Semua Bab 「好き」って言えなかったあの夜を、超えて~壊れた心と身体を、少しずつ繋ぎ直す恋: Bab 11 - Bab 20

50 Bab

濡れる前の沈黙

〈夜色〉の扉を押し、夜の外気が身体を包んだ瞬間、微かに冷たい風が頬を撫でた。雨はもう止んでいたが、湿った空気はまだ街のそこかしこに残っていて、アスファルトに落ちた街灯の光が、水たまりの輪郭をかすかに揺らしていた。河内は無言のまま、背中をまっすぐにして歩き出す。先ほどまであれだけ沈黙を重ねた相手と、今さら何を話す必要があるだろうか。会話の代わりに、歩幅が語る。肩の角度、息の速さ、そして足音。そういう無音のやりとりに、すでにふたりは慣れかけていた。数歩遅れて、小阪が続く。足音は硬質ではなく、しかし確かな輪郭を持って舗道に響く。湿ったコンクリートの上を、靴底が淡く擦る音が重なり、ふたりの距離を埋めていく。街はまだ眠っていない。だが、ここには音がない。コンビニの自動ドアが開く音も、タクシーのタイヤが水を切る音も、このふたりのまわりには届いていないかのようだった。ただ、互いの気配だけが近づいてはまた遠ざかり、呼吸の合間を縫うように交錯していた。ホテル街はすぐそこだった。入り組んだ路地のなかに、いくつもの小さな明かりが点在し、仄暗い光が壁面に滲んでいた。どれも似たような造りで、どこか無機質で、けれど今夜はその匿名性すらも必要に感じられた。信号のない横断歩道の前で、河内は足を止める。すぐ横に、小阪が並んだ。何も言わず、ただ立っている。その肩がほんの少しだけ、河内の肩より低い位置にあることに気づく。風が止み、空気がふたたび静かになる。そのときだった。歩道の端で、ふたりの手がわずかに触れた。指先と指先。ほんの一瞬の出来事。普通なら、誰でも逃げるように手を引くだろう。だが小阪は、逃げなかった。指がそこに留まった。微かに触れたまま、動かない。それが偶然だったのか、あるいは意図だったのかはわからない。だが、河内にははっきりと伝わった。——これは、肯定だと。目を合わせなくてもいい。言葉もいらない。ただこの触れ合いが、すでに充分な合図だった。河内は一度だけ、喉を鳴らすように息を整え、視線を正面に戻す。そのまま、角を曲がっていく。背後から、小阪の足音がついてくる。歩幅は少しだけ河内より短いが、歩調はずれていなかった。小さな水
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-27
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無言のままベッドへ

ホテルのドアが静かに閉じる。その音だけがやけに響いて、部屋のなかの空気がぴたりと動きを止める。廊下から切り離された一室は、外よりもわずかに冷たい空気に包まれていた。ベッドサイドの間接照明だけがぼんやりと灯り、カーテンは分厚く引かれて、窓の外の気配すら遮断されている。河内は無言のまま部屋の奥へ歩き、入口脇に上着を掛けた。肩に残る雨の匂いが、急速に部屋の湿度に混じり、どこか現実感のない感触を残す。シャツの袖を軽くまくり、ネクタイは持ち歩いたまま、ソファに無造作に置いた。後ろを振り向くと、小阪が部屋の隅、スタンドライトの影に立っている。壁に寄りかかるでもなく、ただ真っ直ぐにそこに立っている。河内はその背中に、無意識の緊張を感じ取る。腕を組んでいるわけでもない。手はだらりと下げられ、脚はまっすぐ揃えられている。けれど、その佇まいにはまるで動物のような警戒心が宿っていた。「先、シャワー使えや」そう言って、河内はバスルームを顎で示した。声の調子は普段と変わらない。何か特別な夜だという意識を、わざと隠すような、そんな言い方だった。小阪は小さく頷くだけで、バスルームへ歩く。扉が閉まる瞬間、肩越しに少しだけ河内を振り返った気がしたが、顔はよく見えなかった。水の音が、しばらくして遠くから響いてきた。シャワーが浴槽に当たる鈍い音が、夜の静けさをさらに深くする。河内はその間、ベッドの端に腰を下ろし、指先で膝を叩いていた。急かすつもりもないが、落ち着きもなかった。自分から誘ったつもりでいたのに、どうしてこんなに相手の動きが気になって仕方ないのか。会話のない静けさの中で、かえって鼓動の速さばかりが目立っていく。バスルームのドアが開く音がして、小阪が出てきた。髪が濡れたまま、タオルで軽く拭っている。シャツを着ているが、首元のボタンは留めていない。ズボンも履いたままだ。ベッドに近づくと、まるで逃げ込むような速さで、ベッドの端に腰を下ろす。その動きには無防備さもなければ、誘いの色もない。ただ、決められた場所に身体を預けるしかないという受動の意志だけがあった。小阪は顔を伏せ、河内と目を合わせない。河内はその様子を一瞬だけ不審に思うが、同時に、何も言わないことがこの夜の正
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-28
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触れる、けれど感じさせない

