~契約結婚からはじまる恋〜大正浪漫 喫茶・香蘭堂~

~契約結婚からはじまる恋〜大正浪漫 喫茶・香蘭堂~

last updateآخر تحديث : 2025-07-04
بواسطة:  月歌مكتمل
لغة: Japanese
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大正時代、両親の死をきっかけに喫茶店「香蘭堂」をひとりで守ることになった有坂ひかり。名家・真木伯爵家の血を引く彼女に持ち上がったのは、格式を守るための“契約結婚”。相手は軍人・如月玲一郎。形式だけの結婚生活のはずが、少しずつ惹かれ合うふたり。けれど、両親の死には過去の縁談相手の影が――。秘密と誤解を超えて、本当の愛にたどりつけるのか。喫茶「香蘭堂」に静かに香る、大正浪漫の恋物語。

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الفصل الأول

第一話 契約結婚の申し込み

店の扉が、風に揺れて軋んだ。

春のはずなのに、まだ風は冷たく、曇り空は低く垂れていた。つぼみを抱えた街路樹がかすかに揺れて、舗道の影が硝子戸に淡く滲んでいる。

有坂ひかりは、布巾の手を止め、戸口にかけられた真鍮のベルを見上げた。

今日も、一人も来なかった。

香蘭堂――父と母がふたりで始めた、小さな喫茶店。

常連の姿が消えたのは、あの日からだった。

父と母は、いつものように並んで歩いていた。商いの帰り道、石畳の上で。

そこに突っ込んできたのは、大きな黒い車だった。

ナンバーは泥にまみれて判読できず、運転手はそのまま走り去った。

近くの花屋が、車のフロントから外れた銀の装飾を拾ってくれたが、それ以上の手がかりはなかった。

しばらくして、噂が町を這い始めた。

――華族の娘だった奥さん、何か昔の因縁があったんじゃないか。

――不正をして、口封じされたんだって。

――だからあの娘も、気をつけた方がいいわよ。

否定しても、誰も聞いてはくれなかった。

それまで親しくしていた客も、みな静かに背を向けていった。

冷たい目よりも、目を逸らされる方が、ずっと堪えた。

地代はもう二ヶ月分、滞っている。

父が建てた店だけれど、土地は借り物だ。

このままでは、看板ごと失ってしまう。

静かな厨房に、ひかりの声がぽつりと落ちた。

「……誰か、これを夢だったって言って……」

誰に届くとも知れない言葉だった。

答えてくれる人は、もうどこにもいない。

そのとき。

――カラン、とベルが鳴った。

顔を上げると、硝子戸の向こうに、一人の男が立っていた。

灰色の軍服。制帽は手に持ち、黒いマントの裾が風に揺れている。

背筋をまっすぐに伸ばし、まるで風景の一部のようにそこにいた。

けれどその姿には、なぜだか現実味がなかった。

淡い夢の断片のように、どこか遠く感じられた。

「有坂ひかり様で、いらっしゃいますか」

その声は低く、よく通る。

けれど温度がなく、ただ用件だけを伝えるためにそこにあるようだった。

「……はい。私がひかりです」

男は帽子を軽く掲げ、一礼した。

「如月怜一郎と申します。

真木伯爵・圭吾様のご使者として、本日こちらへ参りました」

「真木……伯爵家……?」

久しく聞かなかった名だ。

母――澄江(すみえ)は、伯爵家・真木家の一人娘だった。

けれど、家の意に背いて駆け落ちし、父と結婚したあの日から、真木家とは縁を絶ったはずだった。

「私に、何のご用でしょう」

「伯爵様はご高齢により、跡継ぎの選定に迫られております。

現在、真木家に残る血縁は……貴女おひとりだけです」

「……今さらですか」

言葉が自然に口をついた。皮肉ではなく、ただ、疲れと諦めとが滲んだ声だった。

怜一郎は淡々と続けた。

「私は、真木家の遠縁として、跡継ぎに選ばれました。

しかし、それには一つ条件があったのです。

――それが、貴女を妻として迎えることでした」

言葉を失った。

「……今日が初対面ですよね。それで“妻”だなんて」

「承知しております。ですがこれは、感情に基づくものではありません」

彼の目はまっすぐだった。迷いのない、冷静な視線。

「これは――契約です」

「……契約」

「これは、互いの目的のために結ぶ、形式上の関係です。

貴女は、伯爵家を継ぐ私の妻となることで、資産に自由に触れることができます。もちろん……この店を守ることも。

私は軍を退き、真木家の名のもとで新たな立場を得る。

愛情も、期待も必要ありません。――必要なのは、ただ“形”だけです」

まるで契約書を読み上げるような口調だった。

けれどその冷たさが、かえって、ひかりの心にしみこんだ。

「……この店を、守れるんですね?」

「契約が成立すれば、土地ごと私が買い取ります。

経営は貴女にお任せします。干渉はしません」

静かな口調だった。けれど、その確かさが、ひかりの胸に小さな灯をともした。

「……打算的ですね」

「ええ。ですが、互いにとって利益のある話です」

(ここを守れる……父と母の場所を、失わずにすむ)

