All Chapters of ~契約結婚からはじまる恋〜大正浪漫 喫茶・香蘭堂~: Chapter 11 - Chapter 20

22 Chapters

第十一話 過去を知る男

応接間の扉を開くと、そこには一人の紳士が静かに立っていた。品の良いスーツに身を包み、手には深紅のバラの花束を抱えている。その姿はどこか旧時代の映画の一幕を思わせ、ひかりは思わず動きを止めた。「奥さま……お客さまをお連れしました」執事の声に背を押されるようにして進み出ると、男はにこやかに会釈しながら口を開いた。「初めまして。有坂ひかりさんですね。僕は如月稜真(きさらぎ りょうま)と申します。怜一郎の叔父にあたります」「……初めまして。如月さま」ひかりが丁寧に頭を下げると、彼は手にしていた花束を差し出した。「ご結婚、おめでとうございます。本来なら式に伺うべきだったのですが、生憎出張が重なってしまい……遅ればせながら、お祝いに」「まぁ……ありがとうございます」受け取った花束からは、かすかに甘い香りが立ちのぼる。その香りに、ひかりの胸がきゅうっと締め付けられる。「……この薔薇、母が好きだった品種と同じです」そう呟いた瞬間、稜真の目がやわらかく細められた。「やはり……似ている」「え?」「お母さまに、です」一瞬、空気がふっと変わった。稜真は少し肩をすくめながら、遠い昔を懐かしむように言葉を継ぐ。「実は、僕は……澄江さんの婚約者だったんです。もっとも、正式に結婚する前に、彼女はお父上と駆け落ちしてしまったのですが」「……!」驚きに、ひかりは手に持った花束を思わず強く握った。「そんな……そんなことが……」「驚かせてしまったかな」稜真は苦笑しながらも、その表情はどこか優しかった。「今も独身でいる僕が、未練がましいだけですよ。どうか気にしないでください。過去のことです」「でも……私の両親が……」謝ろうとしたひかりを、稜真はそっと手のひらで制した。「謝る必要なんて、まったくありませんよ。ふたりが幸せだったなら、それが一番です」彼の声音は穏やかだったが、その奥に淡い痛みのようなものが混ざっていた。やがて応接室に紅茶と焼き菓子が運ばれ、ふたりは向かい合って椅子に腰を下ろす。会話は自然と如月家の話題へと移っていった。「……名家とはいえ、如月家も今は厳しい。かつての資産は投資の失敗でほとんど消えてしまっていてね。怜一郎は長男だが、両親の強い意向で今回の結婚話を受けたようだ」そう語る稜真の目には、どこか苦々しさが滲んでいた。「怜
last updateLast Updated : 2025-07-04
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第十二話 すれ違いの夜

如月稜真が帰ったその夜――ひかりは洋館の小応接で、一人静かに本をめくっていた。窓の外には夜の帳が下り、カーテンの隙間からは、わずかに庭の灯りが差し込んでいる。読みかけのページに目を落としながらも、心のどこかがそわそわとしていた。昼間の来訪者――如月稜真との会話が、頭から離れない。そのとき、廊下から控えめなノック音と共に、執事の声が届いた。「奥さま。怜一郎さまがお戻りです」「……ありがとうございます」ひかりは本を閉じ、そっと立ち上がった。胸の奥にひとかけらの期待と、不安が入り混じる。足音を立てぬよう廊下を進み、玄関ホールの手前に立ったそのとき、扉の外から微かな音がした。「……ただいま」軍服姿の玲一郎が、扉を押し開けて姿を現した。帽子を軽く取り、深く一礼するその姿には、いつもと変わらぬ静けさと、ほんのわずかな疲労の影が差していた。「おかえりなさいませ」ひかりは思わず足を早めた。自然に、身体が動いていた。けれど玲一郎は、そんなひかりに目を向けると、ふいにたずねた。「……食事はもう、済ませたかい?」「いえ、まだです」答えると、玲一郎は一呼吸おいて、少しだけ声の調子を落とした。「……これからは、先に食べていて構わない。待つ必要はないから」「……はい」ひかりは微笑もうとしたが、うまくいかなかった。(……なんだか、冷たいな)一緒に食べたいと思っていたのは、自分だけだったのかもしれない。そう気づいた瞬間、心にぽつんと小さな寂しさが落ちた。(契約結婚の身では、そんな望みを持つのは駄目なのかな……)---その後、ふたりは洋館の食堂で夕食をとることになった。重厚な家具に囲まれた空間。きらびやかな銀器と透き通ったガラスの食器――庶民だった頃には考えられないほどの格式に、ひかりの背筋は自然と伸びる。マナーは母から教えられていたが、やはり所作の端々にぎこちなさが滲んでしまう。ナイフの音が響くたびに、緊張が増していく。(恥ずかしい……。こんなに固くなってちゃ、情けないな)主屋にいる祖父――真木伯爵家の当主・真木圭吾とは食事の時間を別にしており、この洋館での食事は、いつも玲一郎とのふたりきりだ。たとえ偽りの夫婦でも、ひかりにとっては大切な時間だった。ふと、玲一郎が手元のスープ皿に視線を落としながらぽつりと言った。「……美
last updateLast Updated : 2025-07-04
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第十三話 戻った場所

