせいだ!晴奈さんをこんな目に遭わせて!」浩介は鼻血を拭いながら反撃する。「お前がまとわりつくから誤解したんだ。離れてさえいれば――」看護師は日本語が分からないものの、怒鳴り合いに業を煮やし、これ以上騒げば追い出すと毅然と言い渡した。二人はようやく口を閉じる。「最初に耳を傷めた時の状況を教えてください」看護師の問いに、男たちが我先に口を挟む。「彼女は記憶喪失で覚えていない」「どっかにぶつけたって言ってた。たいしたことはなかったはずだけど、彼女がきちんと手当てをしなかったからこんなことになったと思う」浩介は身なりを直し、もっともらしい顔で続ける。「費用は惜しまない。必要なら世界中の専門医を呼び寄せる」その言葉を、晴奈が静かに遮った。「覚えているわ。あなたが酔って花瓶を投げた夜。花の枝が耳に刺さって――鼓膜が破れたの」彼女の淡々とした声に、浩介は目を見開いた。「俺が?バカな、そんなことは一度も……」と言いかけると、あの日包帯で覆われた彼女の耳を見た時、「見栄えが悪いから、跡を残さないように」と軽く言った自分を思い出す。あの時の彼女の瞳は今と同じ――見知らぬ人を見ているようで、冷え切った光が宿っていた。浩介の心が刺されたように痛んだ。翔がもう一発拳を振るおうとした瞬間、怒った看護師が警備員を呼び、二人を病院の外へ追い出した。 看護師は晴奈に記憶のことを尋ねると、晴奈は首を横に振った。「記憶は全部戻っていませんが、断片的になら覚えています」再検査を終えたあと、看護師は穏やかに告げた。「詳細なカルテがある最初の病院へ戻り、専門チームで手術を検討してください。そのほうが治療の選択肢が広がります」看護師が去ると、窓辺では若葉が陽光を受けて揺れていた。――いいね、静かだ。愛憎も争
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第16話

浩介と翔が再び病院に足を踏み入れたとき、晴奈はすでに眠っていた。彼らは仕方なく、看護師に彼女の記憶が戻ったのかを尋ねた。看護師は、静かに首を振ったが、二人は納得できなかった。「でも、子どものことを思い出したぞ!昔のことも!」看護師は冷ややかな視線を彼らに向けた。「お言葉ですが――失った記憶が戻るには時間がかかります。それに、あなたの暴力で耳を負傷したと彼女が言いました。それだけでも過去が彼女にとって決して幸せなものではなかった証拠でしょう。思い出さなくても、彼女は今を生きていけます」突き刺すような言葉に、二人は黙り込んだ。翔は、自分の卑怯な手段を悔やんでいた。浩介は心の中で反論していた――「幸せじゃなかった」だって?身代わりとはいえ、彼女を十一年も大事に育ててきた。自分の好みに合わせてくれて、おとなしい女だったし、心地よい夜だって共に過ごしてきた。だが、それを口にするわけにはいかない。――焦ることはない。治療が終われば、彼女はきっと戻ってくる。もうレナはいない。邪魔者は消えたのだ。浩介はそう思い込み、すぐに秘書と連絡を取った。帰国は一週間後に決まった。その日、翔は名残惜しそうに子供を彼女に抱かせた。「本当に……俺が一緒に帰国しなくていいのか?あいつは危険だ、また何か――」子供の笑顔にほほえみながら、晴奈は体を揺らし、そっと語った。「私は……怖くないわ」伏せたまつげが微かに震える。少し迷ってから、意を決したように口を開いた。「翔くん……私の記憶は戻ってるの」その言葉に、翔の体がピクリと震えた。「あなたは……とてもいい人。でも、やり方が少し極端だったわ。私はね、あなたに誘拐されたことも、一年間騙されていたことも追及する気はない。でも……その代わりに、ひとつお願いがあるの」彼女は顔を上げた。澄んだ瞳の奥に、静かで優しい光が宿っていた。……けれど、どこか墨のように深い哀しみも見えた気がして、翔は息を呑んだ。「この子を……あなたに託したいの。脳腫瘍が治るかどうかはわからない。でも、子どもを浩介の手には渡したくない。お願い……この子を連れて、あの人に見つからないところへ行って」その頼みは、切実で、重くて――翔には、それが何を意味するか痛いほどわかった。もう、晴
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第17話