「……すぐには、お返事できません」

「もちろんです。数日後、改めて伺います。

そのときに、貴女のご判断を」

怜一郎はそう言って帽子をかぶり直し、一礼すると、扉を開けて出ていった。

再び鳴る、ベルの音だけが残った。

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第一話 契約結婚の申し込み
店の扉が、風に揺れて軋んだ。春のはずなのに、まだ風は冷たく、曇り空は低く垂れていた。つぼみを抱えた街路樹がかすかに揺れて、舗道の影が硝子戸に淡く滲んでいる。有坂ひかりは、布巾の手を止め、戸口にかけられた真鍮のベルを見上げた。今日も、一人も来なかった。香蘭堂――父と母がふたりで始めた、小さな喫茶店。常連の姿が消えたのは、あの日からだった。父と母は、いつものように並んで歩いていた。商いの帰り道、石畳の上で。そこに突っ込んできたのは、大きな黒い車だった。ナンバーは泥にまみれて判読できず、運転手はそのまま走り去った。近くの花屋が、車のフロントから外れた銀の装飾を拾ってくれたが、それ以上の手がかりはなかった。しばらくして、噂が町を這い始めた。――華族の娘だった奥さん、何か昔の因縁があったんじゃないか。――不正をして、口封じされたんだって。――だからあの娘も、気をつけた方がいいわよ。否定しても、誰も聞いてはくれなかった。それまで親しくしていた客も、みな静かに背を向けていった。冷たい目よりも、目を逸らされる方が、ずっと堪えた。地代はもう二ヶ月分、滞っている。父が建てた店だけれど、土地は借り物だ。このままでは、看板ごと失ってしまう。静かな厨房に、ひかりの声がぽつりと落ちた。「……誰か、これを夢だったって言って……」誰に届くとも知れない言葉だった。答えてくれる人は、もうどこにもいない。そのとき。――カラン、とベルが鳴った。顔を上げると、硝子戸の向こうに、一人の男が立っていた。灰色の軍服。制帽は手に持ち、黒いマントの裾が風に揺れている。背筋をまっすぐに伸ばし、まるで風景の一部のようにそこにいた。けれどその姿には、なぜだか現実味がなかった。淡い夢の断片のように、どこか遠く感じられた。「有坂ひかり様で、いらっしゃいますか」その声は低く、よく通る。けれど温度がなく、ただ用件だけを伝えるためにそこにあるようだった。「……はい。私がひかりです」男は帽子を軽く掲げ、一礼した。「如月怜一郎と申します。真木伯爵・圭吾様のご使者として、本日こちらへ参りました」「真木……伯爵家……?」久しく聞かなかった名だ。母――澄江(すみえ)は、伯爵家・真木家の一人娘だった。けれど、家の意に背いて駆け落ちし、父と結婚したあの日から、真木
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第二話 届いた手紙
朝の光が、まだ冷たい空気を透かしている。有坂ひかりは、店の入口に置かれた郵便受けの扉をそっと開けた。中には、一通の封筒が静かに横たわっていた。無地の、それでもどこか品のある封筒だった。差出人の名は、筆記体で小さく書かれている。――如月怜一郎。昨日、突然現れた男の名が、墨の香と共に蘇る。店の戸を閉め、カウンターの奥へと歩いていく。陽が入るように、レースのカーテンを少し開けてから、封筒を手に椅子へ腰掛けた。封は、丁寧に折られていた。中には、淡い青みを帯びた便箋が三枚、静かに収められている。黒インクで綴られた万年筆の文字は、くせのない几帳面な筆跡だった。けれど、ところどころ筆圧が微かに強く、隠しきれない意志のようなものがにじんでいる。---> 有坂ひかり様昨日は突然のご訪問、失礼いたしました。改めてご挨拶申し上げます。私、如月怜一郎は、貴女の母上・真木澄江様のご実家――真木伯爵家より命を受け、参上いたしました。昨日も申し上げた通り、私が伯爵家の跡継ぎとなる条件は、貴女との婚姻であります。これは「形式上の契約」であり、貴女の自由を奪うものではございません。ただし、契約が成立しました暁には、伯爵家の邸にて共に暮らしていただきます。「婚姻」という外形を保つためです。ご安心ください。