All Chapters of 愛してたのは本当、別れても後悔しない: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

控室のドアが皆の視線を背にして閉まり、外の様子は完全に遮断された。直樹は我慢できずに紗良に駆け寄ろうとしたが、豪華なウェディングドレスの大きなスカートに阻まれて足が止まった。紗良は黙って一歩後ろに下がった。「両親には私たちのこと、一度も話したことないの。全部、自分で決めたことだから」直樹の胸に、不安がじわじわと広がっていく。「前から出国のこと知ってたなら、どうして早く言ってくれなかったんだ?何があったんだよ?」紗良の視線には、複雑な感情が渦巻いていた。「自分がやったこと、まさか覚えてないわけじゃないでしょ?」「真琴とのバーでの件は、ただのゲームだったんだ……」まだ言い訳を続ける直樹に、紗良の我慢も限界を迎えた。「私に近づいたのって、彼女の復讐のためでしょ?私を妊娠させたのも、お父さんへの当てつけだったんじゃないの?ここまできて、よくもまあ平気な顔して私の前に現れたわね」そう言いながら、紗良の表情がわずかに歪み、皮肉めいた笑みを浮かべた。「ああ、そういうことか。私の婚約発表の場で大騒ぎして、皆に私を笑わせる。それも復讐の一環なのね」直樹は雷に打たれたように顔を青ざめさせた。やっぱり、気づいてたんだ……脳裏に、あの夜のベランダでの電話の記憶が閃いた。背後に気配を感じたのに、紗良が睡眠薬入りのミルクを飲んでいたからと、油断してしまった。あの夜だったんだ――間違いない。だってその前まで、二人で激しく愛を交わしていた。そのときの紗良は、いつものように素直で、彼にすべてを委ねていた。思い出すほどに、直樹の胸は後悔と苦しさで締めつけられた。もっと慎重にしていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。だがそれ以上に苦しいのは、紗良の冷たさだった。彼女は、やり直す機会すら与えてくれないのか。「紗良……あの件は、俺が悪かった!ちゃんと謝る。確かに最初は目的があって近づいた。でも、一緒に過ごした千日以上の時間――あの幸せな思い出まで、全部なかったことにするのか?」最初は深く反省していた直樹だったが、話せば話すほど、胸の奥に溜まった怒りが顔を出してくる。この三年間、彼なりに紗良を大切にしてきた。紗良が「城北の老舗の朝ごはんが食べたい」と言えば、朝五時に車を出して並びに行き、できたてを
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第12話

飛行機が着陸すると、直樹は運転手の車に乗り込んだ。何の挨拶もなく国外に七日間も飛び出したことで、直樹の父は怒り心頭だった。ましてや、紗良の婚約式場に直樹が乱入する動画を見てからは、怒りが爆発寸前まで達していた。「お前、本当に噂通り紗良の尻を追いかけて報われない恋してるのか?京市で知らない奴はいないぞ、あいつの父親は俺の宿敵だ。お前のせいで俺の面子は丸潰れだ!これ以上馬鹿な真似をするなら、会社の跡継ぎなんて諦めろ!」直樹は「いらない!」と吐き捨てて電話を切った。額に手を当て、険しい顔で窓の外を流れる景色を睨みつける。幼い頃から、直樹の父は「常に計算高くあれ、誰にも隙を見せるな」と教え込んできた。直樹もその教えに従い、他人を次々と打ち負かす快感と、周囲の称賛を浴びる優越感に酔っていた。どんなタイプの女が近づいても、決して心を許すことはなかった。ただ一人、真琴だけが別だった。大学時代、直樹は真琴のことを調べたことがある。彼女は地方の小さな町の出身で、家は裕福ではなかった。だが、芯が強く、自立していて、どこか誇り高い雰囲気を持っていた。彼女は学業に全力を注ぎ、直樹がどれだけ接近しても、距離を保ち続けた。その態度が、直樹の心に火をつけた。彼女は唯一無二の存在だと確信した。