All Chapters of 失って初めて知った、君の輝きを: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

あっという間に三日が過ぎた。晃は書斎でパソコンから流れる幹部たちの報告を聞いていたが、視線はずっとドアの方に向けられ、明らかに上の空だった。指先で机をとんとんと叩く音が、だんだんと速くなっていく。そのリズムは、彼の苛立ちを如実に表していた。なぜなら、三日経っても、紗江には戻ってくる気配がまるでなかった。まだ怒りが収まらないというのか?今度は何のつもりだ?家出でも演じてるつもりか?また大げさに探し回る羽目になるかと思うと、晃は思わずこめかみを揉んだ。彼は紗江が本当に帰ってこないなどとは思っていない。真冬のこの時期に、金も持たずにどこへ行ける?そもそも彼女を甘やかしすぎた。そのせいで、彼女がわがままで傲慢な性格になってしまったのだ。そのとき、カチャッと書斎のドアが開く音がした。晃はすぐさま立ち上がり、思わず口にした。「紗江」だが、入ってきたのが雛乃だと気づくと、彼の目に宿った優しさは一瞬で凍りついた。雛乃は手にスープを持っていて、笑顔が一瞬ひきつったが、何もなかったように上品に歩み寄る。「晃くん、無理しすぎないで。ちゃんと休憩もしないと」期待していた人ではなかったせいか、晃はどこか気の抜けた声で「うん」とだけ応じた。雛乃は唇を軽く噛みしめ、ためらいながらも口を開く。「晃くん、紗江さんのこと、心配してるの?」晃は何も答えなかったが、その目の奥にある感情がすべてを物語っていた。雛乃の瞳に一瞬、計算高い光がよぎる。そして、あたかも突然ひらめいたかのように彼の肩を軽く叩いた。「晃くん、いい方法を思いついたの。たぶん、彼女が自分から謝って戻ってくるはずよ」晃の心が一瞬揺れ、思わず聞き返す。「どんな方法だ?」雛乃は声を潜めて提案した。「彼女にとって一番大事なのはあなただから、ちょっと怒らせるようなことを発信してみたら?彼女の反応を引き出せるかも。刑務所に入ったことより、彼女が本当に恐れているのは、あんたが見捨てることだよ」晃の目には、迷いから決意が灯り始めていた。そして、彼はさっと手を伸ばし、雛乃を自分の膝の上に座らせた。雛乃は甘えた声を上げると、素直に彼の首に腕を回し、照れ笑いを見せた。晃がスマホを取り出して、雛乃は最も親しげなポーズで彼の胸に寄りかかった。撮った写真を
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第12話

ふかふかのベッドの上で、紗江はゆっくりと目を開けた。戻ってきてからもう一週間以上経つというのに、目覚めるたびにまだどこか夢を見ているような気分になる。ベッドの上でしばらくぼんやりしてから、彼女は体を起こし、素足でふわりとした敷物の上に降り立った。この部屋には特別な床暖房システムが使われており、外では雪がしんしんと降り続いていても、彼女は薄手のナイトドレス一枚で快適に過ごせる。その頃には、使用人たちが次々と部屋に入ってくる。手には服やスイーツ、そして彼女が毎日飲む漢方薬などを持ってる。何をするにも、彼女自身が手を出す必要はなかった。このあまりにも恵まれた環境に、紗江はふと篠田家での日々が脳裏をよぎる。篠田家にも確かに使用人はいた。けれど、「俺は自立した女の子が好きだ」と晃がそう言ったから、紗江は二十年以上の令嬢としての習慣をきっぱり捨てた。それまで指一本動かしたことがないのに、料理も洗濯も、全部自分で覚えた。晃は、自分が彼女に最高の生活を与えたと思い込んでいた。彼女に新しい世界を見せてやったとでも思っていたのだろう。だが、彼女は元から、そういう世界に生きていた。彼女こそが、晃がどれだけ手を伸ばしても届かない、別の世界の人間なのだ。「紗江」優しい女性の声が、聞こえてくる。ドアの前に立っていたのは、上品な雰囲気をまとった小松夫人だ。