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遥かなる山を越えて、君を送らず

遥かなる山を越えて、君を送らず

By:  枝々Completed
Language: Japanese
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超一流財閥の御曹司である一ノ瀬冬馬は、ある「宮殿」を持っており、そこに「12人の愛人」を住まわせていた。 毎年、妻・夕凪の誕生日になると、冬馬は決まって新しい女を連れ帰ってきた。夕凪の目の前でその女を抱くと、今度は「躾けろ」と彼女に押し付けるのだった。 今年で十三人目。 満身にキスマークのある女を再び夕凪の前に放り投げたとき、夕凪は初めて「いや」と言った......

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第1話
超一流財閥の御曹司である一ノ瀬冬馬(いちのせ とうま)は、ある「宮殿」を持っており、そこに「12人の愛人」を住まわせていた。 毎年、妻・一ノ瀬夕凪(いちのせ ゆうなぎ)の誕生日になると、冬馬は決まって新しい女を連れ帰ってきた。夕凪の目の前でその女を抱くと、「躾けろ」と彼女に押し付けるのだった。 今年で十三人目。 満身にキスマークのある女を再び夕凪の前に放り投げたとき、夕凪は初めて「いや」と言った。「今、何て言った?」 冬馬はベルトを締める手を止め、睫毛の陰から、冷えた光を帯びた眼差しを夕凪に向けた。やがて、まるで獲物を弄ぶ猫のような声でこう言った。 「ヤキモチ?無関心を装うその芝居、もうできないのか?」 夕凪は何も言わず唇をきゅっと結んだ。 彼女のカバンの奥には医師の診断書が入っていた。 余命一ヶ月――夕凪は死へと向かっていた。 最後の誕生日、彼女の願いは、ただひとつ。自由。 「冬馬……離婚しよう」 その言葉は本当に軽く、唇からそっと零れ落ちた。冬馬の体が一瞬強張る。 後ろのソファから、男たちの嘲笑が湧き上がる。 「夕凪、今回は大胆だな。まさか離婚なんて言い出すとは」 「冬馬の気を引き戻そうと必死だな。優しく行ってダメなら今度は強気で来るってわけか?あれだけペコペコしてたのに、急に態度でかくなるとか笑えるじゃないか」 「長年同じことの繰り返しで、もう飽き飽きだよ。誰だって知ってるだろ、冬馬のことを命懸けで愛してるって。愛人の世話まで嫌な顔せずやってきたんだからさ」 「本気で離婚できたら、俺が二十億円出すぞ?」 冬馬も微笑み、煙草に火をつけた。煙を深く吸い込むと、すべて夕凪の顔に吹きかける。 「成長したな。離婚なんて言えるようになったんだ。次は何?泣きわめいて『自分はもうすぐ死ぬ』ってでも言うのか?」 夕凪の瞳が揺れる。でもすぐに、死んだような静けさに戻る。 そう、自分は本当に死にかけている。 でも冬馬は気にかけてくれない。だから、伝える必要もない。 部屋の中の男たちは野次馬根性で盛り上がっていた。 「よし、賭けようぜ!十分以内に夕凪は離婚撤回するに一票。冬馬が優しくすればすぐ降参だって」 「俺は二千万!」 「俺は二千六百万!」 騒がしい中、夕凪だけがじっと冬馬
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第2話
夕凪は冬馬の指を一本ずつほどき、自分からそっと手を離した。そのまま背を向けて歩き出す。 背後から、冬馬の冷たい声が響いてきた。 「夕凪、お前の両親だけじゃない。この何年、お前が使った金は全部、俺が稼いだものだろ?お前が今着てる服だって、俺の金で買ったんだ」 まるで裸足で氷の上を歩くみたいに、一歩進むごとに心が刺すように痛い。 夕凪は何歩か歩いて立ち止まり、俯いたままそっと呟く。 「そうね、冬馬。私が身につけてるものは全部、あなたのお金で買ったものだよ。 これまで、たくさん使わせてもらった。お金は返せないけど、服なら返せるわ」 冬馬の眉がぴくりと動く。その視線には、どこか緊張の色さえ浮かんでいた。 「夕凪! 