だからこそ、紗良が家の権力を使って真琴の卒業代表の座を奪い、彼女を傷つけて国外に追いやったと知ったとき、直樹は怒りに燃えた。人を計算で操ることはできても、計算高い人間には強い嫌悪感を抱く。紗良と付き合い始めた当初、直樹はゲームのような感覚で、どちらが上か確かめようとしていた。だが、次第に違和感を覚えるようになった。紗良は優しくて思いやりがあり、裕福な家庭の娘でありながら、贅沢をひけらかすことはなかった。卒業後は児童向けの絵本作家になり、愛らしい作品を次々と発表して子供たちに人気を博した。その収益を、福祉施設や捨て犬猫の保護団体に寄付していた。その頃、直樹は戸惑い、そして恐れを抱いた。紗良に惹かれながらも、心の中で何度も警告した。これは全部、作られた仮面だと。紗良はあの貴弘の娘だ。あの老獪な男の娘が、ただの善人であるはずがない!……だが今、直樹は初めて、疲労と後悔を感じていた。ビジネスの世界では、今日の敵が明
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第13話

直樹は暗い表情のまま、静かに腕の中の人を見つめていた。真琴はわざと驚いたふうに目を見開いた。「直樹!帰国してたの?」さっき聞こえてきた会話を思い出し、直樹の冷たい雰囲気もいくらか和らいだ。「うん」と小さく頷く。真琴はうつむき、口元に苦笑を浮かべた。「私たち、紗良のこと誤解してた……謝りに行ってくるね」直樹はしばらく黙っていたが、やがて低く一言だけ口にした。「もういいよ」今さら謝ったところで、紗良の心の傷は癒えない。すべてはもう取り返しがつかないのだ。真琴を責めるつもりはなかった。ただ、最初から自分と紗良の関係が間違っていた、それだけのこと。直樹の頭はぼんやりとして、体もやけに重かった。連日の移動と心労で極限まで疲弊し、まるで海の底に沈んで四方八方から水に押し潰されているような感覚だった。真琴の悲鳴が響いた次の瞬間、彼はその場に崩れ落ちた。桐生夫人が知らせを聞いて慌てて駆けつけたとき、真琴はすでに一晩中病院で付き添っていて、目の下には濃いクマが浮かんでいた。全身ブランド物で着飾った貴婦人を前に、真琴は媚びることもなく、黙って席を譲って病室を出ていった。真琴が出ていった直後、直樹は目を覚ました。桐生夫人は息子の額の汗を拭きながら、興味深げに口を開いた。「さっきの子、なかなか良さそうね。彼女なの?」直樹は淡々と答えた。「お母さん、違うよ。ただの友達」桐生夫人は言葉に詰まり、思わず息子の腕を軽く叩いた。「まさか本当にお父さんの言う通り、まだあの紗良のことを引きずっているの。何か変な呪いでもかけられたんじゃないの?」桐生夫人の眉間には深い皺が刻まれ、不機嫌な表情を隠そうともしなかった。直樹の父と貴弘が対立しているだけでなく、桐生夫人自身も南條夫人とは何年も張り合ってきた仲。当然、あの家の娘など気に入るはずがない。そのことは、直樹もよく分かっていた。だが、もう紗良との未来はどこにもなかった。それでも、真琴を受け入れる気にはなれなかった。病室の外で真琴が自分への想いを打ち明けた時も、心はまったく動かなかった。今もそうだ。自分のために一晩中付き添ってくれたと分かっていても、頭の中には紗良の姿ばかりが浮かんでくる。甘えるように笑う顔、真剣に絵を描く横顔、子猫を撫でる優し
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第14話

