All Chapters of 遥かなる山を越えて、君を送らず: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

冬馬の声は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。 でも、誰も彼に応えてくれない。病室には、ただ機械の無機質な音だけが響いていた。 冬馬はそのまま病室の前に座り込み、夜を明かした。 朝になり、電話が鳴る。助理からだ。 マナーモードにして、廊下の端でこっそり出る。 「一ノ瀬様、今朝の最新ニュースです。篠原泰典(しのはら たいすけ)の会社、ついに倒産しました!計画は大成功です。ここまで仕込んだ甲斐がありましたし、一ノ瀬様も……」 「分かった」 本来なら喜ぶべき報せだった。だけど、冬馬の反応はどこまでも冷めていた。 「それで……天音はどうしますか?」 「連れてこい。病院だ。夕凪の病室まで。俺が直接、ケリをつける」 そう言い捨てて、すぐに電話を切った。 スマホをポケットにしまい、もう一度だけ、ガラス越しに病室の夕凪を見つめる。 胸の奥が痛む。 …… 天音は、冬馬の側近に連れられて病室に入ってきた。 ドアが開くと、ベッドのそばに立つ冬馬と目が合う。 その視線に、一瞬だけ驚きが走った。 冬馬は、まるで何かに取り憑かれたように、ずっとベッドの夕凪を見つめている。 まるで本当に彼女を大事に思っているかのように―― だけど、この男が妻を気にかけるなんて、ありえないはずなのに。 天音は涙声で冬馬に駆け寄ろうとした。 「冬馬さん……!」 けれど、あと一メートルというところで、ボディーガードにあっさりと押さえつけられた。 「放してよ!冬馬さんの前で何してるの、許さないから!」 けれど、昨日まで甘やかしてくれていた冬馬の目は、氷のように冷たい。 「彼女の口を塞げ」 冬馬が低い声で命じると、ボディーガードはすぐさま天音の口をガムテープでふさいだ。 天音は低く呻くだけしかできない。 冬馬の目は、冷たい矢のように天音を射抜いた。 「天音――牛乳をわざとこぼして、夕凪の母親の骨壺をダメにしたのも、わざとだったな」 「夕凪の父親の人工呼吸器を抜いて、彼女をからかったのも、全部お前の仕業だろ」 天音は目を大きく見開き、呻き声すら出なくなった。 冬馬の目には、皮肉な笑みが浮かんでいる。 「驚いたか?全部知ってるさ。 お前みたいに間抜けじゃなきゃ、ここまで会社を大きくできない。天音
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第12話

天音の瞳から、少しずつ光が消えていく。 最初は驚愕、その次は痛み、やがて絶望―― その大きくて美しい瞳には、とうとう涙がいっぱいに溜まっていた。 その涙の浮かぶ目が、どこか夕凪によく似ている。 冬馬の心に、一瞬だけほんの小さな哀れみがよぎる。 「テープを外せ。最後に言いたいことがあるなら、聞いてやる」 「かしこまりました、一ノ瀬様」 口元のテープはもう外されたのに、天音は呆然としたまま、しばらく声を発せなかった。 やがて、冬馬が苛立ったように声を低くする。 「もういい、何もないなら連れていけ」 「待って!」 天音の瞳が細かく震え、ぱっと顔を上げた。 「冬馬、私、ひとつだけ聞きたいことがあるの」 「言え」 「本当に……一秒だって、私を好きになったことはなかったの?」 冬馬は眉をひそめ、何かを言いかける。 その瞬間、天音は突然崩れるように叫んだ。 「信じない!あなたが私を少しも好きじゃなかったなんて、絶対信じない!」 「冬馬、あなたの目は嘘をつけないの。私を見つめてくれる時、ちゃんと優しさがあった……あなたは私を好きだった。だけど父と敵だから、それを認めたくなかっただけなんでしょ?」 その声は小さくて、必死で、どこか卑屈な響きさえ混じっていた。 冬馬という男は、まるでケシの花みたい――危うくて、でも一度惹かれたら二度と抜け出せない。 