禿げた塗装のアパート、チカチカと点滅するライト。薄汚れた廊下の空気は、まるで古い記憶の匂いが染みついたように重い。穂乃果はポストの受け口を覗いて、ため息まじりにうんざりした。何年も前に離別した義父からの金の催促状が、またしても投げ込まれていた。封筒の端はくしゃりと潰れ、まるで義父の苛立ちをそのまま映しているようだった。
両親の離婚の原因は母親の不倫だった。あの頃、穂乃果はまだ高校生で、家族がバラバラになるのをただ黙って見ているしかなかった。明らかに部が悪いのは母親だ。義父から300万円の慰謝料を請求されたのも無理はない。だが、その母親は不倫相手とどこかへ身を隠し、まるで何事もなかったかのように姿を消した。残されたのは、穂乃果への無心の手紙だ。「金を払え」と、義父の乱暴な字で書かれた紙切れが、穂乃果の生活に定期的に割り込んでくる。
アパートの階段を上りながら、穂乃果は手すりの冷たさに触れて立ち止まった。外はもう暗く、遠くで聞こえる車の音だけが現実を繋ぎとめるようだった。彼女の給料は、小さな会社の仕事でやっと生活を回している程度だ。300万円なんて、夢のまた夢の金額。それでも義父からの手紙は、まるで穂乃果が母親の罪を背負うべきだと言わんばかりに届き続ける。
部屋の鍵を開けると、カビ臭い空気が鼻をついた。テーブルには昨日食べたコンビニ弁当の容器がそのまま。穂乃果は手紙を握り潰し、ゴミ箱に放り込んだ。だが、心のどこかで、母親の顔がちらつく。なぜ自分がこんな目に、と思うたび、やりきれない気持ちが胸を締めつけた。彼女は電気ポットのスイッチを入れ、湯気が上がるのをぼんやり眺めた。どうすればこの負の連鎖から抜け出せるのか。
<掃き溜めに鶴、とはまさにこのことだろう。塗装の剥げかけた外壁がむき出しの古びたアパートの路肩に、黒い高級車がまるで場違いな貴石のように息を潜めて停まっていた。光沢のあるボディが、薄暗い街灯の下で不自然に輝いている。穂乃果は錆びついた鉄製の階段を慎重に上り、軋む音を立てながら玄関扉に鍵を差し込んだ。鈍い金属音が響き、扉がゆっくり開くと、籠ったカビ臭い空気が一気に彼女と拓海に押し寄せた。「くさっ!」1LDK、一人暮らしには十分な広さのはずだが、こうして二人で並ぶと、部屋は息苦しいほど狭く感じられた。壁の薄汚れたクロスや、ところどころ剥がれたフローリングが、穂乃果のささやかな生活を静かに物語っていた。「ここが穂乃果さんのお住まいですか」拓海の声は穏やかだったが、どこか好奇心に満ちていた。彼は部屋を見渡し、まるで新しい世界を探検するように一歩踏み入った。スーツの裾が、埃っぽい床をかすかに擦る。穂乃果は気まずさに唇を噛み、拓海の視線を避けた。
拓海は穂乃果を革のソファに促して座らせると、マホガニーのデスクに向かった。彼の手が引き出しを開け、取り出したのは分厚い契約書の束だった。何ページにもわたるその書類は、まるで一冊の本のように重々しく、細かな文字でびっしりと埋め尽くされていた。「そ、そんなにあるんですか!?」契約の注意事項が、冷徹なまでに詳細に記されている。穂乃果はそれを手に取り、一枚、また一枚とめくり始めたが、「甲」「乙」といった法律用語が右から左へ流れ、理解出来ない。(何これ!?)彼女の眉間に深いシワが刻まれ、険しい顔つきが浮かぶ。紙の感触は冷たく、そしてずっしりと重く、まるでこの契約が彼女の人生を縛る鎖であるかのように感じられた。「そんなに難しい顔をしなくても大丈夫ですよ」拓海の声は軽やかで、どこか楽しげだった。彼はデスクの向こうから穂乃果を見やり、銀縁眼鏡の奥でわずかに笑みを浮かべていた。その余裕ある態度に、穂乃果の胸は一層重くなった。
社長室の革のソファに身を沈めた拓海は、安堵の溜め息を漏らした。重厚なマホガニーのデスクと、窓から見える景色が彼の地位を静かに物語っていた。「これで、織田の叔父たちも黙るだろう」拓海は低く呟いた。そこには、織田コーポレーションという地上38階建ての巨大なビルを統べ、何千人もの従業員を率いる男の姿があった。その威厳と自信に満ちた声には、長い戦いを勝ち抜いた者の余裕が滲んでいた。一方、部屋の中央に立つ穂乃果は、手にした1,000万円の小切手を握りしめ、わずかに震えていた。「この人と私、契約したんだ……」彼女の心に、拓海と結んだ契約婚約の重さが、冷たい現実としてのしかかる。この小切手は、彼女の人生を一変させる鍵であり、同時に、自由を縛る鎖でもあった。拓海の落ち着いた視線が彼女を捉え、穂乃果は思わず目を逸らした。ふと、穂乃果の胸に疑問が湧き上がった。「でも、親族の方は変に思わないでしょうか?」彼女の声は、緊張でわずかに上ずっていた。「何を変に思うって?」拓海の銀縁眼鏡の奥で、鋭い光が一瞬だけ閃いた。その眼光は、まるで穂乃果の心を見透かすかのようだった。彼女は気圧されながらも、言葉を紡ぐ勇気を振り絞った。&n