何をしようというんだ!?」 「この服、今すぐ脱いで返してあげる」 「ふざけるな……!」 ふざけてるわけでも、意地になってるわけでもなかった。 本気で、部屋にいる男たちの視線も気にせず、夕凪は自分のシャツのボタンに手をかけた。 真冬の夜、暖房が効いた部屋の中で、それでも夕凪の立っている扉のそばには、冷たい風が首筋を抜けていく。 それでも手は止まらない。 ボタンを外すたびに、肩や胸のあたりが白く露わになっていく。 さっきまで好き放題に彼女を嘲笑っていた男たちも、今は息を呑んで固まっている。誰も、目をどこにやればいいかすら分からない。 冬馬だけが、じっと夕凪を見つめていた。目の奥は墨のように深い。 「夕凪……」 奥歯を噛みしめて、しばらくしてから、彼はしぼり出すように言った。 「……たいしたもんだな」 「冬馬、夫婦喧嘩に俺らは関係ないし……」 「そうそう、二人でゆっくり話してきなよ。また今度飲もうぜ」 「ごちそうさま、冬馬」 男たちが一斉に立ち上がる。誰もトラブルには巻き込まれたくない。 だが、冬馬は低く言い放った。 「全員、そのまま座ってろ」 男たちは仕方なく、また席につく。 冬馬の目が鋭くなり、皮肉な笑みを浮かべる。 「夕凪、お前はそんなに自分を安く扱いたいのか?よし、裸になって男に見せるのが好きなら、たっぷり味わわせてやるよ」 夕凪は思わず彼を見上げた。その瞳には戸惑いが浮かぶ。 冬馬はソファに置いてあったジャケットを片手で掴み、もう一方の腕
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第3話
夕凪はその場に立ち尽くし、冬馬の背中が扉の向こうに消えていくのを見送っていた。 心の奥が冷たい海水に沈められたように、全身が凍りついていく。 部屋の中、男たちはひそひそと話し出す。 「マジっすか……?」 「本気っぽいぞ。もう夕凪には飽きてるだろうし、新しい女も何人もいるしな。古いのを俺たちにくれてやるのも、まあアリだろ」 「まさか夕凪が俺たちのものになるなんてな!冬馬は嫌がってるかもしれねえが、俺は別だ!あの胸、あの腰……前からずっと狙ってたんだぜ!」 男たちの視線が、だんだんといやらしく熱を帯びていく。 夕凪は扉へと向かおうとしたが、すぐに後ろから髪を掴まれ、力任せに引き戻された。 扉が閉まり、彼女は床に叩きつけられる。 抱きしめるように自分を守り、必死に身を縮める。 「やめて!そんなことしたら犯罪よ!」 「犯罪?」男たちは嘲笑いながら、「大丈夫だよ、冬馬が一言言えば、全部チャラだ」 「夕凪、諦めろよ。冬馬に捨てられたんだ。今夜はちゃんと俺たちを楽しませろよ。もしかしたら誰かに気に入られて、後で囲ってもらえるかもな」 そう言いながら、男たちは彼女に群がる。 夕凪は泣き叫び、必死に抵抗する。でも、ただの女一人ではどうにもならない。 助けを呼ぶ声も、だんだんと男たちの嘲り笑いにかき消されていった。 そのとき、部屋のドアが激しく開け放たれた。 その場にいた男たちは、動きを止めて、入口に立つ男を見上げた。 「と、冬馬……?」 なぜ彼が戻ってきたのか、誰も分からなかった。 冬馬の目は氷のように冷たく、床に倒れた夕凪を見つめている。 服は乱れ、涙に濡れたその姿は、誰が見ても痛々しかった。 彼の凍りつくような声が響いた。 「さっさと消えろ」 男たちは慌てて逃げ出そうとした。 出口まで辿り着いた時、冬馬の低い声がもう一度響いた。 「今夜のことは全部忘れろ。それができない奴には、俺が手を貸してやってもいいな」 「は、はい!もう絶対に夕凪さんには手を出しません!」 慌てて男たちが逃げ去ると、部屋に残ったのは二人きり。 冬馬は夕凪の前にしゃがみ込み、破れた服に気づくと、無言で自分のジャケットを肩にかけた。 「……反省したか?」 夕凪は何も答えない。ジャケットを静か
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第4話