彼女が戻ってきてからもう一週間が経つが、小松夫人は紗江の姿を見るたびに、今にも泣き出しそうな目をしていた。特に、帰ってきたばかりの頃は意識が戻らず、小松夫人は泣きすぎて目が腫れるほどだったと聞く。その話を思い出し、紗江の胸の奥がじんと痛んだ。彼女はパッと立ち上がり、母の前に駆け寄ると、昔のように首を傾げて甘えるように言う。「母さん、ちゃんと帰ってきたよ。もう怒らないで」小松夫人は本当は叱りたかった。だが、ギプスの巻かれた彼女の腕を見て、その言葉をぐっと飲み込んだ。「あなたは昔から、私と父さんの大切な娘だった。お兄ちゃんにとっても、何より大事な妹だった。小さい頃にちょっと擦りむいただけでも、お兄ちゃんは何日も心配してたくらいよ。それが今回六年前、何の説明もなくいきなり姿を消して、身分も隠して……やっと見つけたと思ったら、刑務所にいたなんて。山口にも
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第13話

五日間、晃は一睡もしていなかった。彼は昼夜を問わず書斎にこもり、使えそうな情報を片っ端から整理していた。あんなに目立つ人間が、こんな簡単に消えるなんてありえない。浮浪者や物乞いにまで聞き込みをさせた。だが、紗江の手がかりは、どこにもなかった。駅、空港、新幹線のすべての出入口の監視カメラを調べさせた。一分一秒たりとも見逃さなかった。この数日間、彼は会社のことは完全に放り出し、取引先とも一切顔を合わせていない。晃にとって、紗江は権力も金もなく、行くあてもない存在だった。だからこそ、誘拐されたとしか考えられなかった。もちろん、休みたい気持ちがなかったわけじゃない。でも目を閉じると、紗江の顔が浮かぶのだ。もしかして今も、どこかの冷たく暗い場所で、怯えながら、絶望しながら、自分を待っているのではないか、そう思うと、胸が張り裂けそうになった。自分のあのときの言動を、少しだけ悔いた。だが、それ以上に腹が立つのは、紗江の無鉄砲さだった。せめて、もう少し図々しくあってくれたらよかった。たとえ追い出されたとしても、家の前で待っているくらいはできたはずだ。なぜ勝手に逃げる?頭をかきむしりながら、彼は無力さに膝をつき、赤く充血した目でつぶやいた。「紗江、いったいどこにいるんだよ」ちょうどその頃、雛乃は閉ざされた書斎の扉を睨みつけながら、不満げに眉をひそめていた。紗江の失踪を知った時、彼女は驚きもせず、むしろ喜びさえ覚えた。晃が再び紗江を見つける可能性も心配していない。あんなケガをして、しかもこんな極寒の中で生き延びられるはずがない。ちょうど執事が通りかかった。雛乃は、すっと手を上げて合図した。執事はその意図を即座に理解し、階段の隅へとついていく。「吉岡さん」執事がにこやかな笑みを浮かべる。「なにかご命令でも?」雛乃は自分の指先を眺めながら、声をひそめて言った。「あの日、手際がちょっと甘かったんじゃないの?」その一言に、執事の額から冷や汗が滲み、急いで弁解した。「確かに、小松はあの日腕を折っただけでしたが、私のほうからは手加減無用としっかり命じてありました。あれでは、助からないはずです。遺体が見つかっていないのは、おそらくどこかに転落して水に流されたか、穴にでも落ちたんでしょう……」それを
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第14話

雛乃は、最大の障害を取り除いて、これでもう安心して篠田家に入るそう信じていた。しかし振り返った瞬間、彼女の視線は、冷たさと殺気に満ちた晃の眼差しにぶつかった。彼は怒りの極みに達しており、握り締めた拳がギシギシと音を立てていた。雛乃の顔色がサッと青ざめ、言い訳しようと口を開きかけた。その前に、晃が怒りに燃えた瞳で、彼女のほうへ一歩ずつ詰め寄ってきた。その瞳には、覆い尽くすほどの暗い影が映っていた。端正な顔立ちが殺意に塗りつぶされ、まるで地獄から這い上がってきた修羅だった。その姿を見るだけで、背筋が凍りつくような恐怖が襲ってくる。