All Chapters of 捨てられた聖女は、忘れられた真実と隣国の王子の愛を知る: Chapter 11 - Chapter 20

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11:精霊の歌

 海辺から王宮に戻った、翌朝のこと。 離宮の書庫には穏やかな光が差し込んでいた。うず高く積まれた古文書の上にルナは女王のように鎮座して、マリアンヌとヘンリーを見下ろしている。「さて、授業を始めるわよ」 いかにも教師然とした口調だった。「あんたの国、ダナハイム王国じゃ、ただ生命力をすり減らして祈るのが聖女の役目だと思ってたんでしょ。大間違いよ。あれは、ただ蛇口を無理やりこじ開けて、自分の血を流してるようなもの。だからあんたは枯渇しかけてたの」 ルナは、マリアンヌが長年抱えてきた苦しみの正体を、暴いてみせた。「本当の聖女の力は、世界に満ちる精霊たちと『契約』して、力を借りること。一方的に奪うんじゃない。心を交わし、彼らの傷を癒し、その礼として力を貸してもらう。これは『奉仕』と『信頼』の関係なのよ」 ヘンリーが王室書庫から運び出した古文書を広げた。彼の祖先である古代の精霊使いたちが遺したもので、そこには精霊との対話や契約に関する、失われた知識が記されていた。 二人は並んで、古びた羊皮紙の解読を進める。 これまで義務としての祈りしか知らなかったマリアンヌは、初めて純粋な好奇心を持って、その知識を貪欲に吸収していった。難解な古代文字につまずけば、ヘンリーが隣で優しくその意味を教えてくれる。時折、巻物を広げる指先が触れ合い、そのたびにマリアンヌの心臓が小さく跳ねた。これまでの人生で経験したことのない、温かく楽しい時間だった。 理論を学んだ後、彼らは実践のために離宮近くの森へと向かった。 木漏れ日が降り注ぐ静かな木立の中で、ルナが言う。「精霊と心を通わせる最初の方法は、儀式じゃないわ。『歌』よ。言葉じゃなくていい。あんたの心を、彼らを癒したいっていう気持ちを、歌に乗せるの」 マリアンヌは戸惑った。ダナハイム王国での聖歌は、厳格な旋律と古の言葉で定められた、心を込める余地のないものだったからだ。 ちらりとヘンリーを見る。「大丈夫だよ。マリアンヌの心のままにやってごらん。僕は隣にいるから」「……ええ」
last updateLast Updated : 2025-09-03
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12:森のささやき

 離宮の庭で過ごす時間は、マリアンヌにとって新しい学びの場となっていた。 森での歌と泉への奉仕を終えてから数日。彼女の心には、初めて自らの意志で精霊と触れ合えたことへの、ささやかな手応えと希望が芽生えていた。庭の薔薇の花にそっと指を伸ばし、花弁に宿る小さな生命の息吹を感じようと意識を集中させる。あの時の、世界と一つになるような不思議な感覚を、忘れたくなかった。 その様子を、日向で毛づくろいをしていたルナがじっと見ていた。「準備運動は終わりよ。次は、本当の対話の仕方を教えてあげる」 マリアンヌは顔を上げた。「ええ、やるわ。教えて、ルナ」「それじゃあヘンリー。リーンハルト王家が守護していた森へ、案内してちょうだい」「……止めても無駄なようだね」 ヘンリーは頷いた。本当は心配だったけれど、マリアンヌの決意に満ちた瞳を見れば、止めるのは無理だと思わざるを得なかった。   リーンハルト王家の森は、これまでに見たどの森よりも生命力に満ち溢れていた。苔むした岩、天を突く巨木、清らかな小川。そのすべてが、豊かな魔力を宿しているのがマリアンヌにも感じられる。「今まではあんたから一方的に語りかけるだけだった。今度は、彼らの声を『聴く』のよ」 ルナに促され、マリアンヌは五感を研ぎ澄ます。 澄んだ小川に指を浸し、水の流れに宿る感情を。頬を撫でる風が運ぶ言葉を。そして、森で最も大きな樫の木の根に手を触れ、大地の奥深くから響く声を聴こうと試みた。 最初は何も聞こえなかった。ただの小川のせせらぎ、ただの風のざわめき。 けれどマリアンヌは諦めない。先日、歌で語りかけた時に返ってきた小さな声。あの歌声が聞こえた時のように、心を集中させる。 すると不意に音が聞こえた。魔力に満ちた精霊たちの、微かな「声」だった。それは言葉ではなく、純粋な感情の奔流だった。(呼んでいる?) 森に満ちる声は、マリアンヌをどこかに導いているように感じられた。 ルナを
last updateLast Updated : 2025-09-04
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13:癒えぬ古傷