翌日は、玲一郎の休暇日だった。午前中の洋館は、静かな空気に包まれていた。ひかりは食後の紅茶を前にして、思いきって口を開いた。「……あの、喫茶店の様子を一度見に行きたいのです。気になっていて」食器の音が静かに止まる。「行ってもよろしいでしょうか?」玲一郎はしばし無言だったが、やがて小さくうなずいた。「構わない。……私も行く」「えっ……いえ、でも……今日はお休みでしょう? せっかくですし、洋館でゆっくりなさってください」そう伝えると、彼はほんの一瞬、視線を落とした。そして、ぼそりと呟くように言った。「……私が一緒では、不都合ですか?」その言葉に、ひかりは返す言葉を探して口を開けずにいた。(そうじゃないのに……うまく言えない)ギクシャクとした空気がそのまま背中に重くのしかかる。「……わかりました。一緒に、行きましょう」それだけを絞り出すように言った。---運転手付きの車で、街へと向かう。季節は春の名残をわずかに引きずりながらも、木々の葉は初夏の色へと変わり始めていた。車内は静かだった。ひかりは、ふと隣の玲一郎を盗み見る。整った横顔。物静かで、けれどどこか冷たいまなざし。(……やっぱり、かっこいいな)そう思ったそのとき、玲一郎がふいにこちらを見た。目が合った瞬間、ひかりの心臓がどくんと跳ねた。あわてて視線を逸らす。その小さな動揺が、車内に残った沈黙を少しだけ和らげた気がした。---やがて、車は「香蘭堂」の前に静かに停まった。古びた木の扉、味のある硝子の窓。看板の文字は少しかすれていたが、あの日と同じ場所に、あの日と同じように、そこに在った。「……鍵、開けますね」バッグから鍵束を取り出し、震える手で扉を開ける。扉を開けた瞬間、木の匂いと懐かしい珈琲の香りがふわりと鼻をくすぐった。ひかりはそっと足を踏み入れる。カウンターも、棚も、椅子も――何も変わっていなかった。父が磨いていたカップ、母が愛用していたティーポット。黒板には「本日のケーキ」の書きかけがそのまま残っていた。「……帰ってきた」ひかりの目に、自然と涙がにじむ。守りたかったものが、ここにあった。壊れていなかった。失われていなかった。その瞬間――「……」何かが視界の端に差し出された。ふと顔を向けると、玲一郎が無言でハンカチを差し
last updateLast Updated : 2025-07-04
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第十四話 バラの庭の出会い

