Lahat ng Kabanata ng 「好き」って言えなかったあの夜を、超えて~壊れた心と身体を、少しずつ繋ぎ直す恋: Kabanata 31 - Kabanata 40

48 Kabanata

これから、こいつと組む

午前の打ち合わせが終わり、社内は一瞬だけ安堵のような空気に包まれていた。昼休憩前の、わずかな静けさ。キーボードを打つ音も途切れ、電話のベルも鳴らず、書類の束が机に置かれる音だけが、時折耳に入る。そんな時間帯だった。第三クリエイティブチームの島では、河内と小阪がそれぞれのデスクに戻っていた。隣り合っているわけではないが、間には共有の棚があり、視線を上げれば、ちょうど互いの横顔が見える距離だった。河内はノートパソコンに視線を落としたまま、右手でマウスを動かしていた。進行表を確認して、昼以降のスケジュールを見直しているふりをしていた。実際、内容はすでに頭に入っていた。だがそれでも、もう一度見直してしまうのは、意識がどこか他所に引っかかっている証拠だった。小阪は、ディスプレイの奥に沈むようにして椅子に深く腰掛けていた。姿勢はほとんど変わらず、指先がマウスを滑らせる動きだけが生きていた。顔は半分、画面の光に照らされていたが、まばたきのタイミングすら正確すぎて、まるで機械のようだった。そのときだった。ふたりの島の横を通りかかった葉山が、ふと立ち止まった。手にはiPadと書類が挟まれたバインダー。オフィスカジュアルな服装の中に、いつも通りの淡い香水がわずかに香る。「なんや、あんたら。雰囲気、ええやん」軽く言ったその声に、河内は顔を上げた。タイミングを計っていたかのように、笑みが浮かぶ。「いやあ、俺が無理言うて組ませてもろたんで。これから、こいつと組むんですわ」冗談めかしたその口調の裏に、ほんのわずかなためらいが混じっていた。笑っている顔の奥で、喉の奥に詰まった何かを押し下げるような感覚。口調は軽い。関西弁もいつものトーン。だが、笑いの形がほんの少しだけ崩れていた。葉山は「ふうん」とだけ返し、にやりと笑って去っていった。あっさりとした足取り。だが、その背中が見えなくなったあとも、場には小さなざわめきのようなものが残った。河内はすぐに視線を戻したが、その瞬間、小阪の方に目が向いてしまった。意識していたわけではない。だが、自然と視線が滑る先には、やはりあの男がいた。小阪は、何も言わなかった。顔を動かすでもな
last updateHuling Na-update : 2025-07-07
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無言の合図

ホテルのロビーは夜の湿気を吸い込み、どこか埃っぽい匂いが漂っていた。フロントの奥では機械的なやりとりが続いているが、ふたりの間には、誰も介入しない静かな空気が流れていた。河内は待ち合わせ時刻の五分前に到着し、エレベーター脇の壁にもたれていた。スマートフォンを弄るでもなく、ただ無為に壁紙の質感を指でなぞっていた。ほどなくして、小阪がやって来た。黒いフードのついたパーカーの裾から、濡れた髪が覗いていた。首筋にはまだ雨の香りが残っていて、まるで外の気配をまとったまま室内に入り込んだような、そんな印象だった。小阪は何も言わない。河内も頷くだけで、互いに視線を交わすことすらしなかった。ふたりはエレベーターに乗り込む。密閉された小さな箱の中、照明がぼんやりと顔を照らしている。背中合わせのような距離感で、ただ沈黙のまま階を上がる。小阪が髪をタオルで押さえる仕草をするたび、濡れた毛先から水滴がパーカーの肩に染みこんでいった。ドアが開く。河内が先に降り、無言で足早に部屋の前に立った。キーを差し込んで解錠し、部屋のドアを開ける。手首を引くこともなく、小阪が後ろから入ってくるのを待つ。その一連の流れは、もう何度も繰り返された儀式のように無駄がなかった。部屋の照明は薄暗い。カーテンがきっちりと閉じられ、外の雨音も、街の喧騒も遮断されている。壁際にはセミダブルのベッド、簡素な机と椅子、ユニットバスの曇りガラスが淡く反射している。空気清浄機の低い唸りだけが、空間に残る音だった。バッグをソファの上に置くと、小阪は淡々とパーカーを脱ぎ、ハンガーにかける。その下には薄手のグレイのTシャツ。首もとから覗く鎖骨の下、白い肌に雨の冷たさがまだ残っているように見えた。河内はそんな様子をちらりと横目で見ながら、自分もスーツの上着を脱ぐ。「…先、浴びてええで」ほんの短い言葉だけが、空間を横切る。河内が言った。小阪は頷きもせず、わずかに眉を動かしただけで、バスルームへ向かった。ドアが閉じる音が、乾いた。河内はベッドサイドの小さなテーブルに腰かけ、手持ちのバッグから取り出した箱を確認する。避妊具と潤滑剤。どちらも、淡々とした準備の一部。中身を確認し、再びバッグの奥にしま
last updateHuling Na-update : 2025-07-07
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快楽だけが残る夜