シーツの上に横たわる小阪の身体は、月明かりの届かない闇のなかで、ほとんど音もなく沈んでいた。ベッドの端に河内が腰を下ろすと、わずかにマットレスが沈む。重みを感じているのかいないのか、小阪のまぶたは伏せられたまま微動だにしない。手足は静かにシーツに沿わせ、全身から拒絶の気配は感じられない。それでも、その静けさの奥に、なにか途方もない距離が横たわっているようだった。河内は、ゆっくりと手を伸ばした。指先で小阪の背中をなぞる。肌は冷たい。けれど、まったく震えがこない。驚くことも、息を呑むこともなく、まるでこの時間を既に繰り返したことがあるように、静かに身を預けている。河内の指が肩甲骨のあたりをゆっくりと辿っていく。その感触は思っていたよりも薄く、しかし無防備だった。指の腹で骨の形を確かめ、背中のくぼみにそって手を滑らせていく。小阪はまったく反応しない。肩も揺れないし、背筋も強張らない。まるで人形のように、あるいは壊れた時計のように、時だけを身体のなかに通していた。河内は、ふと自分の呼吸が不自然に浅くなっていることに気づいた。肌に触れているのは間違いないはずなのに、そこから得られるはずの熱も、温度も、どこか宙に浮いたままだ。無理に熱を感じようと、掌で小阪の腰に触れる。骨の出方が細く、腰骨の上を指が滑っていく。小阪の息遣いがほんの少しだけ変化したように思えた。だが、それが生理的なものなのか、それとも感情の起伏なのか、判別がつかない。ベッドの隅で、何も言わずにシーツを握る小阪の手に、少しだけ力が入った。それが快楽の証拠なのか、それともただ身体を支えるための動きなのか——河内にはわからなかった。けれど、そのわずかな動きに、理由のない安堵がこみ上げてくる。それでも次の瞬間、何かが違うと直感する。自分が求めているのは、身体が反応することではない。指の下で震える鼓動や熱や、あるいは声。そのどれもがここにはなかった。小阪の肌は冷たく、でも無抵抗で、むしろ自分を“通過”させているだけのようだった。「……寒ない?」自然に口をついた言葉だったが、小阪は答えなかった。河内のほうを見ようともしない。ベッドの上
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-28
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無音の情交