部屋は別にご用意します。生活に干渉はいたしません。また、この契約は、伯爵様がご存命のあいだに限るという取り決めも変わりません。なお、契約が結ばれた後、貴女のご両親の喫茶店の維持について、私より適切な支援をさせていただきます。地代の件も、すぐに対応可能です。一方的なお願いで恐縮ながら、今週末、再度お伺いします。ご返答をいただければと存じます。如月怜一郎---ひかりは、便箋をそっと畳み、カウンターの上に置いた。どこか、彼らしい手紙だと思った。まっすぐで、理路整然としていて、けれど最後まで感情らしきものは書かれていない。ただ――「地代の件も、すぐに対応可能です」とあった。それは、現実の痛いところを的確に突いていた。両親が遺したこの店は、今まさに存続の危機にある。滞納が続けば、近く差し押さえの通告が来るかもしれない。思い出だけでは、守れないのだ。けれど、自分の人生を、形式とはいえ誰かに預けるというのは、簡単に決めていいことではない。迷いがあった。ため息す
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第三話 如月玲一郎
喫茶店の扉が開いたとき、ひかりはすでにその気配を感じていた。「……来た」小さく息を整えたところで、懐かしくなりつつある、あの軍服姿が現れた。「おはようございます」「おはようございます。如月さん」「今日は、結論を伺いにきました」彼はまっすぐにひかりを見た。曇りのない目。その瞳を見つめ返しながら、ひかりは小さく頷いた。「……覚悟は、できました」その答えに、如月は静かに息をつき、黒革の書類フォルダーを差し出した。「では、契約を交わしましょう。私とあなたの、二人だけの約束です」紙に書かれていたのは、伯爵家に提出するような正式な書類ではなかった。あくまで、如月怜一郎と有坂ひかり、二人のあいだだけの「私的な契約」だった。形式上の婚姻関係を結ぶこと。互いの自由を尊重すること。そして、伯爵家の当主――怜一郎の祖父には、本当の結婚だと信じてもらうこと。内容を静かに読み終えると、ひかりは黙ってサインをした。怜一郎も同じく、ぴたりとした筆跡で署名する。インクが乾くまでの間、彼はわずかに口元を緩めた。「これで、あなたを真木伯爵家へお連れできます」「……え? い、今から?」「ええ。早いほうが良いと思いまして。ちょうど伯爵様も邸にいらっしゃいますので」「ちょっと待ってください! こんな格好じゃ……」ひかりは慌てて、自分のエプロンの裾を握りしめた。喫茶店で働いていたままの姿だった。「大丈夫です。あなたの衣装は、すでにご用意しています」「……え?」目を丸くするひかりに、怜一郎は当然のように頷いた。「契約されると、信じていましたから」「……何でもお見通しなのね」「そんなことはありません。さあ、行きましょうか」二人は並んで店を出た。けれど、店の前に停められていた黒塗りの車を見た瞬間、ひかりの足がぴたりと止まった。視線が、その光沢に吸い寄せられる。――両親をひいたのは、こんな黒い車だった。父と母が、黄昏の道で車にひき逃げされてから、もう数年が経っていた。それでも、あの日の記憶は今も色褪せず、ひかりの中に残っていた。その小さな硬直に気づいたのは、怜一郎だった。「……失礼。馬車に変更しましょうか」その言葉に、ひかりははっと顔を上げる。「大丈夫です。……大丈夫ですから。行きましょう」頷きながら、車に向かう足取りはわずかに強張っていた。後部座
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第四話 偽りの結婚
