大正時代、両親の死をきっかけに喫茶店「香蘭堂」をひとりで守ることになった有坂ひかり。名家・真木伯爵家の血を引く彼女に持ち上がったのは、格式を守るための“契約結婚”。相手は軍人・如月玲一郎。形式だけの結婚生活のはずが、少しずつ惹かれ合うふたり。けれど、両親の死には過去の縁談相手の影が――。秘密と誤解を超えて、本当の愛にたどりつけるのか。喫茶「香蘭堂」に静かに香る、大正浪漫の恋物語。
View More店の扉が、風に揺れて軋んだ。
春のはずなのに、まだ風は冷たく、曇り空は低く垂れていた。つぼみを抱えた街路樹がかすかに揺れて、舗道の影が硝子戸に淡く滲んでいる。
有坂ひかりは、布巾の手を止め、戸口にかけられた真鍮のベルを見上げた。
今日も、一人も来なかった。
香蘭堂――父と母がふたりで始めた、小さな喫茶店。
常連の姿が消えたのは、あの日からだった。
父と母は、いつものように並んで歩いていた。商いの帰り道、石畳の上で。
そこに突っ込んできたのは、大きな黒い車だった。
ナンバーは泥にまみれて判読できず、運転手はそのまま走り去った。
近くの花屋が、車のフロントから外れた銀の装飾を拾ってくれたが、それ以上の手がかりはなかった。
しばらくして、噂が町を這い始めた。
――華族の娘だった奥さん、何か昔の因縁があったんじゃないか。
――不正をして、口封じされたんだって。
――だからあの娘も、気をつけた方がいいわよ。
否定しても、誰も聞いてはくれなかった。
それまで親しくしていた客も、みな静かに背を向けていった。
冷たい目よりも、目を逸らされる方が、ずっと堪えた。
地代はもう二ヶ月分、滞っている。
父が建てた店だけれど、土地は借り物だ。
このままでは、看板ごと失ってしまう。
静かな厨房に、ひかりの声がぽつりと落ちた。
「……誰か、これを夢だったって言って……」
誰に届くとも知れない言葉だった。
答えてくれる人は、もうどこにもいない。
そのとき。
――カラン、とベルが鳴った。
顔を上げると、硝子戸の向こうに、一人の男が立っていた。
灰色の軍服。制帽は手に持ち、黒いマントの裾が風に揺れている。
背筋をまっすぐに伸ばし、まるで風景の一部のようにそこにいた。
けれどその姿には、なぜだか現実味がなかった。
淡い夢の断片のように、どこか遠く感じられた。
「有坂ひかり様で、いらっしゃいますか」
その声は低く、よく通る。
けれど温度がなく、ただ用件だけを伝えるためにそこにあるようだった。
「……はい。私がひかりです」
男は帽子を軽く掲げ、一礼した。
「如月怜一郎と申します。
真木伯爵・圭吾様のご使者として、本日こちらへ参りました」
「真木……伯爵家……?」
久しく聞かなかった名だ。
母――澄江(すみえ)は、伯爵家・真木家の一人娘だった。
けれど、家の意に背いて駆け落ちし、父と結婚したあの日から、真木家とは縁を絶ったはずだった。
「私に、何のご用でしょう」
「伯爵様はご高齢により、跡継ぎの選定に迫られております。
現在、真木家に残る血縁は……貴女おひとりだけです」
「……今さらですか」
言葉が自然に口をついた。皮肉ではなく、ただ、疲れと諦めとが滲んだ声だった。
怜一郎は淡々と続けた。
「私は、真木家の遠縁として、跡継ぎに選ばれました。
しかし、それには一つ条件があったのです。
――それが、貴女を妻として迎えることでした」
言葉を失った。
「……今日が初対面ですよね。それで“妻”だなんて」
「承知しております。ですがこれは、感情に基づくものではありません」
彼の目はまっすぐだった。迷いのない、冷静な視線。
「これは――契約です」
「……契約」
「これは、互いの目的のために結ぶ、形式上の関係です。