ベッドの上は、余計なものが何もなかった。白いシーツが褪せて波打ち、壁際のスタンドが淡い影を落とすだけ。空調の低い唸りと、ふたりの微かな呼吸音だけが、この空間を満たしていた。河内は、小阪の右側に体を沈め、そっとその細い肩に手を添えた。小阪は顔を横に向けていた。目は閉じているが、まつ毛の影が頬に落ち、薄暗い部屋の中でも、その輪郭だけは際立って見えた。肌は冷たかったが、じきに河内の手の熱が伝わる。首筋には、まだ微かに雨の匂いが残っている。唇が、首筋をなぞる。小阪の体がほんのわずかに反応する。だが、それは快感の表れか、単なる生理的な反射か、河内には判別がつかなかった。左手を滑らせ、Tシャツの裾を持ち上げる。小阪は抵抗もせず、ただ腕を緩めて河内に身を預ける。無音のまま、行為が始まる。河内は、できるだけ丁寧に、だがどこか執拗な手つきで小阪の身体を愛撫した。指先で鎖骨をなぞり、唇を胸骨の真上に落とす。そのたびに、小阪の呼吸が少しだけ速くなった。それだけが、唯一の反応だった。…お前、ほんまに、なんにも思ってへんのか心の奥で、声にならない問いが渦を巻く。肉体は確かに反応している。けれど、どこまでいっても、感情が伝わってこない。目を合わせようと顔を近づけても、小阪は決して視線を返さない。河内がどれだけ身体を求めても、小阪は何も求めず、ただされるがまま、その役割だけを果たしている。下着を脱がせ、脚を絡める。手のひらで太腿の内側を撫でると、小阪の指先がシーツをつかんだ。無意識に力が入る。シーツの上に、うっすらと爪の跡が残る。腕が痙攣したように震え、肩甲骨が浮かび上がる。河内はその動きに一瞬だけ欲情し、同時に苛立ちを覚えた。…ほんまに、何も思ってへんのか。せやのに、こんなに感じてる癖に河内は、わざと視線を逸らさずに小阪の顔を見つめる。だが小阪の瞳は閉じられ、表情には何も浮かばない。汗がこめかみを伝い、頬に一筋の光が生まれる。それが涙かどうか、河内にはわからなかった。見分けようと指で拭っても、小阪は何も言わなかった。唇で耳たぶを軽く噛み、背中を舐める。小阪は声を出さない。喉の奥で、時折息が詰まるような音
last updateHuling Na-update : 2025-07-08
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沈黙という後始末

