All Chapters of 秋寒に海棠、空に舞う: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

でも、になって彼女は電話に出ず、署名済みの離婚届を一枚残して、跡形もなく姿を消した。これって、もう愛想を尽かされたってことなのか?悠翔はそれ以上考えるのが怖くて、再びスマホを手に取り、秘書に電話をかけた。「全員動員して、今すぐ棠花を見つけ出せ」棠花の消息が分からないままでは、どうしても落ち着かない。あの写真と動画は一体どこから来たのか、あの挑発的なメッセージは一体誰の仕業なのか――彼は確かにすべてのリスクを潰したはずだった。じゃあ、どうして?その瞬間、閃いた。これができるのは、陽菜しかいない。彼は急いでパソコンを開き、見落としていた小さなアイコンに気づいた。それは陽菜のサブアカウントと一致していた。「生きてるのが嫌になるくらいのバカかよ!!!」怒りに震えながら、画面の中の女を睨みつけた。今すぐ引きずり出して、思いっきり叱り飛ばしたい気分だった。彼は何度も陽菜に言い聞かせてきた。棠花だけは絶対に手を出すなと。どんなにわがままを言っても、棠花にさえ手を出さなければ、何でも許してやると。だが、彼は忘れていた。人間は欲深い生き物だということを。甘やかしすぎたのは自分だ。自分が陽菜を調子に乗らせた。しかも今、彼女は妊娠しており、ますます図々しくなって、堂々と彼の隣に立とうとしている。悠翔は、自分の手口が完璧だと思っていた。だが、それでも陽菜にバレてしまった。でも、それって本当に自分だけが悪いのか?棠花が何も言わずに出ていったのは、許されることなのか?彼女は、やり直すチャンスすらくれなかった。確かに、自分は外に女を囲っていた。でも人生は長い。ずっと一人の相手だけを愛し続けろなんて、無理な話じゃないか?それに、棠花は耳が不自由だ。彼は一生面倒を見ると誓った。その言葉に嘘はない。実際、彼女のために何年も医者を探し続けてきた。でも棠花は、そんな努力を顧みず、わがままばかりだった。親友が言っていた通り、彼は棠花に甘すぎたのだ。そう思った悠翔は、棠花を見つけたら、ちゃんと話し合おうと決めた。彼女の性格を少しは直させるべきだ。十年も彼女に合わせてきたのだから、今度は一度くらい自分に合わせてくれても、バチは当たらないはずだ。「伊藤社長、奥様が見つかりました。彼女は……」報告の前に、秘書は迷っていた。棠花は悠翔にとって命のよう
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第12話

現実は無情にも悠翔の幻想を打ち砕き、容赦なく彼に平手打ちを食らわせた。彼はソファに崩れ落ち、酒をあおりながら呆然としていた。床には酒瓶が散乱し、顔には酔いが滲んでいたが、その目には絶望の色が沈んでいた。やがて吐き気を催し、トイレに駆け込む。鏡に映った自分の無様な姿を見た瞬間、不意に棠花とのレストランでのデートの日を思い出した。彼女は顔を上げ、穏やかな表情で手話を使って語りかけてきた。「悠翔、結婚した日のこと、覚えてる?あなたは私に誓わせた。もしあなたが過ちを犯したなら、黙って去る、謝るチャンスなんて与えるな、許される資格なんてないからって」まさか、あの時すでに彼女は陽菜とのことに気づいていたのか?まさか、あの言葉にそんな意味が込められていたなんて。まさか、彼女はちゃんとチャンスをくれていたのに、それを自分が無駄にしていたなんて。でも、彼は一度だって彼女を愛しなくなったことなんてない。心はずっと彼女だけを向いていた。ただ、欲に駆られて過ちを犯しただけで、愛しているのは彼女一人だけだったのに……「棠花……俺が悪かった。でも、なんでそんなに冷たいんだよ……」悠翔は顔を上げ、鏡に映る自分の顔を見つめた。かつての自分が心底憎らしくなり、拳で鏡を叩き割った。「全部お前のせいだ。お前が棠花を殺したんだ」ガラスの破片が手の甲に突き刺さったが、痛みは感じなかった。あるのはただ、果てしない後悔だけ。血と涙が指の隙間から混じり合って流れ落ちる。