「ひ、ひ」と名前を呼びかけた前に、晃の手が、雛乃の首を締め上げた。晃はさらに力を込め、雛乃を螺旋階段の手すりに押しつけた。彼女は半身が宙に浮いた状態になった。たかが二階とはいえ、この体勢で落ちれば、どうなるか分からない。雛乃の全身は震え、あまりの恐怖に声が出なくなり、涙がぽろぽろと止まらずこぼれ落ちた。今回ばかりは、演技ではなかった。心の底から、怖かった。晃の声は低く、そして凍るように冷たい。「君に優しくしてやったのは、吉岡家に紗江のことを追及されたくなかったからだ。なのに君は何度も紗江を陥れようとした?死にたいのか?」その一言を口にしたとき、彼の黒い瞳が細まり、目尻に赤が滲む。雛乃の裏切りにも怒っていた。だが、それ以上に自分自身への怒りが、彼の胸を焼いていた。どうして、どうして、自分はあのとき、紗江のことを信じきれなかったのか。あの時、紗江が向けた視線を思い出す。絶望、嫌悪、それでもなお、かすかな希望を宿していた瞳。晃はようやく気づいた。あれは、自分を救った男、三年も共に過ごした男が、ここまで冷酷になると信じたくないというまなざしだったのだ。執事に手を出させたという言葉が耳に入った瞬間、胸が裂けるような痛みに襲われた。晃の手に、さらに力がこもる。雛乃はもう息ができず、かすれた声でやっとのことで言葉を絞り出した。「ひ、晃、殺人は、罪になる。本当に私を殺す気?」彼女は賭けた。晃は自分を殺せないと。そして、紗江はそこまで重要な存在じゃないはずだと。一瞬、晃の瞳に迷いが浮かぶ。そのまま、彼は雛乃を手すりから引き戻し、勢いよく床に叩きつけた。
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第15話

紗江は母と一緒に、手塚家を訪れた。手塚夫人は紗江の姿を見た瞬間、満面の笑みを浮かべ、目元をぬぐった。彼女と吉岡夫人は、かつて何年も親友として付き合っていた。お互いに子供が生まれてからは、ますます深い付き合いになった。ただ十年前、手塚夫人は息子を連れて海外に移住し、最近になってようやく帰国したばかりだった。だが、紗江にとって手塚夫人は、今でもどこか懐かしく、自然と心がほぐれる存在だった。その優しい眼差しが自分に向けられていることに、紗江の胸の内は複雑に揺れた。嬉しさと共に、自信のなさが芽生える。もし手塚夫人が、自分が6年間も男に付き従い、家にも帰らず、3年間も刑務所に入っていたことを知れば、きっと今のように、こんなにも優しくはしてくれないだろう。そう思った瞬間、紗江は俯いた。すると、手塚夫人がそっと彼女の手を取り、小声で囁いた。「紗江、過去のことはもういいのよ。もしあの3年間が仕事に影響するのが心配なら、いっそ私と一緒に海外へ行きましょ。正直言ってね、小松家と手塚家の財産だけで、あなたが一生幸せに暮らすのに十分すぎるほどあるのよ。あなたが幸せなら、どんな生き方だって許されるわ。もし陰口を叩くような人がいれば、小松家と手塚家がそいつを痛めつけてあげる」その言葉には、誰もが納得してしまうような説得力と威圧感があった。何しろ、手塚家の資産は桁外れで誰もが舌を巻くほどだ。今は国内随一、まさに財閥の筆頭だった。紗江は、胸に込み上げる想いを言葉にできず、目元が熱くなるのを感じた。「手塚おばさん、怒ってないんですか?私のこと、叱らないんですか?」彼女は手塚東司(てづか とうじ)と、幼い頃から婚約を交わしていた。それはあくまで両家の口約束ではあった。でも、浜市の社交界では、二人の将来の結婚を知らぬ者はいない。それなのに、彼女は何も告げずに姿を消した。東司は今もなお独身のまま三十を越えた。かつての紗江は、十年も会っていない幼馴染みとの婚約に、ずっと抵抗していた。だが吉岡夫人は、「まだ気持ちが定まっていないだけ」と考え、正式に婚約解消を発表することはなかった。今回家に帰って、紗江はようやく母の言うとおり、素直に手塚家に嫁ぐつもりだと答えた。だが心のどこかで、手塚家がこの縁談を断ってくるだろうと覚悟
