「院長先生、今回の蔵原市の研究プロジェクトに参加することに決めました」入江月乃(いりえ つきの)の声は揺るぎなく、眼差しには一片の迷いもなかった。物理研究院の院長は顔を上げ、鋭い視線で彼女を見つめた。「本当に決めたのか?行けば、少なくとも十年は戻ってこられないかもしれんぞ」月乃は一度目を伏せ、そしてゆっくりと顔を上げた。その手には、すでに準備された申請書が握られており、迷うことなくそれを差し出した。院長はしばし沈黙し、熟考の末、印を押した。「七日後、手続きが完了したら、迎えを手配しよう」背を向けて立ち去ろうとしたその瞬間、月乃はスタッフたちがひそひそと話している声を微かに耳にした。「ねえ、あれって東条奥さんじゃない?研究基地って、すごく辺鄙な場所らしいよ。十年は戻れないかもしれないって……東条社長がそんなの許すと思う?」「一桐市じゃ有名な理想の夫婦だもんね。東条社長は昔、理科のトップだったけど、月乃さんのために一年間浪人生までしたって聞いたよ」「そうそう、三年前に月乃さんが重病になった時も、東条社長は迷わず腎臓を一つ提供したんだよ。それに今、二人をモデルにした映画まで公開されるってのに、彼女が蔵原市に行くなんて……東条社長、きっと発狂するんじゃない?」月乃が部屋を出た時、その瞳には、自嘲と哀しみが滲んでいた。一桐市では誰もが知っていた……東条優成(とうじょう ゆうせい)は入江月乃を深く愛していたと。彼は命を賭けてでも、彼女を守ろうとしていた。二人は若い頃に出会い、互いに支え合いながら歩んできた。優成の愛は時を経るごとに深まっていった。この十年間、月乃はまるでお姫様のように優成に甘やかされてきた。彼女は一度もキッチンに立ったことがなく、下着ですら優成が手洗いしてくれていた。プロポーズの年、月乃は肺炎で入院し、なかなか快方に向かわなかった。優成は焦り、ついには寺の前で一ヶ月間も膝をついて祈り続け、頭を地面に打ちつけてでもお守りを求めた。膝が立たなくなるまで跪きながら、彼はこう言い続けていた。「神様、どうか俺の月乃を守ってください。もし彼女が無事でいられるのなら、この世の病気も痛みも、すべて俺に与えてください。彼女さえ健康でいてくれれば、俺の身体が動かなくなっても、死んでもかまいません」病床の
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