空気の層が分厚くなっていくようだった。肌と肌が触れ合い、身体が重なるごとに、言葉や音では到底埋められない何かが、ただ静かに積み重ねられていく。キスはなかった。河内は自分から唇を寄せることもなく、小阪もそれを求めなかった。ただ、河内の手が小阪の脚を開かせ、ベッドの軋む音と自分たちの呼吸だけが、室内の静寂を乱していった。小阪の身体は冷たいが、肌を撫でるごとにわずかに温もりが移ってくる。その温度さえも、どこか借り物めいて思える。河内は指先で小阪の腿をゆっくりと撫で、膝裏に手を添えた。その動きは慎重だったが、次第に確信と焦りを帯びていく。挿入の瞬間、小阪は目を閉じた。呼吸がわずかに乱れ、けれど声は一切漏れない。身体が受け入れているのは明白だった。小阪の内側が河内を締め付ける感触に、河内の心臓が大きく跳ねる。それでも、小阪は目を開かず、睫毛だけがかすかに震えている。河内はその反応を見て、自分がこの状況をコントロールしていると錯覚しかけた。だがすぐに、その感覚は消える。自分が主導権を握っているのではない。小阪はすべてを受け入れるように身を任せているが、それは彼自身が選び取った「沈黙」の形なのだ。快楽を与えられているのに、与えられた快楽を受け入れていることを絶対に口にしない。唇は開かれず、舌も、声も、いっさい自分に近づいてはこない。ベッドの上で、ふたりの身体が絡み合う。河内は小阪の中に深く入り、動きのリズムを微かに速めた。汗が額を伝い、肩甲骨から腰にかけて小阪の肌を滑っていく。熱はある。感触もある。けれど、熱を帯びた皮膚の奥に、どうしても辿り着けない隔たりが残されていた。天井の一点をじっと見つめたまま、小阪はひとつも声を漏らさない。背中が揺れ、指がシーツをつかむ。それでも彼は、口をつぐんだまま感情を抑えつけている。河内はその沈黙の奥に、かすかな痛みと抗いが混ざっていることを理解する。快楽が訪れているのに、それを認めまいとする意志の強さ。その意志ごと、押し倒してしまいたいと思った。だが、実際にそうすることはできなかった。河内の動きは次第に鈍り、重さを失いかける。小阪の中の熱が自分のものになっていない。求めているのに届かない。指先が何度も小阪の背中をなぞり、骨の形や脈の鼓動を探るたび
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-29
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涙の理由

ふたりの身体が静かに重なったまま、部屋の空気だけがじりじりと熱を孕んでいく。シーツは汗に滲み、皮膚同士の摩擦が微かに音を立てる。その音は決して快楽の絶頂を示すものではなく、むしろ静かな夜の残響だった。河内は小阪の腰を抱き寄せながら、自分の鼓動が妙に大きくなっているのを感じていた。だが、その鼓動に小阪が反応することはない。背中に爪を立てることも、苦しげな喘ぎを漏らすこともない。全身が薄い氷で覆われているような沈黙のなか、ただひたすらに熱が行き場を失っている。情交はすでに終わりに近づいていた。河内は小阪の身体の奥に溶け込むような感触を確かめながら、心のどこかで「これが何なのか」を考えていた。快楽のためだけなら、ここまで感情が波立つはずはない。だが、この夜の静けさは、自分の欲望だけを際立たせてしまう。埋められたはずの空白が、より深いものになっていく。ふと、河内の指先が、小阪の頬に触れた。その瞬間、何か冷たいものが伝った。最初は汗だと思った。汗をかいても不思議ではないほど、ふたりの身体は火照っている。けれど、指先に伝わった液体は、汗とは違う温度を持っていた。指を少し滑らせると、そこにもう一筋、細い線が伸びているのがわかった。顔を覗き込むと、小阪は目を閉じていた。長い睫毛の間から、涙がこぼれている。頬を伝い、静かにシーツへと落ちていく。その表情は、苦痛にも快楽にも見えなかった。まるで何も感じていない人形のように、ただ静かに涙だけを流している。河内はその光景に、身体がひどく重くなるのを感じた。自分が今、何をしているのか、一瞬わからなくなる。なんで、おまえ、そんな顔すんねん。その言葉が心の中で浮かぶ。なんで、そんなふうに涙を流すんや。けれど、口には出せなかった。出した瞬間、すべてが崩れてしまう気がした。ふたりを繋いでいた薄い糸が、張り詰めたまま切れてしまう。その予感があまりにも強く、河内はただ小阪の頬に触れたまま、動けずにいた。小阪は涙を拭おうともしなかった。目を閉じ、ただシーツの上で無抵抗のまま河内に身体を預けている。指先にも力は入っていない。呼吸も浅い。頬を伝う涙の温度だけが、彼がまだ生きている証のようだった。この涙は、何に
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-29
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朝の空白