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第16話

黒いシャツが彼の鍛え上げられた体を際立たせ、袖口は無造作にまくり上げられていて、引き締まった前腕が露わになっている。美しく整った指先がピアノの鍵盤の上を軽やかに跳ね回っていた。端正で柔らかな雰囲気を纏う顔には、どこか心地よさそうな表情が浮かんでいる。紗江は、一瞬見惚れてしまい、思わず口を開いた。「まさか、まだこの曲を覚えてるなんて」彼女の声が響いた瞬間、ピアノの音がぴたりと止まる。東司が振り返り、紗江を見た。いつもは冷静で美しい顔に、ほんのわずかだが緊張が滲んでいる。彼は立ち上がり、眼鏡を押し上げながら、気まずそうに軽く咳払いをして、低く心地よい声で言った。「このピアノを見たら、子供の頃、君と一緒に弾いたことを思い出して、あの頃、俺は手先が不器用で、君は文句を言いながらも教えてくれてたよな。俺が最初に覚えた曲も、君が教えてくれたこの曲なんだ」紗江の瞳から、わずかにあった警戒や距離感が和らぎ、代わりに懐かしさとやさしさが浮かぶ。「そう、この曲は私が作ったの。もうすっかり忘れかけてたのに、まさか覚えてるなんて」東司の静かな瞳に、ふとした輝きが差し込み、どこか待ちきれないような、弾む気配すらあった。「じゃあ、俺が間違って弾いてないか見てよ。知ってるだろ、俺、不器用だから」この光景を、もし東司の部下が見たら、きっと驚きで言葉を失うだろう。あの東司といえば、表向きは温厚で品のある雰囲気だが、実際は冷酷で容赦ないことで知られている。よく毒蛇とまで呼ばれていた。だが、紗江の前では、そんな彼もまるで別人のように慎重で不器用になる。紗江はふと思い、彼のそばへと歩み寄った。けれど、その手をふと引っ込める。小松家は、彼女のために最高の医師を呼んだ。今はまだ療養中だ。完治できるが、以前のように自由にピアノを弾くのは、もう難しいだろう。彼女の明るく澄んだ瞳に、一瞬だけ失望がよぎり、彼女は微笑みながら首を振った。「いいの、もうピアノはやめたの」東司も彼女の手に気づき、薄く唇を引き結ぶ。紗江は平静を装っていたが、内心では緊張していた。手塚夫人が知っているなら、東司が知らないはずがない。彼女は、東司があえて気遣って何も言わずにいてくれると思っていた。だが意外にも、東司はふっと笑みを浮かべた。もと
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第17話

紗江に褒められた東司は、その瞳も細く笑い、まさに喜びを隠しきれない。ふと横を向いたとき、彼女の髪に梅の花びらが留まっているのが目に入った。おそらく、さっき窓から風に乗って舞い込んできたのだろう。東司はそっと手を伸ばしながら、口を開いた。「紗江、動かないで」紗江は大人しく従い、ぱちくりと美しい瞳を見開いたまま、どんどん近づいてくる彼を見つめた。東司は子供の頃からとにかく整った顔立ちをしていた。成長するにつれて、その美しさはますます洗練され、隙がなくなっていった。彼は眼鏡をかけるのが好きで、シャツのボタンはいつも一番上まできちんと留めている。そして、その黒く深い瞳で見つめられると、どこか触れてはいけないような禁欲的な魅力が漂い、妙に胸がざわつく。紗江は、一瞬、心を奪われた。もし中学の頃に東司が海外に行っていなかったら、彼を好きになっていたかもしれない。外見も、頭の切れも、家柄も、すべてにおいて、晃が、東司の足元にも及ばない。ぼんやりしていたのは、ほんの一瞬だった。ふたりの距離がどんどん近づいていた。突然、ドアのところから軽い咳払いが聞こえた。紗江はまるで驚いた子鹿のようにびくりとし、頬を染めて咄嗟に東司の手を避けた。ぱっちりとした目に、ほんのりとした動揺が浮かんでいる。東司はドアの方を一瞥したが、特に怒る様子もなく、ただ微笑んだだけだった。ドアの向こうから現れた男は、整った顔立ちに明らかな不機嫌さを宿しながら部屋に入ってきた。