「怒りはもう感じない。冬馬、ただ離婚したいだけ。それが私の唯一の望み」 夕凪の目は、水底のような静けさで満ちていた。 この十数年、どれほど彼のことで泣いたか――もう、これ以上は泣きたくなかった。 冬馬の目尻が、どこか赤くなっている。彼は冷たく笑った。 「離婚なんて絶対にさせない。離れるときは、どっちかが死ぬときだ――俺たちはどちらかが死ななきゃ終われない」 夕凪は眉をひそめ、彼の狂気じみた言葉に言葉を失う。でも、ひとつだけ正しい。自分がもうすぐ死ぬということ。 そんなふうに呆然としている間に、冬馬は夕凪を力任せに扉の外へ連れ出し、車の中に押し込んだ。 「夕凪、お前の無関心は本物か? ならば、その心を動かして見せろ」 彼は正気をなくしたようにアクセルを踏み込み、車は猛スピードで夜の道を突っ走る。 でも向かう先は家でも「宮殿」でもなかった。 「どこに連れて行くの?」 夕凪は思わず胸元のシートベルトを強く握りしめる。 ミラー越しに冬馬は冷たく笑う。 「すぐにわかるさ。夕凪、二度と離婚など口にできなくなるまで躾けてやる」 車が停まったのは、父が入院しているあの病院だった。 夕凪の胸に、最悪の予感がよぎる。今夜の冬馬は本当に何をするかわからない。 「降りろ」 冬馬は有無を言わせず彼女を連れて、特別病棟の前まで引きずる。 「冬馬、まさか父の命で私を脅すつもり?ここで酸素マスクを外す気?」 「殺しなんてしないよ」 冬馬は笑っていた。でもその笑顔は、背筋が凍るほど冷たい。 「夕凪、今日はただお義父さんに、俺たちがどれほど仲睦まじい夫婦か見せてやるだけさ」 「なに言ってるの……?」 冬馬は病室のドアを開け、夕凪を中へ突き飛ばした。 ベッドの上には、すっかり痩せこけた父が、無数の管に繋がれたまま横たわっている。 高価な医療機器が、昼夜問わず生命反応を監視していた。 六年前の脳出血以来、四肢は完全に麻痺している。それでも意識だけは――残酷なほど鮮明に――残されたままだった。 「……お父さん」 夕凪がベッドに駆け寄ろうとした瞬間、冬馬は彼女を強く抱きかかえ、ソファへと放り投げた。 自分のネクタイを外し、夕凪の手をきつく縛る。 やっと、彼が何をするつもりなのか、夕凪にも分か
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第5話
夕凪の唇がかすかに動き、掠れる声で言った。 「……もう離婚なんて言わない……だから、お願い、父を助けて……」 冬馬は小さく笑って、満足そうに彼女を見下ろした。 そのまま荒々しく彼女を抱き、すべてをぶつけ終えるとようやく身を引いた。 服を直してから携帯を取り出し、手早く秘書に電話をかけて父の件を指示する。 そして夕凪の方を一度も見ず、静かに病室を出ていった。 夕凪は破れた服を抱きしめながら、ソファの隅で小さく身を丸める。 下腹に激しい痛みが走り、うずくまったまま下を向くと、鮮やかな血が流れ出していることに気づいた。 立ち上がろうとしたが、急に目の前が暗くなり、そのまま意識を失った。 …… 次に目を覚ましたのは病室のベッドの上だった。 ぼんやりした視界に人影が現れ、その人が手を振りながら、言いかけた。 「ねぇ、やっと起きた?こっち見える?」 若い女の声だった。 夕凪が何度か瞬きをすると、視界が少しずつはっきりしてくる。 見覚えのある顔――あの夜、冬馬が連れてきた新しい「十三番目の愛人」だった。 彼女の名は篠原天音(しのはら あまね)。まだ二十歳になったばかりで、頬はハリがあり、笑顔が眩しい。 その目元は、どこか昔の夕凪にそっくりだった。 大きくて輝く瞳には、星屑のような光と、冬馬への憧れがあふれている。 「やっと目が覚めたわ。冬馬さんに頼まれてあなたの世話してたけど、正直もう飽きた。 そうだ、いいニュースがあるの。あなた、流産したのよ」 天音は心から嬉しそうに口角を上げて、まるで朗報でも伝えているような口ぶりだった。 夕凪の全身から血の気が引いた。 流産―― いつの間に……? 自分が妊娠していたことすら知らなかった。その子は、気づかぬうちに消えてしまった。 鼻の奥がつんと熱くなり、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。 分かっていた、この子はきっと生まれてくるべきじゃなかった。 自分と冬馬の関係では、生まれてきても幸せになんてなれない。 そして、そもそも自分の体がもう、出産に耐えられないことも。 それでも、悲しかった。女である自分には、それがどうしようもなかった。 夕凪は目を閉じ、考えるのをやめようとした。 あまりにも無反応な彼女に、天音の声