このところ、紗良の心は痛みに苛まれていた。唯一の救いは、隼人がすべてを知ったうえで、それでも自分との婚約を受け入れてくれたことだった。それだけでなく、隼人が時おりかけてくれる慰めの言葉は、彼女が最も苦しくてつらい瞬間に、いつも支えとなってくれた。もし彼がそばにいてくれなかったら、紗良は、自分が壊れてしまっていたかもしれないと思った。南條夫人は驚いたようにこの婿を見つめ、貴弘は先に我に返ると、感動したように彼の肩を叩いた。「いい子だ!紗良と一緒にいてくれるなら、私たちも安心だよ」隼人はうなずき、紗良の手を引いた。「式が終わって、すべてが片付いたら……まず最初に俺が直樹を許さない。俺の妻を、そんなふうに傷つけていいわけがないだろ」紗良は彼の思いに感謝しながらも、勇気を出して口を開いた。「この件は……もう、これで終わりにしたいの」三人の視線が一斉に彼女に向けられるのを感じながらも、紗良は静かに続けた。彼らには理解しがたいかもしれない。でも紗良にとって、愛であれ憎しみであれ、いつまでもこだわっていても心が疲弊していくだけだった。桐生家は簡単に対抗できる相手じゃない。報復の連鎖に終わりはない。争うたびに、心の傷口がまた開かれ、塩を塗り込まれるようなものだった。何度も、何度もその痛みを繰り返すだけ。ビジネスの損得は計算できても、感情の清算はどんどん複雑になるばかり。人は、前を向かなければ光を見失う。紗良の両親は、彼女の言葉を聞いて深くため息をついた。隼人は相変わらずの表情だったが、口調が少し和らいだ。「わかった。君の言う通りにしよう」その瞬間、紗良の心から大きな荷が下りた。こんなにも日々が重たかった中で、隼人が彼女の心からの笑顔を見るのは初めてだった。客の前で無理に作る笑みではない、心の底から柔らかくほどけた微笑み。隼人はその姿に見入ってしまった。紗良は、ひと目で誰もが振り返るような美人ではない。だが、まるで貝の中に隠された真珠のように、柔らかく光を放ち、気品があり、落ち着いた美しさがあった。隼人の心に、ひとつの思いが浮かんだ。――やっぱり、あの直樹ってやつはバカだ。こんな宝石を手にしておきながら、大事にしようともしないで。ガラス玉をダイヤと信じて、目先の光に騙されて
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第15話

真琴はじっと見つめられ、嫌な予感が背筋を走った。案の定、直樹の問い詰める声は、氷のように冷たかった。「紗良が言ってたこと、全部本当なのか?」スマホに映るメッセージを見た瞬間、真琴の胸がギュッと締めつけられた。一番恐れていたことが、とうとう現実になってしまった。――このクソ女、紗良!もう海外に行って、他の男と結婚するのに、どうしていつまでも付きまとってくるのよ!心の中で罵倒しながらも、表面ではプライド高く、あくまで被害者のように苦笑した。「やっぱり、紗良は私のことを心底憎んでるのね。あなたと別れてまで、私の名誉を傷つけようとするなんて。直樹、私はそんなことしてない。信じるかどうかはあなた次第よ」直樹はスマホを仕舞い、真琴をじっと見つめた。「俺が直接、紗良に確認する。もし誤解だったなら、謝罪して償う。その上で、正式に君と付き合うよ」真琴の顔に一瞬、喜びの光が差したが――その後の言葉が、彼女の心を一気に氷の底へ突き落とした。「でも、もし俺を騙してたとわかったら……真琴、お前も俺の復讐のやり方は知ってるだろ。覚悟しておけ」そう言い捨てると、直樹は一切の未練を見せず、その場を立ち去った。真琴の心はぐちゃぐちゃにかき乱され、周囲のざわめきと視線の中で、足元が崩れ落ちるようにソファに倒れ込んだ。夜が明けるのを待たず、直樹はすぐに国外行きの飛行機に乗った。心臓の鼓動がどんどん早くなる。この感覚は――緊張だ。だが、彼が緊張していたのは、真実を知ることに対してではない。実際のところ、真琴に対する興味はもうほとんど残っていなかった。直樹はただ、紗良に会う口実ができたことに、密かに喜んでいたのだ。だが、何度メッセージを送っても、返事は一切なかった。99通目を送ったとき、ついに紗良は彼を再びブロックした。それでも、直樹はまったく怯まなかった。追いかける根気なら誰にも負けない。この「もう一度手に入れたい」と思う感覚――それがたまらなく心をかき立てた。そして6日目、直樹はついに、ある動物保護施設で紗良を見つけた。紗良はしゃがんで、片耳の欠けた黒猫を優しく抱きしめていた。白く細い指が猫の頭を撫で、陽の光が彼女の横顔に柔らかな金色の縁を描いていた。まるで絵画のようなその光景に、直樹は目を奪
