All Chapters of 憎しみの婚約破棄に彼は涙する: Chapter 21 - Chapter 30

49 Chapters

過去との訣別

穂乃果はチラチラと点灯する街灯の下で、到底この場所には不似合いな、黒く艶光する車のテールランプを見送った。拓海は「数日中には勤務先に退職届を出すように」と念を押し、このペンキが剥げかけたアパートも引き払うようにと、その見窄らしい外観を見上げて眉間にシワを寄せた。それは命令口調で、穂乃果が彼と1,000万円での契約を交わした上下関係を示していた。ブレーキランプが点り、ウィンカーが左に点滅した。車は静かに角を曲がり、闇に溶けるように消えた。穂乃果は改めて、この契約婚約の重さを感じた。これまで勤めていた会社、住んでいたアパート、どちらも立派とは言い難いが、穂乃果にとって生活の全てだった。薄給でも同僚との他愛ない会話、狭い部屋でも窓から差し込む朝陽、それらが彼女のささやかな安心だった。今、それらが全て覆る。これまでの自分が崩れて行くように感じた。拓海の言葉は冷たく、まるで彼女の過去を否定する刃のようだった。契約の対価は、自由と引き換えに得た新しい人生のはずだ。だが、穂乃果の胸には不安が広がる。この先、拓海の望む「完璧な妻」になれるのか。彼女は凍える指先を握りしめ、街灯の影に目を落とした。このアパートの部屋で過ごした夜、笑い合った記憶が、まるで遠い夢のように霞んでいく。穂乃果は書店で便箋と、新しい人生に見合うように万年筆を買った。シンプルだが上品なデザインの万年筆は、彼女の手の中で重く、まるでこれからの選択の重みを象徴しているようだった。その退職届を提出すると、経理部の課長は目を白黒させて驚いた。勤務態度もよく仕事もそつなくこなす穂乃果は経理部の要だった。それが突然の退職となると自身の管理不行き届きにも繋がると、彼は必死に引き留めた。「穂乃果ちゃん、考え直して。君みたいな人材はそういないんだ」と、普段から適当な課長の声は真剣に震えた。けれど穂乃果の意志は固く、「地元の母親の具合が悪いので」と深々と頭を下げた。嘘だった。母親は元気で、穂乃果の決断は拓海との契約に縛られたものだった。課長は渋々、退職届を受け取った。同僚たちは「何かあれば相談してくれれば良かったのに」と、昼休みにガーベラの花束を準備してくれた。オレンジとピンクの花びらが、穂乃果の曇った心に一瞬の温もりを与えた。彼女の喉は窄まり、掠れた声で「ありがとう」と言うのが精一杯だった。誰もが彼女の笑顔を愛していた
last updateLast Updated : 2025-09-03
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マイフェアレディ

穂乃果は織田家の執事、川口と名乗る男性と銀行の応接室に通された。マホガニーのテーブル、身体を包み込むような革のソファー、高価な調度品が飾られていた。重厚な空気が漂う部屋は、穂乃果の住んだアパートの埃っぽさとは別世界だった。ソファーに腰掛けた穂乃果は、白い髭を生やした川口の横顔を一瞥し、その落ち着いた佇まいから拓海の家庭環境を想像した。 石造りの邸宅、恭しく並んだメイド、リビングには高級な革のソファにマホガニーのテーブル、豪華な花が飾られ、なぜかアフガンハウンドまで登場した。彼女の脳裏に浮かぶその光景は、まるで映画のセットのようだった。だが、その華やかなイメージは、穂乃果に居心地の悪さを感じさせた。彼女の人生—擦り切れたカーテン、狭いキッチンとはあまりにかけ離れていた。 川口は静かに書類を広げ、穂乃果に契約の詳細を説明し始めた。低く落ち着いた声は、まるで彼女の選択を許さないかのようだった。「織田様の意向により、桔梗様の新たな生活は全て整えられております」と彼は言った。 「失礼します。桔梗様」銀行の頭取だと名刺を差し出した男性は、穂乃果の手から拓海のサインが入った小切手を受け取った。落ち着いた仕草で小切手が本物であることを確認すると、彼は帯付きの札束を穂乃果の前に山のように積み上げた。彼女は初めて見る1,000万円の存在に慄いた。札束の重厚な存在感は、彼女のこれまでの人生、薄給の給料袋や使い古した財布とはあまりに異質だった。 「ご確認ください」と頭取が言うと、
last updateLast Updated : 2025-09-04
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織田の邸宅