たとえ利用されていたと分かっても、天音はほんの少しでも彼の本音を知りたかった。 例えそれが幻でも、信じたかった。 でも、冬馬の目には、それはただの笑い話だった。 「天音、わからないなら教えてやる――もしお前の目が、夕凪に似ていなければ、最初から芝居すらする気になれなかったよ」 優しさの理由が、ただ「夕凪に似ている」からだと知り、天音は雷に打たれたようにその場で硬直する。 そういえば、「宮殿」の女たちはみんな、どこか夕凪と似ている。 背中の雰囲気が似ている子、唇が似ている子、笑った時のえくぼが似ている子―― でも、天音はずっと信じたくなかった。 冬馬がこんなにも女を集めてきた理由―― 全部、夕凪の代わりにしかすぎなかったなんて。 ……どれだけ、夕凪のことが好きなんだろう。 天音はふっと、低く笑い出す。 笑いながら
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第13話

冬馬の目が細くなった。 どうせ天音の言うことなんて戯言だろう――そう思いながらも、冬馬は低く命じた。 「放してやれ」 ボディーガードたちが下がると、冬馬は冷ややかな視線を天音に投げかける。 「十秒以内に言え。それができなきゃ、二度と口を利かせない」 天音の目は腫れていたが、唇の端には妙な自信の笑みが浮かんでいた。 「冬馬、この秘密は絶対にあなたを満足させるわ。 あの日、あなたの結婚式に現れた『あの乱入者』――柊木蓮斗(ひいらぎ れんと)、誰に頼まれて来たか知ってる?」 冬馬の体がびくりと震えた。 柊木蓮斗――夕凪が昔、心を寄せていた男。 「……どうしてお前があいつのことを?」 天音は冬馬の動揺を見抜き、心の底から復讐の快感に浸ったように、声を上げて笑い出す。 「当然よ。だって、あれは全部うちの父――篠原泰典が仕組んだことだから! 最初はただ、一ノ瀬家の恥を晒してやるつもりだったのに、あなたの父親があんなに脆いとは思わなかったわ。心臓発作で死ぬなんてね。 でも、一番おもしろいのはここから。 夕凪はもう柊木に興味なんてなかったのに、あなたは乱入者の言葉ばかり信じて、夕凪の話は何ひとつ信じなかった。結果、十年以上も彼女を地獄に落とし続けた! 冬馬、あなたが篠原家に勝った?違う、もうその時点で完全に負けてたのよ。負け犬ね、哀れな男!」 天音の言葉が、冬馬の脳内で何度も反響していた。 頭の中をかき乱されて、今にも崩れ落ちそうになる。 「そんなはず……ない。天音、お前のデタラメなんて信じるか」 「冬馬、まだ知らないんだろ?実は柊木、夕凪にちゃんと告白したんだよ。夕凪の家が破産したすぐ後―― でもその時、夕凪は『もう蓮斗のことは好きじゃない。今は冬馬しかいない』って、はっきり伝えたの。 もしあなたがほんの少しでも彼女を信じてあげてたら、二人の十年以上の結婚生活、こんな地獄にはならなかったんじゃない?」 天音はどこまでも気持ちよさそうに笑い続けていた。 まさか、あの冷酷無比な冬馬の顔に、ここまで苦しげな表情が浮かぶ日が来るなんて―― 叶わぬ恋よりも、「お互いに愛し合っているのに、くだらない誤解と疑いで十年以上も互いを傷つけ続けた」の方が、よほど残酷で救いようがない。 これこそ、天
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第14話