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第16話

直樹が再び目を覚ましたとき、がらんとした病室には自分ひとりしかいなかった。彼は思わず上体を起こそうとしたが、目の前が真っ暗になり、頭に分厚い包帯が巻かれているのを手で確かめた。それだけではない。片腕にはギプスがはめられていた。しばらくじっとしてから、彼は根性で布団をめくってベッドから降りようとした――そのとき、紗良が病室に入ってきた。直樹はホッとしたように大きく息を吐き、目を輝かせた。「もう、帰ったかと思ったよ」紗良は薬をベッド脇の棚に置き、複雑な表情を浮かべた。「医者が診たところ、軽い脳震盪と右腕の骨折だって」直樹は自分の怪我なんてまるで気にしていなかった。むしろ、もっと重傷だったら良かったのにとすら思っていた。もしそれで紗良の気持ちを取り戻して、再びそばにいてもらえるなら、車に轢かれて半身不随になっても構わないとさえ。何を言えばいいか考える間もなく、紗良が淡々と続けた。「隼人が調べてくれた。あのスポーツカーの運転手は、地元の金持ちのボンボンで、あなたとは何の関係もなかった」直樹はその言葉に固まった。なぜそんな話をいきなりするのか、全く分からなかった。困惑する彼の目を見て、紗良は静かに冷笑した。「やっぱり桐生坊ちゃんはお忘れのようね。バーの外で、わざと仲間に車で私を轢かせようとしてたことなんて、すっかり頭から抜けてるみたい。でも今回はちゃんとした医者が診てくれて良かったわ。偽の血糊を本物の傷と間違えるようなヘマはしなかったから」その瞬間、直樹の顔から血の気が引いた。――まさか、紗良がそこまで知っていたとは。「ごめん」と言いたかった。口を開いたが、言葉が出てこなかった。謝りたいことが多すぎて、自分でもうんざりするほどだった。目の前の男を見つめながら、紗良はふと、彼がとても遠い存在に感じた。記憶の中の直樹は、いつも自信に満ちていて、傲慢なくらい堂々としていて、どこか不良っぽい魅力があった。けれど今の彼は、唇がひび割れ、無精髭が生え、全身ボロボロで、見る影もなかった。うつむく直樹を見て、紗良はそれ以上責めるつもりはなかった。「ゆっくり休んで」そう一言だけ残し、バッグを持って病室を出て行った。別荘に戻ると、珍しく隼人が彼女よりも早く帰ってきていた。「心配なら、病
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第17話

病室には、直樹の父と桐生夫人、そしてしばらく顔を見せなかった真琴の姿まであった。ただひとり、直樹だけがいない。桐生夫人は傲然とした表情を浮かべた。「直樹は検査に行ってるわ。だからあの子がいないうちに、わざわざあんたに会いに来たのよ。あの子に助けを求めようなんて思わないで!」紗良は思わず冷笑を漏らした。頼るなら、自分の家族、そして隼人だ。直樹なんて、何の価値もない。前後の事情を手短に説明した紗良は、すでに嫌気が差していた。「さっさと息子を連れて帰って。二度と私の前に現れないで」桐生夫人は怒りで顔色を青くしたり赤くしたりしていたが、紗良の言葉の真偽などどうでもよかった。 誰が先に裏切ったかも関係ない。 彼女の中では、息子が何をしようが絶対に間違っていない。 ましてや、女を弄んだ程度で――真琴はそっと桐生夫人の腕を支え、目を伏せたまま深い闇を湛えていた。このところ、真琴にとっては散々な日々だった。 紗良さえ追い出せば、直樹の心は自然と自分に戻ると思っていた。 なのに、どれだけ努力しても、どれだけ計算しても、直樹はどんどん遠ざかっていくばかり!あの放蕩仲間から、直樹がまた海外に飛んで紗良を探しに行ったと聞いた時、しかも彼女を助けるために本当に重傷を負ったと知った時、もう黙っていられなかった。桐生夫人を引っ張って一緒に飛んできたのも、もちろん印象アップが目的だ。「被害者ぶってるけど、直樹に縛られて、ナイフ突きつけられて無理やり寝たってわけじゃないんでしょ?