朝の気配は、カーテンの隙間からわずかに漏れる白みに変わっていた。夜が終わったことを、部屋の温度が静かに知らせてくる。けれど、そこには眠気も、安堵も、残されてはいなかった。河内はベッドの端に横たわり、隣に背を向けて眠る小阪の肩越しに、明け方の空を見つめていた。まだ薄暗さの残る室内で、小阪の背中だけが妙に輪郭を持って浮かんでいる。肌に残る薄い汗の痕、乱れた髪、ベッドにくっきりとついた身体の形。何も言わず、何も聞かずに交わされた時間の余韻が、肌にまとわりつくように漂っていた。河内は、何度か目を閉じようとした。けれど、眠ることはできなかった。体内のどこかが冷えたままで、指先に残る小阪の感触だけが、じわじわと熱を持ち続けている。抱いたはずなのに、近づいたはずなのに、届かなかったという実感だけが、時間と共に重くのしかかってくる。そのとき、小阪がゆっくりと身を起こした。河内は反射的に目を閉じるふりをしたが、わずかに開いた瞼の隙間から、彼の動きを追ってしまう。小阪は無言のままベッドを離れ、椅子の背にかけてあったシャツを手に取った。皺だらけの布を一切気にせず、淡々と腕を通す。鏡の前には立つが、視線は合わせない。髪を直すことも、肌の状態を確かめることもない。ただ、着るべきものを着て、立ち去る準備をしている。パンツを穿き、ベルトを締める小阪の指は、やけに落ち着いていた。昨夜、シーツを握りしめたあの指先と、まったく同じものとは思えないほど冷静で、無感情だった。彼の背中には、もう河内の存在は映っていないようだった。河内は言葉を探した。なにか、なにかひとことでも。けれど、昨夜の涙の理由を聞く勇気も、別れの言葉を受け入れる覚悟も、どちらも持ち合わせていなかった。声にならない声が、喉の奥でくぐもったまま消えていく。小阪は、振り返らなかった。扉へ向かうその背中は、まるで最初からここに来る予定などなかったかのように、確固たる足取りで進んでいく。河内が見ているのを知っていて、なおも背を向けたまま。ドアの前に立ち、ノブに手をかける。その一瞬、時間が引き延ばされたように感じた。開け放たれるまでの数秒が、何かを期待させ、同時に絶望させる。河内の口元が、ようやくわずかに開いた。「
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-30
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残された匂い