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第6話
冬馬はしばらく無表情で夕凪を見下ろし、それから目を逸らした。 「死んだ」 まるで今日の天気でも語るような、何の感情もこもらない声だった。 夕凪の顔から血の気が引き、震える声で首を横に振る。 「そんなはずない……」 どうして?子どもを失ったばかりなのに、今度は母まで事故で亡くなったなんて。 しかも、そんな悲劇のすべてを、今日一日で知らされるなんて―― 胸が痛くて、内臓まで引き裂かれるようだった。それでも、今ここで倒れるわけにはいかなかった。 夕凪は床を這い、冬馬の足にすがりつく。 「お母さんはどこ?ねえ、冬馬、あなたなら知ってるはずでしょ?お願い、教えて。私は彼女の娘なのよ、知る権利があるでしょ!」 「知ったところでどうなるんだ?何をしたい?」 冬馬は冷たく、彼女の手を振り払う。 「母さんの骨壺を抱いて発狂するか?それとも死ぬ気か? 夕凪、子供を失ったのはお前の責任だ。しっかりと療養しろ。体が良くなったら、また次の子を授かるんだ。 それ以外は、一切考えるな」 そう言い捨てて、冬馬は部屋を出ようとした。 夕凪は冷たい床に座り込んだまま、虚ろな瞳で天井を見つめる。 「……冬馬、あなたはどうしてこんなに残酷なの……?」 彼に恨まれるのは仕方がない。自分が彼に与えた傷は深い。 でも、両親には何の罪もないはずだ。 それなのに――なぜ、彼女が母の最後に立ち会うことすら許されないのか。 夕凪の両手が微かに震え、じわりと拳を固めていく。 冬馬が扉を開けた瞬間、夕凪は突然立ち上がり、バルコニーへと駆け出した。 冬馬の動きが止まる。 「夕凪!何をするつもりだ!今すぐ降りろ!」 夕凪はバルコニーの手すりに立ち、半身を空中に投げ出していた。 彼の声が聞こえてきても、夕凪は淡い笑みを浮かべた。 「ねえ冬馬、母の葬儀に連れて行ってくれないなら、ここから飛び降りるよ。 私が本気なの、あなたは知ってるはず」 もう、生きる意味なんてなかった。本来、あと一ヶ月しか生きられないはずだった。 せめて、静かに最後を迎えたかったのに、そのささやかな願いさえ打ち砕かれた。 冬馬は怒りをこらえて、携帯を手に取る。 「母親に会いたいだけなんだな。分かった。今すぐ骨壷を持って来させるから、そこ
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第7話
夕凪は絶叫を上げた。その叫びは胸を引き裂き、張り詰めていた神経がついに音を立てて切れた。 気が狂ったように椅子を振り上げ、天音めがけて投げつける。 天音は呆然と立ち尽くし、逃げる間もなくその場にいた。 だが、その瞬間―― 冬馬が彼女を素早く引き寄せ、庇うように背後に隠した。 夕凪は押し倒されて床に転がる。 「何をやってる!本気で人殺しでもするつもりか?」 怒鳴る冬馬の顔は、怒りで歪んでいた。 そして、母の骨をぐちゃぐちゃにした張本人は、しっかりと彼の後ろに守られている。 夕凪は唇を震わせて何も言えず、喉の奥に鉄の味が広がる。 胸を押さえた瞬間、血がこみあげてきて、そのまま口から溢れた。 天音は飛び上がるほど驚いた様子で、「……マジで怖いんだけど。冬馬さん、またわざと弱ってるふりしてるだけでしょ?」 冬馬も眉をひそめ、秘書に命じる。 「医者を呼べ。何を企んでるのか確認する」 「医者なんていらないよ」 夕凪は突然笑みを浮かべ、床からゆっくり立ち上がり、唇の血を拭った。 「……演技なんだから。残念ね、今回は誰も騙せなかったみたい」 冬馬は黙ったまま、さらに険しい顔で彼女を見つめる。 