冬馬は冷たい笑みを浮かべた。 「天音――お前の所業を思えば、目玉を抉り取るくらい当然の報いだ。 夕凪を好き放題に傷つけてきたくせに、自分がこうなるとは思わなかったのか?」 ボディーガードが近づいてくるのを見て、天音はついに恐怖に支配された。 ――この男、本当にやるつもりなんだ。 冬馬はただの狂人だ。言葉じゃなく、本気で自分の目を奪うつもりだ。 天音は泣きながら冬馬の足にしがみついた。 「冬馬さん、ごめんなさい!私が悪かったの!あなたが好きだったから、つい…… 私がいなければ、あなたは父の会社をあんなに簡単に手に入れられなかった。協力したはずよ、だから……どうか一度だけ見逃して!」 冬馬は彼女を見下ろし、まるでいつでも潰せる虫を眺めるような目をしていた。 「遅すぎるよ、天音。その功績なんて、彼女を傷つけたことに比べたら、何の価値もない」 天音の心臓は、刃物で深く貫かれたような痛みに襲われる。 「冬馬、そんなに夕凪を愛してるの……? でも、あんなに傷つけておいて、あの子がもう二度とあなたを愛さないのは当たり前よ!生きてても、死んでも。 あんたは一生幸せになんかなれない。これが、全部自分の蒔いた種なんだから!」 ボディーガードが天音を引きずっていく。 廊下には彼女の絶叫がいつまでも響き続け、冬馬は静かに扉を閉めてその全ての音を遮断した。 ベッドに戻り、夕凪の手をそっと握る。 「夕凪、もう大丈夫だ。 お前を傷つけた奴は、誰一人として許さない。全部、俺が片付けたよ。 でも、天音の言葉は全部嘘だよな?お前は……本当に、一生、俺を許してくれないのか……?」 堪えきれない涙が、そっと閉じた冬馬の目尻からこぼれ落ちる。 彼は震える手で夕凪の手を自分の頬に押し当て、声を殺して泣いた。 少しして顔を上げ、静かに微笑む。 「許してくれなくてもいい。怒鳴られても、殴られても、なんでも受け止めるから…… だから、お願いだ。目を覚ましてくれ。夕凪、生きて……もう一度だけ、俺に微笑んで…… 夕凪、お願いだよ――ねえ、聞こえてるよね?」 けれど、夕凪は静かに眠り続けていた。 モニターの規則正しい音だけが、男の絶望を静かに刻んでいた。 窓の外は深い夜。 星一つ見えない、真っ黒な闇が広
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第15話

冬馬は医者の言葉に一切耳を貸そうとしなかった。 「そんな説明はいらない。とにかく―― 夕凪には一番高い薬、一番いい機械、できることは全部やってくれ。絶対に……生かしておくんだ」 医者はもう、なすすべもなくため息をつき、黙って頷くしかなかった。 冬馬はベッドの夕凪にそっと近づき、前髪をやさしくかきあげる。 指先で、眠ったままの彼女の輪郭をなぞりながら、静かに語りかけた。 「夕凪、覚えてる?俺たちが初めて出会った日のこと。 あれは一ノ瀬の本家でさ、お前はさくらんぼ色のワンピースを着てた。 本当にマンガから出てきたみたいで―― その時思ったんだ。『世界にこんなに可愛い子がいるんだ。絶対に将来お嫁さんにする』って。 夕凪、俺はずっと、子どもの頃から、ずっとお前が好きだったんだ……」 冬馬の声は、嗚咽にかすれていた。 普段なら、血を流しても涙なんて見せない男なのに。 この数日で、夕凪のベッドのそばで流した涙は、もう何度目だろう。 そのとき、スマホが鳴る。 秘書からの連絡だった。 「一ノ瀬様、ご指示通り、苅部夫婦のご遺体は一緒に埋葬しました。ご確認を……」 「今日、墓参りに行く」 ここのところ、心も体もすっかり限界だった冬馬は、夕凪の両親の葬儀も秘書に任せきりだった。 でも、今日はどうしても外せない日だった。 夕凪の父の初七日、どうしても、墓参りに行かなければ。 雨が降りしきる墓地。 冬馬は黒いスーツのまま、濡れるのも構わず墓前にひざまずく。 隣り合う墓石の上には、苅部夫婦の写真。 「お義父さん……お義母さん……」 冬馬の声は、かすれて途切れそうだった。 写真のふたりは、いつもと同じように穏やかに笑っている。 だけど冬馬は分かっていた。 この二人が、自分を許すことはきっとない。 大切な娘を守れなかった――その罪を、彼は一生背負っていく。 「医者は言ってます。『どんなに体をつないでも、彼女の意識はもうどこにもない』って。 でも……俺にはどうしても、手放すことができないんです。 もし、あなたたちだったら……どうしたと思いますか……?」 一言一言、口にするたびに喉が焼けるように痛い。 膝はもう感覚がなくなっていたけど、冬馬は雨に打たれたまま、ひとつも