貴女は、伯爵家を継ぐ私の妻となることで、資産に自由に触れることができます。もちろん……この店を守ることも。
私は軍を退き、真木家の名のもとで新たな立場を得る。
愛情も、期待も必要ありません。――必要なのは、ただ“形”だけです」
まるで契約書を読み上げるような口調だった。
けれどその冷たさが、かえって、ひかりの心にしみこんだ。
「……この店を、守れるんですね?」
「契約が成立すれば、土地ごと私が買い取ります。
経営は貴女にお任せします。干渉はしません」
静かな口調だった。けれど、その確かさが、ひかりの胸に小さな灯をともした。
「……打算的ですね」
「ええ。ですが、互いにとって利益のある話です」
(ここを守れる……父と母の場所を、失わずにすむ)
「……すぐには、お返事できません」
「もちろんです。数日後、改めて伺います。
そのときに、貴女のご判断を」
怜一郎はそう言って帽子をかぶり直し、一礼すると、扉を開けて出ていった。
再び鳴る、ベルの音だけが残った。
その扉の奥で喫茶店「香蘭堂」の扉には、クローズの札がかかっていた。けれど、その中には二人の姿がある。ひかりと玲一郎。ひかりは、彼のためだけに、店を開いていた。店内には、父と母が集めた食器や道具が今も大切に飾られている。古びたミルと真新しいエスプレッソマシンが並ぶ様子は、どこか夫婦のように並んで見えた。カウンターの奥、オーブンから立ちのぼる香り。焼き上がったのは、シナモンとドライフルーツをたっぷり使ったスパイシーなケーキだった。ふんわりとした生地に添えるのは、甘さ控えめの生クリーム。それを白い皿にのせて、丁寧にコーヒーを淹れる。ひかりは、小さな銀のトレイに乗せたケーキとカップをそっと運び、カウンター席にいる玲一郎の前に置いた。「どうぞ、召し上がれ」微笑み合うふたり。玲一郎はフォークを手に取り、ひとくちケーキを口にした。それから、ゆっくりとコーヒーを啜る。「……おいしい」そう言ったあと、玲一郎はなぜか落ち着かない様子で目を泳がせた。カップを持ち上げては置き、スプーンを手にしては戻し、果てはカウンターの端に視線をやったり、天井を仰いだり。「……?」ひかりが首をかしげると、玲一郎は観念したように小さく咳払いをして、目を逸らしたままぽつりと告げた。「……実は、コーヒーって、ちょっと苦手なんだ」「え?」「でも……せっかく君が淹れてくれたから、言い出せなくて。でも、味はすごく美味しいよ? 本当に。ただ、ほんのちょっと苦くて……」ひかりは噴き出して笑った。「もう、言ってよ。今すぐ紅茶を淹れるね」「……すまない」玲一郎が小さく頭を下げる。ひかりはくすくすと笑いながら、そっと言った。「私たちはもう、本当の夫婦なんだから。玲一郎さんのこと、ぜんぶ知りたいの。それとも……契約結婚に、戻したい?」いたずらっぽくそう囁くと、玲一郎は勢いよく立ち上がり、カウンター越しにひかりの手をとって、そっと唇を落とした。「契約結婚なんて、まっぴらだよ」「……ふふ」「だって――君を初めて見たときから、一目ぼれしてたんだから」「ほんとうに?」「本当だよ」頬を染めながら微笑む玲一郎に、ひかりもまた、そっと微笑み返した。──「香蘭堂」は、いまもひかりの手で守られている。けれど営業は、専門家を選びぬいて任せることにした。若い夫婦が新たな