 森での奇跡から数日、マリアンヌは離宮の庭で修行を続けていた。精霊たちの喜びに満ちた穏やかな声を感じられるようになった一方で、あの森で触れた「古い悲しみ」の残響が、常に心の片隅で鳴り響いている。美しい旋律の奥で絶えず流れる、物悲しい低音のようだった。 この正体を知らなくては、本当の意味で精霊たちを癒すことはできない。そう直感したマリアンヌは、ルナに問いかけた。「あの悲しみの正体は、何なの?」 ルナはマリアンヌの瞳をじっと見つめ返すと、尻尾を大きく振って、「言葉で説明するより、直接感じた方が早いわね。鉱山に行くわよ」 と、言った。 ヘンリーの護衛のもと馬車を走らせて、目的の廃坑へと向かった。 入り口に近づくにつれて、空気が目に見えて重くなっていく。あれほど活発だった精霊たちの明るい声は途絶え、代わりに、淀んだ瘴気と、呻き声にも似た地鳴りが微かに感じられた。「ここは昔、人間たちが大地から鉱石を根こそぎ奪っていった場所。地の精霊(ノーム)たちの声も聞かずにね」 馬車から降りながら、ルナが静かに言った。その言葉は、これからマリアンヌが向き合うものの本質を示唆していた。 マリアンヌは意を決して、廃坑の入り口へと歩み寄る。これまでと同じように、心を集中させて地の精霊の声を聴こうと、冷たく湿った坑道の岩肌にそっと手を触れた。 その瞬間だった。 凄まじい濁流のような感情が、彼女の心になだれ込んできた。単一個体の悲しみなどではない。無数の地の精霊たちが、巨大な装置のようなものによって、その存在ごと「マナ」として大地から引き剥がされ、抵抗もできずに消滅させられていく光景。怒りも嘆きも恐怖も、すべてが混ざり合った、遥か昔の絶望的な記憶そのものだった。 絶望と怒りの奔流の奥に、マリアンヌは「古代の厄災」の禍々しい本質を垣間見た。理由もなく殺されていった無数の精霊たちの怨念が寄り集まり、一つの巨大な悪意となって脈打つ、おぞましい姿。「――っ!」 あまりの衝撃。マリアンヌは咄嗟に、これまでと同じように自らの癒やしの力を注ぎ込もうとした。この計り知れない悲しみを、少
last updateLast Updated : 2025-09-05
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14:届いた悲報