「……本当は、あなたのためにコーヒーを淹れたかったんです」店内を見回しながら、ひかりはぽつりと呟いた。カウンターの奥には、まだ手入れのされていない器具たちが静かに眠っている。水も電気も整っていない今は、何ひとつ動かせない。それでも、この店はひかりの心そのものだった。その思いを玲一郎に届けたくて、自然と口をついた言葉だった。玲一郎は黙ったまま、窓の外に視線を向けた。何を思っているのか、表情からは読み取れない。その沈黙をやわらげるように、ひかりはふと思い出したようにバッグを開いた。「そうだ……」取り出したのは、薄いクリーム色の名刺。昨日、如月稜真から手渡されたものだった。「叔父さまのお店、行ってみませんか? 洋菓子のお店……すぐ近くだそうです」玲一郎のまなざしが、名刺の文字に落ちる。「……“ローズ・エトワール”か」「丘の上の洋菓子店、だそうです。あの……行きたいんです。よろしいですか?」ひかりの言葉に、玲一郎は一瞬だけ目を細める。ためらうように視線を泳がせたあと、小さく息を吐いた。「君が行きたいのなら」そう言って、彼はすっと手を差し出した。エスコートの手だった。一瞬、ひかりの心が強く跳ねる。(……え、これって……)戸惑いながらも、その手に自分の手を重ねた。互いに手袋越しとはいえ、掌から伝わる体温が、体中に熱を巡らせる。ドキドキが止まらないまま、喫茶店の扉を静かに閉める。そしてふたりで車へ戻り、運転手に行き先を告げた。「ローズ・エトワールへ向かってくれ」「かしこまりました」玲一郎のひと言で、車は音もなく走り出す。---初夏の風が街を撫でていく。車窓からは、石畳の続く坂道、軒先に吊るされた花籠、小さな噴水――絵本のように彩られた町並みが流れていった。空はどこまでも青く澄み、白い雲がゆっくりと流れている。(……まるで新婚旅行みたい。)そう思った自分に、ひかりはそっと頬を赤らめた。偽りの結婚、契約結婚、そして偽りの初夜。本物の夫婦ではないと、わかっているはずなのに。(……でも、誰かが見たら、きっと仲の良い新婚夫婦に見えるんだろうな)それが、うれしくもあり、恥ずかしくもあった。そして――(玲一郎さんは……どう思っているのかな)横顔を盗み見たくて、ちらりと視線を向ける。けれど彼の表情は、いつものよ
last updateLast Updated : 2025-07-04
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第十五話 薔薇と囁き

薔薇の庭園に囲まれたテラス席からは、街が一望できた。陽光に照らされた瓦屋根が並び、その向こうには、きらめく青い海が広がっている。「……素敵」思わずひかりの唇からこぼれた感嘆に、稜真は笑みを浮かべた。「気に入ってもらえたようで、光栄です」そう言って、一輪の薔薇を差し出す、棘のない、柔らかなピンクの花びらが、初夏の風にふわりと揺れた。「この薔薇はね、香りが自慢なんだ。どうぞ、あなたに」そっと差し出された薔薇を、ひかりは両手で受け取る。「……ありがとうございます。とても良い香りです」玲一郎は、その様子を静かに見つめていた。目を細めるでもなく、怒るでもなく――けれど、明らかに言葉少なだった。「この店の運営は、海外から呼んだパティシエに任せていてね。僕はもっぱら、庭の手入れと味見担当です」稜真はそう言って、ふと視線を奥の建物に移す。「僕自身は、あちらに住んでいます。バラ園を抜けた先にある、ちょっとした洋館ですけどね。よければ、今度案内を――」「叔父さん」玲一郎が低く咳払いをした。「ここは洋菓子店でしょう? メニューを見せていただけますか」その言いぶりは、やや強めだった。稜真は一瞬きょとんとしたが、すぐに柔らかく笑ってみせた。「もちろん。すぐに用意させましょう」そう言って店の奥へと姿を消す。そのあとに残った沈黙の中、ひかりは玲一郎の横顔を盗み見た。(……もしかして、仲が悪いの?)そんな疑問が顔に出てしまったのだろう。玲一郎が、ふいにぽつりと呟いた。「誤解しないでください。別に、叔父との仲が悪いわけではない。ただ……貴女が……」その先を続けず、言葉は途中で切れた。(……私が、なに?)ひかりが小さく首をかしげたとき、給仕のメイドが静かに近づき、丁寧な所作で一冊のメニューを差し出した。手に取ったそれは、厚手のクロス紙に革装の装丁が施された、まるで小さな画集のような品だった。そっと開いてみると、ページの上には色彩豊かなイラストが並んでいた。写真ではない――すべてが、水彩で描かれた繊細な絵。瑞々しい果実をあしらったタルトや、層の美しいミルフィーユ、ほんのり湯気をたてるコーヒーカップ。どれも実物以上に魅力的で、眺めているだけで甘い香りが立ちのぼってきそうだった。「……素敵……」ひかりが思わずつぶやいたその声に、そっと近
last updateLast Updated : 2025-07-04
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第十六話 契約の境界