男女の関係なんて、基本はお互いの同意でしょ。直樹と寝たくて泣きついてくる女なんて山ほどいるんだから。三年も楽しんだんでしょ?もう満足すべきじゃない?直樹があなたを妊娠させるよう仕組んだって?でも生まれた子は桐生家の血を引いてるのよ。父親として、祖父母として、可愛がらないわけがないじゃない。桐生家の財産だって、その子に受け継がせるでしょう?わざわざ自分に不利なことする人がいると思う?他人をバカにしすぎよ!」桐生夫人の目がぱっと輝き、勢いよく頷いた。真琴のことがますます気に入ったようだった。この善悪をひっくり返す話術こそ、真琴の得意技。 紗良の胸は怒りで上下し、呼吸すら苦しくなっていた。「な、何を言ってるのよ!」反論しようとした
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第18話

直樹の右頬が見る間に腫れ上がった。桐生夫人の手にはいくつもの大きなダイヤの指輪がはめられており、そのうちの一つが彼の顔に長く鋭い傷を残した。眉尻から口元まで、血が一筋、じわじわと流れ出す。その瞬間、彼は紗良の前に立ち塞がった。桐生夫人は呆然と息子の顔から流れる血を見つめ、数秒の沈黙の後、ようやく声を上げた。「直樹……!」紗良もまた、驚きを隠しきれなかった。直樹は、あのネットでの噂を見たはずだ。いつも真琴を一番に思い、少しの傷も許せないほど大事にしていたはずなのに。今、彼の口からはっきりと聞こえた――「俺は彼女を信じてる。紗良の人間性を信じてる」実のところ、直樹の心はもうとっくに決まっていた。あの三年間、千を超える日々を共に過ごす中で、彼は自然と彼女を信じるようになっていた。ただ、それを認めたくなくて、嘘と偏見に自分を閉じ込めていただけだった。スポーツカーに頭をぶつけたあの瞬間、彼の心の霧が一気に晴れた。復讐という言い訳も、仕組まれた芝居もいらない。彼は紗良を本気で愛している。食事も喉を通らず、彼女のことばかり考えてしまうほどに。車の前に飛び出しても、平手打ちを受けても、それを後悔しないほどに。だが、その姿を見た桐生夫人は、心臓が潰れそうなほどの衝撃を受け、今にも倒れそうになった。「あなた、何とかしなさいよ!この子、本気で南條家の小悪魔を庇って、私たちに逆らうつもりよ!」直樹の父は、自分の地位と威厳を保ちつつ、ずっと黙って様子を見ていた。だが、直樹の頑なな態度に怒りが抑えきれなくなり、ついに声を荒げた。「今こそ世間が貴弘と紗良を叩いてる絶好の機会だ。我々はその波に乗って南條グループの評判を潰し、桐生家の事業をさらに拡大できる!お前は、敵に味方して、家族に刃を向ける気か!」「敵、敵、敵……」直樹は、その言葉を幼い頃から何度も聞かされてきた。もううんざりだった。心の底から嫌気が差していた。目の前の父――口を開けば桐生グループの発展だの、打算だのばかりを語る男を見つめながら、直樹の中にあったかつての尊敬は、今や皮肉と軽蔑に変わっていた。「お父さんは何年もお爺さんが築いた遺産にすがって京市に引きこもってるだけで、南條叔父さんは果敢に新天地に挑んでる。敵だ敵だって、そんなこと
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第19話

紗良は眉をひそめながら、騒がしい茶番劇を見つめていた。まるで空気そのものが汚れていくような気がして、早くこの場を離れたくなった。ちょうどその時、隼人が先に歩み寄ってきた。視線で問いかけると、彼はいつものように言葉少なに答えた。「迎えに来た」紗良は微笑み、自らそっと手を彼の掌に重ねた。だが次の瞬間、彼女の眉間に再び不安の色が浮かぶ。「お父さんたち……もうネットのこと、見たかな?」隼人は少し冷えた彼女の細い指先を、自分の体温で優しく包み込むように温めた。「心配いらない」その中傷が広まり出した直後、彼はすぐに動いた。情報を拡散したアカウントを徹底的に洗い出させたのだ。