 伝令がもたらした凶報に、離宮の書斎の空気は凍りついていた。 マリアンヌの脳裏に浮かんだのは、自分を追放したジュリアスや父の顔ではなかった。王都の市場で見た名もなき民の顔、聖女である自分に敬虔な祈りを捧げていた子供たちの顔だった。瘴気に苦しみ、凶暴化した魔物に怯える人々の姿を想像し、マリアンヌの胸は鋭く痛んだ。 その苦しげな表情を見て、ヘンリーが彼女の肩を抱く。「君が心を痛める必要はない。これは、真の聖女を追放したダナハイム王国が自ら招いた災いだ」 彼の声にはマリアンヌを気遣う優しさと、ダナハイムへの氷のように冷たい怒りが満ちていた。   その夜、マリアンヌは一人、自室で葛藤していた。 罪のない民が苦しんでいる。その事実が、彼女のかつての「聖女」としての責任感を苛む。しかし同時に、ジュリアス、アニエス、そして父への怒りが冷たく燃え上がっていた。(あの人たちが私を追い詰め、断罪しなければ……!) だが、その思考は長年植え付けられてきた自己否定に打ち消される。(いいえ、違う。もし私がもっと強ければ、こんなことには……) 相反する感情の渦の中で、彼女の心は引き裂かれそうだった。 そんな彼女の足元に、ルナが静かに寄り添う。ふさふさの尻尾がふくらはぎに当たった。「感傷に浸るのは勝手だけどね。あんたが一人で背負う問題じゃないわ。それに、本当に民を案じるなら、メソメソしてる暇はないんじゃない?」 言葉だけを見れば厳しい。けれどマリアンヌにただ悲しむのではなく、これからどうすべきかを考えさせるきっかけを与えた。 数日後、リーンハルト王国の諜報員や、国境を越えてきたダナハイムの難民から、より詳細な情報がもたらされた。ヘンリーはそれを整理し、マリアンヌに伝える。 報告によれば、瘴気はダナハイムの王都を中心に広がり、騎士団は凶暴化した魔物の対応に追われ、疲弊しきっているという。そして何より、新たな聖女として祭り上げられたアニエスの祈りは、何
last updateLast Updated : 2025-09-06
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15:愚者の暴走

 ダナハイム王国の王都では、瘴気が満ちていた。雲霞のように漂うそれは陽光を遮って、昼なお暗い影を落としている。 神殿前の広場は、最後の希望にすがる民衆で埋め尽くされていた。彼らの視線の先、祭壇の上には新たな聖女として祭り上げられたアニエスが、純白の豪奢な祭服をまとって立っている。「聖女アニエス様、どうか我らをお救いください!」 民衆の悲痛な叫びを受けて、アニエスは自信に満ちた表情で祈りを始めた。マリアンヌの所作を完璧に模倣し、古の言葉を朗々と詠唱する。 彼女は信じていた。傍流の姉とは違う、本流たる侯爵家の血を引く自分こそが、真の奇跡を起こせると。 だが――何も起きなかった。 結界が輝きを取り戻すことはなく、城壁に迫る瘴気は晴れるどころか、民衆の絶望を嘲笑うかのように、より一層その濃度を増していく。「どうして……なぜ力が発揮されないの! 偽物のお姉様は、結界を作り出していたのに!」 焦ったアニエスが、見様見真似で無理に力を引き出そうとしても、放たれたのは聖なる光ではなく、微弱で淀んだ魔力の火花だけだった。「何も起きないぞ!」「やはりアニエス様は偽物だったんだ!」「聖女様は、我々を見捨てたのか!」 最後の希望を打ち砕かれた民衆の不信と怒りが爆発し、広場は暴動寸前の混乱に陥った。 アニエスは騎士たちに抱えられるようにして、やっとのことで退場していく。   その夜。王宮の一室では、ジュリアス王子とガルニエ侯爵が追い詰められていた。民衆の怒り、疲弊しきった騎士団、そして日に日に王都を蝕む瘴気。彼らの権威は、もはや失墜寸前だった。「もはや、一刻の猶予もありません」 腹心の魔道士が、王家が代々封じてきた禁断の古文書を広げた。そこに記されていたのは、古代魔道文明の遺物「古代の魔力増速装置」。大地の精霊から直接マナを搾取し、術者の力を千倍にも増幅させるという、あまりにも危険な代物だった。 部屋の面々が思わずごくりと唾を飲む。
last updateLast Updated : 2025-09-07
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16:決断