「またいつでもおいでなさい。君の淹れるコーヒーの話も、もっと聞きたいと思っているよ」洋菓子店を出るふたりに、稜真が柔らかく声をかけてきた。薔薇のアーチの下、風に揺れる白いスーツの裾。まるで劇場のワンシーンのようだった。「ありがとうございます。ごちそうさまでした」ひかりが微笑んで頭を下げると、稜真も満足げに頷く。その様子は、まるで本当の家族に見えるほど、穏やかだった。(……なんだか、優しい人)そう思いながらも、ひかりは玲一郎の背を追うように足を進めた。すでに待たせていた車の扉が開かれ、ふたりは並んで後部座席へと乗り込む。玲一郎が短く「帰宅を」と命じると、運転手は静かに頷き、車はゆっくりと坂を下り始めた。---車窓に広がる景色は、ゆるやかに暮れなずむ空を映していた。さっきまでの青が、いまは茜に染まりかけている。その美しさに胸が高鳴る――はずだったのに。(……もう、終わりなんだ)喉の奥がきゅっと詰まるようだった。楽しかった時間。美しい薔薇。おしゃれなケーキ。並んで歩いた坂道。――まるでデートのようだった。(でも……これは、デートじゃない)契約結婚。ただの「偽装された夫婦」。誰かの目を欺くために並んで歩き、席を共にしただけ。本当の想いがあるわけじゃない。(玲一郎さんには……想い人がいる)丘の上で出会った、あの女性の姿が脳裏にちらつく。(その人と結ばれることを諦めて、私と結婚した。お金のために)そう思った瞬間、胸の奥にじわりと冷たいものが広がっていった。(こんなに、苦しくなるなんて……)そのとき、隣から低い声がした。「……尋ねないのかい?」「え?」不意に問いかけられて、ひかりは目を見開いた。「さっきの女性のことを」言葉の意味を理解した瞬間、心が跳ねた。(尋ねて……いいの?)だが、その問いと同時に――ひかりの脳裏には、契約書の一文が鮮明に蘇る。『お互いの私生活には干渉しないこと』そう。これは契約なのだ。恋人でも、夫婦でも、ましてや想い合う関係でもない。「……尋ねないわ」ぽつりと、ひかりは言った。「どうしてだい?」玲一郎の声は静かだった。けれど、その響きはどこか、ひかりの胸を責めるようだった。「だって……関係ないから。私には」それが契約で決められた、正しい答え――のはずだった。けれど口に
last updateLast Updated : 2025-07-04
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第十七話 私の場所

数日が過ぎても、ひかりと玲一郎の間の距離は埋まらなかった。言葉を交わさぬまま、時間だけが過ぎていく。伯爵邸で働く使用人たちも、その空気を感じ取っているのか、ひかりに向ける視線はどこか遠慮がちだった。(このままじゃ、駄目……)今日こそは、ゆっくり話をしよう。そう思い立った矢先――「しばらく、基地に詰めることになった。戻るのは数日後だ」玲一郎の言葉は淡々としていたが、どこか言い淀むような気配があった。玄関まで見送ったひかりは、何か言葉を待っていた。けれど、玲一郎は何も言わず、軍帽をかぶり、振り返ることなく屋敷を出て行った。その背中を、ひかりはただぼんやりと見送るしかなかった。---重たい足取りで部屋に戻り、ひかりは椅子に腰を下ろした。読みかけの本を手に取ってみたものの、ページをめくる指先に力が入らない。物語の世界に入っていけず、内容もまるで頭に入ってこなかった。(……暇だな)大きなため息がひとつこぼれる。(伯爵夫人って、何をするべきなんだろう)格式ある家に嫁いできたけれど、誰からもはっきりと「こうしてほしい」と言われることはない。ただ礼儀正しくしていればいいのか、家の中を取り仕切ればいいのか、それともただ静かにしていればいいのか――答えは見つからなかった。思い出されるのは、両親と過ごした喫茶店の記憶。母と一緒に焼いたスコーン。父が丁寧に淹れていたコーヒー。夏にはみつ豆、冬にはシナモンティー。庶民的だけど、どこか特別な時間を提供する場所だった。けれど、両親を失ってから、香蘭堂はゆるやかに傾いていった。(あの噂がなくても、きっと私の力だけでは……)常連客も離れ、店内には静寂が漂っていた。(私は、ただ両親の背中を追いかけていただけだったのかもしれない)そして、心の奥に湧き上がる別の不安。(契約結婚だって、いつまで続くか分からない)祖父が亡くなったあと、玲一郎が別れを切り出したら?あの丘の上で見かけた、あの女性が――真木伯爵夫人としてこの家に迎えられたら?(そんなの、嫌……)けれど、「離婚しないで」としがみつく自分を想像すると、それもまた情けなくて、恥ずかしくて、嫌だった。---気分を変えたくて、ひかりはそっと部屋を出て裏庭へ向かった。広い庭園の一角にあるバラ園は、初夏の陽射しを受けて、色とりどりの花がゆるや
last updateLast Updated : 2025-07-04
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第十八話 丘の上の洋館