彼は人間のようでもあり、亡霊のようでもあった。棠花を失った彼にとって、生きる意味はもうなかった。電話越しに沈黙が続くのを不審に思った秘書が慌てて別荘に駆けつけた。玄関を開けると、そこには地面にひざまずいて泣き崩れる悠翔の姿があった。彼は驚愕した。十年以上も悠翔に仕えてきたが、こんなに取り乱した彼を見たのは初めてだった。普段ならスーツの小さなシワすら許せない男が、今は床に倒れ、シャツはワインで真っ赤に染まっていた。秘書は首を振りながら床の酒瓶を片付け、悠翔をソファまで引きずって寝かせると、そのまま静かに去っていった。悠翔が酒から覚めた頃には、感情も少し落ち着き始めていた。彼はシャワーを浴び、新しいスーツに身を包み、外へと出かけた。一時間後、彼は陽菜の家の前に立っていた。ちょうど目
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第13話

「悠翔、聞いて……説明させて……」陽菜は完全に取り乱し、言葉がうまく出てこなかった。いつものように悠翔の服の裾を掴んで甘えようとしたが、彼はその手を振り払った。唾を飲み込みながら、陽菜は必死に言葉を紡ぐ。「これ……私にも、どうしてこうなったのか、全然わからなくて……」男は何も言わず、しかしその圧のある視線を一瞬たりとも外さなかった。陽菜は目を合わせることができず、怯えたように体を震わせる。悠翔とは三年付き合ってきた。彼女のすべての仕草が何を意味するか、彼にはわかっていた。ましてや、証拠は目の前に揃っていた。彼女がどんな言い訳を並べても、悠翔は一言たりとも耳を貸すつもりはない。彼がここに来たのは、ただ彼女を痛めつけるためだった。「陽菜……俺が与えすぎたのか?お前、自分の立場を勘違いしてるんじゃないか?前にも言ったよな。棠花は俺の人生で一番大切な人だ。彼女に手を出すってのは、死にたいってことだぞ」陽菜は息を殺すようにして、視線を逸らした。彼が棠花を一番大事にしていることなんて、わかっていた。けれど、どうしても一発逆転を狙いたかった。だって、彼の子どもをお腹に宿しているのだから。「わかってる……でも悠翔、私、本当にあなたが好きすぎて……恋に目がくらんじゃったの……」悠翔は薄く笑った。その瞳に浮かぶのは、冷酷な狂気。彼は身をかがめて、陽菜の顎を掴み、強引に顔を上げさせた。「目がくらんだんじゃなくて、最初から脳みそがないだけだろ。あの日、俺が家を出る前に警告したよな?それでも棠花にメッセージを送ったのか?」彼の指が陽菜の顎を強く締めつけ、赤く痕が残るほどだった。痛みに涙を浮かべながら、陽菜は目の前の男がまるで地獄から這い出てきた悪鬼のように思えた。悠翔の狂気を知っている彼女は、必死に頭を回転させ、言葉を探す。「悠翔、わ、私が悪かったの……」「棠花に会いに行ったのは間違いだった。本当に、あなたと子どもを愛してるだけなの。子どもが生まれて、家もなくて、父親もいなかったら……私はただの可哀想な母親になっちゃうの。お願い、許して……」涙が頬を伝い落ちた。細く震える眉に、壊れそうな儚さが滲み出ていた。誰が見ても憐れに思う姿だったが、悠翔には一切通じなかった。女の答えを聞いた瞬間、彼の目はさらに鋭く冷たくなった。彼は顎を離し、親指で
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第14話

「悠翔、覚えてる?初めてオフィスで会ったとき、あなたは私のスタイルを褒めて、『君は素直で可愛い』って言ってくれたよね。私、一生素直でいるよ。子どもにもちゃんとそう教えるから。それから、バラの花畑でのことも……ずっと一緒にいたいって言ってくれたでしょ?私、すぐに仕事辞める。あなたにすべてを捧げるから」悠翔の表情は変わらなかった。無表情のまま、その目の奥にはほんの僅かに嫌悪すら浮かんでいた。彼の脳裏に「バラの花畑」という言葉が出た瞬間、思い浮かんだのは棠花だった。彼女の耳は聞こえない。外で過ごす時間の中で、誰かにいじめられたりしていないか、ちゃんとご飯を食べて、眠れているのか。