 ダナハイム王国の地下深くで産声を上げた厄災は、赤黒い光の奔流となって地上に溢れ出した。 王宮を揺るがすほどの巨大な爆発が起きる。制御不能なマナが引き起こした、破滅の序曲だった。 轟音と共に城壁は紙細工のように崩れ落ち、王都の一部は瞬く間に瓦礫の山へと変わる。裂けた大地からは、これまでとは比較にならないほど濃密で邪悪な瘴気が、まるで世界の傷口から膿が溢れ出すかのように噴出し始めた。 それは、初代聖女アリアが封じ込めた「古代の厄災」そのもの。愚かな者たちの手によって、再びこの世に解き放たれた瞬間だった。   数日後、それらの凶報は遠く離れたリーンハルト王国にも届いた。 ヘンリーの執務室に駆け込んできた諜報員は、恐怖に顔を青くしながら報告する。ダナハイム王都の三分の一が壊滅し、爆心地から溢れ出す瘴気によって、今やゴーストタウンと化していること。国王をはじめ、ジュリアスやガルニエ侯爵たちは辛うじて脱出したものの、国は完全に統治機能を失い、民は行き場を失って難民と化していること。 ヘンリーは即座に、瘴気の流入を防ぐため国境警備の全軍に最高レベルの警戒態勢を敷くよう命じた。彼の最大の懸念は、この未曾有の厄災が自国に及ぶこと。そして、ようやく安らぎを得たマリアンヌの心を再び乱すことだった。 覚悟を決め、ヘンリーはマリアンヌに全ての報告を伝えた。隠し通すには事が大きすぎる。 彼は、彼女が故国の惨状に心を痛めるか、あるいは自分を追放した者たちの末路に溜飲を下げるか、そのどちらかだろうと予測していた。 だが、マリアンヌの反応はどちらでもなかった。 報告を聞いて、悲しみに顔を曇らせた。けれども彼女の思いは過去の復讐ではなく、未来の救済を見据えていた。マリアンヌが憂いていたのは、為政者の愚かさではない。全てを失い、行き場もなく瘴気に追われる罪なき民の姿。「ヘンリー様」 マリアンヌは立ち上がると、ヘンリーをまっすぐに見つめた。その冬の空のような青い瞳には、もはや庇護されるだけの少女の面影はない。民を導く指導者の光が、確かに宿っていた。「お願
last updateLast Updated : 2025-09-08
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17:断罪と没落

 リーンハルト王国が国境付近に設置した難民キャンプは、故郷を追われたダナハイムの民で溢れかえっていた。 マリアンヌは聖女としてではなく、一人の指導者として、ヘンリーと共にその地を訪れていた。自ら温かい粥を配り、怯える子供を抱きしめ、絶望にくれる人々の話を静かに聞いた。その慈悲深い姿に、当初は「国を捨てた聖女」と遠巻きに見ていた難民たちの心も、次第に解けていく。 やがて元ダナハイム王都の衛兵や侍女だった者たちが、堰を切ったように真実を語り始めた。「アニエス様を聖女に立てた儀式は、惨めなものでした。何の奇跡も起きず、民の怒号が響くばかりで」「あの大爆発の後……」 言葉を詰まらせたのは、かつてガルニエ侯爵家に仕えていたという若い侍女だった。彼女は涙ながらに、アニエスの末路を告白した。「アニエス様は、一命はとりとめましたが、もはや人形のようでございます。動くこともお話しすることもできず、ただ、虚ろに天井を見つめるだけで……」 侍女は唇を噛み締め、絞り出すように続けた。「ジュリアス王太子殿下は、そんなアニエス様を一瞥すると、『もはや何の役にも立たぬ、ただのガラクタだ』と吐き捨て……それきり、一度もお見舞いにさえいらっしゃいません……」 マリアンヌは静かに目を閉じた。ジュリアスの冷酷非道な本性は、彼女の予想よりもずっと酷かった。聖女の座をちらつかせてアニエスを利用し、彼女が再起不能と見るや、何の躊躇もなく切り捨てたのだ。 今さら妹に同情するわけではない。アニエスはマリアンヌをずっと憎んで、虐げ続けてきた。マリアンヌを追い落とした際の歪んだ笑みは、今でも心を突き刺す思い出として残っている。 だが、一度は婚約者として寄り添った相手に切り捨てられる悲しみは、マリアンヌが一番良く分かっている。胸に湧き上がる複雑な感情を、押し殺した。 せめて父ガルニエ侯爵が家族の情を持ち続けて、アニエスを看病するように祈った。 マリエンヌには与えられなかった情で。 難民たちの証言を受
last updateLast Updated : 2025-09-09
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18:傲慢の代償