如月稜真が黒塗りの車で迎えに来たのは、まだ日が高い午後のことだった。艶やかな黒塗りに磨き上げられた外装と、真鍮の金具が陽光を鈍く返すその自動車は、まるで異国の風を運んでくるようだった。町に一台とない、舶来の乗り物――その優雅な姿は、見る者に時代の最先端を感じさせた。「では、参りましょうか」黒革の手袋を外しながら、稜真が運転席を降りる。無駄のない動きで助手席の扉を開ける姿には、育ちのよさと洗練された余裕が滲んでいた。その所作に、ひかりは思わず息を呑む。――まるで物語の中の人みたい。けれど、ぼんやりしてはいられない。ここで戸惑っていては、真木伯爵夫人としては務まらない。(……慣れなくちゃ。これからは、こういう世界で生きていくのだから)そう自分に言い聞かせて、小さく礼をしながら車に乗り込んだ。向かった先は、町外れの丘の上に建つ洋菓子店だった。「見学してみたいと仰っていたでしょう? 急ではありますが、話を通しておきました」その言葉通り、店に着くと、白い扉の前にはパティシエと数人のスタッフが整列して出迎えていた。営業中ではないようで、周囲に客の姿はない。貸し切りのような静けさに、ひかりは思わず背筋を正し、深く頭を下げた。案内された厨房には、見たことのない器具が整然と並び、隅々まで磨き抜かれていた。フランスから招かれたというパティシエが、片言の日本語と通訳を交えて、ひとつひとつ丁寧に解説をしてくれる。「このオーブンは、熱の巡りが非常に均一で……」「紅茶は毎月、ロンドンから空輸しております。鮮度が命ですから」ひかりは、喫茶店「香蘭堂」での経験を思い返しながら、熱心にメモを取った。器具や素材の話が、他人事ではなく、どこか懐かしく胸に響く。見学を終えたあと、稜真はひかりを店のすぐ隣の洋館へと案内した。「よければ、こちらでひと息つきませんか?」重厚な扉を抜けた先には、外界とは切り離されたような静謐な空間が広がっていた。古風な装飾と西洋の調度に彩られた室内。窓の外には花咲く庭園、その向こうに遠く海が光っていた。「素敵ですね……」うっとりと呟くひかりの目に映るのは、陽光にきらめく庭と、瀟洒な洋館の佇まい。「元は、明治の終わり頃に外国から移り住んできた菓子職人が建てた館だそうです。祖国の味をそのまま日本に伝えようと、材料も器具も一から取り寄せて
last updateLast Updated : 2025-07-04
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第十九話 拘束

