〈夜色〉の扉を押し、夜の外気が身体を包んだ瞬間、微かに冷たい風が頬を撫でた。雨はもう止んでいたが、湿った空気はまだ街のそこかしこに残っていて、アスファルトに落ちた街灯の光が、水たまりの輪郭をかすかに揺らしていた。河内は無言のまま、背中をまっすぐにして歩き出す。先ほどまであれだけ沈黙を重ねた相手と、今さら何を話す必要があるだろうか。会話の代わりに、歩幅が語る。肩の角度、息の速さ、そして足音。そういう無音のやりとりに、すでにふたりは慣れかけていた。数歩遅れて、小阪が続く。足音は硬質ではなく、しかし確かな輪郭を持って舗道に響く。湿ったコンクリートの上を、靴底が淡く擦る音が重なり、ふたりの距離を埋めていく。街はまだ眠っていない。だが、ここには音がない。コンビニの自動ドアが開く音も、タクシーのタイヤが水を切る音も、このふたりのまわりには届いていないかのようだった。ただ、互いの気配だけが近づいてはまた遠ざかり、呼吸の合間を縫うように交錯していた。ホテル街はすぐそこだった。入り組んだ路地のなかに、いくつもの小さな明かりが点在し、仄暗い光が壁面に滲んでいた。どれも似たような造りで、どこか無機質で、けれど今夜はその匿名性すらも必要に感じられた。信号のない横断歩道の前で、河内は足を止める。すぐ横に、小阪が並んだ。何も言わず、ただ立っている。その肩がほんの少しだけ、河内の肩より低い位置にあることに気づく。風が止み、空気がふたたび静かになる。そのときだった。歩道の端で、ふたりの手がわずかに触れた。指先と指先。ほんの一瞬の出来事。普通なら、誰でも逃げるように手を引くだろう。だが小阪は、逃げなかった。指がそこに留まった。微かに触れたまま、動かない。それが偶然だったのか、あるいは意図だったのかはわからない。だが、河内にははっきりと伝わった。——これは、肯定だと。目を合わせなくてもいい。言葉もいらない。ただこの触れ合いが、すでに充分な合図だった。河内は一度だけ、喉を鳴らすように息を整え、視線を正面に戻す。そのまま、角を曲がっていく。背後から、小阪の足音がついてくる。歩幅は少しだけ河内より短いが、歩調はずれていなかった。小さな水
Terakhir Diperbarui : 2025-06-27 Baca selengkapnya