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第16話

おかげで、夕凪の母の遺骨は無事だった。 天音に荒らされることもなく、ちゃんと守られた。 それから、夕凪の父が亡くなる前夜――冬馬はあの病室を訪ねていた。 あの日、夕凪が手術で子どもを失った、その夜だった。 自分でも理由はわからない。 もしかしたら、「父親として子を失う痛み」――その気持ちが、あのときの冬馬には痛いほどわかったからかもしれない。 夕凪が失ったものと同じだけ、彼の心にもぽっかり穴があいた。 何年も、何年も、心のどこかで二人の子どもがほしいと思っていた。 だって、好きな女と家族になる――男なら誰だって夢見ることじゃないか。 その晩、冬馬は夕凪の父のベッドのそばで、一時間以上も何も言えずに立ち尽くしていた。 結局、帰り際に絞り出せたのはたった二言だけだった。 「……お義父さん、ごめんなさい」 「俺は……俺は本当に夕凪を愛してる」 冬馬は、冷たい墓石にそっと額をつける。 「お義父さん、お義母さん――俺は今でも夕凪を愛してる。 どんな未来になろうと、俺の妻は夕凪だけだ」 雨に打たれながら、冬馬は墓前でじっと三時間も動かなかった。 墓地を出ると、すぐに秘書が傘を差し出してきた。 「一ノ瀬様、探していた人が見つかりました」 冬馬の足が止まる。 「どこだ?」 「一ノ瀬様のオフィスに」 一時間後、黒い車が会社のビルに到着する。 連れてこられた柊木蓮斗は、二人のボディーガードに両脇を抱えられていた。 その顔色は青白く、汗が額を伝い、既に相当「もてなし」を受けた様子だった。 あの頃「校内一の人気者」だった男は、時の流れの中ですっかりその輝きを失っていた。 冬馬はソファに座り、指を組み、鋭い視線で蓮斗を射抜く。 「十三年だな」 声は低くて重い、凍りつくような圧力が室内を満たす。 「俺と夕凪は十三年、夫婦をやってきた。 お前も、その間ずっと逃げてきたよな。 久しぶりだ。たまには旧友同士、昔話でもするか?この十数年、隠れ回る気分はどうだった?」 蓮斗は見る影もなく疲弊していたが、どこか諦めきった表情で、決して命乞いはしなかった。 「一ノ瀬、やりたいようにしろ。あの時俺が間違えたんだ。夕凪を苦しめて、この十年、一日たりとも後悔しなかった日はない。
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第17話

「それが――俺の人生で一番綺麗な思い出だったよ。 夕凪は二ヶ月も俺のことを追いかけてくれたけど、絶対に触らせてくれなかった。手さえ、繋がせてもらえなかった…… それがもどかしくて、ちょっと意地悪して『もう好きじゃない』なんて言ったけど、本音じゃない。あんなに可愛くて、性格も良くて――一生忘れられない女だよ」 冬馬は無言で蓮斗の胸ぐらを離し、すぐにボディーガードを呼ぶ。 ボディーガードが、蓮斗の腹を容赦なく殴りつける。 血を吐きながらも、蓮斗は止まらなかった。 血と一緒に、過去の記憶を噛みしめるように言葉があふれる。 「それから、夕凪はだんだん俺を避けるようになった。図書館で無理やり待ち伏せた時――もう俺を見ても何の感情もなかった。 焦って、みんなの前で告白したんだ。だけど夕凪は言ったんだ。『もう先輩のことは好きじゃない。好きな人がいるの。その人と一緒にいて初めて、本当の好きが分かった』って。 『好きなら、身体に触れるのも嫌じゃないはず……多分、私、先輩のことはただのお兄ちゃんだと思ってた』って。 その時は何のことか分からなかった。でも、あとで知ったよ――お前と正式に付き合い始めた日に、夕凪からキスしてきたんだろ?初めてを全部、お前に捧げたんだ。 皮肉だよな。俺には手も繋がせてくれなかったのに、お前には全部――キスも初夜も、全部」 ボディーガードは、冬馬の命令が出ない限り殴るのをやめない。 