夕凪は崩れた骨を静かに箱へ戻し、その箱を抱えたまま、ふらふらと病床まで歩いた。 また発作が起きていた。 もう、死がすぐそばにある人間にとって、吐血なんて珍しくもなんともなかった。 「冬馬さん、さっき彼女は本当に私を殺す気だったのよっ! 謝りも言わなくていいの?」 天音は冬馬の腕にしがみつき、甘えるように訴える。 冬馬の目がさらに冷たくなる。「夕凪、聞こえたか?」 夕凪は死人のような顔でベッドに座り、「謝らないわ。納得いかないなら、私を殴れば?」 「……」 天音は泣きそうな声で、「もういいの……私はただの愛人だし……」 冬馬は拳を握りしめ、「夕凪、今日謝らなかったら、お前の口座はすべて止める。毎月あれだけ金を使ってるんだ。金がなきゃ、何日持つか見てみよう」 その声も、表情以上に冷たかった。 けれど、夕凪はただ淡々と笑って見せるだけだった。 どうでもいい―― 毎月のお金の大半は、薬代に消えている。 どれだけ金をかけても、末期の痛みはごまかせない。 それでも、金がなくな
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第8話
「返して!」 夕凪は叫びながら天音に飛びかかるが、天音は素早く身をかわし、夕凪は床に倒れ込んでしまう。 「ははは……」 天音は彼女の姿に腹を抱えて笑い転げた。 「冬馬さんに頼まれて病院であんたの世話してるけど、つまらないから自分で遊ぶしかなくてさ。さっき他の病室を覗いたら、骸骨みたいなじいさんが寝ててマジで怖かったよ。 でも顔を見たら、あんたにそっくりだった。ムカつくから、ちょっと懲らしめてやろうと思って、その人のチューブ抜いちゃった。 ねぇ、チューブ抜いたら、横の機械がずっと鳴ってうるさくてさ。あのじいさん、今どうなってると思う?もう死んじゃったかもね?」 天音が話せば話すほど、その顔は楽しげだった。 夕凪は涙がこぼれそうになりながら必死で訴える。 「返して……やめて、お願いだから、それで人が死んじゃうのよ!」 必死で立ち上がってもう一度チューブを奪おうとするが、天音は高いヒールのせいで足を滑らせ、そのまま床に倒れ込んだ。 「きゃっ!」 そのとき病室のドアが開き、冬馬が駆け込んでくる。天音をすばやく抱き寄せ、怒鳴りつけた。 「お前、何やってる!たかがチューブで人を殴る気か!」 夕凪はその場に固まってしまう。 冬馬がこうして激怒して乱暴な言葉を吐くのは、彼女が離婚を口にした時以来――そして今回は、天音のためだった。 そうか。やっぱり、天音は特別なんだ。 「それは『たかがチューブ』じゃない。私の父の人工呼吸器だったのよ…… この子が抜いたんだ。もし本当に父のチューブを抜いたなら、殴られても仕方ない。けど今のは違う、私じゃなくてあの子が勝手に転んだだけ」 そう言って夕凪は出て行こうとしたが、冬馬が腕をつかんで引き止める。 「夕凪、よく考えてから嘘をつけよ。これが人工呼吸器だって?長さも太さも全然違うだろ、どう見ても医療用のものじゃない」 夕凪は思わず手元を見つめる。 たしかに――このチューブは短すぎて、どう考えても医療用じゃない。 さっきは焦ってて、天音がそんな嘘をつくとは思いもしなかった。 「……よかった」 父が無事だったことが何よりもうれしく、天音への怒りも薄れていく。 「夕凪、謝れ」 冬馬の声は命令そのものだった。 夕凪は顔を上げる。 「私は押してな
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第9話