砂利の敷き詰められた私道を、艶やかな黒塗りの舶来車が音もなく進んでいく。車体には仄かに雲が映り込み、重厚なエンジン音が低く鼓膜を震わせた。車窓の向こうに広がるのは、白壁に蔦の絡む三階建ての洋館。左右対称の建築様式に大きな桁とバルコニーが誇らしげに立ち上がり、手入れの行き届いた庭園がその足元を彩っている。「……ここが」思わずこぼれた声は、自分でも気づかぬほどかすれていた。隣に座る如月怜一郎が、軍帽を膝に置いたまま、淡く微笑む。「真木伯爵家本邸。君の母君が育った場所だ」「本当に、別の世界みたい……」そう言いながらも、ひかりの胸にはどうしようもない緊張があった。今にも弾き出されるのではないかという、不安とも劣等感ともつかぬ感情。車が止まり、老執事がすぐさま車体に歩み寄って、深々と頭を垂れる。「お待ちしておりました。如月様――いえ、本日より“真木家のお方”としてお迎えいたします」「通せ」怜一郎が短く返すと、玄関が開き、ひかりは屋敷の中へと足を踏み入れた。黒檀の床に響く足音。高く吹き抜けた天井には、華やかなシャンデリア。階段の壁には、数世代にわたる真木家の肖像画が静かに見下ろしていた。まるで、何かの儀式が始まる前の神殿のようだった。応接間の扉が開く。中にいたのは、白髪をきっちりと撫で付け、軍靴の音が聞こえてきそうな佇まいの老紳士――真木家当主にして、ひかりの祖父だった。「……来たか」低く発せられたその声には、血筋の者にしか持ちえぬ威圧がある。「娘に……よく似ているな」そして、しばしの間を置いて続けられた言葉には、鋭い棘があった。「だが、あの商人風情を、私は未だに赦してはおらん。娘を、家を、捨てさせた男だ」ひかりは思わず目を伏せた。けれど、心の奥では拳を握っていた。(母を否定されたまま、黙っているわけにはいかない――)けれど声を上げようとしたそのとき、伯爵は片手を挙げ、すでに隣室から姿を見せていた文官風の男に合図を送った。「……手続きを始めよ」男は机に封筒を置き、中から一枚の紙を差し出す。「まずはこちら。婚姻届です。両名、署名をお願いいたします」文官の手によって差し出された用紙は、淡い色合いの婚姻届だった。ひかりは手元のペンをそっと握る。如月怜一郎は、ためらうことなくその欄に筆を走らせた。「如月怜一郎」続いて
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第五話 祖父
同じ敷地内、白亜の洋館に寄り添うように、もうひとつの建物があった。瓦屋根に塀を巡らせた、格式ある数寄屋造りの邸宅。和の重厚さを纏うその建物こそ、真木圭吾伯爵――すなわち、ひかりの祖父が暮らす主屋である。老執事に案内され、ひかりは洋館を出て、静かに石畳を渡る。苔むす庭に風が通り、どこからか沈丁花の香りがふわりと漂ってきた。「ひかり様、お一人でとのことです」通されたのは、奥の仏間だった。襖の先に広がっていたのは、磨き込まれた床と、漆黒の仏壇。その中央に、二つの写真が飾られていた。一つは、上品に笑む祖母らしき女性。そしてもう一つは、まだ若い――けれど、どこかひかりに似た面影を持つ、お母さんの姿だった。「……お母さん……」ひかりは、静かに正座し、手を合わせる。目を閉じたまま、心の中でそっと語りかけた。(母の葬式に、祖父は現れなかった。それでも――こんなにも大切に、想ってくれていたんだね)その沈黙を破ったのは、背後からかけられた祖父の声だった。「……娘の話を、聞かせてくれんか」振り向けば、和服姿の祖父が柱の陰に佇んでいた。ひかりの視線を受け止めるその横顔に、かすかな翳りが浮かんでいた。ひかりは少し戸惑いながらも、ゆっくりと口を開く。「父と母は、喫茶店を営んでいました。ごく普通の、小さなお店です。でも……とても仲が良かったと思います」「……娘の話だけでよい」語尾がわずかに硬かった。父の名が混ざったことに、不快を覚えたのだろう。(……やっぱり、母を奪った父を、今も赦していないんだ)胸の奥が、少しだけきゅっと痛んだ。けれどひかりは、声を荒げることなく、穏やかな調子を保って言葉を継いだ。「お母さんは、お店で使うカップをすべて、自分で選んでいました。お客様に合わせて、出すカップを変えるんです。小さなことだけど、それが“おもてなし”だって……。お母さんなりの、美意識だったんだと思います」「……あの子が、ねぇ」祖父はふっと鼻を鳴らし、仏壇の前に膝をついた。そして母の写真立てに、そっと指を添える。「自分で料理などできん子だった。好き嫌いも多くて、叱ったことばかり思い出す」けれどその声には、怒りではなく、懐かしむような柔らかさがにじんでいた。「……それでも、あの子がいなくなったあと、この家には春が来なくなったようだった」短く呟いたそ