行為が終わると、部屋の中の空気は一気に冷えていく。どちらが先に動くでもなく、しばらくは汗ばんだシーツの上に身体を投げ出し、天井を仰いでいた。小阪はやがて、ごく小さな動作でベッドの端に腰を下ろし、何も言わずタオルと着替えを手にとる。その後ろ姿は、まるで余計な空気すら纏いたくないとでも言いたげな静けさだった。バスルームのドアが閉まると、すぐにシャワーの音が響きはじめる。真夜中のホテル特有の薄い壁越しに、その水音だけがくっきりと部屋に届く。パラパラと床に落ちる水の連続音。時折、湯を手のひらで受ける音が混じる。それが妙に生活じみていて、なぜか現実感を引き寄せる。河内は裸のまま、枕元に座りなおした。汗の滲んだ身体が急に冷え、ひとつ大きく息を吐く。乱れたシーツを指先でつまむと、湿った布がぐしゃりと音を立てた。何かを言おうとしたわけではない。ただ、その空白の時間に耐えきれず、ベッドサイドの小さな灰皿を手に取る。パッケージから煙草を一本抜き、フィルターを唇に挟む。ライターを手にして親指で火花を起こそうとするが、指先が思ったように動かない。カチリ、という音が二度、三度と虚しく響く。火がつかない。焦れたように、河内は何度も指を弾いた。静寂の中、その音だけが妙に大きく感じられる。シャワーの水音は絶え間なく続く。やがて、その向こうから微かな鼻をすする音が混じった。泣いているのか、ただ鼻をすすっただけなのか、判別はつかない。河内は何度か耳を澄ませたが、確信には至らなかった。だが、その水音の合間にかすかに聞こえたその音が、胸の奥に重く残った。鏡がベッドの脇に設置されていた。角度を変えれば、扉越しにバスルームの明かりが微かに映り込む。河内は無意識にその鏡を見つめる。視線の奥、すりガラス越しにぼんやりと揺れる小阪の影が映っていた。肩から背中へ、タオルが何度も滑る。小阪の腕が頭上に伸び、髪を無造作に拭うたび、骨ばった肩甲骨が浮かび上がった。バスルームの明かりが、一瞬だけドアの隙間から漏れた。小阪はそのまま、タオルで濡れた髪を覆いながら部屋に戻ってくる。無言。視線は落ちたまま、鏡を意識することもなく、自分の鞄の方へ歩く。その横顔に、何か感情の痕跡が残っているかどうか、河内にはわからなかった。目尻のあた
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タクシー乗り場、交わらぬ目線

ホテルの部屋を出ると、廊下にはまだ夜の湿気が残っていた。河内は無言でエレベーターのボタンを押す。すぐにやってきた箱の中、ふたりは壁を背にして立ち、互いの影が床に伸びるだけだった。鏡面にぼんやり映る輪郭を、どちらも意識していないふりをしていた。上着の裾を整える河内の動きに、小阪が少しだけ間を空けて続く。タオルで拭ったばかりの髪が、夜風に当たって乾きかけていた。ロビーに降りると、ソファに腰かけた若いカップルの笑い声が微かに響いてきた。夜のホテルは、どこか非現実的な静けさに包まれている。河内はカードキーを返却し、足早に自動ドアへと向かう。その間、小阪は数歩後ろをついてくる。会話はなかった。必要な言葉はすべて、もう使い果たしてしまったかのように。自動ドアの向こう、夜気はしっとりと肌にまとわりついた。雨上がりの舗道には、街灯の明かりが滲み、アスファルトの凹凸に光の粒が散らばっている。タクシー乗り場には、既に二台の車が並んでいた。運転手が窓を開け、こちらを一瞥する。ふたりは当たり前のように並ぶこともなく、微妙に距離を空けて立った。手元でスマートフォンを確認する河内。小阪はその隣で、バッグのストラップを指で弄んでいる。目線は下がったまま。わずかに夜風が流れ、濡れた髪が額にかかる。「…じゃあ、先行くわ」河内はタクシーのドアを開けながら、かすかに言った。別れの挨拶でも、次の約束でもなかった。ただ、会話の名残のようなもの。小阪は一瞬、視線を上げかける。だが、目が合う寸前でそのまま遠くの車のライトに焦点を逸らす。ドアが開いた瞬間、小阪の身体がごく僅かにこちらへ傾いた。振り向こうとしたのか、それとも無意識に身体が反応しただけなのか、河内には判断がつかない。ただ、その動きがあまりにも一瞬で、すぐに元に戻ってしまった。河内はタクシーのシートに身を沈め、ドアが閉まるまでの数秒だけ、小阪の立ち姿を横目で見ていた。信号待ちの間に窓ガラス越しに映る、夜の湿った道路。その反射の中に、赤いテールランプが滲んで揺れる。雨上がりの舗道が、まるで水面のように光を呑み込み、車の動きに合わせてかすかにゆらぐ。「こんな関係、長く続くはずないって、わかってんのに」
last updateHuling Na-update : 2025-07-09
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それでも、また触れたくなる

