グラスの底に残っていた氷が、時間の経過を物語るように小さくなっていた。琥珀色の液体はすっかり消えて、溶けた水が光をゆらりと屈折させている。小阪はそれを見つめたまま、もうひとつ息を吐いた。音を立てずに、唇から空気だけがこぼれていく。静かにグラスをカウンターに置くと、彼はゆっくりと席を立った。背筋を丸めることもなく、堂々とした態度でもなく、そのどちらでもない中間にあるような姿勢だった。コートの裾が揺れ、椅子の脚が床に擦れるわずかな音だけが空気を割いた。香月はグラスを拭きながら、軽く視線を上げた。目が合ったのか、合わなかったのか、定かではない。それでも、小阪の背中に向かって声をかける。「また来なさいよ。誰も話しかけんとは限らんけどね」言葉の端に、笑いの色を滲ませていた。あくまで軽く、どこにも重さを残さないように。けれど、その柔らかさには、確かに“気配り”という名の痛みが含まれていた。小阪は、立ち止まりはしなかった。ただ、その一言に、頬がかすかに動いた。笑ったのか、皮肉に反応したのか、それともただ筋肉が一瞬ゆるんだだけなのか、それは香月にも、本人にもわからなかった。ただ、確かにその一瞬、彼の顔には生の気配が差していた。扉を開けると、夜の空気が肌に当たった。雨は止んでいたが、路地はまだ濡れていて、アスファルトが街灯の光を濁らせていた。傘を広げる必要はなかったが、小阪は傘を開いた。骨が張る音が、闇のなかに小さく響いた。濡れた路地を、一歩ずつ歩き出す。足音は静かで、靴の底がわずかに水たまりを踏むたびに、小さな跳ねが生まれる。それはまるで、誰かの記憶を踏みつけるような、感情の波紋を拒むような、冷たい足音だった。後ろから、店内のピアノの音が漏れてくる。扉が閉まっていても、その旋律は夜気に乗って、耳の奥に忍び込む。誰かが弾くその曲は、穏やかで、どこか祈るような響きを帯びていた。だが、小阪の背中はその音に振り返らない。歩みを止めることもなく、ただ前だけを見て進んでいく。街の灯りは、濡れた地面に赤や黄色の跡を残しながら、彼の靴の下で揺れていた。けれど、その色彩さえも、小阪の中には入ってこなかった。彼の歩き方には、どこか
Last Updated : 2025-07-12 Read more