ネットで騒いでいた連中は、すべて金で雇われた業者だった。隼人は裏社会の人脈まで使い、短時間で黒幕の正体を突き止めた。その人物の名前を思い浮かべながら、彼は真琴に鋭い視線を向けた。真琴は、あんな目を見たことがなかった。まるで氷山が小舟を押し潰し、雪崩が旅人を飲み込むような――逃げ場のない絶対零度の冷気だった。「デマはすでにすべて削除した。アカウントも凍結済みだ」紗良が帰って相談する前に、隼人はすべて片付けていた。彼女に余計な心配をさせないために。真琴は俯いて、心の中の恐怖と、深い嫉妬を隠した。どうして紗良だけが、こんなにも強くて優しい男に守られるの?なのに自分は、いつも男を見る目がない。直樹の心は、真琴以上に複雑だった。目の前で愛する女が他の男と親しげにしていても、もう自分には何の権利もなかった。「紗良、国内の噂の件は、俺に任せてくれ」その一言に、紗良はようやく彼に目を向けた。父と自分の名誉に関わること。彼女は迷いながらも、直樹に任せることにした。「……ありがとう」だがこのときの紗良は、まだ知らなかった。直樹が言う「処理」とは、ネット上で公開した一通の謝罪文だったということを。紗良の名誉を守るため、直樹は過去三年間、自分が恋人をどう利用してきたか、そのすべてを暴露したのだ。この告白は瞬く間に話題となり、ネットは炎上した。【うわ、直樹ってマジで悪魔じゃん!クズはさっさと消えろ!】【紗良が心をズタズタにされて、海外で電撃結婚したのも納得だわ!】【確かにやり方は良くないけど、真琴のためにやったっ
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第20話

隼人が外から戻ると、紗良をそっと抱き寄せ、彼女の頬に軽くキスを落とした。そのとき、彼女の手にある招待状にも目が留まった。「行きたいのか?」紗良は何かを考えるように、ゆっくりと頷いた。この招待状は、招待というよりも挑発状に近いものだった。真琴はただ、自分がまだ勝者だと誇示したいだけ。あの女はいつも、引き際というものを知らない。ならば、紗良ももう一歩も引かないと決めた。「隼人、あの噂をばらまいてたチンピラ、まだ手元にいる?」その男は詐欺まがいの手口で人を騙していた、真琴が昔、目を曇らせて騙された偽金持ちの男だ。隼人の手に落ちたとたん、情けないほどあっさりと全てを白状した。中には、真琴の動画も山ほど含まれていた。「婚約パーティーに出るなら、私からも盛大なプレゼントを贈らないとね」隼人は何でも紗良の言うことを聞いた。あの藤原家の両親でさえ、孤独死するんじゃないかと心配していた氷みたいな息子が、今ではすっかり妻に頭が上がらない夫状態だ。「すぐにプライベートジェットのルート申請を手配する」A国を離れてからまだ数ヶ月しか経っていないのに、紗良が懐かしい街角に立ったとき、景色は同じでも心情はまるで違っていた。宴会場で、彼女は思いがけず直樹と再会した。「なんでここに?」二人同時に口を開き、そのまま沈黙が落ちた。その気まずい空気を破ったのは、真琴だった。紗良があの私生児を初めて見た瞬間から、嫌な感じしかしなかった。直也の雰囲気は軽薄で、目元の計算高さは直樹の父親そっくり。今は得意げな笑みを浮かべていた。「へー、兄さん、そんなボロい格好で来たわけ?恥ずかしくないのか?本当に金ないなら俺が貸してやるよ。俺を楽しませてくれたら、ちょっとぐらい恵んでやってもいいぞ」紗良は来る途中、忠告するべきかと迷っていたが、今はもう完全に口を閉ざした。直樹がまるで気にした様子もないのを見て、真琴は内心でますます苛立っていた。別に直樹に本気で想いがあるわけじゃない。ただ、またしても紗良に負けたのが許せなかった。あのとき紗良が去った途端、直樹は抜け殻のようになっていたのに。自分が去った時は、まるでどうでもいいという態度を取りやがって!招待客が次々と集まり、直樹の父もゆっくりと近づいてきた。
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