結婚を目前に控えた一か月前、朝倉達哉(あさくら たつや)は幼馴染みの佐伯麻衣(さえき まい)と子どもを作ると告げてきた。私は即座に反対した。けれど達哉は毎日のようにその話を持ち出し、絶対に成立させる取引のように私を追い詰めてきた。結婚式の二週間前、私のもとに差出人不明の封筒が届いた。中には、私立クリニックからの妊娠検査の報告書が入っていた。【佐伯麻衣 妊娠5週目】その文字を見た瞬間、悟った。達哉は最初から私の意見など求めていなかったのだと。すでに答えは出ていた。ただ「正式な婚約者」である私に、一言告げただけだったのだ。私はマンションの窓辺に座り、煌めく街灯を眺めながら、体の奥がじわじわと冷えていくのを感じていた。翌朝、式場の予約を取り消し、招待状を破り捨て、彼から贈られた指輪も、自筆の誓いの手紙も、すべて炎にくべた。結婚式当日、私は会場へは向かわず、一人でI国行きの便に乗った。国際医療センターに所属し、医師としての新しい人生を歩み始めた。その瞬間から、私は達哉とのすべてを断ち切ったのだ。「何度も言っただろ?麻衣にはもう時間がない、白血病の末期なんだ」達哉はいつもの優しい声で淡々と続けた。「余命は一年だと医者に告げられた。麻衣の最後の願いは、家の血筋を絶やさないことなんだ。彼女は俺の命の恩人だ。これはただの借りじゃなく、両家の恩義の証だ」その言葉の一つひとつが、私の胸を鋭く切り裂いた。五年前、路地裏で抗争に巻き込まれ撃たれた達哉を、佐伯麻衣が庇って弾丸を受けた。あの日以来、彼女は達哉の中で「命の恩人」として特別な存在になったのだ。でも私には理解できなかった。私を裏切ってまで、恩返しすることの意味が。「ただの人工授精だよ」達哉はそう言って私を説得し続けた。「彼女とは何もない。ただ子どもを残すだけだ」少し黙った後、達哉は複雑な目をして私を見つめた。「奈々(なな)、俺のことを愛してるんだろ?だったら味方してくれよ」私の中で何かが崩れ落ち、立ち上がった私は震える声で叫んだ。「達哉、来月には結婚するのに……私に黙って、他の女に子どもを作らせるなんて……私って、一体何なのよ!」達哉は黙り込んだ。目を伏せた彼の顔に、一瞬だけ迷いがよぎった。それが後ろめたさなのか、いつもの計算なのか、私に
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