冬馬はソファに座りながら、過去の記憶に引きずり込まれていた。 夕凪が自分と関係を持った時、たしかに初めてだった。 それは知っていた。でも、キスさえも自分が初めてだった。そんな当たり前のことが、どうしようもなく胸に刺さる。 男ってのは、こういうことに妙に執着する。 いまさら分かったって、どうしようもないくせに。 蓮斗は血を吐きながら、苦しそうに続ける。 「嫉妬した。悔しかった。そんな時に、ある人が声をかけてきて―― 『お前も一ノ瀬家に復讐したくないか』って。 もちろんだよ。好きな女をお前に奪われたんだ、ざまあみろって思ってた。 まさか、そのせいで夕凪が十年以上も苦しむなんて、夢にも思わなかったけど。 ……分かってたら、絶対にあんなことしなかった……」 苦しげな叫び声が部屋に響く。 冬馬
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第18話

蓮斗はただ静かに笑った。 「どうしても我慢できなくて、夕凪に会いに行ったんだ。謝りたかった、心から謝罪して、許してほしかった。 ……それで、もし彼女が望むなら、お前の前で真実を明かすつもりだった。 『本当に彼女が愛していたのはお前だ』って」 「でも、夕凪は首を横に振った。『もういいの』って。 彼女は、もう助からない病気だって言った。だから、今さら真実をお前に伝えたら、余計にお前を苦しめてしまうって―― 自分が死ぬまで、お前が誤解したままでいい、ずっと恨んでくれていい。そうすれば、お前は悲しまずに済むから……そう言ったんだ」 「一ノ瀬、あの子は本当に、お前を愛してたよ」 冬馬の胸が、何かで押し潰されたみたいに苦しかった。 息をするのさえつらい。 何も言わずに、乱暴にオフィスを出ていく。 一度も振り返らなかった。 蓮斗は、去っていく冬馬の背中をじっと見つめ、やがて自嘲気味に微笑んだ。 あれほど冬馬を羨んでいた自分が、「彼女は本当にお前を愛してた」なんて言える日が来るなんて。 人間、死を前にしたら、不思議と素直になれるものなんだろう。 冬馬は速足で廊下を歩き抜ける。 すれ違う人々がみな、驚いたように視線を向けた。 洗面所に駆け込み、扉を閉め、洗面台にしがみつく。 蛇口をひねると、水の音が全ての音を消してくれた。 その瞬間、こらえていた涙が一気にあふれ出した。 蓮斗の言葉が、鋭いナイフのように心に突き刺さって離れない。 夕凪は、ずっと俺を愛してた。 最初から、ずっと。 そうだ、もし愛してなかったら、あんなに長い間、どれだけ酷い仕打ちを受けても、絶対に俺のそばにい続けるわけがないじゃないか。 「……あああ!」 冬馬はその場で崩れ落ち、絶望の叫びをあげる。 蓮斗ですら分かっていた、夕凪の愛を――なぜ、俺だけが信じられなかったんだ。 なぜ、あんなに彼女を傷つけてしまったんだ。 「一ノ瀬様、大丈夫ですか!」 外から秘書の声が響く。 「……出て行け!」 喉が潰れそうなほど枯れた声が、ドアの向こうの全てを黙らせた。 冬馬は手をゆっくり離し、ふらりと後ろに下がった。 頭の中には、何度も何度も、夕凪のあの蒼白な顔が浮かんでくる。 ――俺は、今まで一度も、ち
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第19話

冬馬はその場に二秒だけ立ち止まり、すぐに歩き出した。 「医者を手配しろ」 「はい、一ノ瀬様。ご安心ください、最高の産婦人科医をつけて、必ずお子さまを……」 「堕ろせ」 秘書は固まった。「……今、なんと?」 冬馬は眉をひそめる。「聞こえなかったのか、それとも理解できなかったのか?」 ちゃんと聞こえていたし、意味も分かっていた。 でも――信じられなかっただけだ。 秘書は今でも覚えている。 あのとき冬馬が、夕凪との子どもを失ったとき、どれだけ痛みで壊れそうだったかを。 普段は仕事で感情を見せない冬馬が、あの夜だけは会社で酒を煽っていた。 「一ノ瀬様……本当にこの子を堕ろすんですか?