十年かけて守ってきた彼女を、自分が一番深く傷つけてしまった。陽菜の「一生」なんて、欲しくなかった。ただ棠花と一緒にいたい、それだけだったのに――その小さな願いすら、目の前の女に踏みにじられた。悠翔は、冷たく一言「消えろ」と吐き捨て、躊躇なく背を向けた。陽菜はその背中にすがるように、床に膝をついて歩幅に合わせて少しずつにじり寄っていく。「お願い、悠翔……せめて、市立病院じゃなくていいでしょ……?」彼女の声は枯れ、泣き叫ぶように懇願したが、悠翔は振り返ることなくエレベーターの中へと消えていった。陽菜はその場にへたり込み、一晩中、床に座り続けた。涙は枯れ、声はかすれ、虚ろな目でただエレベーターの扉を見つめていた。吹き抜ける風が彼女の体を冷たく包み込んだが、それでも彼女の心の寒さには敵わなかった。朝の光が差し込んだとき、ほんの少しだけ温もりを感じた陽菜は、そっとお腹に目をやった。妊娠二ヶ月。まだお腹は目立っていなかったが、確かに胎動を感じていた。妊娠がわかったとき、彼女は最初からこの子を産むつもりはなかった。なぜなら、悠翔の心の中で一番大切なのは棠花だと、彼女にはわかっていたから。彼女の母親もまた、名家の愛人だった。自分の立場を見誤って、子どもを産めば正妻になれると信じていた。けれど現実は違った。私生児のレッテルを背負わされ、陽菜は二十年間、肩身の狭い思いをして生きてきた。自分の子どもに、同じ思いはさせたくなかった。だが、悠翔が彼女の妊娠検査の結果と中絶薬を見つけたとき、彼は薬を叩き落とし、嬉しそうに彼女を抱きしめて病院中を走り回った
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第15話

陽菜は時計を見て、病院での勤務時間が迫っていることに気づいた。もう座っているだけではダメだと、強く思った。母親として、彼女はお腹の子の鼓動を感じている。その命が奪われるのを黙って見ているなんて、彼女にはできなかった。悠翔が彼女からすべての逃げ道を塞いだというのなら、自分で道を切り開くしかない。陽菜はそっとお腹に手を当て、小さな声で言った。「ママが絶対に守ってあげるからね」もう迷っている暇はない。彼女は立ち上がり、スーツケースを手に取り、適当に数着の服を詰め込んだ。悠翔から贈られた一番高価なバッグを持って、大量の荷物を引きずりながら階段を駆け下り、タクシーを拾った。一睡もしていなかった陽菜は、タクシーに乗り込んだ瞬間に眠りに落ちた。夢の中では、子どもの声が「ママ、助けて」と繰り返し叫んでいた。目を覚ましたとき、すでに二時間が経っていた。彼女の乗るはずだった飛行機はとっくに離陸しており、タクシーは市立病院の正面に停まっていた。窓の外には黒いスーツ姿の男たちが立っていた。彼らは悠翔のボディーガードたちで、陽菜はその顔をすぐに見分けることができた。その瞬間、彼女は悟った。自分の行動はすべて悠翔に把握されていた。彼が彼女の命を奪おうとしているのなら、本当に逃げ場などないのだと。黒服の男たちは彼女を乱暴に引きずり下ろし、手の擦り傷など一切気にかけなかった。まるで屠畜場に運ばれる子羊のように、陽菜は無理やり担ぎ上げられた。だが、彼女は必死に抵抗した。今回の戦いは自分のためではない、お腹の中の命を守るためだった。夢で見た子どもの声――あれはきっと、自分の子が助けを求めていたのだと、彼女は確信していた。「離して!こんなこと、違法なのよ!」「違法?」悠翔の冷笑が聞こえてきた。黒服の男たちの後ろから、彼がゆっくりと歩み出てくる。その一歩一歩ごとに、陽菜の周囲の空気が重くなっていくようだった。彼女の身体から力が抜け、うつむいたまま、彼の顔を見ることすらできなかった。「中島先生、飛行機のチケット代、どこから出たか忘れたのか?」悠翔は、彼女が法律を武器にしようとしたことに驚いたが、全く恐れてはいなかった。もしこの件が法に触れるというのなら、陽菜は一生刑務所から出られないだろう。彼女が薬を横流ししていたこと――彼はそのす
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第16話

