店の扉が、風に揺れて軋んだ。春のはずなのに、まだ風は冷たく、曇り空は低く垂れていた。つぼみを抱えた街路樹がかすかに揺れて、舗道の影が硝子戸に淡く滲んでいる。有坂ひかりは、布巾の手を止め、戸口にかけられた真鍮のベルを見上げた。今日も、一人も来なかった。香蘭堂――父と母がふたりで始めた、小さな喫茶店。常連の姿が消えたのは、あの日からだった。父と母は、いつものように並んで歩いていた。商いの帰り道、石畳の上で。そこに突っ込んできたのは、大きな黒い車だった。ナンバーは泥にまみれて判読できず、運転手はそのまま走り去った。近くの花屋が、車のフロントから外れた銀の装飾を拾ってくれたが、それ以上の手がかりはなかった。しばらくして、噂が町を這い始めた。――華族の娘だった奥さん、何か昔の因縁があったんじゃないか。――不正をして、口封じされたんだって。――だからあの娘も、気をつけた方がいいわよ。否定しても、誰も聞いてはくれなかった。それまで親しくしていた客も、みな静かに背を向けていった。冷たい目よりも、目を逸らされる方が、ずっと堪えた。地代はもう二ヶ月分、滞っている。父が建てた店だけれど、土地は借り物だ。このままでは、看板ごと失ってしまう。静かな厨房に、ひかりの声がぽつりと落ちた。「……誰か、これを夢だったって言って……」誰に届くとも知れない言葉だった。答えてくれる人は、もうどこにもいない。そのとき。――カラン、とベルが鳴った。顔を上げると、硝子戸の向こうに、一人の男が立っていた。灰色の軍服。制帽は手に持ち、黒いマントの裾が風に揺れている。背筋をまっすぐに伸ばし、まるで風景の一部のようにそこにいた。けれどその姿には、なぜだか現実味がなかった。淡い夢の断片のように、どこか遠く感じられた。「有坂ひかり様で、いらっしゃいますか」その声は低く、よく通る。けれど温度がなく、ただ用件だけを伝えるためにそこにあるようだった。「……はい。私がひかりです」男は帽子を軽く掲げ、一礼した。「如月怜一郎と申します。真木伯爵・圭吾様のご使者として、本日こちらへ参りました」「真木……伯爵家……?」久しく聞かなかった名だ。母――澄江(すみえ)は、伯爵家・真木家の一人娘だった。けれど、家の意に背いて駆け落ちし、父と結婚したあの日から、真木
Last Updated : 2025-07-04 Read more