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第六話 憧れの結婚式
真木家の洋館は、静かに時を刻んでいた。結婚式を三日後に控えた朝。レース越しの光が窓辺に淡く射し込み、カーテンの裾を揺らしている。風もないのに、まるで何かが呼吸しているかのように。広間にしつらえられた打ち合わせ用のテーブルには、色とりどりの布地のサンプルや、焼き菓子の試作品、メニュー表の下書きが並んでいた。隣の小部屋には、仕立て上がった衣装が丁寧に掛けられている。白無垢、色打掛、そして洋装のウェディングドレス。すべてに最終の検品タグが下がっており、仕立て屋の手によって完璧な仕上がりが整えられていた。「白無垢も、色打掛も綺麗……。ドレスの裾は、もう少し短くして正解だったわね」ひかりはひとり頷きながら、慎重に衣装を眺めていく。真珠の髪飾りの光沢や、刺繍に込められた細工の精緻さに目を細めながら、静かに呼吸を整えた。夫――玲一郎の軍装も、傍に用意されていた。式当日に着るのは、飾緒と肩章があしらわれた大礼服。軍人としての格式と、凛とした気品を備えた衣装だ。(きっと、似合う)思わずそう胸の中で呟き、次の瞬間、自分が頬を赤らめているのに気づいて、ひかりは小さく首を振った。浮かれている場合ではない。これは契約の結婚式なのだから。喫茶店を切り盛りしていた頃、彼女は「居心地のいい空間とは何か」をずっと考え続けていた。どのテーブルにどんな装花を置けば人が笑顔になるか、照明の色味が料理の見た目をどう変えるか、そんなことばかり気にしていた日々。その経験は、今、伯爵家の広間をゆっくりと華やがせている。母・澄江が駆け落ちして以来、重苦しい沈黙が落ちていたこの館にも、ようやく人の気配と柔らかな色が戻りつつあった。料理の打ち合わせも、昨夜すべて済ませた。招かれる客の顔ぶれを思い浮かべながら、洋皿と和の一品を交互に組み合わせ、ひかりなりの工夫を凝らして献立を調整した。デザートには、「香蘭堂」で評判だったオレンジピール入りのパウンドケーキも添えられる予定だ。「伯爵家に相応しい結婚式にしないと……」招かれるのは、真木家や如月家、そして政財界や軍の関係者たち。そこに有坂家や、ひかり自身の関係者の姿はない。両親が亡くなった際に広まった根も葉もない噂が、人々の足を遠ざけたのだ。それでも、ひかりはもう諦めている。そういうものだと、静かに受け入れていた。そのとき
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第七話 偽りの結婚式
部屋の空気は静かすぎて、時計の針の音ばかりが耳についた。ひかりは寝台の脇に腰かけたまま、膝の上に広げた紙に目を落としていた。明日の式の進行表。招待客の一覧。入場のタイミング。披露宴の構成――。何度も読み返しているのに、まるで頭に入ってこない。(明日、本当に……式があるんだ)紙の角を指でなぞりながら、ひかりはゆっくりと息を吐いた。形式だけの結婚。祖父の願いを叶えるため、名家同士の体裁を保つため。そう割り切ったはずなのに、ここ数日は、胸の奥に小さなざわつきが残っていた。――そのとき。扉を控えめに叩く音がした。こんな時間に、珍しい。「……どなたですか?」「俺です。怜一郎」思わず背筋が伸びた。夫となったとはいえ、彼が夜に部屋を訪ねてくることなど、ほとんどなかった。別々の部屋で過ごす日々は、形式的な関係を象徴しているようでもあり、逆に安心でもあった。けれど今夜は、なぜか少しだけ、胸が高鳴った。「……どうぞ」ドアを開けると、軍服ではない柔らかなニットとスラックス姿の玲一郎が立っていた。光を落としたランプの下、その表情はどこか穏やかで、けれど少しだけ緊張しているようにも見えた。「こんな時間に、すみません。少し、お話を」「はい、大丈夫です。……どうぞ」玲一郎が部屋に入ると、ひかりは少しだけ戸惑いながらも、手元のティーセットに目をやった。「ちょうど、お茶をいれようと思っていたんです」「それは光栄だ」小さく微笑んだ玲一郎に背を向け、ひかりはポットに湯を注ぎながら、慣れた手つきで紅茶の葉をティーポットへ移す。