シーツにはまだ、小阪の体温が残っていた。ぬるく湿った跡が、河内の指の腹に絡みつく。仰向けに寝たその輪郭だけがくっきりとベッドの片側に刻まれていて、それがもうすぐ乾いて消えてしまうことに、妙な焦燥感を覚える。少しでも長く残っていてくれと願いながら、河内はそこにそっと腰を下ろした。窓の外は、薄桃色の朝焼けに染まりかけている。カーテンの隙間から差し込む光が、床に長い影を落としていた。音はなかった。テレビもつけていない。カーテンの布が、わずかに揺れる音だけが耳の奥で響く。小阪の匂いがまだ部屋のどこかに残っていた。いつも身につけているあの伽羅の香り。線香とも香木ともつかない、湿った土と燻された煙のような重たく甘い匂い。香水のように主張はしないが、確実に残る。河内はその香りを吸い込んだ瞬間、昨日の夜、指先がなぞったあの冷たい皮膚の感触が蘇るのを感じた。空になったグラスが、ナイトテーブルの上に置かれている。氷はすっかり溶けて、薄まったウイスキーの香りすら漂ってこなかった。河内はそのグラスを取り上げ、縁を親指でなぞった。小阪がそこに口をつけていたのか、それとも違うグラスだったのかは、もう確かめようもなかった。なぜ、何も言わなかったのか。なぜ、涙を流したのか。そしてなぜ、何も聞かずに部屋を出ていったのか。問いは山ほどあるのに、どれも言葉にならなかった。喉元まで上がってきても、舌に乗せた瞬間、崩れてしまう。河内はベッドの端に腰を掛けたまま、ゆっくりと息を吐いた。ふたりの間に、確かに交わされた行為があった。肌が触れ合い、深く満たし、快楽が頂点まで達したはずだった。それでも、あの夜のすべてが“虚”だったような感覚だけが、今も胸の奥に残っている。小阪は、身体を差し出した。それだけだった。言葉も、感情も、微笑みさえもなかった。まるで何かを差し出すことで、自分の存在を消そうとしていたかのように、沈黙のまま差し出してきた。それを受け取った自分は、いったい何をしていたのか。慰めたかったのか、支配したかったのか、それともただ…愛された
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-06-30
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まるで、何もなかったように

オフィスビルのエレベーターが九階に止まり、扉が静かに開いた。朝九時前のフロアには、いつもと変わらぬ軽やかな会話と、コーヒーの香りが満ちていた。河内はその空気に合わせるように、わざと足音を軽く、歩幅をやや広めに取りながら廊下を進んだ。「おはようございます」明るい声を出すと、近くの女性社員がふたり、顔を上げて笑った。「タクちゃん、おはよ。髪型ちゃうやん」「ほんまや、週末どこ行ってたん?」「そんな変わった?適当セットやで。遅刻ギリギリ」軽口を返しながらも、河内の視線は一瞬、フロア奥のデスクへとすべっていた。小阪がいる。いつも通り、背筋を伸ばしてパソコンの前に座っていた。黒の長袖シャツに細身のパンツ。髪は整っており、襟元に乱れもない。だが、よく見ると、目の下に薄くクマがある。肌もどこか青白い。それでも、指先は止まることなくキーボードを叩いていた。河内は、胸の奥がわずかにざわつくのを感じながら、ゆっくりと彼の島に近づいた。「おはよう」ほんの少し、声を落として小阪にだけ届くトーンで言う。小阪は顔を上げなかった。打鍵の音が一瞬だけ止まりかけたが、わずかな間を挟んだのち、何事もなかったように再びタイピングを始めた。まるで、その声など届いていなかったかのように。あるいは、それに応じる必要などないと思っているかのように。河内はその様子に、一瞬だけ目を伏せた。自然な動きのつもりだったが、自分でも微かに表情が強張ったのがわかった。──こいつ、週末のこと全部、切り捨てるんやな。自分がまだ、あの夜の温度を引きずっていることが、途端に馬鹿らしく思えた。だが、言葉にしてしまえば、それがすべてになってしまう気がした。だから、何も言わずに通り過ぎる。小阪の側を抜けて自席に戻りながら、河内は背中越しにもう一度だけ振り返る。それでも小阪の肩は動かず、視線はモニターに釘付けられたままだった。整いすぎている。きちんとボタンを留め、襟元を正し、髪を
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-01
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平常の仮面たち