 父と妹の末路が伝えられてから、数日が過ぎた。マリアンヌの心は静かだった。喜びはない。ただ終わるべくして終わった悲劇への、物悲しい感慨だけがあった。 そんな彼女の元に、招かれざる過去からの使者が訪れた。 ダナハイム王国の「使者」を名乗る一行が、リーンハルト王国に庇護を求めてきたのだ。その代表者は、見る影もなくやつれながらも、その瞳にだけは変わらぬ傲慢な光を宿す、ジュリアスだった。 リーンハルト王国の謁見の間。玉座の横に立つヘンリーの隣で、マリアンヌは静かにジュリアスを見据えていた。 ジュリアスは薄汚れている。手入れされていない衣服は汚れが目立ち、自慢の貴族然とした美貌も翳って見えた。 彼は助けを乞うのではなく、まるで今なお自分が王太子であるかのように、命令した。「マリアンヌ! いつまで意地を張っているつもりだ。お前の役目はダナハイムの聖女であろう。即刻我々と共に帰り、その力で国土を浄化しろ。それがお前の義務だ。今すぐに命令に従うのなら、許してやろうではないか」 恥知らずな要求に、ヘンリーが氷のように冷たい声で応えた。「元王太子ジュリアス。貴殿は致命的な勘違いをしているようだ。マリアンヌはもはやダナハイムの聖女ではない。我がリーンハルト王国が庇護する、大切な賓客。貴殿らの身勝手な要求に応える義務は、彼女にはない」 ヘンリーの言葉を、ジュリアスは鼻で笑う。彼の目はマリアンヌだけを見ていた。彼にとって、ヘンリーはただの障害物でしかない。「マリアンヌ、お前の答えを聞こう」 傲慢な視線を受けて、マリアンヌは無言で壇上を降りた。 かつて彼の前で、ただ俯くことしかできなかった弱い少女はもういない。マリアンヌの冬空の瞳には、自らの意志で運命を選び取った者の、強い光が宿っていた。「ジュリアス様。私はもう、あなたの知るマリアンヌではありません。そして、あなたがおっしゃる『義務』は、あなた方が私から奪ったものです。お断りします」 凛と響く、完全な拒絶。 しかし、ジュリアスはその言葉の意味を理解できなかった。いや、理解しようともしなかった。彼の歪んだ自尊心の中では、マ
last updateLast Updated : 2025-09-10
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19:旅立ち