病院での診察の結果、ひかりの怪我は幸いにも軽傷だった。すぐに真木家へ戻ったひかりは、祖父の真木伯爵と玲一郎にすべてを話した。稜真の屋敷で見た絵、あのとき耳にした言葉、そして――あの車のエンブレム。それが両親の事故と繋がっている可能性に、祖父と玲一郎は、息を呑んで黙り込んだ。「……まさか……」顔を険しくする祖父の横で、玲一郎もまた拳を握っていた。けれど、結局のところ――話し合いの末に出された結論は一つだった。「……遺族の身としては納得できぬことだろうが……今、名前が出れば、君の立場まで揺らいでしまう」祖父は深く頭を垂れた。「すまん、ひかり」玲一郎も、申し訳なさそうに目を伏せた。だが――ひかりは理解していた。両親が亡くなったあと、どれだけ悪意ある噂に苦しめられたか。どんなに誠実に店を続けても、誰かが囁いた「何かあったらしいわよ」という言葉一つで、客足は遠のいた。名誉が傷つけば、現実もまた静かに蝕まれる。だからこそ――稜真の死は、「事故」として処理されることになった。---その夜。ひかりは、静かに玲一郎の部屋の扉を叩いた。「……ありがとう、助けてくれて」玲一郎は振り返り、小さく微笑む。ひかりは少し躊躇ってから、口を開いた。「ひとつだけ……聞いていい?」「……何だい?」「……どうして、あの時……あの屋敷に、来てくれたの?」少しの沈黙。玲一郎は視線を逸らし、肩を落とした。「……嫉妬したからだ」「え……?」「君と如月が、あんなふうに親しげにしているのを見て……抑えられなかった」玲一郎はゆっくりと言葉を紡ぐ。「執事から、君が稜真と洋菓子店へ向かったと聞かされて――居ても立ってもいられなくなったんだ。追いかけたら……ふたりきりで、あの屋敷にいると知って……まさか、あんな事態になっているとは、思いもしなかった」ひかりはその言葉に目を見開き――そして、ふっと笑った。「……実は、私も……嫉妬してたの」玲一郎が顔を上げる。「洋菓子店で、あなたが女性と話しているのを見て、心がもやもやして……でも、私たちは契約結婚だから、干渉しちゃいけないと思って。……あの人のこと、何も聞けなかった」言葉を終えた瞬間、玲一郎は少し強い声で言った。「――違うんだ!」ひかりが驚いて目を見張る。「君は、誤解してる。あの女性は……私の腹違
「ひかり! いるのか!」屋敷の外から、玲一郎の声が響いた。ひかりは目を見開いた。助けが来た――! けれど、叫ぼうとしたその瞬間、稜真の手が彼女の口を塞いだ。「ん……っ!」もがくひかりの瞳に、涙が滲む。けれど、声は出せない。助けて、玲一郎さん。ここにいるの。早く……。心で何度も助けを求めながら、ひかりは必死に考えた。動かせるのは、足だけ。ベッドの端にかかっていたつま先をぎゅっと踏ん張り、身体をひねるようにして暴れる。ぐらり――。ベッドのすぐ脇にあった小さな丸テーブルが、その振動でわずかに揺れた。上に置かれていた花瓶がカタリと傾き、次の瞬間、床に落ちて砕け散った。――パリンッ!静まり返っていた部屋に、甲高い破裂音が響きわたる。稜真の目がわずかに揺れた。その瞬間、ひかりは動いた。口を塞ぐ手が緩んだ隙を、逃さなかった。「玲一郎さんっ! 私はここよ! 助けて――!」扉の向こうで、何かが蹴破られるような音がした。「……チッ」舌打ちをして、稜真はすぐに身を翻す。画材棚に置かれていたペティナイフを無造作に掴むと、そのままひかりの喉元に突きつけた。「っ……!」鋭い冷たさが首筋に触れ、ひかりの表情が青ざめる。首に走った痛みに、滲むように血がにじんだ。「嗅ぎつけるのが早すぎる。まったく、彼は君を見張ってでもいたのか……?」稜真は苦笑して、しばらく何かを考えるように目を伏せた。「さあ。こっちに来るんだ」そう言って、ひかりの腕を乱暴に引いた。開いた扉の外、稜真に引きずられるようにして廊下を歩かされる。廊下の奥――蹴破られた扉の向こうから、軍服姿の玲一郎が駆け込んでくる。「ひかりさん!」その声に、ひかりはかすかに顔を上げた。「……玲一郎……さん……」声はか細く、けれど確かに届いた。ふたりの視線が一瞬、重なる。それを見て、稜真の表情が歪んだ。「そこをどけッ!!」怒声が響くと同時に、稜真はペティナイフの刃をぐっとひかりの喉元に押しつけた。鋭い痛みに、ひかりの身体が強張る。細く滲んだ血が、首筋を伝う。扉の前に立っていた玲一郎が、一歩、思わず足を引いた。けれど、その目は逸らさない。ひかりの小さく震える体に、視線を釘付けにしたまま、息を詰めるようにして立ち尽くしている。「……いい子にしてなよ。変に動けば、今度こそ深く刺
