All Chapters of 憎しみの婚約破棄に彼は涙する: Chapter 11 - Chapter 20

49 Chapters

初めてのディナー

何本かのバスを見送った頃、金沢駅西口の車寄せに黒い車が滑り込むように現れた。「日産、インフィニティですか……そうですよね」と、穂乃果は小さく呟いた。高級車といえばロールスロイスやベントレーを思い浮かべるが、拓海はまだ若く、地元に根付いた老舗企業の社長らしい国産車での登場だった。その選択が、どこか彼の堅実さと洗練されたセンスを物語っている気がした。穂乃果が目を白黒させ、思わず見入っていると、埃ひとつない車のドアが静かに開いた。白い手袋を履いた運転手が恭しく後部座席のドアを開け、拓海が流れるような動作で降りてきた。夕焼けの日差しが彼の仕立ての良いスーツを照らし、理知的な銀縁眼鏡が光を反射してキラリと輝いた。明るい時間に見ても、彼は昨夜の印象そのままに、息をのむほど見栄えが良かった。穂乃果はバッグの中でルビーのイヤリングを握りしめ、胸の鼓動が速まるのを感じた。名刺に書かれた彼の名前が、頭の中で何度も反響する。拓海は彼女を見つけると、軽やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと近づいてきた。「待たせた? 穂乃果さん」と、彼の声は電話越しの明るさをそのままに響いた。彼女はカットソーのTシャツとデニムのタイトスカートが急に心許なく感じられ、頬が熱くなった。「いえ、大丈夫です」と答える声は、緊張で少し震えていた。夕暮れの風が彼女の髪を揺らし、拓海のスーツの襟が軽くはためく。彼は穂乃果をじっと見つめ、「そのイヤリング、片方だけでも似合ってるよ」と笑った。穂乃果の心は、期待と照れくささで揺れ動いた。恭しく閉まったドアの音が、車内の静寂を一層際立たせた。車の中には本革の匂いがほのかに漂い、高級感が穂乃果の心をざわつかせた。程よい硬さのスプリングと滑らかな本革シートの感触に、彼女は落ち着かず、中腰のままぎこちなく座っていた。カットソーのTシャツとデニムのタイトスカートが、この洗練された空間にひどく場違いに思えた。その不自然な動作に、拓海は「プッ」と小さく吹き出し、「落ち着いて、危ないから」と軽やかな声で言った。さりげなく彼女の肩に置かれた彼の手の重みに、穂乃果
last updateLast Updated : 2025-08-24
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1000万円の提案

穂乃果が食後のコーヒーにそっと口をつけた瞬間、拓海はナフキンで口元を拭い、テーブルの上で手を組んだ。キャンドルの炎が彼の銀縁眼鏡に揺らめき、柔らかな光が知的な顔立ちを際立たせる。彼は一度深く呼吸を整え、改まった口調で「穂乃果さん」と彼女の名前を呼んだ。その声は、昨夜の甘い囁きや先ほどの軽やかな会話とは異なる、どこか重みのある響きだった。 「なんでしょう?」 穂乃果が応じると、彼女の胸は激しく波打った。白いコーヒーカップから立ち上る湯気の向こうで、拓海の表情はこれまで見たことのない真剣な目の色をしていた。キャンドルの光が彼の瞳に映り、まるで深い湖のように揺れている。穂乃果はバッグの中のルビーのイヤリングを無意識に握り、名刺の感触を指先で確かめた。昨夜の出会い、電話越しの笑顔、そしてこのレストランでの穏やかな時間が、突然重大な瞬間へと変わる予感がした。 「実は、話したいことがあって」 拓海は静かに言葉を続けた。オリーブの樹が窓の外で夜風に揺れ、店内の暖かな明かりが二人の間に柔らかな影を落とす。穂乃果の心臓は速まり、コーヒーカップを置く手がわずかに震えた。「昨夜のこと、イヤリングのこと…そして、君のこと」と、彼が一言一言を丁寧に選ぶように言う。穂乃果は息を呑み、彼の次の言葉を待った。 「ちょ&hell
last updateLast Updated : 2025-08-25
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シンデレラの靴