穂乃果が想像していた織田の邸宅は、モダンな洋風、もしくは石造りの冷ややかなものだった。だが、静かな高級住宅街の一角に、黒い車は滑り込むように停まった。目の前に広がるのは、重厚な和風建築だった。日本の伝統家屋や寺院神社に取り入れられる入母屋屋根の邸宅は、荘厳でどこか威圧的だった。 「………わぁ!」 樹齢二百年はありそうな立派な赤松が影を作り、檜の香が漂ってきた。門を潜ると一面の芝生と玉砂利の道が、歴史を感じさせる玄関戸まで続いた。ふと見ると瓢箪池に流線形の錦鯉が色鮮やかに泳ぎ、水面には石灯籠の影が揺れていた。穂乃果はその美しさに息を呑んだが、同時に自分の存在がこの場にそぐわないと感じた。ペンキの剥げたアパートや、埃っぽいエレベーターとはあまりに異なる世界だった。 「どうぞこちらに」 川口が静かに玄関戸を開け、穂乃果を促した。彼女の足音が玉砂利に響き、まるでこの邸宅に呑み込まれるような感覚がした。拓海の指示で用意された新しい生活は、この荘厳な空間に縛られるものだと改めて実感した。錦鯉が水面を滑る姿を見ながら、穂乃果は心の奥でざわめく不安を抑えきれなかった。この邸宅は、拓海の望む「完璧な妻」としての役割を彼女に強いる牢獄なのか。玄関の重い戸が閉まる音が、過去を閉ざす響きのように耳に残った。穂乃果は新しい靴の硬さに足を締め付けられながら、未知の未来へ一歩踏み出した。
last updateLast Updated : 2025-09-05
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新しい部屋

拓海と穂乃果の愛の巣、いや、部屋は外観と同じく和室だった。いぐさの青い香りや檜の匂いが心地よく漂い、穂乃果の張り詰めた心をほのかに和ませた。一枚板の座卓、上質な絹の座布団、床の間の上品な一輪挿しには、彼女の苗字と同じ桔梗の花が一輪、生けられていた。 (桔梗とは……意外とロマンチスト) 穂乃果は拓海の意外な一面を想像し、くすっと笑いそうになったが、すぐに契約の現実が胸にのしかかった。この部屋は、愛の巣ではなく、1,000万円で結ばれた役割の舞台なのだ。当初、天蓋付きの洋風ベッドを想像していた穂乃果だったが、目の前には意外にも和風のローベッドが置かれていた。ベッドのサイズはクイーンかキング、二人で眠るには十分な大きさだ。穂乃果は、目眩く熱い初めての夜を思い出し、頬がカッと熱くなった。 だが、その想像はすぐに不安に塗り潰された。拓海との夜は、契約の延長線上にすぎないのではないか。彼女のアパートにあったプラスチックのテーブルや古い本棚が部屋の隅で場違いに佇む中、桔梗の花が静かに揺れていた。この部屋で、彼女は本物の妻になれるのか、それとも契約の枠に閉じ込められた人形で終わるのか。いぐさの香りに包まれながら、穂乃果はベッドの縁にそっと触れ、心の奥で揺れる感情を抑えた。窓の外、瓢箪池の錦鯉が水面を滑る音が、静かな和室に微かに響いた。 「やっぱり……この1,000万円は手切れ金なのかな」
last updateLast Updated : 2025-09-06
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テーブルマナー