まぶたの奥に、淡い光が差し込んでいた。夢の途中かと思った。でも、まぶたを開いた瞬間、その幻想は吹き飛んだ。見知らぬ天井。高く、白く、繊細な装飾がほどこされた漆喰の天井が、静かに視界に広がっている。(……ここは……?)起き上がろうとしたそのとき、異様な感触がひかりの意識を引き戻した。(――動かない……?)両手首が、何かで縛られていた。目を伏せると、前で揃えられた手が、絹のような紐で固く結ばれている。細いのに強く、指を動かそうとするだけできつく締まり、逃げ場がなかった。「……っ……なに、これ……!」思わず小さく叫ぶと、胸の奥から冷たいものが込み上げてきた。足は自由だった。でも、それがどうしたというのだろう。手が使えなければ、身を守ることも、ドアノブを掴むことさえできない。ひかりは改めて自分の状況を確認した。自分は、ベッドの上に寝かされている。柔らかく清潔なシーツ。光を通す薄いレースのカーテン。すべてが整いすぎていて、逆に現実味がなかった。(どうして……こんなところで、私……?)喉が渇いていた。胸の奥がざわざわと波打っている。不安を押し殺しながら、首だけを動かして周囲を見渡した。そして、目を奪われる。ベッドの向こう、部屋の壁沿いに、いくつものキャンバスが立てかけられていた。大小さまざまな絵。色彩、構図、筆のタッチ。どれも素人の手によるものではない。むしろ、執着に近い情熱を感じさせる、異様な絵だった。描かれていたのは――すべて、女性だった。(これ……)一枚目に描かれた横顔に、見覚えがあった。いや、見覚えがあるというより――自分に、似ていた。けれど、少し違う。髪型も服装も古風で、肌の色もわずかに白い。懐かしさに似た感情が胸の奥をかすめたとき、ひかりは静かに呟いた。「……お母さん……?」若い日の澄江。そこに描かれていたのは、ひかりの母だった。何枚も、何十枚も。微笑む顔。髪をほどく姿。紅茶を注ぐ手。誰かを見つめる目――。どの絵も、まるで恋人を描くかのように、丁寧に、そして熱をこめて描かれていた。ぞっとした。肌の内側に、冷たいものが這い上がる。そのときだった。部屋の奥、窓の近くで小さな音がした。「目覚めたんだね」その声に、ひかりはびくりと体を強張らせた。アトリエスペースの奥。光を背にして、稜真が静かに筆を動かして
last updateLast Updated : 2025-07-04
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第二十話 危機

「ひかり! いるのか!」屋敷の外から、玲一郎の声が響いた。ひかりは目を見開いた。助けが来た――! けれど、叫ぼうとしたその瞬間、稜真の手が彼女の口を塞いだ。「ん……っ!」もがくひかりの瞳に、涙が滲む。けれど、声は出せない。助けて、玲一郎さん。ここにいるの。早く……。心で何度も助けを求めながら、ひかりは必死に考えた。動かせるのは、足だけ。ベッドの端にかかっていたつま先をぎゅっと踏ん張り、身体をひねるようにして暴れる。ぐらり――。ベッドのすぐ脇にあった小さな丸テーブルが、その振動でわずかに揺れた。上に置かれていた花瓶がカタリと傾き、次の瞬間、床に落ちて砕け散った。――パリンッ!静まり返っていた部屋に、甲高い破裂音が響きわたる。稜真の目がわずかに揺れた。その瞬間、ひかりは動いた。口を塞ぐ手が緩んだ隙を、逃さなかった。「玲一郎さんっ! 私はここよ! 助けて――!」扉の向こうで、何かが蹴破られるような音がした。「……チッ」舌打ちをして、稜真はすぐに身を翻す。画材棚に置かれていたペティナイフを無造作に掴むと、そのままひかりの喉元に突きつけた。「っ……!」鋭い冷たさが首筋に触れ、ひかりの表情が青ざめる。首に走った痛みに、滲むように血がにじんだ。「嗅ぎつけるのが早すぎる。まったく、彼は君を見張ってでもいたのか……?」稜真は苦笑して、しばらく何かを考えるように目を伏せた。「さあ。こっちに来るんだ」そう言って、ひかりの腕を乱暴に引いた。開いた扉の外、稜真に引きずられるようにして廊下を歩かされる。廊下の奥――蹴破られた扉の向こうから、軍服姿の玲一郎が駆け込んでくる。「ひかりさん!」その声に、ひかりはかすかに顔を上げた。「……玲一郎……さん……」声はか細く、けれど確かに届いた。ふたりの視線が一瞬、重なる。それを見て、稜真の表情が歪んだ。「そこをどけッ!!」怒声が響くと同時に、稜真はペティナイフの刃をぐっとひかりの喉元に押しつけた。鋭い痛みに、ひかりの身体が強張る。細く滲んだ血が、首筋を伝う。扉の前に立っていた玲一郎が、一歩、思わず足を引いた。けれど、その目は逸らさない。ひかりの小さく震える体に、視線を釘付けにしたまま、息を詰めるようにして立ち尽くしている。「……いい子にしてなよ。変に動けば、今度こそ深く刺
last updateLast Updated : 2025-07-04
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