そして、どこか歯ぎしりするような口調で言った。「手塚、戻ってきてどれくらいだ?もうそんなに我慢できないのか?」小松和也(こまつ かずなり)の言葉の意味を、紗江はよく理解できなかった。ただ、東司の後ろへと隠れるように身を寄せ、自分の存在感をできるだけ薄めようとした。帰国してから、多くの人と顔を合わせた。だが、この兄だけには、ずっと会う勇気がなかった。聞いた話では、彼女が家を出て行ってからの二年間、和也は毎日平均四時間しか眠っていなかったらしい。それ以外の時間は、会社の仕事をこなしながら、世界中を探し回っていたと。今回、紗江が戻ったと聞き、和也は本来なら出張先で契約中だった億単位のプロジェクトすら放り出して、急いで戻ってきた。記憶の中の兄は、誰よりも彼女
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第18話

兄妹ふたりは久しぶりに言葉を交わし、かつてのような関係を取り戻しつつあった。両親がどこか遠慮がちなのに対して、和也の態度は一貫して強硬だった。「誰が、君をこんな目に遭わせたのか。はっきり言え」紗江は何度も首を振っていたが、最後には和也を見上げた。「もしお兄ちゃんが、私のために復讐してくれるつもりなら、代わりに、ひとり探してほしいの。私のやり方でケリをつけたい」険しかった眉間がようやく緩み、和也の瞳には狂気すら帯びた冷たい光が宿った。「紗江、安心しろ。君を傷つけた奴に報いを受けさせるためなら、俺は何だってする」紗江の帰還と、東司との関係も順調に進んでいた。手塚家から戻った翌日、彼女は両親に向かって、東司との婚約披露宴を開くことを告げた。小松家の人々は驚いたものの、反対の言葉は口にしなかった。それは、彼らが紗江を信じているからだ。あれだけの経験を経た彼女は、もはや誰にでも騙されるような無垢な少女ではない。紗江と東司の婚約披露宴が近づく中、一方では晃が、真冬の人工湖のほとりに3時間も立ち尽くしていた。気温が低い。彼は黒のオーバーコート一枚だけで、何の防寒対策もしていなかった。その端正な顔立ちは凍りついたように血の気がなく、睫毛には霜が宿り、指先はかじかみ、足元ももはや動かなかった。傍らの秘書が説得しても、晃は頑として動こうとしない。身体が限界を迎え、ついに足元が揺らぎ始めたそのとき、ザバッという水音が、静まりを切り裂いた。湖面から、遺体が引き上げられた。長く水に浸かっていたから、低温のため腐敗は進んでいないが、顔は歪み、直視するだけで吐き気を催すような状態だった。だが晃は、一切表情を変えなかった。目の端を赤くしてふらつきながら、その遺体に近づく。あまりの寒さに脚がもつれ、地面に倒れそうになる。自身の醜態も、遺体の無残な姿も顧みない。彼はただ、遺体の髪をかき分け、襟元をめくり、ひとつずつ確認していく。首のほくろ、合っている。左手の付け根の傷痕、山での登山で負ったもの、間違いない。右手は粉砕骨折していた、それも合っている。「紗江」その一言を口にした瞬間、晃の世界がぐらぐらと揺らぎ、崩れ去った。あの時、すでに予感はあった。彼女はもう、生きていないかもしれない、と。
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第19話

晃は黙り込んだ。理性と感情が、胸の奥でせめぎ合っていた。彼は雛乃を憎んでいた。だがそれ以上に自分自身が、許せなかった。吉岡家は巨大な勢力を持っており、篠田家はようやく肩を並べられる程度。あの日、彼が唯一できた反撃と報復といえば、雛乃に謝罪動画を撮らせ、彼女を追い出したことくらいだ。吉岡家が黙っていたのは、雛乃がまだ晃を愛していたから。だが、ずっとこのままではいられない。篠田を次のステージに引き上げるには、浜市の四大家と繋がる必要があった。あるいは、トップ財閥手塚家と。中でも小松家は、四大家の中でも筆頭。以前、吉岡家が小松家のあるプロジェクトに関わっているという噂を耳にした。