棠花の乗った飛行機は乱気流に巻き込まれ、やむを得ずドイツに緊急着陸した。手元にはまだいくらかの貯金があり、悠翔から渡されたカードも持っていたが――その利用履歴を辿られて行方が知られるのを恐れ、すぐにスイスへは向かわず、航空会社の対応を待ちながらドイツに留まることにした。せっかくだからと、少しドイツを観光してみようと決めた。彼女は今年で28歳。28年の人生の中で、心から人生を楽しんだことなど一度もなかった。18歳までは壊れかけた家庭の中で、自分の青春を犠牲にしながら、ただひたすら家族のために尽くしてきた。もっと頑張れば、両親が少しでも自分を愛してくれるかもしれない。弟がもう少し優しくしてくれるかもしれない――そんな淡い期待を抱いて。けれど、現実はあまりにも残酷だった。神様は彼女の耳を奪い、その痛みを忘れさせないようにした。彼女は心を閉ざし、もう誰にも心を開くまいと誓った。それなのに、悠翔という存在が現れた。彼と共に起業し、新商品のデザインも彼の名前で発表し、競合を打ち負かす手助けもした。名誉も利益も求めず、ただ悠翔が自分を大切にしてくれることだけを願っていた。最初の頃の悠翔は、本当に彼女に優しかった。ネットで話題になった一メートルのバラの花束を、実際に手作りしてプレゼントしてくれた。彼女が琺瑯のボウルに入ったイチゴケーキの動画に「いいね」を押せば、夜通しベーキングを勉強し、イチゴ農園に足を運び、クリスマス当日に一番新鮮で大きなイチゴを使ったケーキを作ってくれた。「会社が落ち着いたら、どこへでも一緒に行こう」そう約束してくれた。彼女が行きたい場所なら、どこへでも付き添うと。だが、思い通りにいかないのが世の常だ。会社が安定した途端、悠翔は伊藤家に呼び戻され、グループを継ぐことになった。ますます忙しくなり、世界中を飛び回る日々。会議や契約のために奔走し、彼の手でグループはどんどん大きくなっていった。その分、自分の時間はどんどん減っていった。それでも棠花は一度も文句を言わなかった。彼がそうしているのは仕方のないことだと分かっていたし、その裏で彼が彼女の耳の治療法を探していることも知っていたから。彼の心に自分がいる限り、自分を愛してくれている限り――それだけで十分だった。だが、世の中は無情だ。海が陸に変わるように、人の心もまた変わる。
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第17話

悠翔は遺灰を見ていなかった。だから、あの事故で亡くなったのが棠花だとはどうしても信じられなかった。彼の直感が告げていた――棠花はきっと、まだこの世界のどこかで生きている、と。棠花が彼を一人この世に残していくなんて、きっとそんなことはしない。たとえ彼女の記録がすでに抹消されていて、どれだけ家族から圧力をかけられても、彼は棠花の死を公に認めることはなかった。ずっと「棠花は旅行に出かけている」と言い続けていた。その一方で、彼は莫大な資金を投じて、国内のすべての私立探偵を雇い、棠花の行方を探していた。国内で見つからなければ、国外へ。天の果て、地の底までも――彼は必ず棠花を見つけ出し、連れ戻すつもりだった。そして、努力はついに実を結んだ。二ヶ月後、秘書が棠花に関する情報を見つけたと報告してきた。ある配車アプリのドライバーが、彼女を見かけたというのだ。印象に残っていた理由は、その日が初めて高級住宅街での乗車だったからだという。もし他の誰かが棠花を目撃していたのなら、あの事故で亡くなったのは棠花ではない。そう確信した悠翔は、すぐにそのドライバーに会いに行った。移動中、彼の心臓は緊張で高鳴り、聞きたいことが次々と浮かんでくる。例えば――棠花はどんな様子で去ったのか。泣き腫らした目をしていたのか、悲しそうな顔だったのか。あるいは――どれだけの荷物を持っていたのか。一人で運べるはずがないじゃないか、と。ドライバーは、目の前の男が自分の客とどんな関係かは知らなかったが、札束の山を見せられた以上、できる限り記憶を辿ろうとした。