部座席のドアが静かに閉まり、車内に重苦しい空気が漂った。本革の匂いが穂乃果と拓海を包み、静寂が二人の間に沈黙の壁を築く。拓海は穂乃果の手をそっと握り締め、「前向きに考えて欲しい」と低い声で囁いた。その声は真剣で、キャンドルの光の下で見た彼の瞳と同じ決意に満ちていた。「……はい」と、穂乃果は掠れた声で小さく呟いたが、その声は消え入りそうで、彼女自身の迷いを映し出していた。対向車線のヘッドライトが車内を一瞬照らし、拓海の端正な横顔を浮かび上がらせた。穂乃果はその顔を見つめ、微妙な思いに囚われた。 マッチングアプリで知り合ったばかりの女性に、1000万円で婚約者の身代わりを頼むなんて、正気の沙汰ではない。織田コーポレーションの社長ともあろう彼なら、婚約者など探せばいくらでも見つかるはずだ。それとも、手切金を渡して綺麗に終わらせる、打算的な関係を望んでいるのか。考えるほど、穂乃果の胸に重い石が沈んだ。バッグの中でルビーのイヤリングが小さく揺れ、名刺の感触が指先に残る。昨夜の甘い笑顔、プロヴァンス料理のレストランでの軽やかな会話が、遠い夢のようだった。金沢の夜の街を滑るように走る車内で、彼女は自分の心に問いかけた。この契約は、拓海の窮地を救うための方便なのか、それとも何か別の意味があるのか。ヘッドライトの光が途切れるたび、拓海の銀縁眼鏡が暗闇でかすかに光る。穂乃果は彼の手の温もりを握り返しながら、答えを見つけられずにいた。 「本当にここで良いんですか?」「はい、送っていただいてありがとうございました。ご馳走様です」「どういたしまして」 
last updateLast Updated : 2025-08-26
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寝ぼけ眼の朝

禿げた塗装のアパート、チカチカと点滅するライト。薄汚れた廊下の空気は、まるで古い記憶の匂いが染みついたように重い。穂乃果はポストの受け口を覗いて、ため息まじりにうんざりした。何年も前に離別した義父からの金の催促状が、またしても投げ込まれていた。封筒の端はくしゃりと潰れ、まるで義父の苛立ちをそのまま映しているようだった。 両親の離婚の原因は母親の不倫だった。あの頃、穂乃果はまだ高校生で、家族がバラバラになるのをただ黙って見ているしかなかった。明らかに部が悪いのは母親だ。義父から300万円の慰謝料を請求されたのも無理はない。だが、その母親は不倫相手とどこかへ身を隠し、まるで何事もなかったかのように姿を消した。残されたのは、穂乃果への無心の手紙だ。「金を払え」と、義父の乱暴な字で書かれた紙切れが、穂乃果の生活に定期的に割り込んでくる。 アパートの階段を上りながら、穂乃果は手すりの冷たさに触れて立ち止まった。外はもう暗く、遠くで聞こえる車の音だけが現実を繋ぎとめるようだった。彼女の給料は、小さな会社の仕事でやっと生活を回している程度だ。300万円なんて、夢のまた夢の金額。それでも義父からの手紙は、まるで穂乃果が母親の罪を背負うべきだと言わんばかりに届き続ける。 部屋の鍵を開けると、カビ臭い空気が鼻をついた。テーブルには昨日食べたコンビニ弁当の容器がそのまま。穂乃果は手紙を握り潰し、ゴミ箱に放り込んだ。だが、心のどこかで、母親の顔がちらつく。なぜ自分がこんな目に、と思うたび、やりきれない気持ちが胸を締めつけた。彼女は電気ポットのスイッチを入れ、湯気が上がるのをぼんやり眺めた。どうすればこの負の連鎖から抜け出せるのか。
last updateLast Updated : 2025-08-27
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待ち合わせ