帰国後の入院手続きは驚くほどスムーズだった。浩介の財力と人脈があれば、物事が滞るはずもない。名だたるベテラン医師たちが緊急会議を開き、晴奈の精密検査を行った。そして明らかになった事実は、腫瘍が悪性であるということだった。診察室には重苦しい空気が流れる。特に、かつて晴奈の左耳の診察を担当した医師は、深く眉をひそめ、悔しさを滲ませた。「どうして……どうしてこんなことに……!あの時、ちゃんと通院して、丁寧にケアしていれば……!」五十を超えたその医師は、言葉を詰まらせながら怒っていた。晴奈は、申し訳なさそうに小さく頭を下げる。「……私が当時、勝手に治療をやめてしまったんです。先生、そんなに怒らないでください。体に障りますから」あの頃の彼女は、「完璧な身代わり」でいることしか考えていなかった。浩介に「不完全な存在」だと気づかれたくなくて、通院すら断念した。耳の損傷が治るまでの間、彼に気づかれないよう、常に右側を向き、唇の動きを読んで返事をしていた。けれど、浩介は彼女の返答など気にもしなかった。なぜなら、彼の言葉の多くは、一方的な「知らせ」だったから。「数日後にパーティーがある。付き合え」「しばらく出張だ。家にいてくれ」「新しいドレスを買った。今夜着て見せろ」……晴奈は、自らを「はるな」という殻に押し込んだ。その無理が、今になってツケとして返ってきたのだ――悪性腫瘍、治癒の可能性は極めて低いと。医師からの宣告に、なぜか彼女の心は、驚くほど静かだった。これまでの人生、すべてが浩介を中心に回っていた。親しい友も、語り合える相手もいない。家族さえ、浩介が愛した「はるな」のせいで失っていた。彼女はまるで、浩介に絡みつく蔦のようだった。ようやくその蔦を断ち切ろうとした矢先、命の終わりを告げられるなんて――でも、別にかまわない。どうせ今までの人生、茨だらけだった。一度も、バラなんて咲いたことがなかった。晴奈の穏やかな態度に、医師たちは「強い女性だ」と感心した。だがそのとき、晴奈はこの結果を浩介に報告しようとする医師たちを止めた。「……お願いがあります」晴奈は年配の医師たちを見つめながら微笑む。「日向社長には、腫瘍が良性だったと伝えていただけませんか?……心配を
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第18話

腫瘍は悪性だ。だからこそ、治療開始前のわずかな時間を、彼女が思い残しのないように過ごせるならと、年配な医師たちが退院を許可した。その一方で、浩介には何度もそれとなく伝えていた。「どうか、彼女に優しく接してあげてください」と。だが浩介には、その真意がまるで伝わっていなかった。彼の頭を占めていたのはただひとつ。晴奈は家に戻ってきてくれないことだ。イラついた様子で、彼は問いかける。「部屋はちゃんと片づけさせたし、お前のために新しいドレスとアクセサリーも用意した、どうして帰ってこないんだ?」「……帰る?」晴奈は、首を傾げて微笑んだ。「全部の記憶が戻ったわけじゃないけど、確か私たち、もう離婚したよね?その家はあなたのものであって、私のじゃない。どうして帰る必要があるの?まさか私を騙すつもりじゃないよね?」彼女はあえて「記憶が戻っていない」ふりを続けていた。その方が、手間が省けるから。浩介が後悔しているのは、確かに見て取れる。けれど、それは彼女を「身代わり」にしてしまったことに対するものではない。あの男の性格を、晴奈は誰よりもよく知っている。後悔の正体はただひとつ――レナに裏切られたから、また「完璧な身代わり」である自分が必要になっただけだ。浩介は不機嫌を隠さず、苛立ちを募らせていた。彼にとっては、離婚などレナの策略と晴奈の捻くれによる一時的なすれ違いに過ぎなかったのだ。そして何より我慢ならないのは、晴奈が自分を優先し、全身全霊で愛してくれないことだ。イラついた浩介は何とか自分を納得させようと、「彼女は記憶を失っているから」と言い聞かせた。医師からも、脳腫瘍によって記憶が一時的に混乱している可能性があると聞いていた。ならば――腫瘍さえ摘出できれば、すべてが元通りになる。今のうちに彼女に尽くし、機嫌をとっておけば、記憶が戻った晴奈は、きっとまた昔のように自分を一心に想うようになるはず。そんな都合のいい希望を胸に、浩介は妥協した。彼女を、かつて妊娠中に安静のために買った郊外の家へ戻らせた。代わりにスペアキーを一本もらった。「何かあったときに入れないと困るから」と、あくまで善意のふりをして。晴奈には、その魂胆が透けて見えていたが、何も言わずに鍵を渡した。十一年もの間、浩介は彼女を「
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第19話