医者によれば、もう三ヶ月目だそうです」 「そうだ」 冬馬はそれだけを冷たく言い残し、歩き去った。 秘書は冷たい背中を見送ったまま、長い間動けなかった。 冬馬は車に乗り込み、煙草に火をつける。 煙を深く吸い込むと、五臓六腑が焼けるように痛んだ。 煙を吐き出すと、咳が止まらなくなる。 グローブボックスを開けて、奥から一枚の小さな写真を取り出す。 それは夕凪が流産したあの夜、手術室の中で撮ったエコー写真だった。 大出血で何も写っていなかったけど、あのとき無意識のまま、彼はスマホでシャッターを切った。 これが、彼と夕凪の子どもだ。 夕凪が彼に遺した、唯一の思い出。 指先が小刻みに震えるまま、写真をそっとなぞる。 子どもが欲しかった。でも、彼が欲しかったのは、夕凪との子どもだけだ。 本当は、ずっと宮殿の女たちには薬を飲ませていた。 彼女たちが妊娠するはずなんてなかった。 だけど、細木加余子(ほそぎ かよこ)はずる賢くて、普段から夕凪をいじめてばかりいた。 今回も、どうやったのか分からないけど、うまく妊娠にこぎつけたらしい。 冬馬は皮肉げに笑い、スマホを取り出して秘書にメッセージを送る。 【手術が終わったら、細木を風俗街に売り飛ばせ。 宮殿の残りの女たちも、全員解散させろ】 俺は誓ったんだ。 夕凪を傷つけた奴は、絶対に逃がさない。 スマホをしまい、エンジンをかけようとしたとき、携帯が鳴った。 ――医者からだ。 大事じゃなければ、直接電話なんてしてこない。 一瞬、
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第20話

「もう一度!」 執刀医が鋭く叫ぶ。 その声に合わせて、夕凪の細い体が再び電流で跳ね上がった。 病室の外で、冬馬の爪は深く掌に食い込み、血が指の隙間から滴っていた。 けれど、その痛みさえ感じなかった。 ピッ、ピッ、ピッ―― 微かな心拍の音が、再び響き始める。 医者は汗をぬぐい、「一応、安定しました」と言った。 冬馬の両膝は一気に力が抜け、ほとんどその場に崩れ落ちそうになった。 …… 丸一日と一晩、冬馬は病室に付きっきりで、眠ることもなく立ち尽くしていた。 まるで動かぬ彫像のように。 医者や看護師が心配して声をかけても、まるで聞こえていないかのようだった。 秘書が仕事の報告に来ても、すべて門前払い。 彼の世界には、もうベッドの上の彼女しか存在しなかった。 「夕凪、頼む……俺を置いていかないでくれ……」 自分が何度この言葉を呟いたか、もう覚えていなかった。 誰の前でも、彼は絶対的な存在だった。 だけど彼女の前だけは、こんなにも卑屈になれる。 午前一時、冬馬はふらつきながら病院を出て、コンビニへ水を買いに向かった。 無意識のまま歩く道。 冷たい雨混じりの風が顔を叩いても、何も感じなかった。 街角では、一人の老人が軒下で体を縮めて座っている。 ぼろぼろの服に、前には割れたお椀。 冬馬は足を止めた。 これまで、彼は人に同情なんてしたことがない。 むしろ冷血と呼ばれる男だった。 なのに、今だけは善いことをしてみたいと思った。 ――もし「善いこと」をすれば、夕凪が目覚めるかもしれない。 冬馬は老人の前に歩み寄り、財布から分厚い札束を取り出して、碗に入れる。 老人が驚いて顔を上げる。 その濁った目に、一瞬だけ驚きの光が宿った。 「これは……私に?」 「ああ、取っておけ。ちゃんと生きろよ」 そう言い残して、立ち去ろうとした。 だが背後から、老人の声が響く。 「若いの、何か心の中で拭いきれぬ悩みがあるのか?」 冬馬は眉をひそめた。 確かに――俺の心の悩みは、ただ一つ。 たった一人のことだけ。 無言で歩き続けると、老人の声が後ろからかすかに聞こえてきた。 「叶わぬ願いがあるのなら、仏様に頼んでみるがいい。仏は慈悲深い。混沌から救
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