織田家の食堂は、穂乃果の想像を遥かに超えていた。長細い一枚板のマホガニーのダイニングテーブルは、まるで美術品のように滑らかに磨き上げられ、中央には季節の装花、白と淡いピンクの芍薬が繊細に活けられていた。白いリネンのナフキンの上には、銀色に光を弾くカトラリーが整然と並び、磨き上げられたワイングラスがシャンデリアの光を反射してキラキラと輝いている。その光景を見た穂乃果は、昨日まで自分の狭いアパートでプラスチックのテーブルにカップラーメンを啜っていた自分との身分の違いを痛感し、胸の動悸が止まらなかった。 (こんなところで……もう、アウトじゃない!) 穂乃果の頭の中はパニックだった。テーブルマナーを知らない彼女が唯一覚えているのは、「カトラリーは外側から使う」という知識だけ。それすら、ネットで見た曖昧な記憶に過ぎなかった。スカートを握る指が震え、冷や汗が背中を伝う。こんな場所で失敗したら、契約婚約者としての役割を果たせないどころか、拓海の信頼を失うかもしれない。そんな不安が、彼女の心を締め付けた。 「そんなに緊張しないで」 拓海は穂乃果の背中を軽く押しながら、穏やかな声で言った。彼の指先は温かく、まるで彼女の震えを静めようとするようだったが、穂乃果の足は床に貼りついたように動かなかった。食堂の奥では、執事の川口が静かに給仕の準備を進め、芳子さんが穂乃果に微笑みかけるのが見えた。しかし、その優しさが逆に彼女のプレッシャーを増幅させた。テーブルに並ぶ皿
last updateLast Updated : 2025-09-08
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偽りの一目惚れ

穂乃果が牛フィレ肉とクレソンを頬張った瞬間、艶々に磨かれたマホガニーの扉が静かに開いた。重厚な扉の音が食堂に響き、穂乃果の箸が一瞬止まった。そこに現れたのは、四十代後半から五十代前半といった雰囲気の男性と女性だった。男性は拓海に似た鋭い目元を持ち、女性は柔和な笑みを浮かべていた。川口は即座に恭しく会釈し、流れるような動きで彼らのために椅子を引いた。「あらあら、まぁまぁ」と、芳子さんはキッチンでフライパンを温め始め、新たな料理の準備に取り掛かった。 「この方が桔梗穂乃果さんかい?」男性が朗らかな声で呼びかけた。拓海の父親、織田家の当主らしい貫禄を漂わせながらも、どこか親しみやすい笑顔だった。「穂乃果ちゃんね?可愛い!」拓海の母親は目を細め、穂乃果を品定めするようにじっと見つめた。 穂乃果は慌てて箸を置いた。口にご飯が残ったまま、彼女は勢いよく椅子から立ち上がり、飲み込むのに必死だった。その動きがあまりに素早かったため、椅子の背もたれがガタリと揺れ、倒れそうになるのを川口がすんでのところで受け止めた。無表情ながらもその目は穂乃果を優しく見守っているようだった。 拓海は隣で笑いを堪えるのに必死で、銀縁眼鏡の奥で目を細め、口元をナプキンで隠した。「穂乃果、落ち着けよ」と小声で囁いたが、その声には明らかな楽しげな響きがあった。穂乃果の顔は真っ赤になり、織田家の両親の視線と食堂の重厚な空気に圧倒されながら、なんとか会釈を返した。 
last updateLast Updated : 2025-09-09
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白い靄の夜

契約婚約の第一の難関……織田家の両親との息詰まるディナーをなんとか乗り越えた穂乃果は、ゲストルームのバスルームでようやく息をついた。白いタイルに囲まれた広々としたバスルームは、まるで高級ホテルのように清潔で、温かな湯気が立ち上るバスタブには、黄色いアヒルのおもちゃがぷかぷかと浮かんでいた。その無邪気な姿に、穂乃果は一瞬目を疑ったが、すぐに拓海の仕業だとピンときた。慣れない織田家の重厚な空気と、緊張で張り詰めた彼女の心を癒そうとした彼の心遣いに違いなかった。 (ファンシーショップでこのアヒルを買う拓海って……どんな顔してたんだろう) 穂乃果は、バスタブの縁に腰掛けながら、銀縁眼鏡をかけた拓海が腕組みをしてキラキラした店内でアヒルを選ぶ姿を想像した。秘書に「これ買ってこい」と命じたのか、それとも自分で棚から手に取ったのか。どちらにせよ、その意外な遊び心に、穂乃果はクスッと小さく笑った。 (悪い人じゃないんだよね) 心の中でつぶやきながら、彼女は湯気の向こうに揺れるアヒルを眺めた。ディナーの緊張から解放された今、拓海のさりげない優しさが、彼女の心にほのかな温もりを灯していた。 それでも、穂乃果の胸には解けない謎が重く残っていた。拓海はなぜ結婚をしないのか。織田
last updateLast Updated : 2025-09-10
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叔父との対峙