雛乃もその縁で、小松家の令嬢に取り入ったらしい。最初は信じなかった。彼女がまた話を盛っているのだと思っていた。だがどうやら本当だったようだ。吉岡家はすでに小松家と繋がっている。このまま何もしなければ、篠田家はいつか吉岡家に脅される立場になるだろう。脳内で計算が巡り、晃は静かに決断を下した。「分かった」その一言に、雛乃は歓喜に満ちた。やはり、晃は捨てきれない。たとえ死んだ紗江をどれほど恋しがっていようと、この欲望と野心の世界で生きる彼は、結局自分と同じ側の人間なのだ。電話を切った晃の視線が、ふと地面に横たわる紗江の遺体に向かう。吐き気をこらえながら、秘書が声をかけた。「篠田社長、小松さんの遺体は、埋葬いたしましょうか?」「いや」晃の目には、狂気と未練が交錯するような光が宿っていた。「彼女は、俺のそばに置いておく。見ていないと忘れてしまいそうだから」その言葉を聞いて、秘書は本気で彼が狂ったのだと思った。本当に彼女を愛していたなら、なぜあれほど苦しめた?愛していなかったなら、なぜ今さら埋葬すら拒む?周囲の冷たい視線にも構わず、晃は紗江の傍にしゃがみ込み、優しく、丁寧に、彼女の髪を整えてやった。「紗江、家に帰ろう」そして、婚約披露宴の日がついにやって来た。鏡の前に立つ紗江は、緊張していた。でも、それは社交の場に出ることに対する緊張ではない。これからすること、会う人を思うと、興奮のような緊張が込み上げてくる。本当に楽しみだ。肩に触れた温もりが紗江を現実に引き戻した。彼女は顔を上
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第20話

宴が始まる前、雛乃と晃はすでに会場に到着していた。少し前、ふたりの間に大きなトラブルがあった。晃が雛乃に無理やり謝罪動画を撮らせ、篠田家から追い出したという噂は瞬く間に広がったのだ。浜市の上流社会でも話題になった。だが、今こうして二人が揃って姿を見せると、周囲の人々の中でただの夫婦喧嘩だったのではという憶測が広がり始める。雛乃自身も、そう思わせたかった。騒ぎを小さく見せ、風評を抑え込みたかった。だからこそ、今日は仲の良い夫婦を演じるつもりだった。雛乃が手を繋ごうとしたが、晃の胸元に白い菊の花が飾られているのを見た。その白が、まるで鋭く突き刺す刃のように、彼女の目を傷つけた。笑顔も、声も、思わず揺らいでしまう。「晃くん、その飾り、今日みたいな日には、ちょっと場違いじゃない?だって、今日は婚約披露宴に来てるのよ?」雛乃は笑顔を保とうとするも、唇の端がわずかに震えた。晃はその手を避け、無表情のまま答える。「分かってる。だが、俺は妻のために喪に服する。手塚さんも小松さんも、きっと理解してくれるはずだ」その言葉は大きくも小さくもない。だが、はっきりと周囲の耳に届いた。妻?喪に服する?その場にいた誰もが、一斉にふたりを見た。雛乃、まだちゃんと生きてるじゃないか?誰の喪に服しているっていうんだ?ああ、そうか。晃は、雛乃と結婚するつもりなどなかったのだ。以前噂されていた、晃が出所不明の女のために雛乃と揉めたという話は、どうやら本当らしい。そして、その女はもう死んでしまった。晃は、その怒りと哀しみをすべて雛乃にぶつけている。囁き声が広がる。話題は、紗江の死に集中しはじめていた。自分が紗江を殺したという話を聞きながら、雛乃は悔しさで奥歯を噛みしめそうになった。だが、すぐに気持ちを切り替える。大丈夫、すぐに真実が明らかになる。自分は、この程度の連中にどうこうされるような人間じゃない。「手塚さんと小松さんがお見えです」雛乃は瞬時に柔らかい笑顔を浮かべ、人混みをかき分けて声のした方向へ歩き出す。「小松さん」と親しげに呼びかけ、彼女はドレスの裾を手で持ち上げ、片手には贈り物を持っていた。嬉々として歩み寄ったが、東司の傍らに立つ紗江の姿を目にした瞬間、雛乃の表情は激変した。驚愕
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