スーツの男性にエスコートされた穂乃果は、ガラス張りのビルを見上げた。首が痛むほど天高く聳えるその姿は、夕陽を反射して目も開けられないほど眩しかった。エントランスの大理石プレートには「織田コーポレーション」と刻まれ、拓海の会社であることが一目で分かった。穂乃果の胸は、驚きと緊張で高鳴る。こんな場所、彼女の日常では想像もつかない。自動ドアの前で足がすくむと、拓海がそっと背中を押した。「ここが私の会社です」彼の囁きは、穏やかだがどこか誇らしげだった。(会社だと“私”って言うんだ)穂乃果はそんな惚けたことを考え、頬が熱くなる。大理石のフロアが足音を響かせ、広々としたエレベータールームへと案内された。壁に並ぶ階数表示に目を奪われ、彼女は思わず声を上げた。「えーっと、38階もあるんですね!」その驚きに、拓海は軽やかに笑う。「東京に比べれば低いよ」彼の声は、まるで日常会話のように自然だ。だが、穂乃果の常識では、38階は雲の上も同然だった。エレベーターの扉が静かに開き、拓海が先に進む。スーツの男性たちが一歩下がり、穂乃果は彼の背中に続く。ビルの中は冷たく静かで、まるで別の世界。拓海の軽い口調と、この空間のギャップに、彼女の心は期待と戸惑いで揺れ動いた。エレベーターは静かに最上階の38階で停まった。扉が開くと、ダウンライトに照らされた大理石の廊下が広がる。磨き上げられた床に二人の影が映る。
拓海を乗せた黒のインフィニティが、穂乃果の前で静かに停まる。街灯の光がフロントガラスにきらめく。後部座席のウィンドガラスがゆっくりと開き、拓海の銀縁眼鏡が夕日に光を弾いた。「お待たせしました」彼の低く穏やかな声が響き、微笑みが柔らかく広がる。白い手袋を履いた運転手が恭しく後部座席のドアを開け、穂乃果に一礼した。「お、お邪魔します」穂乃果は辿々しく車に乗り込むと、ワンピースの裾をさり気なく直した。柔らかな革のシートが体を包み、車内のほのかなレザーと拓海のコロンの香りが漂う。いつもカジュアルな彼女が、今日は淡いブルーのワンピースを着ている。拓海は、その装いに目を細め、「綺麗ですね」と口元を緩めた。穂乃果は照れ臭さに肩をすぼめ、頬がほのかに染まった。「ありがとうございます」と小さな声で返した。窓の外では、夕陽がビルの隙間を染め、穂乃果の心臓は少し速く鼓動した。拓海の視線が優しく、でもどこか意味深で、彼女は指先を軽く握りしめる。
穂乃果はその日一日、仕事にまるで集中できなかった。コピー機の前で、ボタンを押したままぼんやりと紙の束が増えていくのを見つめていたら、必要以上の大量印刷。慌てて止めたが、課長の猫撫で声が耳元で響く。「穂乃果ちゃ〜ん、こんなミス、らしくないよ?」普段なら聞き流せるその声も、今日はやけに刺々しく感じた。エクセルの表計算でも、数字を打ち間違えて売上額がとんでもない桁に。モニターに映るありえない数字を前に、彼女は思わず顔を覆った。課長の目が鋭くなり、「ちゃんとやってくれ」とこっぴどく注意される始末。埃っぽいオフィスには、雑然とファイルが積み上げられ、蛍光灯の薄暗い光が書類の山に影を落とす。こんな職場で、こんな日々が、いつまで続くのか。穂乃果の心は重く沈んだ。刻一刻と、拓海との約束の時間が迫ってくる。1000万円の契約……織田コーポレーションの後継者争いの中で、「婚約者の身代わり」を引き受けるかどうか。穂乃果の心は揺れに揺れた。1000万円。その金額は、義父からの執拗な催促状、母親の裏切りが残した負債、禿げたアパートのチカチカするライトから彼女を解放してくれるかもしれない。朝、テーブルの上で輝いていたルビーの指輪と拓海の名刺が、頭の中でちらつく。あのフランス料理店のシャンデリアの下で