まぶたの奥に、淡い光が差し込んでいた。夢の途中かと思った。でも、まぶたを開いた瞬間、その幻想は吹き飛んだ。見知らぬ天井。高く、白く、繊細な装飾がほどこされた漆喰の天井が、静かに視界に広がっている。(……ここは……?)起き上がろうとしたそのとき、異様な感触がひかりの意識を引き戻した。(――動かない……?)両手首が、何かで縛られていた。目を伏せると、前で揃えられた手が、絹のような紐で固く結ばれている。細いのに強く、指を動かそうとするだけできつく締まり、逃げ場がなかった。「……っ……なに、これ……!」思わず小さく叫ぶと、胸の奥から冷たいものが込み上げてきた。足は自由だった。でも、それがどうしたというのだろう。手が使えなければ、身を守ることも、ドアノブを掴むことさえできない。ひかりは改めて自分の状況を確認した。自分は、ベッドの上に寝かされている。柔らかく清潔なシーツ。光を通す薄いレースのカーテン。すべてが整いすぎていて、逆に現実味がなかった。(どうして……こんなところで、私……?)喉が渇いていた。胸の奥がざわざわと波打っている。不安を押し殺しながら、首だけを動かして周囲を見渡した。そして、目を奪われる。ベッドの向こう、部屋の壁沿いに、いくつものキャンバスが立てかけられていた。大小さまざまな絵。色彩、構図、筆のタッチ。どれも素人の手によるものではない。むしろ、執着に近い情熱を感じさせる、異様な絵だった。描かれていたのは――すべて、女性だった。(これ……)一枚目に描かれた横顔に、見覚えがあった。いや、見覚えがあるというより――自分に、似ていた。けれど、少し違う。髪型も服装も古風で、肌の色もわずかに白い。懐かしさに似た感情が胸の奥をかすめたとき、ひかりは静かに呟いた。「……お母さん……?」若い日の澄江。そこに描かれていたのは、ひかりの母だった。何枚も、何十枚も。微笑む顔。髪をほどく姿。紅茶を注ぐ手。誰かを見つめる目――。どの絵も、まるで恋人を描くかのように、丁寧に、そして熱をこめて描かれていた。ぞっとした。肌の内側に、冷たいものが這い上がる。そのときだった。部屋の奥、窓の近くで小さな音がした。「目覚めたんだね」その声に、ひかりはびくりと体を強張らせた。アトリエスペースの奥。光を背にして、稜真が静かに筆を動かして
如月稜真が黒塗りの車で迎えに来たのは、まだ日が高い午後のことだった。艶やかな黒塗りに磨き上げられた外装と、真鍮の金具が陽光を鈍く返すその自動車は、まるで異国の風を運んでくるようだった。町に一台とない、舶来の乗り物――その優雅な姿は、見る者に時代の最先端を感じさせた。「では、参りましょうか」黒革の手袋を外しながら、稜真が運転席を降りる。無駄のない動きで助手席の扉を開ける姿には、育ちのよさと洗練された余裕が滲んでいた。その所作に、ひかりは思わず息を呑む。――まるで物語の中の人みたい。けれど、ぼんやりしてはいられない。ここで戸惑っていては、真木伯爵夫人としては務まらない。(……慣れなくちゃ。これからは、こういう世界で生きていくのだから)そう自分に言い聞かせて、小さく礼をしながら車に乗り込んだ。向かった先は、町外れの丘の上に建つ洋菓子店だった。「見学してみたいと仰っていたでしょう? 急ではありますが、話を通しておきました」その言葉通り、店に着くと、白い扉の前にはパティシエと数人のスタッフが整列して出迎えていた。