温めておいたカップに、湯の温度を確かめてから茶を注ぐ仕草は、どこかゆるぎない静けさをまとっていた。ほどなくして、香り高い紅茶の湯気が部屋にふんわりと立ちのぼる。カップを差し出すと、玲一郎は静かに礼を言ってそれを受け取った。一口、ゆっくりと口に運ぶ。「……美味しい。驚いたな」その言葉に、ひかりは少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。「両親が、喫茶店を営んでいたので。……ちょっとだけ、淹れ方は仕込まれてます」「なるほど。納得だ」玲一郎はもう一口、紅茶を飲んだ。香りと味が染みるように静かに広がっていくなか、二人の距離は少しだけ、自然に近づいたように感じられた。一息つくと、玲一郎は、ジャケットの内ポケットから小さ
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第八話 偽りの花嫁
朝の光が障子越しに差し込み、薄く揺れる空気に白粉の香りが溶けていた。真木家本邸、奥座敷の和室。神棚の前には白い布が張られ、季節の花と玉串が慎ましく供えられている。ひかりは白無垢に身を包み、角隠しをつけた姿で静かに座っていた。手のひらに汗が滲む。けれど、不思議と恐怖はなかった。畳に正座する祖父・真木圭吾の姿。そして、神前に向かって立つのは、如月家の両親――怜一郎の父と母。神職が祝詞をあげ、太鼓の音が低く響くなか、式は粛々と進んでいく。ひかりが静かに一礼し、神職の祝詞が始まろうとしたそのとき――低く抑えた声が、背後からひかりの耳に届いた。「……あれが、あの庶民の娘?」ひかりの背筋が一瞬ぴくりと反応する。「よりによって勘当された娘の子とはね。真木家も落ちたものだわ」吐き捨てるような声音に、湿った棘のような冷たさがあった。如月夫人――玲一郎の母である彼女は、口元に扇を寄せながらも、目は鋭くひかりを射抜いている。その隣で、夫である如月当主がやや気まずそうに視線を逸らした。「おい、あまり口を滑らせるな……。真木家の主もいるのだぞ」小声で諫めるように言ったが、夫人はすぐに鼻で笑った。「あなたはいつもそうやって曖昧にするのよ。礼儀だの体裁だの言う前に、如月家がどれだけ傾いているか、お忘れになって?」「……それは……」如月当主は言葉を濁し、沈黙した。扇の陰から放たれる夫人の一言一言が、場の空気をじわじわと刺していく。ひかりは顔を伏せ、何も聞こえていないふりをした。けれど、視線の端で、玲一郎の肩がわずかに動いたのを感じ取った。やがて、彼は静かに、しかしはっきりとした声で言った。「……ひかりは真木家に正式に迎え入れられ、すでに私の妻となりました。如月家の嫁ではありません。家としての縁も、法的にはすでに切れております」その一言に、如月夫人の顔がこわばる。「……何ですって?」「これ以上、妻を侮辱するような言葉をお聞きするなら――今後一切、私からの連絡も控えさせていただきます。名ばかりの“実家”とはいえ、私にとってもう、必要のない場所ですから」凍るような声だった。如月夫人が目を見開く。「怜一郎。あなた、母親に向かって――」「ええ。母上であろうと、聞き捨てならない言葉には返さねばなりません」玲一郎の声には、抑えた怒りと決
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第九話 初夜のひととき
夜の帳が落ち、屋敷には静かな気配が満ちていた。婚礼の華やぎが去った後の空間は、どこか現実味を取り戻していたけれど――ひかりの心は、まだふわふわと浮いたままだった。「では、今夜は……怜一郎様のお部屋で」女中が何気ない調子でそう言った瞬間、ひかりの思考は一瞬停止した。(……え? 一緒の部屋……?)それは、夫婦として当然のこと。伯爵家の格式のなかで「別々に過ごす」などという選択肢は、きっと誰の頭にもなかった。けれど――(私たちは、契約結婚なのに……!)形式だけの婚姻。誰にも知られてはならない、ふたりだけの秘密。それなのに、こうして“本物”の夫婦と同じように振る舞わなければならない。