タクシーのドアが閉まると、車内の空気がゆっくりと沈んだ。外は雨上がりの夜、街灯の光が濡れたアスファルトを滑るように走っていた。車は静かに走り出し、ワイパーの音がリズムのように耳に残る。河内はシートに身体を預け、窓の外をぼんやりと眺めた。隣のシートには誰もいない。わかっていたはずなのに、左手が自然とそこへ伸びかけたことに、ふと気づく。肩のあたりまで伸ばしたその手を、何でもないように下ろす。誰も乗っていないシートの、何もない空間を掴みかけた自分の指先が、じわじわと痺れるようだった。運転手は無言で、淡々とハンドルを操っていた。車内には低くボリュームを絞られたラジオの音。周波数が合っていないのか、音楽の合間にノイズが混じる。古びたスピーカーから流れるその音は、河内の神経を静かに擦ってくる。耳障りではない。むしろ、そのざらつきが今の自分に丁度よかった。信号で車が止まる。フロントガラスの向こう、赤い光が滲んでいる。その赤に照らされた瞬間、小阪の横顔が脳裏に浮かぶ。額にかかった濡れた髪、伏せたままの目元、そして、左耳のピアス。黒いスタッズ。あれが光るたびに、なぜか心がざわついた。抱いたことはある。でも、触れたことはないんやその思いが、不意に胸の奥からせり上がってくる。何度、あの身体を抱いても、どこかで届いていない感覚。どれだけ深く繋がっても、小阪の内側には触れられない。あの無言の夜が、それを確実に証明していた。スマートフォンが、ジャケットのポケットの中で微かに重さを主張する。取り出し、ロックを外す。通知は来ていない。わかっていたはずなのに、それを確認する動作自体が、既に習慣になりかけていることに気づく。連絡先一覧を開く。指が自動的にスクロールしていく。そこに並ぶ名前たちの中、小阪の名前を見つける。平仮名三文字、整った字面。指先がそこにかかる。だが、そのまま画面を閉じた。何を送るつもりなのか、自分でもよくわからなかった。確認だけして、何もせず終わる。それが、ここ最近の決まりごとのようになっている。またひとつ、信号を越えた。街は静かだった。雨に濡れた道路の反射が、どこか夢の底のようで、現実感が薄い。車内の暖房がじわじわと足元に滲んでくるが、そのぬくもり
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濡れた足音

夜の街はすっかり雨を上がっていたが、空気にはまだ水気が残っていた。アスファルトに染みた水は、街灯の光を吸い込みながら鈍く反射している。細かい霧のような粒がまだ舞っていて、歩くたびに足元がわずかにしめる音を立てた。「夜色」の看板が、いつものように淡く灯っている。小阪はその前に立ち、静かに傘を閉じた。革の持ち手に残った湿気が、手のひらに吸い付く。傘を軽くたたんで脇に寄せたまま、しばらく顔を上げる。黒い雲の下、空は深い紺色をしていた。星は見えないが、遠くでビルの灯がぼやけて瞬いていた。額に貼りついた前髪から、水が一滴、静かに頬を伝って落ちた。小阪はそれに気づいた素振りも見せず、そのまま扉に手をかける。重みのある扉が、かすかに軋んで開いた。中に入ると、薄暗い照明の中に、静かに流れるジャズが耳に触れた。低く、柔らかく、まるで床を這うような音色。店内は空いていて、奥の席に中年の男がひとり、グラスを傾けているだけだった。香月がカウンター越しに顔を上げ、小さく会釈をする。いつものように、目元にだけ笑みを浮かべて。「こんばんは」香月が言ったが、小阪は言葉を返さなかった。ただ、目だけを軽く伏せ、ゆっくりとカウンターの端に歩いていく。足元から水がしみ出し、木の床に濡れた跡を残していく。その足音は濁りも主張もなく、ただ、そこに存在していた。椅子に腰を下ろすと、濡れたジャケットの袖口が肘掛けに触れた。布がわずかにきしんだ音を立てる。小阪は無言でカウンターに視線を落とし、香月が差し出したメニューを受け取ることなく、ほんの小さく首を振った。それが「いつもの」という合図だった。香月は頷いて、氷を慎重に選びながらグラスに入れる。ウイスキーの瓶が開かれる音、琥珀色の液体が氷に沿って流れ落ちる音。静けさの中に、音だけがくっきりと響いた。グラスを差し出されると、小阪は両手で受け取った。片手だけでは、きっと震えが目立ってしまうと思ったのかもしれない。実際、彼の指先はかすかに揺れていた。グラスの側面に触れる肌が、氷の冷たさに驚いたように一瞬だけ緊張する。「今日は、ひとり?」香月の問いかけは、あくまで柔らかかった。探るような響きではなく、ただ、そこに存在する事実を
last updateHuling Na-update : 2025-07-10
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壊れたものは、壊れたものを呼ぶ