月曜午前九時半。クリエイティブ第三チームの定例ミーティングが、会議室の奥で始まった。ガラス張りの壁越しに外の光が差し込んで、ホワイトボードの端にうっすらと影を落としている。葉山が、資料をタブレットでスクロールしながら淡々と議題を読み上げていく。声は落ち着いていて、口調はいつもと変わらない。「じゃあ、今週の進行確認入ります。プロジェクトA、ビジュアル案、更新来てたよね」「はい。修正案、先ほどスライドに反映しました」小阪の声が、穏やかに響いた。一言のみ。静かで、透明で、温度のない声だった。小阪はスクリーンに資料を映し出し、レーザーポインターを持って立ち上がる。スライドの切り替え、デザインの説明──どれも必要最小限の言葉で進む。説明の途中も、目線は決して誰かに触れようとはしなかった。河内は、その横顔ばかりを見ていた。指先の動き、資料を送るタイミング、スライドの背景色に光を吸われる頬の輪郭。すべてが整いすぎていて、逆に痛い。まるで感情を塗りつぶすために“完璧”を装っているようだった。この三日間、何があったのか。あるいは“なかったこと”にされたそれは、一体、どこへ消えたのか。「…そんで、木曜までにパターンAとB、両方クライアントに出す形でええな?」葉山の確認に、小阪がうなずく。「はい、問題ありません」河内はその返事に遅れて相槌を打ちかけたが、ほんの一瞬、言葉が詰まった。──問題ない、って。何が。誰にとって。自分が何を言いたいのか、すぐにはわからなかった。ただ、胸の奥に何かが引っかかったまま、口を開けないまま黙った。「タク、そっちはどう?」「…あ、うん、営業側は先方と調整済み。スケジュールもこの通りで通ると思う」慌てて返しながら、視線を逃がすようにタブレットを見た。そのとき、向かいに座っていた森の視線がふと、小阪へ向けられたのを感じた。森──ディレクター職、三十一歳。小阪とは美大の同
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-01
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あの日の名残

オフィスの時計が正午を指した瞬間、フロアの空気が一気に緩んだ。キーボードを叩く音が少しずつ減り、電子レンジの稼働音や紙袋のシャカシャカという音が代わりに広がっていく。誰かの笑い声が会議室の方から洩れ聞こえ、空調の風音がその隙間を縫って低く唸った。河内は、自販機の前に立ち尽くしていた。紙コップのコーヒーから立ちのぼる湯気を見つめながら、浅い呼吸を何度も繰り返す。眠っていないような感覚が、まだ背中のあたりに張り付いていた。あの夜の、無音のまま絡み合った身体と、朝のドアが閉まる音。どこを切り取っても、感触だけが鮮明に残っていて、記憶の奥がずっとざわついている。カップを口に運びながら、自販機横の小さなスペースに背を預けた瞬間、廊下の向こうから軽い足音が聞こえてきた。何気なく顔を上げたその先に、見慣れた細身のシルエットがあった。小阪だった。黒のシャツに、耳にはイヤホン。歩幅は一定で、姿勢は崩れず、誰とも視線を交わさないまま、真っ直ぐこちらに近づいてくる。河内は反射的に声を出しかけた。「なあ──」けれど、声は半分で止まった。喉の奥に何かが詰まり、呼び止めるには弱すぎたその一音は、空気に溶けていった。小阪は立ち止まらなかった。こちらを見ることもなく、すれ違う寸前にイヤホンのコードを指先で無意識になぞっていた。白く長い指が、線の先をゆっくりとたぐる仕草。それが妙に幼く見えて、河内の胸に引っかかる。すれ違いざま、ふと微かに、香が鼻をかすめた。伽羅。あの夜と同じ匂い。湿った木のような、熱を孕んだ香り。微かで、だが確実に、肌の裏側に触れてくるようなその残り香に、河内の指先が小さく震えた。思わずコーヒーのカップを握りしめた。液体が少し溢れ、熱が手のひらを掠める。舌打ちをこらえながら、自販機横のゴミ箱へと投げ捨てた。カップが内側にぶつかって響いた音が、周囲のざわめきとは異質に感じられた。小阪の背中
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-07-02
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