ホテル日航金沢、地上43階のラグジュアリールームで、金沢商工会議所のレセプションが厳かに幕を開けた。高層ビルの最上階に位置するこの会場は、金沢の夜景を一望できる絶好のロケーションで、参加者たちを豪華な雰囲気に包み込んだ。 何十もの円卓が整然と並び、それぞれのテーブルには銀色のカトラリーがきらめき、磨き上げられたワイングラスがシャンデリアの光を美しく反射していた。シャンデリアのクリスタルがきらきらと輝き、部屋全体に華やかな輝きを添えている。 金沢商工会議所のイベントとして、地元経済界の重鎮や政治家、企業関係者が集うこのレセプションは、伝統と現代が融合した金沢の魅力を象徴する場だった。主賓は自主党総裁で、会場にはSP(警護官)が厳重に配置され、物々しい雰囲気を醸し出していた。総裁の到着に合わせ、参加者たちは静かに席に着き、控えめな拍手が響いた。総裁は壇上に上がり、短い挨拶を述べ、地元経済の活性化や地域振興について触れた。SPの存在が、総裁の重要性を物語り、会場には緊張感が漂いつつも、ワイングラスの軽やかな音が和やかなムードを演出した。 穂乃果は拓海の隣に座り、この華やかな光景に圧倒されていた。契約婚約者として連れられてきた彼女にとって、こんな高級なレセプションは夢のようだったが、同時にプレッシャーも感じた。円卓の向こうで、叔父たちの視線が鋭く拓海を捉えているのが見え、彼女は小さく息を吐いた。 拓海は穂乃果の手をそっと握り、「リラックスして」と囁いた。その温もりに、穂乃果の
last updateLast Updated : 2025-09-11
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祝杯の後

ホテルの車寄せには、何台もの高級な黒塗りの車が整然と停まっていた。金沢商工会議所のレセプションを終えた正装の男性たちや、ドレスに身を包んだそのパートナーたちが、滑り込むように次々と車に乗り込んでゆく。シャンデリアの光が漏れるホテルのエントランスは、夜の金沢の街に華やかな輝きを添えていた。 その中に、穂乃果と拓海の姿もあった。夜も更け、降り出した細やかな雨がアスファルトを濡らし、黒いインフィニティのボディは黒曜石のように艶めき輝いた。白い手袋をはめた運転手が、恭しく後部座席のドアを開け、「お待たせいたしました」と丁寧に二人を迎え入れた。 穂乃果は革のシートに身を預け、ようやく小さく息をついた。叔父たちとの緊張感溢れる対峙を乗り越えた安堵と、織田家の重圧に耐えた疲れが、彼女の肩を重くしていた。車内の静かな空気と、革のほのかな香りが、穂乃果の心を少し落ち着かせた。隣に座る拓海は、銀縁眼鏡を外し、ネクタイを緩めながら軽く微笑んだ。 「よくやったな、穂乃果」「あれで良かったでしょうか?」「充分だよ、叔父たちもこれで何も言って来ないだろう」 彼の声は穏やかで、どこか労うような響きがあった。だが、穂乃果の胸には、叔父たちの冷ややかな言葉「金目当てか」という棘がまだ刺さったままだった。確かに1,000万円の契約金が彼女を引き込んだが、
last updateLast Updated : 2025-09-12
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