「覚えてますよ。彼女はすごく落ち着いてました。いい子でしたよ。道中ずっと話しかけてくれて、ヨーロッパに旅行に行くんですって、楽しそうにずっと話してくれました」それは本来なら喜ぶべき知らせだった。少なくとも、棠花が去るときに笑っていたということは、もう怒っていないということだ。しかし悠翔は、「話しかけた」という言葉に雷に打たれたような衝撃を受け、その場に立ち尽くした。ドライバーは運転中だった。つまり、手話での会話は無理だ。残された可能性はただ一つ。悠翔は震える声で尋ねた。「……彼女、聞こえてたんですか?」「もちろん。耳なんて全然問題なかったですよ」悠翔は完全に呆然とした。隣にいた秘書は、崩れ落ちそうな社長の姿に
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第18話

棠花はスイスに到着すると、まず死亡カスタマイズセンターが手配したマンションに荷物を置いた。ここはまるでおとぎ話のように美しい世界で、彼女に無限のインスピレーションを与えてくれる場所だった。十年という歳月が経っても、デザインへの情熱は一度も薄れることなく、棠花はスケッチブックとペンを持ってスイス中のカフェを巡った。この国の人たちは本当に人生を楽しむのが上手だった。半月ほど経った頃には近所の人たちともすっかり打ち解けて、その中の一人が彼女をパリ旅行に誘ってくれた。聴力を失って以来、彼女は長い間ファッションショーを見ていなかったことを思い出し、うなずいてその夜のうちに荷造りを済ませ、すべてのデザイン画を持って出発することにした。悠翔という存在を少しずつ忘れかけていたその時、突然、彼女の銀行口座に20万円の入金通知が届いた。その口座は彼女のものだが、悠翔もその動きを見ることができる。彼女がその口座を使ったのは一度だけ、スイスからドイツに行く列車のチケットを購入した時だった。おそらくその時、悠翔が履歴を見て、彼女がまだその口座を使っていることに気づいたのだろう。その瞬間、棠花は悟った。悠翔は彼女が死を偽装していたことに気づいてしまったのだ。彼女は眉をひそめ、どうすればまた彼の手から逃れられるのかと考えた。あの男とはもう一切関わりたくなかった。思いついた最善の方法は、銀行に頼んでそのお金を送り主の口座に返してもらうことだった。だが、悠翔はそんなに甘くなかった。彼女が一度返金すると、彼は再び振り込んできた。しかも金額は回を追うごとに増えていき、棠花がどうにもできなくなるまで続いた。そしてようやく、悠翔は振込をやめた。棠花はため息をついた。このカードを手放さなければならない。でも、何に使えばいいのか、まだ答えは出ていなかった。もしかしたら、今回のパリ旅行がそのヒントをくれるかもしれない。ドイツの堅苦しさやスイスの穏やかさと違い、パリは棠花に無限の活力を与えてくれた。ここはデザイナーたちの憧れの地であり、彼女の命の源とも言える場所だった。ファッションショーを見終えた後、棠花は近所の人と一緒にパリの街を観光した。前回パリを訪れたのは、交換留学生として学びに来た時だった。初めてエッフェル塔を見たとき、その美しさに圧倒されて、「いつかまた
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第19話

パリを離れたあと、棠花はスイスには戻らず、ドイツへ向かい、シュライを訪ねた。その頃、国内にいる悠翔もネット上で棠花のデザイン画を目にしていた。彼は愛する人の筆跡を誰よりもよく知っている。デザインの細部に至るまで、すべてが彼女らしいと感じた。そして、サインの横に描かれた一輪のデイジーを見た瞬間、これは間違いなく棠花の作品だと確信した。悠翔はすぐに秘書に命じ、ハッカーを雇ってネットに投稿されたデザイン画のIPアドレスを調べさせた。「伊藤社長、ドイツです。原稿はドイツから投稿されたようです」秘書は興奮気味に報告した。というのも、棠花が去って以来、悠翔はまるで魂が抜けたような日々を送っていた。