穂乃果はその日一日、仕事にまるで集中できなかった。コピー機の前で、ボタンを押したままぼんやりと紙の束が増えていくのを見つめていたら、必要以上の大量印刷。慌てて止めたが、課長の猫撫で声が耳元で響く。 「穂乃果ちゃ〜ん、こんなミス、らしくないよ?」 普段なら聞き流せるその声も、今日はやけに刺々しく感じた。エクセルの表計算でも、数字を打ち間違えて売上額がとんでもない桁に。モニターに映るありえない数字を前に、彼女は思わず顔を覆った。 課長の目が鋭くなり、「ちゃんとやってくれ」とこっぴどく注意される始末。埃っぽいオフィスには、雑然とファイルが積み上げられ、蛍光灯の薄暗い光が書類の山に影を落とす。こんな職場で、こんな日々が、いつまで続くのか。穂乃果の心は重く沈んだ。 刻一刻と、拓海との約束の時間が迫ってくる。1000万円の契約……織田コーポレーションの後継者争いの中で、「婚約者の身代わり」を引き受けるかどうか。穂乃果の心は揺れに揺れた。 1000万円。その金額は、義父からの執拗な催促状、母親の裏切りが残した負債、禿げたアパートのチカチカするライトから彼女を解放してくれるかもしれない。朝、テーブルの上で輝いていたルビーの指輪と拓海の名刺が、頭の中でちらつく。あのフランス料理店のシャンデリアの下で
last updateLast Updated : 2025-08-28
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決断

スーツの男性にエスコートされた穂乃果は、ガラス張りのビルを見上げた。首が痛むほど天高く聳えるその姿は、夕陽を反射して目も開けられないほど眩しかった。エントランスの大理石プレートには「織田コーポレーション」と刻まれ、拓海の会社であることが一目で分かった。穂乃果の胸は、驚きと緊張で高鳴る。 こんな場所、彼女の日常では想像もつかない。自動ドアの前で足がすくむと、拓海がそっと背中を押した。「ここが私の会社です」彼の囁きは、穏やかだがどこか誇らしげだった。 (会社だと“私”って言うんだ) 穂乃果はそんな惚けたことを考え、頬が熱くなる。大理石のフロアが足音を響かせ、広々としたエレベータールームへと案内された。壁に並ぶ階数表示に目を奪われ、彼女は思わず声を上げた。「えーっと、38階もあるんですね!」その驚きに、拓海は軽やかに笑う。「東京に比べれば低いよ」彼の声は、まるで日常会話のように自然だ。だが、穂乃果の常識では、38階は雲の上も同然だった。エレベーターの扉が静かに開き、拓海が先に進む。スーツの男性たちが一歩下がり、穂乃果は彼の背中に続く。ビルの中は冷たく静かで、まるで別の世界。拓海の軽い口調と、この空間のギャップに、彼女の心は期待と戸惑いで揺れ動いた。 エレベーターは静かに最上階の38階で停まった。扉が開くと、ダウンライトに照らされた大理石の廊下が広がる。磨き上げられた床に二人の影が映る。
last updateLast Updated : 2025-08-30
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生きる世界

社長室の革のソファに身を沈めた拓海は、安堵の溜め息を漏らした。重厚なマホガニーのデスクと、窓から見える景色が彼の地位を静かに物語っていた。 「これで、織田の叔父たちも黙るだろう」 拓海は低く呟いた。そこには、織田コーポレーションという地上38階建ての巨大なビルを統べ、何千人もの従業員を率いる男の姿があった。その威厳と自信に満ちた声には、長い戦いを勝ち抜いた者の余裕が滲んでいた。 一方、部屋の中央に立つ穂乃果は、手にした1,000万円の小切手を握りしめ、わずかに震えていた。「この人と私、契約したんだ……」彼女の心に、拓海と結んだ契約婚約の重さが、冷たい現実としてのしかかる。この小切手は、彼女の人生を一変させる鍵であり、同時に、自由を縛る鎖でもあった。 拓海の落ち着いた視線が彼女を捉え、穂乃果は思わず目を逸らした。ふと、穂乃果の胸に疑問が湧き上がった。 「でも、親族の方は変に思わないでしょうか?」彼女の声は、緊張でわずかに上ずっていた。「何を変に思うって?」拓海の銀縁眼鏡の奥で、鋭い光が一瞬だけ閃いた。その眼光は、まるで穂乃果の心を見透かすかのようだった。彼女は気圧されながらも、言葉を紡ぐ勇気を振り絞った。&n
last updateLast Updated : 2025-08-31
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