営業中ではないようで、周囲に客の姿はない。貸し切りのような静けさに、ひかりは思わず背筋を正し、深く頭を下げた。案内された厨房には、見たことのない器具が整然と並び、隅々まで磨き抜かれていた。フランスから招かれたというパティシエが、片言の日本語と通訳を交えて、ひとつひとつ丁寧に解説をしてくれる。「このオーブンは、熱の巡りが非常に均一で……」「紅茶は毎月、ロンドンから空輸しております。鮮度が命ですから」ひかりは、喫茶店「香蘭堂」での経験を思い返しながら、熱心にメモを取った。器具や素材の話が、他人事ではなく、どこか懐かしく胸に響く。見学を終えたあと、稜真はひかりを店のすぐ隣の洋館へと案内した。「よければ、こちらでひと息つきませんか?」重厚な扉を抜けた先には、外界とは切り離されたような静謐な空間が広がっていた。古風な装飾と西洋の調度に彩られた室内。窓の外には花咲く庭園、その向こうに遠く海が光っていた。「素敵ですね……」うっとりと呟くひかりの目に映るのは、陽光にきらめく庭と、瀟洒な洋館の佇まい。「元は、明治の終わり頃に外国から移り住んできた菓子職人が建てた館だそうです。祖国の味をそのまま日本に伝えようと、材料も器具も一から取り寄せて
数日が過ぎても、ひかりと玲一郎の間の距離は埋まらなかった。言葉を交わさぬまま、時間だけが過ぎていく。伯爵邸で働く使用人たちも、その空気を感じ取っているのか、ひかりに向ける視線はどこか遠慮がちだった。(このままじゃ、駄目……)今日こそは、ゆっくり話をしよう。そう思い立った矢先――「しばらく、基地に詰めることになった。戻るのは数日後だ」玲一郎の言葉は淡々としていたが、どこか言い淀むような気配があった。玄関まで見送ったひかりは、何か言葉を待っていた。けれど、玲一郎は何も言わず、軍帽をかぶり、振り返ることなく屋敷を出て行った。その背中を、ひかりはただぼんやりと見送るしかなかった。---重たい足取りで部屋に戻り、ひかりは椅子に腰を下ろした。読みかけの本を手に取ってみたものの、ページをめくる指先に力が入らない。物語の世界に入っていけず、内容もまるで頭に入ってこなかった。(……暇だな)大きなため息がひとつこぼれる。(伯爵夫人って、何をするべきなんだろう)格式ある家に嫁いできたけれど、誰からもはっきりと「こうしてほしい」と言われることはない。ただ礼儀正しくしていればいいのか、家の中を取り仕切ればいいのか、それともただ静かにしていればいいのか――答えは見つからなかった。思い出されるのは、両親と過ごした喫茶店の記憶。母と一緒に焼いたスコーン。父が丁寧に淹れていたコーヒー。夏にはみつ豆、冬にはシナモンティー。庶民的だけど、どこか特別な時間を提供する場所だった。けれど、両親を失ってから、香蘭堂はゆるやかに傾いていった。(あの噂がなくても、きっと私の力だけでは……)常連客も離れ、店内には静寂が漂っていた。(私は、ただ両親の背中を追いかけていただけだったのかもしれない)そして、心の奥に湧き上がる別の不安。(契約結婚だって、いつまで続くか分からない)祖父が亡くなったあと、玲一郎が別れを切り出したら?あの丘の上で見かけた、あの女性が――真木伯爵夫人としてこの家に迎えられたら?(そんなの、嫌……)けれど、「離婚しないで」としがみつく自分を想像すると、それもまた情けなくて、恥ずかしくて、嫌だった。---気分を変えたくて、ひかりはそっと部屋を出て裏庭へ向かった。広い庭園の一角にあるバラ園は、初夏の陽射しを受けて、色とりどりの花がゆるや
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