香月は音もなく手を動かしていた。カウンターの奥で、布巾に包んだグラスの腹を丁寧に磨いている。動きには迷いがなく、指先は一杯目のウイスキーを空けた小阪のタイミングを見計らうように、自然に二杯目の準備を始めていた。瓶のコルクを抜く音はせず、既に注がれていた分をそっと手元に滑らせるだけだった。小阪は視線を下げたまま、何も言わずにグラスを受け取る。香月の爪がわずかに赤く染められているのが、氷越しに揺れて見えた。まるで他人の指が水の中で踊っているような感覚がした。ガラスの縁に触れた指先が、きゅっと冷たさに縮む。それでも、小阪はグラスを口に運ぶ。沈黙の中、喉を通る液体の熱さだけが、確かに現実を証明していた。「ここはね、壊れてる子ばっかりが来るのよ」香月の声は、急に落ちた。けれど、その響きにはどこか柔らかさがあった。まるで、子どもに話しかけるようなトーンで、優しさと残酷さを同時に含んでいる。グラスを磨く布の音と重なって、音楽の流れをかすかに断ち切った。小阪はその言葉に、顔を上げなかった。眉ひとつ動かさず、ただ、耳の奥に音だけを落とし込んでいた。まぶたの陰に少しだけ力が入る。それを表情には出さないまま、また一口、ウイスキーを含む。香月は、続ける。「でもね、壊れてる子って、ちゃんとわかるのよ。同じ匂いがするから」声は静かだった。音量も抑えられていた。だが、それが逆に耳に残った。夜色の空気が一段と静かになったように感じられるのは、香月の言葉が周囲の音を吸い込んだからかもしれない。小阪はグラスを置かなかった。指先をわずかに揺らしながら、氷の音を立てた。それは返事でも反発でもなく、ただその場に居合わせているという合図のようだった。「ここにはね、誰も正しさを持って来ないの」香月の言葉は、グラスの中で氷が鳴った瞬間に重なった。その言葉がどこまで本音で、どこからが嘘なのか、小阪には判断がつかなかった。けれど、それを判断すること自体が間違いのような気がした。「壊れてる子は、壊れたもんを呼ぶんよ」香月はグラスの内側を見つめながら、ふっと息を吐いた。その吐息がまるで霧のように夜色の空気を濁らせる
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過去が揺らぐ音