晴奈からの鋭い問いかけに、浩介は言葉を失った。彼は一度も考えたことがなかったのだ。晴奈が甘いものを好きかどうかなんて。彼女の目がはるなにそっくりだと気づいてから、当たり前のように彼女の好みもはるなと同じだと思い込んでいた。朝食も、味の好みも、自分が用意したものをそのまま出し、彼女もそれを当たり前のように受け取っていた。——だから、文句なんて一度も聞いたことがなかったし、好みについて話されたこともなかった。どうしていきなり嫌いだなんて言い出したんだろう?「……今まで、お前は一度も嫌いだなんて言わなかったじゃないか」浩介は不機嫌そうに呟いた。「もういい。食べるな。秘書に別のものを持ってこさせる」晴奈は彼の思考を読みきっていた。だから何も言わず、静かに洗面所へ向かい、コーヒーを淹れて待っていた。浩介が横目で何度も彼女を盗み見るのが分かる。その様子が可笑しくて、内心でくすりと笑った。そう、彼女はずっと演技をしていた。あの甘ったるいデザートたちがはるなの好物だと知ったあの日から、彼女は無理して笑顔で食べ続けてきた。浩介のことが好きだったから。愛する人に合わせることが、苦じゃなかった——それだけのことだった。でも自分はもう「身代わり」なんかじゃない。今の自分は、自分自身だ。しばらくすると、秘書がやってきて、デザートなどを丁寧に片づけ、新しい料理をテーブルに並べた。湯気を立てる大ぶりのうどんとおにぎり、そしていくつかの小鉢料理。立ちのぼる香りに、晴奈が思わず目を細めた。浩介の表情には一切かまわず、彼女は箸を手に取り、嬉々としてうどんをすすった。喉越しのいいうどんも、さっぱりとしたシャキシャキの漬物も最高だった。——これが、彼女が浩介のもとで過ごした十一年の中で、いちばん美味しい朝ごはんだった。彼女は箸を止めずに、わざと浩介に声をかける。「食べないの?めっちゃ美味しいよ?」浩介は一口も手をつけなかった。長年、はるなの食習慣に染まった彼には、見慣れない朝食だった。苦々しい顔のまま、唇の隙間から絞り出すように答える。「……食べない」「そっかぁ。残念ね」そう言いながら、晴奈は最後の一口まで綺麗に食べきった。満ち足りた顔で小さく丸くなったお腹を撫で、散歩に出かける。浩介は、去っていく彼女の後
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第20話

老婦人は、ゆっくりと過去の記憶に沈んでいった。——はるなは、本当に明るくて元気な子だった。彼女は生まれた瞬間から、両親に大切に大切に育てられてきた。まるで、掌にのせられたお姫様のように。親は与えられる限りの愛と教育を注ぎ込み、彼女を完璧に磨き上げようとした。七歳の頃には美しい書を綴り、世界的ピアニストと同じ舞台に立ち、六か国語を流暢に話し、さらに子供向けファッション誌の専属モデルにまでなっていた。同世代の中では、誰よりも眩しい星のような存在だった。——でも、誰も知らなかった。上品で礼儀正しく、まるで絵に描いたようなお姫様だったはるなは、内心ではいつも苦しんでいたことを。彼女は本当は、バイクが大好きだった。スピードに乗って風を切り、カーブを大胆に攻める、あの高揚感に心惹かれていた。けれど両親は、それを「危険だ」と切り捨て、決して乗らせようとはしなかった。彼女はその気持ちを押し殺し続け、成人式の前夜まで、ずっと我慢していた。その日——彼女の親友が、成人のプレゼントとして一台のバイクを贈った。はるなは大喜びで、どうしても、その夜に乗りたかった。夜半、彼女はひっそりと家を抜け出し、バイクを保管していた倉庫からそれを引き出して走り出した。初めて感じる風。高鳴る鼓動。すべてが新しくて、自由だった。——けれど、次の瞬間。前方に、ふたりの人影が現れた。彼女は気づくのが遅れた。エンジン音が唸りを上げる中、彼女はそのまま突っ込んだ。バイクが跳ねた衝撃と同時に、骨の砕ける音を聞いた。ヘルメットのバイザーには、鮮やかな血が飛び散った。それは、高性能な山地バイクだった。衝突しても転倒せず、そのまま走り去ってしまったのだ。彼女は怖くなり、家に帰ることすらできなかった。逃げ込んだのは、彼女を想い続けていた——浩介の家だった。浩介は、夜のうちに手を回し、痕跡を消し、口利きをして報道をもみ消した。そして彼女にこう言った。「まだお前は成人していない。法的にも責任を問われないよ」彼の言葉に、はるなはしばらく家にこもっていた。けれど、何日経っても警察は来なかった。家族に怪しまれないよう、浩介は「もう大丈夫だ」と彼女を家に返した。だが、家に戻った彼女は、体調を崩して寝込んでしまった。それか
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