冬馬の顔にも、珍しく動揺が浮かんだ。 「違う、俺じゃない……そんな指示はしていない」 「じゃあ誰よ!」 夕凪は彼の胸を叩き続ける。 憎かった。本当に憎かった。 どうしてここまで、家族にまで冷酷になれるのか。 冬馬は手を伸ばし、彼女の背中に触れようとしたが、途中で動きを止めた。 夕凪の瞳に、はっきりとした憎しみが浮かんでいるのを見てしまったからだ。 感情を押し殺し、淡々と言う。 「とにかく……急いで救急室の前に行こう」 まだ救命処置中―― ほんのわずかな望みが、そこにあった。 夕凪は後ろも振り返らず、走り出す。 救急室の前に着いたとき、看護師が一人、白布をかぶせられたストレッチャーを押して手術室から出てきた。 「待って……!」 夕凪は白布のそばに飛びつき、震える手で問いかける。 「この人……誰ですか?」 「苅部敏成(かりべ としなり)さんです。うちの病院でいちばん高い個室で六年も過ごされてましたけど……人工呼吸器を抜かれて……」 看護師たちは、夕凪の顔色がどんどん青ざめていくのを見て、もう何も言えなくなる。 「ご家族の方ですか?」 「……はい」 心臓が止まったように感じながら、夕凪は震える指先でゆっくり白布をめくった。 そこには、痩せこけた父の顔――すでに死の色を帯びていた。 夕凪は、父の頬をそっと撫でながら、静かに涙を流すしかできなかった。 父は最後、何を思っていたのだろう。 きっとあの日、病室で冬馬が自分にした仕打ちを全部見ていたに違いない―― 冬馬がエレベーターを逃し、駆けつけた時には、もう父の遺体は運び出された後だった。 夕凪は一人、角のベンチで虚ろな目で座っていた。 冬馬がそっと近づいてきて何か声をかけようとした瞬間、 夕凪はその顔を一発平手で打った。 「……出ていって」 冬馬は、生まれて初めて女に頬を打たれて呆然とする。 「出ていってよ!」 彼が怒りかけたとき、天音がさも気の利いたふうに口をはさんだ。 「冬馬さん、今は夕凪さんも気が立ってるし……しばらくそっとしてあげましょ。たぶん、今は顔も見たくないと思うし……少し休んできたら?」 冬馬は黙ったままうなずき、「分かった、水でも買ってくるよ。しばらく頼む」とだけ言い、
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第10話
けれど、夕凪の目は静かに閉じられていく。 冬馬は何もできず、その腕の中で彼女の鼓動が少しずつ遠ざかっていくのを、ただ見守るしかなかった。 体温さえも、みるみる失われていき、彼女の肌は冷たい氷のようになってしまう。 すぐに医師と看護師が駆け込んできたが、誰もが頭を振った。 「一ノ瀬さん、覚悟を決めてください……奥さんの病気はもうずいぶん前からのものですし……」 「何の覚悟だ、何が『前から』なんだ?」 冬馬の顔も服も血まみれで、視線も焦点を失っている。 「ご存じなかったんですか?」 「知るわけないだろ!ふざけるな、説明しろ、全部話せ!」 いつもの冷静で優雅な姿はどこにもなく、ただ取り乱して怒鳴り散らす冬馬に、その場の全員が圧倒されていた。 医師は慌てて告げる。 「奥様は二年前に『ロース症候群』という難病を発症しています。この病気は治療法がなく、最初の発症からおよそ二年で亡くなってしまうのです。とても苦しい病で、吐血だけでなく、多臓器不全も起こします…… この二年間、彼女は高価な輸入薬で痛みを和らげていました。でも十日ほど前、ご本人が急に薬をやめると言い出したんです……治療を放棄されたんでしょう。 どうやってこの十日間を耐えてきたのか、私たちにも分かりません」 十数日前―― 冬馬の脳裏に、あの日の記憶が蘇る。ちょうど天音をかばって夕凪を罰し、彼女のカードを止めた、そのときだ。 彼女はお金がなくなり、薬も買えなくなったから、治療をやめざるを得なかった―― 「……!」 冬馬は絶叫を上げた。 魂を引き裂かれるような叫びだった。 壁を何度も何度も、血が滲むまで叩きつけ、それでも怒りと後悔は止まらない。 看護師たちが慌てて止めに入るが、誰にも彼を抑えられなかった。 なぜ彼女のカードを止めたのか―― この数日、天音には何億も惜しまず使ってきたくせに、夕凪の薬代や生活費だけは渋ってしまった。 どうして、こんなにも最低な男になってしまったのか。 どうして、こんなにも……どうしようもなく愚かなんだ。 後悔が津波のように押し寄せ、息もできないほど胸が締め付けられる。 ふらつきながら後ずさり、目の前が真っ赤に染まる。 そのとき急救室の扉が開き、執刀医が出てきた。 「……どうなんだ
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