夜色の店内に、唐突に静かな旋律が流れ込んできた。誰かが、奥のピアノに手を置いたのだ。鍵盤が最初に発したのは、ためらいがちな一音。その後を追うように、スタンダードな旋律が、か細い糸のように空気を震わせた。曲名は、知っているようで思い出せなかった。ただ、その音色にはどこか懐かしさと、何かを押し殺すような哀しみが滲んでいた。小阪はその音に、まぶたをわずかに伏せた。ピアノの旋律が、彼の耳の奥でゆっくりと輪郭を広げる。けれど、それに顔を上げることはなかった。グラスを持つ手は止まらず、口元に運ばれるウイスキーの琥珀色が、間接照明に淡く揺れた。音楽は、言葉よりも容赦がない。特に、それが記憶と結びついたとき、音は匂いとともに過去の襞に入り込む。小阪の脳裏に、濡れたカーテンの匂いが立ち上った。雨に打たれた部屋の空気。しめった畳。誰かが吸っていた煙草の匂いが混じる空気の中、濡れた制服のまま座っていたソファの感触。指先に残っていたのは、細い手首の感触と、掴みきれない誰かの温度だった。その空間には、言葉がなかった。確かに名前は呼ばれていたはずなのに、いま思い出そうとすると、音が掠れて聞こえなかった。耳の奥でくぐもるように、名を呼ぶ声がある。だが、それが誰の声だったのか、記憶のなかの音と匂いは、映像を伴ってくれない。小阪の手元が、ごくわずかに揺れた。グラスの底がカウンターの表面に触れ、その衝撃が静かに跳ね返る。ピアノの旋律とまるで共鳴するかのように、その音がタイミングよく重なった。店内の空気が一段と沈む。香月は、何も言わない。ただ、グラスを磨く手を止め、ゆっくりと彼を見ていた。視線には干渉の意図はなく、ただそこに“在る”という態度が滲んでいる。小阪はまたひと口、酒を喉に流す。ピアノの音が一段深くなった。低音が静かに鳴り、旋律がわずかに上擦る。小阪の目は閉じられないまま、視線の焦点を失っていた。カウンターの木目を見つめてはいたが、その奥にはもう違う空間があった。――濡れた手を握られた感触が、指の間に蘇る。けれど、それはあまりにぼんやりとした記憶で、彼の口をついて出ることはなかった。胸の奥が一瞬だけ疼いた。言葉にすれば崩れてしまいそうなその
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それでも口を開かない理由

香月がゆっくりとウイスキーのボトルに手を伸ばしたとき、小阪の指がほんのわずかに動いた。止める、という意思を明確に示したわけではない。ただ、空いたグラスに新たな液体が注がれる、その静かな儀式を拒むように、手の甲を浮かせて目を伏せた。その動きは、香月には充分だった。彼は瓶の口を戻し、静かにグラスを脇へ滑らせた。琥珀色の液体がこぼれることもなく、氷の音だけが短く響いた。「言わないのね」カウンター越しに聞こえた香月の声は、責めるでもなく、慰めるでもなかった。むしろ、長く夜に生きてきた人間だけが持つ、静かな受容の色があった。まるで、既に誰かの答えを待つことを諦めたような響きだった。声の奥に、余白があった。小阪は応じなかった。指先はグラスに触れたまま動かず、視線は相変わらず木目の一点に落ちていた。眉もまぶたも動かさず、時間だけが彼の中を通り過ぎていった。香月が何かを言おうとしたその瞬間、小阪の喉が小さく動いた。かすれた音が、ようやく口から零れる。「言っても、誰にも届かんから」その言葉は、小さく、けれど異様に重かった。まるで、水底に沈んでいた石を、突然水面に浮かべたような響きだった。口調に感情はなかった。淡々としていた。だが、その言葉の奥には、明らかに諦めと痛みが沈んでいた。香月はしばらく、動かなかった。目の前にいる若者の背中を、静かに見つめる。彼の声があまりにも乾いていたから、その熱のなさが、逆にどれほどの時間を通ってきたものかを感じさせた。言葉にするという行為が、どれほど彼にとって不要で、恐ろしく、そして無意味だったか。小阪はなおも顔を上げなかった。だが、喉の奥でひとつだけ息をのむ気配があった。それは嗚咽ではなかった。ただ、声を出してしまったあとの、反射的な呼吸だった。まるで、思わず口を開けてしまったことを悔いるように。そのとき、店内の空気がふっと変わった。音楽はまだ流れている。ピアノの旋律も、グラスの氷の音も、背景として確かに存在していた。けれど、香月の前で沈黙する小阪の姿だけが、浮き上がって見えた。「届かないって、どうして決めたの?」香月はそうは言わなかった。言うべきではないと
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