 ジュリアスがダナハイム王国へ送還されてから数日、離宮の庭には穏やかな時間が流れていた。過去のしがらみから完全に解放されて、マリアンヌの心はようやく真の安らぎを見出していた。 だが、その平和はかりそめのものだった。ヘンリーがもたらす報告は日増しに深刻さを増していく。ダナハイム王国から溢れ出した瘴気は国土の大半を汚染した。影響は国境を越え、隣接する諸国の土地さえも蝕み始めていた。世界の精霊たちが、確実に弱っているのだ。「国境を封鎖していても、瘴気の侵食は止められない。厄災の根源……あの精霊たちの悲しみを癒さない限り、いずれこの世界そのものが飲み込まれてしまうだろう」 ヘンリーの言葉に、マリアンヌは頷いた。 書庫にマリアンヌ、ヘンリー、ルナが集まる。大きな机には、ヘンリーの祖先が遺した古地図や文献が広げられていた。 ルナがうず高く積まれた書物の上から、戦いの方針を告げる。「いい? 厄災は力でねじ伏せるものじゃない。あれは悲しみの塊なのよ。あたしたちがやるべきなのは、戦いじゃなくて『救済』。それを行えるのは、世界でただ一つの『聖地』だけよ」 ヘンリーが古文書を指し示した。「記録によれば、初代聖女アリアが大いなる儀式を行った『聖地』は、ただ一つ。だが、厄災を封じた後、その場所は悪用されぬよう意図的に歴史から隠された。地図は存在しない。ただ、アリアが聖地へ至るまでに辿った旅路の記録だけが、謎めいた記述として残されている」 失われた聖地を探す、探索の旅。 計画を語った後、ヘンリーはマリアンヌを見つめる。彼の瞳には、彼女を危険な旅へ連れ出すことへの深い葛藤の色が浮かんでいた。「これは長く、危険な旅になるだろう。僕はもちろん行く。これは僕の一族の宿命だ。だが、君を再び危険に晒すことには……」 マリアンヌは微笑んだ。 庇護されるだけの存在ではいたくない。その想いは、彼女の心をすでに変えていた。マリアンヌはヘンリーの言葉を遮ると、広げられた古地図の上にそっと手を置いた。「私も行きます。いいえ、私が行かなければ、始まり
last updateLast Updated : 2025-09-11
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20:聖地の試練

 最初の手がかりの地を目指して旅立ってから、早半年。 古文書の謎と聖女の足跡を追う旅は、終盤に入ろうとしていた。 とうとうマリアンヌたちは、雲海に隠された天空の遺跡――「聖地」にたどり着いた。 そこは人の手では作り得ない、巨大な水晶と石で構成された荘厳な場所だった。空気は清浄な力に満ちている。だが同時に、訪れる者の覚悟を問うような、静寂と威圧感とが漂っている。遺跡の中央には、固く閉ざされた巨大な祭壇が鎮座していた。 マリアンヌがアリアの血を引く者として遺跡の中心に足を踏み入れた瞬間、聖地全体が共鳴するように光を放ち、地面が激しく震え始める。祭壇の周囲の岩石や水晶が意志を持ったように集結し、巨大な守護ゴーレムを形成していく。それは悪意のない、純粋な「試練」としての存在だった。「マリアンヌ、僕の後ろへ!」 ヘンリーが即座に剣を抜き、ゴーレムに斬りかかるが、魔力で強化された身体には傷一つ付かない。マリアンヌが精霊に呼びかけても、ゴーレムは心を持たない魔法生命体。共鳴の力は全く通じなかった。 このままでは試練を乗り越えられない。 絶体絶命の中、ヘンリーが祖先の文献にあった記述を思い出し、叫んだ。「この試練は、力ではなく信頼を問うものだ! ゴーレムが最大の攻撃を放つ一瞬、胸のコアが無防備になる! マリアンヌ、君を信じる!」 その言葉に、マリアンヌの覚悟が決まる。彼女は自らの危険を顧みず、ゴーレムを引きつける「囮」となった。巨大な腕が振り下ろされる直前、彼女はヘンリーを信じ切って身を翻す。その一瞬の隙を突き、ヘンリーの剣がむき出しになった魔力コアを正確に貫いた。 轟音と共にゴーレムは崩れ落ち、沈黙した。 崩れ落ちたゴーレムの背後で、床が動いた。祭壇への道が開かれる。 地下への階段を下っていけば、やがて祭壇の間にたどり着いた。壁が淡く発光し、地下とは思えない不思議な雰囲気を描いている。 マリアンヌはヘンリーと視線を合わせると、祭壇に向かって手を伸ばす。彼女の指が触れた途端、アリアが遺した思念が心に直接流れ込んできた。 目の前に、初代聖女アリアの姿が浮かび上がる。
last updateLast Updated : 2025-09-12
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