夫人が酒の匂いを嫌うことを思い出し、彼は家中のワインセラーをすべて壊し、眠らず働き続けることで自分を誤魔化していた。何度も徹夜で倒れ、翌朝になってようやく彼が床に倒れていたことに気づくこともあった。前回、スイスで夫人とすれ違ってしまった。今度こそ、悠翔には棠花を連れて帰ってきてほしいと秘書は願っていた。悠翔は報告を受けたその足で、すぐにドイツ行きの最短の便を予約した。もう二度と、彼女を失いたくなかった。棠花がドイツに到着すると、シュライが満面の笑みで迎えに来た。彼女は前回と変わらず、ぺちゃくちゃと止まることなく喋り続けていた。「棠花、ごめんね、デザイン画を流出させちゃいけないって分かってたんだけど、でもあまりにも素敵だったから……。次の日、その服を着て学校に行ったら、いつも堅物の教授まで褒めてくれたの!ねえ、教授が棠花のこと、なんて言ったと思う?」棠花は微笑みながら首を横に振った。「彼ね、『この服をデザインした人はきっと才能にあふれてて、優しくて素敵な人だ』って言ってたよ」良い服には、人の心を動かす不思議な力がある。身分や立場に関係なく、服はその人の人生に寄り添ってくれる。自然と繋がることも、人と仲良くなるきっかけにもなる。デザインの素晴らしさは、そんな服の魅力を最大限に引き出すことにある。たとえ棠花と教授が面識がなくても、教授は彼女の作品を通じて彼女を認め、称賛してくれた。「そうだ、棠花。うちの教授もA国人なんだけどね、前に棠花のデザイン画を見せたら、こんな言葉をくれたの。棠花に伝えてって」シュライは眉をひそめて少し考え込み、ぱっと
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第20話

同じ男として、悠翔にはすぐに分かった。直樹が棠花を見るその目は、決して純粋なものではなかった。むしろ、どこか所有欲すら感じさせる視線だった。だというのに、棠花はそんな直樹の隣に、まるで自然のように立っていた。かつて棠花の心を開かせるために、悠翔は何年もかけ、片足を失うほどの代償を払ったというのに――今目の前の男は、ただ微笑んだだけで、棠花の優しさを手に入れている。悠翔は黙って拳を握りしめた。心の中で嫉妬が膨れ上がり、狂おしいほどに胸を締め付ける。しかし、それでも必死に平静を装い、棠花に声をかけた。「棠花……彼は、君の友達か?」一年ぶりの再会。思い焦がれた彼女が目の前にいるというのに、悠翔の声は震えていた。大きな声を出せば夢が壊れてしまいそうで、怖くて仕方なかった。だが、棠花は悠翔の顔をはっきりと認識した瞬間、わずかに後ろへ下がった。眉をひそめ、明らかに警戒の色を見せる。悠翔が一歩近づこうとすると、彼女はさらに一歩引いた。その様子を見た直樹はすぐに彼女の拒絶反応を察し、さっと前に出て悠翔の進行を遮った。そして、悠翔を頭からつま先まで冷静に見下ろすように一瞥した。「俺は棠花の友達だけど……どうやら棠花は、君と話す気はなさそうだね」語尾をわざと引き伸ばすその言い方は、まるで悠翔をあざ笑っているかのようだった。悠翔はビジネスの世界で長年揉まれてきた男だ。人の本音を見抜く目には自信がある。直樹の言葉の裏にある意図など、すぐに理解できた。それに、あの親しげな呼び方。出会ってすぐに手を握り合い、今も離そうとしないその手――どう見ても、ただの友達ではなかった。悠翔は直樹のことを知らない。棠花からも一度も聞いたことがなかった。顔がみるみるうちに険しくなり、口を開いたときの声は冷え切っていた。「……友達だけっていうなら、俺と彼女のことに口を出す権利はないはずだ」直樹はそれには答えず、代わりに棠花の方を向いて、茶化すような声で言った。「棠花、いつからこんな礼儀知らずな男と関わってたの?」完全に無視された形になった悠翔の感情は、その瞬間に爆発した。彼は一気に距離を詰め、直樹の服の袖を掴み上げて怒鳴る。「何だと?誰が礼儀知らずだって?」直樹はまったく動じなかった。目の奥に薄ら笑いを浮かべながら、再び棠花の様子を窺う。
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