玲一郎の部屋に通され、静かにドアが閉じられたとき、ひかりの鼓動はもう暴れそうだった。(落ち着いて……深呼吸、深呼吸……)そう思いながらも、部屋の隅から隅まで、目が泳ぐ。立ったまま、そわそわと数歩歩き、机の花に目を向け、また戻る。「……どうすればいいの……!」思わず漏れた声を背後から拾ったのは、当の玲一郎だった。「歩き回っているだけで、疲れてしまいますよ」「あっ……すみません!」ばっと振り向いたひかりは、顔を真っ赤にしてぺこりと頭を下げた。「どうか、座って。少し話をしませんか」そう言って、玲一郎がソファに手を差し伸べる。その仕草に従って腰を下ろすと、彼は黙ってティーポットを手に取り、湯を注ぎ始めた。「……今度は、私が」「えっ?」「あなたの紅茶は美味しかった。ならば、お返しに」どこか真面目な顔でそう言いながら、玲一郎は慎重に茶葉を入れ、丁寧に注いでいく。けれど、出されたカップを一口含んだ瞬間――「っ……!」ひかりは吹き出しそうになって、慌てて口を手で押さえた。ものすごく、渋い。「……うん、渋いですね」玲一郎も一口含み、眉をひそめて苦笑した。「もう少し蒸らし時間を短くすべきでしたね……」「でも、あったかくて、美味しいです」そう言いながら、ひかりはふっと笑った。緊張が、少しだけほどける。さっきまでのぎこちなさが、ほんのりと温かい空気に変わっていくのを感じた。カップを手にしながら、ふたりは少しずつ言葉を交わした。ひかりは、自分のことを語った。両親が亡くなったあとの喫茶店。悪意ある噂が流れ、客足が遠のき、信じていた常連さえ
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第十話 新婚の朝
朝の光がカーテン越しに差し込む。天蓋付きの寝台の横、丸テーブルには銀のポットと白磁の食器が整えられていた。「……いただきます」そう口にしたものの、有坂ひかりの手は、皿の上のスクランブルエッグの前で止まっていた。真木伯爵家の一室――玲一郎の寝室で、ふたり並んで朝食を取る。それは、夫婦として“本当に初夜を過ごした”と思わせるための演出だった。食卓の脇には、二人の様子をうかがうように控える数名の使用人。その視線が、妙に落ち着かない。(……な、なんか、すごく見られてる……)湯気の立つ紅茶の香りも、緊張でよくわからない。スプーンの音が響くたびに、ひかりの心臓が跳ねた。向かい側で静かにナイフとフォークを操る玲一郎が、ふと顔を上げた。「……天気は、良さそうですね」ぎこちない言葉に、ひかりはつい反応が遅れた。「え、あ、はい。とても……晴れていて、えっと……」思わず目が泳いでしまう。だが、玲一郎は笑みを浮かべることなく、まっすぐに続けた。「今日は昼過ぎから、軍の詰所に出向きます。少し早めに出ることになりますので――」「わ、私が、玄関までお見送りいたします」とっさに出た言葉だった。妻として、そうあるべきだと思った。彼の瞳がわずかに揺れた。お互いに、ほんの一瞬だけ頬を赤らめる。――使用人たちの空気が、はっきりと変わった。(……やばい。完全に“昨晩なにかあった”って思われてる)もうどうしようもなく、ひかりは紅茶をすするふりをしてごまかした。---やがて、玲一郎は軍服に着替え、玄関に姿を現した。金ボタンのついた濃紺の詰襟。直線的なラインが彼の背をさらに高く見せ、精悍な顔立ちを引き立てていた。(……やっぱり、似合うな……)見惚れていたことに気づいて、ひかりは慌てて口を開いた。「その……軍服、とてもお似合いです」玲一郎の動きが一瞬止まる。彼は帽子を手に持ったまま、ひかりを見つめ返した。「……ありがとう」それだけ言って、背筋を伸ばしたまま扉の外へと歩き出す。その後ろ姿が見えなくなるまで、ひかりは玄関口に立ち尽くしていた。---その午後――。屋敷の執事が、慌ただしい足取りでひかりのもとへやって来た。「奥さま。突然のことでございますが、如月怜一郎さまのご親族がご訪問とのことです。応接室へご案内しております」「ご親族……?」ひかり
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